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近藤譲と牛尾憲輔――『リズと青い鳥』私論

いつききとる かの夕方、畑で、太陽がすでに地平線の上に低くあるとき、私はコンバインの運転手たちをみました。農民たちはついさっきまで小麦を収穫していたようで、今は立ってタバコを吸っていました。畑にはまだ日中の作業の〔小麦の〕塵が沈み切っておらず、それらが光によって貫かれ、空気自体があたかも物質的で、光を放っているかのようでした。そして人びとの姿は……ほとばしる光のなかに沈み込んでいました。そして、巻きたばこの煙……会話は聴き取ることも、感じ取ることも、まったくできない……これを目撃して、私は突然気付いたのです。このエピソード〔「永遠」〕をいかにしてつくるべきかを。(ユーリーノルシュテイン『草上の雪』第一巻 五六節 二百七十頁  土居伸彰訳)

 

「個人的」としか言いようのない歴史が存在する。連綿と続く一筆書きの「線」ではないような、現実的には無関係な「点」を繋いでいくような、そんな系譜が。
それはきっと一瞬の間に過去と現在、未来が刻み込まれるような、点と点の「同期」の瞬間だろう。そこに現れるのは暫時的な「永遠」だ。
わたしは今から約2182時間36分28秒前、「永遠」を知覚した。

一つに、本論で示されるのは現代音楽における「線」の話である。
二つに、本論で示されるのは個人的な、あまりに個人的な、あるポップカルチャーに対する受容の話である。
わたしは現在、大学院で作曲を学んでいる。一方、わたしは日本のポップカルチャーにある程度馴染んできた。至極平凡で現代的な在り方といえるのだろう。ポップカルチャー受容はある種の趣味的なものに留まっていた。たとえば映像文化における「劇版」を蝶番にしてそれらを繋げることを必ずしも好まなかった。それは結局のところ「音楽」を語っているだけなのではないか?
それらには関係がなかった。歯車は噛み合っていなかった。その瞬間までは。

 

近藤譲という作曲家は自身の音楽を「線の音楽」と呼んでいる。

1979年に出版された『線の音楽』、そして同名のCDは当時の「面的」な現代音楽への反論として現れたと考えてよいだろう。

20世紀の初頭に現れたシェーンベルクらの12音技法、そして大戦を挟みそれらを発展させる形で1950年代から現れるブーレーズらのミュージックセリエルの目指した、一音一音の厳格な「関係性=構造」の探求は頓挫した。その「関係性=構造」が人間の認知限界を超え始めたからだ。この挫折を背景にヤニス・クセナキスの作曲への確率論の導入は正当性を持つ。「音群書法」は勢力圏を拡大し、それは「スペクトル楽派」へと繋がっていく。音響それ単独の探求としての「特殊奏法」が世界を席巻する。クセナキスの音楽や「音群書法」、「スペクトル楽派」は全ての音を全体的な一つのテクスチャーを形作るための群として扱うものだ。そこには本来的な意味の「構造」はなく、ただ音の「分布的配置」と「オーケストレーション」だけがある。それは音と音が「紡がれる」ことのない「面」の音楽だ。

近藤はそのことに危機感を抱いた。彼の代表作の一つに≪WALK≫という作品があるように彼にとって音楽とは「歩く」ことだった。『線の音楽』を紐解けばわかるように、近藤にとって音楽とは、音と音との関係をひとつずつ主体的に聴いていき、そのたびに次の音への意識的/無意識的な「予期」が起こること。そしてその「期待の地平」が様々な仕方で「異化」されていくことだった。近藤譲が「線の音楽」を提唱した時、現代音楽の右手には線として認知できないほどに錯綜した「もつれ」が、左手には線であることをやめた「ほつれ」があった。そこには一音一音に主体的な聴取に基づく「予期」と「異化」が生じない。

では、「線の音楽」はいかにしてこの両者を退けたのだろうか。

 

牛尾憲輔という作曲家がいる。元々agraph名義でテクノ音楽を制作していた彼は近年アニメ―ションを中心に劇伴音楽を多く手がけ始めている。彼がアニメーション監督山田尚子と組んで2作目となる作品『リズと青い鳥』では、ある音楽史的な達成が成されている。どういうことか?

『リズと青い鳥』の少々長くなるがあらすじを公式サイトから引用しよう。配置されたいくつかの言葉に本論の鍵が潜んでいるからだ。

鎧塚みぞれ 高校三年生 オーボエ担当。傘木希美 高校三年生 フルート担当。

希美と過ごす毎日が幸せなみぞれと、一度退部をしたが再び戻ってきた希美。中学時代、ひとりぼっちだったみぞれに希美が声 を掛けた時から、みぞれにとって希美は世界そのものだった。みぞれは、いつかまた希美が自分の前から消えてしまうのではな いか、という不安を拭えずにいた。

そして、二人で出る最後のコンクール。自由曲は「リズと青い鳥」。童話をもとに作られたこの曲にはフルートとオーボエが掛け合うソロがあった。

「物語はハッピーエンドがいいよ」
屈託なくそう話す希美と、いつか別れがくることを恐れ続けるみぞれ。

――ずっとずっと、そばにいて――

童話の物語に自分たちを重ねながら、日々を過ごしていく二人。みぞれがリズで、希美が青い鳥。でも……。どこか噛み合わない歯車は、噛み合う一瞬を求め、回り続ける。(http://liz-bluebird.com/)

引用の終盤にあるように、この作品では「噛み合わな」さが描かれている。それは序盤に画面に提示される「dis joint」の文字、あるいは何気ない授業風景で語られる「互いに素」という言葉でも指し示されているだろう。
では、リズと『青い鳥』において牛尾憲輔が行ったこととは何か?

近藤譲の音楽に規則や決まった形式はない。彼は音を一つ一つ精神で聴いたうえで音相互の関係性を紡いでいく。しかし、それは全くの感性的なものとは異なる。近藤譲は言っている。

私が関心を持っている音相互間の関係性というものは、特に目新しいことではなくて、むしろ非常に伝統的な種類のものです。それは、例えば旋律とかリズムとかあるいは調性とかいった、非常に伝統的な音楽の構造の諸要素を成り立たせているのが、そうした関係性にほかならないからです。(中略)三つの音をそれぞれABCと呼ぶとすれば、AとBによってできる関係が、BとCによってできる関係によって裏切られるように音を繋いでいくわけです。そしてさらに、四つ目の音Dを書く際には、ABCによってできている関係が、Dによって裏切られるように音を置いていく。そんな仕方です。つまり常に何らかの関係性が成立してはいるのだけれど、しかしいつもその関係性が曖昧なものでしかないという状態(小林康夫編『現代音楽のポリティクス』 書肆風の薔薇 1991 p158,160-161)

彼はセリエル音楽の失敗を知っている。故に彼は前衛的な新しい構造を作ろうとはしない。彼はスペクトル楽派が「線」を紡げないことを知っている。故に彼は音響それ自他の探求を、例えば特殊奏法の使用を行わない。
彼はただ、西洋音楽の伝統的な関係性を用いつつ、それを一つの構築物に統一することなく紡いでいく。どこに行きつくのかわからない「線」的な旅として。彼はあくまで平凡な足取りで、誰も通ったことのない道筋を歩く。その音がありふれていても、音と音との関係性自体が使い古されたものだとしても、その関係性の連なりであるところの「時間」には無限が潜在しているのだ。
ここで、音楽に「予期」と「異化」が取り戻されていることに気が付くだろう。それは古来から時間芸術である音楽に備わったものだった。彼はそれを「曖昧」という形で先端化する。「一瞬」だけ音が関係性によって同期したと思えばすぐにその構造が消えてしまうような音楽として。
彼の代表作の一つに≪視覚リズム法≫という作品がある。そこでは五声による一定の長さの音楽が繰り返されるのだが、繰り返すたびに一つずつ声部のメロディが変わっていき、そのたびに聴こえてくる旋律や和声が驚くほどに代わる。一音一音が関係性の構築に強く携わっているためだ。
そしてその関係性は古典的であるがために聴き手の音に対する音の「形の記憶」を使用する。そしてその関係性は曖昧であるがめに、聴き手ごとに別々の音楽的「形の記憶」を使用させる。それは一音一音の関係性の主観的構築にも自然と影響を与えるだろう。近藤譲の音楽はそれを聴き手が自身の内面の「セカイ」とつながる「原形質的」な世界である。その「世界」にはあらゆる者たちの「個人的な過去」が集められ、その「世界」は後に生まれる者たちの来るべき未来の「個人的な過去」に投げられている。「永遠」のような時間の在り方で。

校舎前、主人公鎧塚みぞれは自身が唯一心を開く傘木希美を待っているシーンをみてみよう。はじめピアノなどによる間歇的な音とみぞれの動きが視覚的・聴覚的にリズムを形作っていく。振り向く仕草。座りながら退屈そうに靴をぶつける仕草。しばらくすると音楽は止み、鳩の声が聴こえてくる。歩いてくる誰かの足元。しかしそれは希美ではないことが明らかになる。その後、反復される足音と共にようやく希美が現れると、みぞれの内面を表象するように世界は3拍子のミニマルな音楽に満ち始め、希美の足音は音楽と同期する。その後音楽は吹奏楽部の練習室に到着するまで展開される。
冒頭にみられるこのような音の扱いは『リズと青い鳥』にとって象徴的だ。練習室にみぞれと希美が入った後のシーンに注目してみよう。このシーンでは2人の何気ない会話が映されるのだが、希美の声はしばしばこちらから見てみぞれを中心に――つまり左に――パンニングされる。あるいは理科室でふぐに餌を与えていたみぞれと向かい側の校舎の希美がお互いに気づき、希美が手に持っているフルートに太陽光を当てながらみぞれの服へと反射させて遊ぶシーン。楽しげに目を細めるみぞれの内面とリンクして、アブストラクトで間歇的だった音楽は明確なメロディと反復的なリズムを一時的に獲得する。この事実はみぞれの内向性を写しとったかのような浅すぎる被写界深度ともリンクして『リズと青い鳥』における「世界」が鎧塚みぞれの内面の表象=「セカイ」であるということを指し示しているように思える。しかし、これは正しい認識ではない。どういうことか?

『リズと青い鳥』では図書館を出た後、練習室を出た後などあらゆるシーンでみぞれと希美が共に歩くシーンがあるのだが、しかしそれはズレ続けていることに気づくだろう。例えば冒頭のシーンにおいても、みぞれと希美が出会って数歩の間はみぞれの足音、希美の足音、そして音楽は同期しているのだが、それは次第にズレていってちぐはぐになってしまう。一方、音楽と希美の足音が完全に同期するのは物語中に散りばめられた様々な一瞬、そして水彩タッチで描かれるみぞれの想像上だけである。
あるいは『リズと青い鳥』の音楽に用いられる音素材。本作の音楽を担当した牛尾憲輔はあるインタビューで、音楽室の楽譜立てをバチで叩いたり、理科室のビーカーを弓で引いたりするなど学校内のあらゆる物を、モデルとなった校舎で録音して音素材として使用したことを語っている。(https://eonet.jp/zing/articles/_4102098.html)
日常的な音素材をアブストラクトに変質させた本作の音楽には、それが作品内の校舎にて実際に鳴っているのか劇伴音楽なのかの判断を宙づりにする音響が多分に含まれており、みぞれの内面の表象と内面の外に広がる外部の広がりとを混ぜ合わせる効果をもたらしている。
実際のところ『リズと青い鳥』における「世界」には、「日常」には、「世界」から聴こえくる音には、みぞれの内面の情動に回収されない亀裂のようなものが走っているのだ。耳には瞼がないように、みぞれの「外」としての「世界」は音として向こう側からやってくる。

『リズと青い鳥』の音楽は「曖昧」に、「原形質的」に、音楽と内面の表象を行き来する。そこでは、「機能」や「効果」はぼかされている。「世界」と「セカイ」が溶け合う物語が展開される。学校という私たちがそれぞれ別々に共有している「意味の記憶」を音の素材として用いて。

ラストシーン。様々なすれ違いを経て、みぞれと希美は別々の大学に行くことを決める。冒頭のシーンを反復するように二人は歩き、足音は次第にズレていく。しかし、何気ない会話のある瞬間、「本番、がんばろう」と二人の声が偶然に重なる。この偶然の同期の後の数歩の間、二人の足音もまた重なっている。このシーンにおいて何よりも注目すべきことはその後にみぞれの言う「ハッピーアイスクリーム」という言葉だろう。その有名な(同時に同じ言葉をしゃべったときに、先に「ハッピーアイスクリーム」と言ったほうがアイスを奢ってもらえる)遊びはみぞれ-希美関係の「外」から訪れたものである。それは、みぞれが練習室で偶然に「聴いた」遊びだった――そしてみぞれが「ハッピーアイスクリーム」を耳にするカットは一人称性を強調するかのように画面が小刻みに揺れている――。『リズと青い鳥』のラストシーンにおいて、すでに音は「セカイ」の表象でも「世界」の表象でもない。それらはすでに単純な二項対立を成していないからだ。そこでみぞれは「セカイ」に偶然訪れた「世界」の音をもって別の、希美の「セカイ」と接しているのだ。とはいえ同期は一瞬に過ぎない。その後希美が「なに? みぞれアイスが食べたいの?」と返したことからも、その意図が正確には伝わっていないだろうことが明らかとなる。音楽が流れ、二人は歩いていく。だが、そこには確かに一瞬だけ奇跡的な同期があった。
『リズと青い鳥』は本質的に無秩序で孤立した「セカイ」たちによる「世界」を私たちに聴かせるだけでなく、美しい同期を、「セカイ」と「セカイ」の接触を聴いていく。その同期は一瞬の奇跡に過ぎないが、それは日常の中に潜在的に満ちあふれているものなのだ。

近藤は自身の音楽をジョン・ケージの影響下にあるものと考えている。つまりそれは音楽によるズレのない、正確な内容の伝達を望まないということだ。近藤はケージについて言っている。

こうした「偶然性」(不確定性)の音楽」では、その作曲者も聴き手も、どちらも同じ立場で、訪れてくる音響(そこでの表現の実質、すなわち、「音楽〔曲〕」)に出遭う。つまり、その「音楽〔曲〕」は、確かに人工物ではあるのだが、あたかも雷鳴や虹といった自然現象のような、人の(作曲者=聴き手の)外に存在する客体である。(『聴く人』p65-66)

牛尾は近年のインタビューで「「音楽とは何か」を示唆できる作品を志向していきたい 」と語り、ジョン・ケージを例に挙げている。
(https://eonet.jp/zing/articles/_4102099.html)

 

「批評」は固有性と一般性が同時に必要とされる営みだろう。故に本論ではわたしの『リズと青い鳥』≓牛尾憲輔と近藤譲をモチーフとした「個人的なハーモニー」を他者に共有するために書かれている。そこでは、「同期」を主題に音楽、あるいは芸術にとっての「線」、「開かれ」そして「世界」との関係が点と点をつなぐように語られた。それは、私に『リズと青い鳥』を繋げて思考させる可能性を与えた土居伸彰への手紙でもあった。本論に現れる「原形質」や「個人的なハーモニー」、「永遠」などの用語はすべて土居伸彰の著書からの言葉である。

しかしわたしは今、もう一通の手紙を書いている。2018年、8月17日から一週間、山口県の秋吉台で行われる現代音楽祭で近藤譲が作曲レッスンを行う。私は今、そのための音楽を作っている。
本論冒頭にあげた引用はノルシュテインが『話の話』 ノルシュテインにとって「話の話」は自身が感じた「永遠」を「個人的なハーモニー」をなんとか「外」に、虚空に投げようとする試みだったのだろう。そしてそれはすれちがう。決して完全には伝わらない。なぜならば、わたしたちは本質的に「互いに素」だからだ。しかし、そこには一瞬の同期が、「私」が「私たち」になる瞬間があることもすでに私たちは知っている。であるならば、決して届かない言葉だとしても、手紙を書かなければいけない。受け取った音を返さなければならない。私は近藤譲にこの背景を決して話さないだろう。けれどもう曲名は決まっている。

わたしはその曲に≪dis joint≫と名付けた。

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