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Tofubeatsの書法――21世紀における場所性について

もはや場所固有の時空は存在しないのだろうか?

インターネットによって情報がフラットとなった(少なくともかのように見える)時空間において作品はどのように「リアル」な時間性と空間性を獲得するのだろうか。

ヒップホップ、ハウス、ディスコ、あらゆる音楽ジャンルを横断/逸脱しながら音楽活動を続けるトラックメーカーtofubeatsの音楽はこの世紀的な困難さと対峙している。どういうことか?

tofubeatsはメジャーデビュー前にdj newtown名義でネットレーベルMaltine Recordsで音源をリリースしており、元々インターネットとの親和性が非常に高い音楽家だった。

まずはその頃の彼の音楽について考えてみたい。

 

 

tofubeatsの音楽は「過去」を直接的に参照する。一例をあげよう。たとえば(≪it’s too late≫『cutegirl(.jpeg)』収録)の中では高橋玲子の1987年にリリースされた≪サンセット・ロード≫という時代を表象する往年の日本のポピュラーソングを大々的にサンプリングしている。そのほかにも、彼はディスコサウンドなど、時代性を帯びた音をしばしば楽曲に取り入れる。近年に至ってもMS-20やTR-505など70~80年代のリズムマシンやシンセサイザーをトラックメイキングに用いていることも示唆的だろう。*1

ここで強調したいのは、dj newtownの参照する過去は括弧付きの「過去」であるということだ。このことを考える上で、2010年以降ネットカルチャーの一部で生成されてきた「ヴェイパーウェイヴ」という音楽ジャンルが良い補助線となるだろう。

ヴェイパーウェイヴとはOneohtrix Point NeverがChuck Person名義で2010年にリリースしたアルバム『Chuck Person’s Eccojams Vol. 1』により始まったジャンルである。*2 一昔前のポップスをサンプリングし、様々なエフェクトを施しループをさせるその音楽は動画文化とも相まって、Macintosh Plus『Floral Shoppe』などに顕著なように、概ね80-90年代のニューエイジ音楽やコンピュータ文化黎明期に見られるサウンド/グラフィック的「チープさ」を徹底して仮構する方向に複雑に枝分かれしつつも発展していく。

ここで重要なのは年代を表象するのがなんらかの出来事や物語によるものではなく、音楽的映像的マテリアルの質感ということである。「シグナルウェイヴ」というヴェイパーウェイヴのサブジャンルでは、おそらくYoutubeで入手したであろう80-90年代の日本のテレビ映像が非物語的にサンプリングされている。つまりマテリアルが持つ形式化された時代性が「過去」として立ち現れているのだが、それは音やグラフィックの画質や音質に関わるものであり、特定の時代が指定されているがそれは具体的な出来事や歴史性を欠いた、イメージとしての「存在しないはずの過去の記憶」である。

また、ヴェイパーウェイヴがマテリアル化しているのはテレビ映像、コンピュータグラフィックス、シンセサイザーのサウンドという極めて没空間的な(少なくとも先進国にフラットに与えられた)文化であることにも注意すべきだろう。元々90年代のニューエイジ思想においては固有の歴史や空間性が失われ世界がフラットに一つに統一されることが理想とされていた。その超時空感が一つの時代として認識されることは皮肉な結果であるが、つまりヴェイパーウェイヴが指し示すのはあらかじめフラットになって空虚化された時空なのである。

このことはDJ newtownにも当てはまる。往年のポップスやディスコ音楽をサンプリングすること。そのことによって生じるのはある消費社会的「年代」の質感的表象である。

次にいささか変わった別角度から同様のことを語ってみよう。dj newtownはとあるサブカルチャー様式に関心を示している。彼は例えば、《DANCE TO NIGHT》(『DANCE  WITH YOU』収録)の中で『少女革命ウテナ』のキャラクターの声がサンプリングしている他、『enigmaticLIA4 -Anthemical Keyworlds-』というビジュアルゲーム会社ゲームブランドKeyの音楽のリミックスアルバムに『智代アフター 〜It’s a Wonderful Life〜』というゲームの主題歌のリミックスを提供している。

今あげたアニメ作品を鑑みて、tofubeatsはいわゆる「セカイ系」と呼ばれる(あるいはそれと関係する)作品に愛着を持っているように思われる。「セカイ系」を一義的に定義することは難しいがそれは90〜ゼロ年代に流行した様式であり、一般的な特徴として世界設定や社会描写が欠如した非常に抽象化された物語であること、「世界の終わり」、「死にゆく少女との恋愛」といった形式化された要素で組み立てられていること、しばしば極度に思弁的な内容を持つことなどが挙げられる。つまり、セカイ系とは没空間的な物語、そして非歴史的な――逆説的なことだが――時代性に基づく物語である。

 

 

ここまでの論旨からtofubeats=DJ newtownはインターネット世代のフラットな時空感覚に基づく作曲家と見なすことができるように思える。tofubeatsはヴェイパーウェイヴのトラックメーカーなのだ。

しかし、これは本当だろうか。

dj newtown名義で出された最後のアルバムから一つ前のアルバム『MOSAIC』は神戸にある複合施設の名である。あるいは彼は《intro feat,tofubeats》(『cutegirl(.jpeg)』収録)のリリックで「神戸レペゼンのトラックメイクジャンキー」と自身の出身地である神戸という「場所」の名を出している。また、tofubeatsが神戸という場所に強い愛着をもっていることは様々な媒体での発言で周知の事実となっている

これはどういうことだろうか。

議論を先取りするならば、ここでこのように言わなければならないだろう。彼、tofubeatsは近年、以前にも増して音楽に「リアル」な「場所性」をある奇妙な仕方で回帰させていると。どういうことか?

彼の最新のアルバム『FANTASY CLUB』について考えてみよう。

彼は、あるインタビューの中で「FANTASY CLUB」に収録された汽笛の音は神戸元町の山手にある兵庫県公館のベンチに座って神戸港から聴こえてくる音を録音したものであると語っている。*3

さらにアルバムに収録された≪CHANT #1≫ではtofubeats自身によるドゥーワップサウンド=声でほとんど政治的ともいえるような現代的歌詞が展開されている。

このような変化にはtofubeatsの時代認識も関わっていると思われる。彼はあるインタビュー*4 の中で「“ポスト・トゥルース”が物語るのは、それがもはや「ぼくたちのインターネット」ではないということだと思う」と 現状のネットの在り方やポストトゥルースに対して苛立ちを感じている。

それだけではない。《SHOPPINGMALL》という曲の歌詞の一部をみてみよう。

何がリアル
何がリアルじゃないか
そんなこと誰にわかるというか

ここでは、彼の感じること=リアリティがたしかに歌われている。

彼は子供時代を神戸で過ごし、インターネットを通して掲示板で音楽を発表していたこと。ハードオフで中古のレコードを見つけては聴きあさっていたこと。彼の過去はインターネットやハードオフといった非-場所的で多時代的なものと不可分だ。

ポストインターネットの時代に、もはや場所を特別の場所として歌うことはできない。それを理解するかのようにtofubeatsは自身の音楽を超時代的に展開する。しかし、ネットは以前のように肯定的にだけ語り得るものではない。リアルを欠いたコミュニケーションはポスト・トゥルースやヘイトを加速させる。とはいえ、かつてのヒップホップが重視したような「リアル」な世界に戻るわけにはいかない。

故にtofubeatsはそのインターネットにもつ引き裂かれた評価をリアリティをもって歌うことができるのだろう。リアルを探る歌詞とインターネット化されたサウンドに引き裂かれながら、何もわからない、と。それはリアリティをもってポストインターネットの時代に向き合うということであり、インターネット化された知覚の世界でもってそれでもなお、自身を形成した歴史や土地、現在自身が生きるリアルを語るということなのだ。

そして、極めて没時空的な経験をただ一つのものとしてもう一度引き受けること。このリアリティの強度ゆえに彼の音楽は極めてインターネット的であるとともに強烈に個人的な世界/セカイを形成している。

*1    https://www.cinra.net/column/otoheya/vol15-3.php

*2 「ヴェイパーウェイヴ」については

https://obakeweb.hatenablog.com/entry/vaporwave_worldmapの他、

『idea』(366 2014.9)を参照。

*3    https://kode.co.jp/Articles/style-tofubeats_walks_in_kobe

*4   http://www.ele-king.net/interviews/005724/index.php

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