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音楽にとってアーカイヴとは何か――メディア論的ケージ論

2017年8月12日――作曲科ジョン・ケージの命日――エレクトロニカユニットmacaroomが『Cage out』という音楽アルバムをリリースした。

内容はケージの《ソングブックス》および《ブランチズ》を「ポップ」に演奏するというものであり、取り上げられた作品は両方とも、いわゆる「不確定性」に基づく作品である。

《ブランチズ》は任意の植物を用いて演奏を行うことがインストラクションされており、《ソングブックス》では数字の羅列、断片的な五線譜、断片的な言葉、地図、ヘンリー・D・ソローの肖像画などがインストラクションと共に提示されている。

そして『Cage out』は、ケージの不確定性に基づく本来、すべての音響に開かれているはずの作品が、今まで、ピアニスト、デイヴィッド・チュードアによって確立された「ケージらしさ」によりかかったものだということを問題にしているという。

しかし、ケージは本当にすべての音を開放させようとしていたのだろうか。

確かにそのように考えることもできる。半ば陳腐化するほどに語られつくした無響室の小話から引用しよう。とある無響室に入ったケージは無音のはずのその部屋で自身の血管を血が流れる音や神経が働く音を聴き、無音が存在しないことを知ったという。そして彼は言う。

 

私が死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。

 

全ての音のあり方が音楽であると定義するとき、音楽と非音楽の区分は無効化される。そして、音が絶えることがないように、音楽も絶えることはない。しかし、この文章には重要な続きがあることを忘れてはならない。

しかしこういう大胆な気持ちが生まれるのも、わかれ道に立って、音は意図しようと意図しまいと起こるということに気がつき、意図しない音の方へ向かった場合にかぎられる。この転換は心理的なものであって、はじめは人間性に属するすべてを放棄すること――音楽家にとっては、音楽を放棄すること――のようにも思える。この心理的な転換は自然界へとつながっており、そこでは、人間性と自然とが切り離されることなくこの世界で一緒に存在していること、すべてを奪われたとしても失うものは何もないということが、じょじょにあるいはとつぜん理解されるようになる。事実、すべてが獲得されているのだ。音楽について言えば、あらゆる音が、どのような組み合わせでも、またどのような連続性の中でも起こりうる。*1

 

たしかにケージの演奏は慣習としてデイヴィッド・チュードア化されてしまっているだろう。そこでは一音一音の際を聴いていくような、スタティックな音楽が紡がれる。しかしこのスタイルは単に恣意的なものではない。 ケージはチュードアと深い親交があり、チュードアの演奏は、コミュニケーションの中でケージの非-構築的なディープリスニングの嗜好を読み取ったものであった。

たとえケージが全ての音を受け入れるという立場を幾度となく謳っていたとしても、そこには思想があり、注釈があり、そしてケージ自身の振る舞いは芸術のあるべき姿を模索していたことがわかる。

では、macaroomの演奏は間違ったものといえるのだろうか。しかし、macaroomは楽譜のインストラクションを破る行為は何一つ行っていないという。では、この場合の正解とは、つまりケージの「作品」とはなんなのだろうか。

この問いは音楽における「アーカイヴ」と「レパートリー」を巡る本質的な論点に繋がっている。どういうことか?

 

音楽においてアーカイヴされうるものとはなんだろうか。まずその最も歴史的な形態である楽譜について考えてみよう。重要なのはここでアーカイヴされているものが音そのものではないということだ。楽譜は音楽にとって限定的なパラメータ(楽器の種類/音高/音価/強度)を記したものに過ぎず、その解釈には「演奏習慣」が必要となる。例えば、強度に関しては、メゾフォルテやピアニッシモといった量化されていない表記がなされるのが通常で、そこには奏者ごとの振れ幅がある。より極端な例を挙げるならば、例えばウィンナ・ワルツと呼ばれる様式においては、3拍子における各拍の長さが不均等に演奏される――2拍目がやや早い位置に来る――ことが習慣となっている。

楽譜は音楽としてアーカイヴされているのではない。楽譜が音として現象するには楽譜が解読され「演奏」されることが必要となり、その解読には「演奏習慣」という暗号キーが必要となる。ケージの不確定な、つまり読解の純粋性が剥奪された楽譜は、音楽におけるアーカイヴの不可能性を強く眼差しているのである。そしてケージ-チュードアは、作品を音響的に規定しない代わりに「演奏習慣」という形で実質的には規定していたということがわかる。

ここで、このような疑問が生じるだろう。では、音の振幅そのものを塩化ビニールに刻み込んだレコード盤は純粋なアーカイヴといえるのではないか? と。

答えは否。

ここでもまた、音が音として現象していないことに注目しよう。音が音として現象するには第3項を介した時間の「再生」が不可避的に必要になる。この観点からみれば、レコードの登場は人間が音響再生産装置に入れ替わったというだけであり、レコードはレコードプレーヤーの「レパートリー」である。第3項である再生装置の出来によって音響は極端に質感を変化させてしまう上、現代の主流な音響再生産装置にとってレコード盤という媒体はレパートリーから外されているのである。

 

例え音響再生産装置が純粋なアーカイヴを幻視させたとしても、再生成されることを前提とした芸術にとって、オリジナルのアーカイヴは疑似的なものに留まらざるをえない。

そして、現代の再生環境はそのことを明示している。Apple MusicやSpotifyがモノとしてのアーカイヴの幻想を打ち砕いていること――データは現象としての固有性を持ったモノではない――。そして、そこで聴き手によって作られる「プレイリスト」は完成されたひとつの「音楽アルバム」という単位を絶えず解体し、組み替えていくのである。

 

では、音楽においてアーカイヴは実現しないのだろうか。最晩年のケージはこの問いから駆動されたとしか思えない奇妙な作品を残している。

 

《Organ²/ASLSP》という、1987年に作曲された曲がある。「ASLSP」はas slow as posisble、つまりできるだけ遅く演奏することを求めている文句だ。

そして、この曲はドイツ、ハルバ―シュタットにある廃教会で、オルガンにより今も演奏されている *2 。 演奏開始は2001年9月、そして演奏終了予定年は2640年。オルガンの機構を活かし、この音楽は、人知れず、絶え間なく演奏が続けられている。

わたしたちは音楽作品に二つの形態があることを見てきた。一つは疑似アーカイヴ=楽譜-音響再生産媒体として、もう一つはレパートリーとして再生されることで現象する音響として。では一つの作品が切れ目なく再生され続けることで現象し続けるとしたら?

《Organ²/ASLSP》においては時間は空間に、空間は時間になっている。その音楽は時間的に現象し、その現象が現象として、特定の空間にアーカイヴされ続けている。しかし、私たちはそのアーカイヴされている音楽の全体を把握することはできない。それは時間的に流れ続ける空間性であるからだ。

 

ケージは音楽におけるアーカイヴの不可能性を主題とし、むしろそのメディウムの不透明さにより駆動する作品を模索していた。その試みは《Organ²/ASLSP》においてある到達点へと至る。作品が完全なる客体として世界にアーカイヴされる時、人間はそのアーカイヴにアクセスすることはできないのである。

 

参考

注1 ジョン・ケージ『サイレンス』柿沼敏江訳 水声社 1996 p26

注2 ハルバ―シュタットのブキャラティ廃教会で行われている《Organ²/ASLSP》の演奏プロジェクトのホームページ。(https://www.aslsp.org/de/?start=5)

 

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