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キャラクター平成論!

 平成の終わりが近づいていた、2016年 12月 1日。とある動画を皮切りに新たなるキャラクターの形式が誕生する。その形式は「バーチャルユーチューバー」と呼ばれている。
 
バーチャル・ユーチューバーとは何らかのキャラクター的アバターを用いるユーチューバーを指す。バーチャル・ユーチューバーの起源をはっきりと定めるのは難しいが、この言葉の初出はバーチャル・ユーチュバー、キズナアイによる自己紹介動画である。そこでは、匿名の人物の動きがモーションキャプチャーされ3DCGモデルで作られたキズナアイのモデルが動かされる。

 バーチャル・ユーチューバー2重の意味で現前する。まず一つはキャラクターとして。そしてもう一つはそれを動かす向こう側の身体として。
 重要なのはVtuberにおいてはキャラクターという存在者が物語的想像力を伴わずに「今ここ」にあるものとして現前しているという点である。しかしその話を始めるために、このような想像に対する現前の優位が時代的背景を負っていることにひとまず触れなければならないだろう。Vtuberは良きにしろ悪しきにしろ平成の集大成ともいうべきものなのだから。

 平成という時代は始まった途端、バブル経済が崩壊した。いつまで続くかわからない景気の停滞、相次ぐリストラ。60~70年代の学生運動的革命の理想は遥か遠く、バブル期70~80年代の浮世離れした虚構は消え去り、「現実」が現前してくる。
 
かつて社会学者、大澤真幸は『不可能性の時代』の中で戦後の時代区分を「理想の時代」、「虚構の時代」そして「不可能性の時代」と定義した。この「不可能性の時代」は概ね平成という時代区分と重なるものである。ではこの「理想」や「虚構」と比べていささか不可思議な言い回しの「不可能性の時代」とは何か。大澤によれば「不可能性の時代」には「現実への逃避」がみられるという。例えば、大澤はテロの台頭やオウム真理教の存在、少年Aなどを論じる中でそれらがその先に「終わり」しか見えないような過酷な「現実」をあえて選択していることに注目する。共通の理想や価値観が衰退していく中で――大澤の言葉を借りるならば「第3者の審級」が衰退していく中で――その社会の不安定さに耐えられない者たちは絶対的で独善的な価値観を強く希求する。それはもはや肯定的に語られることはない(多文化主義によって肯定的に相対化されることのない)他の全てを破壊しつくすような衝動である。

 本論では大澤の「不可能性の時代」という観点を踏襲したうえで、「平成」という時代を論じていく。平成という時代は過激な「現実」への危険な接近以外にも、より抽象化して「「今ここ」との対峙」 というパースペクティヴから語ることができる。「今ここ」は生々しい「現実」としても、あるいは極端に間延びした「日常」としても現れるからだ。
 ここで直ちに「今ここ」と対峙することはどの時代にも不変の事柄ではないかという疑念が挟まれるだろう。しかし平成における「今ここ」とは具体的な現代の特定の場所のことではない。いうなればそれは「今ここ」性ともいうべき、非常に抽象化された、そして強制的にそれと対峙することを決定づけられた括弧つきの「今ここ」である。
 そして、そのことを思考するうえで道標となるのはキャラクターという存在者だ。キャラクターとはひとつの個人であると同時に、それが社会的な単位である消費者に対して投げられているポップカルチャーであるという点で時代を映し出す鏡でもあるからだ。そこではこの平成という時代がいかにして「今ここ」と向き合おうとしてきたかが明らかとなり、その実践が最終的にVtuberという形式に結実する様が明らかになるだろう。そのためにまず、90年代からキャラクターの在り方について駆け足で論じ直さなければならない。

 

 90年代~ゼロ年代のポップカルチャーにおける物語のひとつの特徴として「セカイ系」というものがある。批評家前島賢の『セカイ系とは何か』によれば、セカイ系とは「美少女」や「ロボット」といったある時期以降のアニメ文化的要素を踏襲しながらも物語に何らかの「不在」が存在している物語を指す。それはセカイ系の直接的な起源ともされる『新世紀 エヴァンゲリオン』のように「社会」が描かれないことだったり、『イリヤの空 UFOの夏』のように物語上重要なヒロインの「設定」が語られないことであったりする。
 
しかしここで重要なのは、セカイ系の主人公となるキャラクターがしばしば極度に内向的な特徴をしていることだ。例えば『新世紀エヴァンゲリオン』では主人公は自身の父や自身が所属する「NERV」という機関を信頼することができず、度々戦いから逃走し一人思弁する。批評家の宇野常弘は『ゼロ年代の想像力』の中でこのことを「間違った社会にコミットすると他人を傷つけるので何もしない」と表現している。
 つまりここでは社会という「現実」への信頼の行き詰まりに対して「逃走し内向すること」が試みられているわけである。我々は社会にうまくアクセスできずそれを作っていくことができない。社会は私たちを阻害する。一見非現実的にも思えるセカイ系の抽象性は「社会の現前」に関連をもって展開されていると考えられるだろう。何かが現前するとはそれがそれ自体として現れるということである。ハンマーが壊れた時、初めて私たちはハンマーというモノをその「何かを叩く」という機能から独立して捉えることができる。セカイ系はアクセス不可能となった社会を「不在」という形で描いている。

 続けて宇野はこの想像力が90年代的なものであることを指摘する。ゼロ年代に起こった同時多発テロや小泉政権の新自由主義的「競争の肯定」は「戦わなければ生き残れない」という「現実」を突き付けてくる。それは我々が社会にアクセスできないという無力感だけでなく、すべての人間はその中でサヴァイヴしなければならないという焦燥感であり、その焦燥感の中でサヴァイヴのため社会や集団を変革しようとする想像力が現れる。彼はこの時代の想像力を「決断主義」と名付けゼロ年代の本当の中心的な潮流と考えた。具体的な作品には『DEATH NOTE』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』などである。これらの作品の主人公となるキャラクターは夜神月、ルルーシュ・ランぺルージなどその頭脳を生かした力技で腐敗した社会を独善的に革命しようとする作品である。

 しかし本論において最も重要なのはその起源を『あずまんが大王』という90年第終盤に現れた漫画に持ちながら、2010年に放送された『けいおん !』以降、極端に広く展開されることとなった「日常系」あるいは「空気系」と呼ばれる潮流だろう。「空気系」、「日常系」においてはごくごく平凡な女子高生などのキャラクターがただ平凡なコミュニケーションに興じる様子がひたすらに映される。物語の大きな流れはなくひたすらに些細な出来事が描かれる。しかし、これが私たちの日常の写し絵ではないことは明らかだろう。私たちは資本主義への参入を余儀なくされ、目の前には移民問題や政治対立があり、そして何よりもテロの時代を生きている。日常系とは私たちの日常の中から平穏さが抽象化されて生じた日常である。

 ここまでの流れを整理しよう。「セカイ系」においては「現実」の現前に対してキャラクターは内向し、それを否定する。「決断主義」においては「現実」は極端に過酷に戯画化されキャラクターはそれと対決する。そして「日常系」あるいは「空気系」においては、平凡なキャラクターが「日常」を生きつつも、「日常」は脱色され神秘化されており、我々の日常に取って代わる。

 ではこのような「今ここ」と対峙する想像力は最終的にどこへと結実するのか。ここで再びバーチャルユーチューバーについて論じなければならないだろう。

 

 本論は冒頭でバーチャル・ユーチューバーは2重の意味で現前しているといった。そのことについて詳しく論じておこう。
 一つはアバターの向こう側にある身体である。キャラクターの動きを作り出す際に現実の人間の動きをトレースすることは現代では映画やアニメーションの制作の現場でも行われている。しかしVtuberの身体の在り方がそれらと異なるのは、時にVtuberは向こう側にいる身体を持った人間の存在を隠そうとしないという点である。例えばVtuberのねこます、はキツネの耳の付いた少女のキャラクターをアバターとするVtuberであるが、その声は男性のものであり、また「世の中、世知辛いのじゃ~!」といった決めゼリフも元々は彼のコンビニバイトの経験や金欠から生じたものである。あるいはVRにおいては向こう側の身体性が意図せず現前してしまうことがある。例えば冒頭にあげたキズナアイの動画において、自己紹介の次の動画が身体測定であることに注目しよう。そこではアバターの技術的都合上うまく飛べないことがピックアップされる。ここではもう一つの現前、キャラクターの身体自体が現前しているのだ。
 そして、何よりもバーチャル・ユーチューバーにとってリアルタイム配信が重要な活動形態となっていることも重要だろう。そこでは作品は自律したスタティックなものではなく、「今ここ」の日常と地続きのものである。

 かつてキャラクターは「今ここ」に現前するものではなく「幽霊」の比喩で語られていた。ゼロ年代に行われた様々な批評においてはしばしばキャラクターは単一の物語によって汲みつくし得るものではなく、n次創作の世界を渡り歩く可能性をもった存在者であるとされている。このことは同人系即売会のみでなくweb上でも様々な形でn次創作を目にするようになって久しい私たちには直感的に理解し得る定義だろう。また批評家の東浩紀はある時代以降のキャラクターが確固としたオリジナリティを持ったものとしてのみあるのではなく、オタクコミュニティにおける「データベース」――これは言葉通りに実在するものではなくある種観念的なものである――に登録された「萌え要素」の組み合わせで作られていることも指摘している。キャラクターは自身の物語から想定される「潜在的な行動様式の束」=個性のみでなく、同じ「萌え要素」を持った別の無数のキャラクターが持つ「潜在的な行動様式の束」さえも性質としてどこかに幽霊に憑依されるように背負っているというわけである。

 しかし、いまやキャラクターはそこにありありとリアリティーをもって現前している。セカイ系が全力で退けていた「現実」は今や素朴に「現実そのもの」として「今ここ」に現前している。SNSを見渡せば「実況」という形でアニメファン同士がリアルタイムコミュニケーション をしている様子が見える。現前は想像力を介した現前でなく、現前そのものとなっている。しかし、そこにはいまだ「今ここ」に対する想像力の最後の抵抗がある。どういうことか。

 


補論

 例えば、高い城のアムフォというバーチャル・ユーチューバーがいる。このキャラクターは異世界ミズダ王国に住んでおりこの世界から流れ着いたパソコンでユーチューバーの存在を知り、配信を始めたという設定をとっている。そこではYoutubeによる配信という極めて日常的な表象の枠組みを模倣しながらもその配信の中で独自の世界が断片的に提示されるというある種の想像力が働いている。
 例えば、鳩羽つぐというバーチャル・ユーチューバーがいる。このキャラクターは謎めいた断片的な投稿を繰り返すことで、ファンたちが都市伝説的に想像を働かせ物語を作り出すという現象が生じている。そこではコミュニケーションという本来的に「今ここ」に関わるものが想像力につながるという跳躍がなされている。

 かつて、前述した批評家の東浩紀はノベルゲームの選択による分岐や繰り返されるリプレイの経験が物語内容に還元されたものとして「ループもの」の形式を解釈しそれを「ゲーム的リアリズム」と呼んだ。
わたしたちは高い城のアムフォのような想像力を「ユーチューバー的リアリズム」と呼ぶべきだろう。そこでは現前する日常そのものとなったキャラクターとその世界において、いかにして想像力を延命させるかという対峙がなされている。

 

 

文字数:5005

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