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イメージファイルのアーキテクチャ――音のアーキテクチャ展について

 

 

2018年10月1日現在、『AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展』と銘打たれた展覧会が開催されている。場所は六本木、21_21 DESIGN SIGHTの地下にて。安藤忠雄によって設計されたこの美術館は受付のある一階と展示が行われる地下をひとつの階段で繋いでいる。

内容は、小山田圭吾がこの展示のために書き下ろした新曲 《AUDIO ARCHITECTURE》を映像、アニメーション、ダンス、グラフィック、広告、イラストレーション、プログラミング、メディアデザインなど専門分野の異なる9人の作家が別々に「解釈」して9つのヴァージョンで映像化したというもので、全体のディレクションはウェブデザイナー/映像ディレクターの中村勇吾が担当している。

しかし、本論は、各作家の作品を仔細に解剖するのではなく、「アーキテクチャ」という言葉を重視して、この展覧会自体の形式からコンセプトを探ろうとするものである。

 

 

 

『音のアーキテクチャ展』の会場は大きく3つの空間に分かれている。順を追ってみていこう。

入ってすぐの空間には、3面のスクリーンに稲垣哲郎の撮影・編集による小山田らの《AUDIO ARCHITECTURE》のスタジオライブが映し出されている。その背後にあるディスプレイにはDAWソフトProtoolsによる楽曲の制作画面、そしてこの曲の歌詞が映し出されている他、映像についてのディスクリプションが設置されている。はじめの空間を抜けて先に進むと横長のL字型の構造物が設置されており、これがスクリーンとなって各作家の映像が映し出されている。映像は順番に8回繰り返されて流され、その後に画面が8分割されて全ての映像が一斉に流される。つまり9回の反復で1セットとなっているわけである。次に、このL字型構造物を回り込むようにして裏側の空間に入ることができる。その空間は長い通路のようになっており、横にそびえるL字型の構造物の裏側は黒い仕切りで8分割されている。そこでは先ほどの各映像が再び上映されている他、作品によっては先ほどとは別の形で体験することが可能となっている。例えば、ユーフラテス(石川将也)+阿部舜による「Layers Act」という作品では制作に用いられた2枚の透明フィルムが展示されており、来場者はそのフィルムを実際に動かしてその模様の移り変わりを目にすることができる。

そして通路を向こう側まで歩ききると、再びスクリーンを回り込んで元の空間に戻ることとなる。そしてそのまま空間を遡行する形でもう一度初めの3面スクリーンの空間を通って会場から出る、という円環的な道筋がこの展覧会の動線である。そして、この動線の中のすべての空間で《AUDIO ARCHITECTURE》が常に同期して繰り返し再生されている。

会場外にあるステイトメントによれば、この展示では「片山正通が会場構成を担当したダイナミックな空間に、ひとつの楽曲と複数の映像作品を繰り返し再生することで、「音楽建築空間」の構築を試み」ているという。

では、この「音楽建築空間」は具体的にどのように形作られていると言えるのだろうか。

 

 

注目したいのは、この展覧会が各映像を全て鑑賞することを重視しているということである。メインとなる2つ目の空間では映像が一つずつ上映されるため、来場者は各作家の作品を体験するためにその全てを鑑賞せざるをえない。

しかし、美術批評家ボリス・グロイスが「イメージからイメージファイルへ、そして再生」という論考(『アートパワー』収容)の中で述べているように、展覧会の映像においてその性質を規定するのは一つの作品の全てを観ることができないという制約である。一般的に展示される映像は展覧会において観客が歩き回る中で鑑賞されるため、作品の全体が鑑賞されることはなく鑑賞者は次の作品の方へと移っていってしまう。グロイスは、このようなイメージ全体を把握することができないという性質をデジタルファイルの特質と重ね合わせて考えている。デジタルファイルはその上映形態を多様に取ることが可能であり、上映なくしてイメージが成立しないものである。故にそれは唯一つのオリジナルのイメージを定めることができない。デジタルファイルのオリジナルとはそのデータ自体であり、データ自体はイメージを持たない。イメージはそのデータが別様に反復されることで無限に生成されるものなのだ。そして、このイメージのオリジナル=全体を把握することができないという性質は、より縮小された形でイメージの上映である一つの展示映像作品にも見いだすことができるという。

グロイスはこのようなイメージを持たないオリジナルとしてのデータを「目に見えない神」と言い表している。

では、すべての映像をはじめから終わりまで、あるいは小山田の《AUDIO ARCHITECTURE》というオーディオファイルの再生を何度も繰り返し聴取することになる『音のアーキテクチャ展』は「展示」ではなく「上映」と呼ぶべきものなのだろうか?

 

無論、答えは否である。

 

グロイスが前述した論考のなかでデジタルファイルを楽譜のアナロジーを用いて論じていることに注目しよう。音楽におけるイメージのオリジナルがどこに存在しているのかという問いは古来より美学的問題となってきた。もしそれが上演そのものにあるのだとしたら、同一の楽譜の異なった演奏家による演奏は別の曲ということになってしまう。これは楽譜(あるいはそれに準じるものによって示されうる構造)こそがイデアのようなものであると考えることで解決されるが、楽譜にその理想の演奏のイメージが内包されていると考えるのは我々の直感に反している。

楽譜とそのリアライザーションの存在論的関係という音楽的な事柄はデジタルファイルとその再生に極めて近い問題系に属している。音楽とは本質的にデジタルファイル的なものなのだ。

そのように考えた時、この展覧会がひとつの音楽についてのあらゆるバージョンのリアリゼーションによって構成されていることが重要な意味を持ってくる。各作家は時に《AUDIO ARCHITECTURE》の音響のアタックをシグナルとして、時にサウンドの音色からインスパイアされて、時にその歌詞の意味をトランスレートして映像を作っている。そこに唯一つの回答は存在しない。またその裏側の空間で制作工程が開示されることも、ますますイメージそのものへの距離を作り出している。それはイメージについてのひとつのバージョンの展開に留まるものであり、それがスクリーンの裏側で秘密を開示するように展開されればされるほどオリジナルのイメージという幻想からは遠ざかるからだ。

思えば《AUDIO ARCHITECTURE》の歌詞は

 

  Time.  Space.      Light.  Shadow.     Shape. Material.     Mass. Void.……

 

といったように常に矛盾する二つの単語が交互に歌われるという内容だった。この歌詞自体も単一のイメージに留まることを拒絶しているのである。

ロマン主義の時代、音楽、特に交響曲は、互いに相反するものがその矛盾を内包しながらも有機的に成長していき唯一つの超越に至る崇高な体験をもたらすものとされた。しかしそれは一種の錯覚である。デジタルファイルのイメージにおいてはそのような錯覚は生じることはない。そこではイメージは超越には、神を見ることには至れない。音楽=デジタルファイルとは、神に至ることのできない絶えざる反復に他ならないのだ。

あたかも神の声のように、あらゆるバージョンのオリジナルとして会場に常に鳴り響く小山田の演奏自体もまた、《AUDIO ARCHITECTURE》という存在のオリジナルそのものではないのである。

円環する動線を歩み終えて、再び初めと同じままで反復される小山田の映像は、我々が何らイメージのオリジナルに近づいていないことを示す。そのようなものは初めから存在していないからだ。私たちが知覚したのはイメージから遠ざかり続ける運動である。たしかに我々は個々のファイルのはじめから終わりまで全てを鑑賞した。しかしそのことによってむしろ私たちは遠ざかり続けたのだ。そしてその遠さを作り出していたのは一つのイメージを別々の作家が手がけるという形式、、そして円環的な動線である。それらは全て反復に関わっている。そして、来場者は21_21 DESIGN SIGHTの地下と地上を繋ぐ階段を降りてきたことを反復するように、全く同じ狭い階段を逆向きに移動して展覧会を後にするのである。

 

 

 

『AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展』においてはその形式と設計が「音楽建築空間」として機能し、音楽のデジタルファイル性に焦点が当てられていた。

故にこれは『音のアーキテクチャ展』であり「イメージファイルのアーキテクチャ展」であったのだ。

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