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風と共に来たりぬ――音楽における「先取りの剽窃」について

翻訳家、鴻巣友季子は著書『翻訳って何だろう?』の冒頭で翻訳を「声優さんの仕事の楽しさと少し似ているかもしれません」と述べている。しかし、これは正しい認識だろうか。
 小説家と翻訳家が「書く」という同一の行為を行っているのに対して、脚本家と声優の関係性は「書く」ことと「演じる」ことという非対称性があるからだ。鴻巣の例は音楽における作曲家と演奏家の関係性に近い。そして演奏の前には必ず楽譜の分析――アナリーゼ――がなされる。
 ある音楽作品を分析するとき、私たちは楽譜という一つの象徴体系を別の記号に書き換える。アナリーゼは記号体系=言語の移行であり、つまり翻訳である。
 そして文学の古典新訳に「先取りの剽窃」の問題があるように、音楽の分析的解釈にも「先取りの剽窃」が存在する。

 

ミニマル・ミュージックをその初期から支えた中心的人物であるスティーブ・ライヒは様々なインタビューで中世音楽全般からの影響を度々口にしている。
 あるいは指揮者のポール・ヒリアーはCD『ペロティヌス作品集』の作品解説の中で、ライヒの言葉を引用しながら中世におけるポリフォニー音楽の大家ペロティヌスをミニマリズムの一作曲家として解釈している。ミニマル音楽と中世音楽との親和性は原作者からも翻訳家からも主張されることだ。
 しかし、中世音楽をライヒ的ミニマル音楽とみなすことは楽譜を横に「線」として読むのではなく、縦に「面」で読むというパラダイムによって生じる「先取りの剽窃」である。本論では中世音楽の例として作者不明のカノン≪夏は来たりぬ≫を取り上げることで音楽解釈のパラダイムの問題を超え、「翻訳」という概念自体について考えたい。

 

 

図に示された色を追った時に分かるように、カノンの様式とは同一の旋律が幾重にも折り重なっていくものだ。しかしそれをミニマル音楽のような「反復」の「ユニット」と捉えるのは楽譜を面で見たときにはじめて可能になることに過ぎない。確かに下の2声は2小節単位で反復を続けるオスティナートとして音楽の下地を作っているが、上の4声は同一声部内では同一の音型を反復することなく旋律が流れていっている。図1のような各声部の線の構造を無視してひとまとまりの瞬間の連続と捉えた時、はじめて図2のような並び替えが可能となる。

 

 

 

このように楽譜を縦に面で見るパラダイムが確立したのは18世紀初頭、作曲家ジャン=フィリップ・ラモーの記した『和声原理』に依ってである。そして後の20世紀、反復する断片的ユニットの重なりで音楽全体を形作るミニマル音楽がライヒらによってもたらされた。和声は楽器の合奏に、ミニマル音楽はテープの再生にその想像力を負っている。一方和声以前の音楽にとっての規範は「声」であり、楽譜を横に眺めながら各声部の旋律(線)に調和を与える「対位法」に依って作られた。
 古代ギリシア語のkanōnという言葉には「棒、定規」などの意味がある。 ≪夏は来たりぬ≫において反復は、各声部がひとつなぎの歌詞――sumer is icumen in(夏は来たりぬ)lhude sing cuccu(高らかに歌えクックー)groweth sed and bloweth med(種は育ち草は繁り)……[中英語の歌詞はhttp://maucamedus.net/sumer.htmlを参照]――を連ねていく中で旋律の模倣の「結果として」起こる現象に過ぎないのだ。
 対して、ライヒの代表作の一つであり、同じく各声部間での反復の受け渡しが多く行われる≪テヒリーム≫が、対照的に同一単語の繰り返しを多く用いていることは示唆的だろう。ミニマル音楽では各声部は混ざり合い、言葉は連なる文章ではなく、線は途切れ、それは反復のユニットを作るためにある。

ここでもう一度誤読によって生じた図2を見てみよう。それは録音音楽における「トラック」、特にハウス/テクノ系音楽のレイヤー状の反復構造を持ったそれに類似している。ハウスにおける「サンプリング」がいわゆる「先取りの剽窃」を多く引き起こしていることは言うまでもないだろう。The Winstonsの ≪Amen Brother≫を聴いたことのない人も多いはずだ。サンプリングはある種の剽窃でもって異質なもの同士を出会わせる。一方≪夏は来たりぬ≫でも各声部間で異質なもの同士が出会っている。どういうことか?

 

 

これは、大英図書館のハーレー写本に収められている≪夏は来たりぬ≫の手稿譜である。黒い字で書かれた歌詞は前述した楽譜にもあった中英語の世俗的内容の歌詞であるが、赤い字でその下に書かれた歌詞にはラテン語でキリスト教に基づく内容が書かれている。このように一つの音楽に複数の詩をつけるcontrafactumは中世には多く行われていた。3段目、Bulluc sterteth, bucke uerteth(去勢牛は踊り跳ね、雄ヤギはおならする)とQui captivos semivivos a supplicio(彼は生という罰にある半死半生の囚人たちを許し)が重なっている部分などは特に異様に感じられるだろう。
ここにおいて楽譜は、聖なる歌と俗なる歌が共存し、「線的対話」を繰り広げる空間となっている。≪テヒリーム≫のようなヘブライ語による静謐な空間からほど遠いこれは、文学でいうところのミハイル・バフチンのいう「カーニバル」にあたる様式だろう。思えば同じくバフチンの重要な用語に「ポリフォニー」があり、そして音楽において「ポリフォニー」=「多声音楽」が始まったのは中世からだ。
 和音という近代的調和に対抗するかのように、ハウスミュージックはそれを切り刻み「トラック」に再配置する。それは失われた中世のカーニバル性を取り戻そうとする営みのようだ。ここで≪夏は来たりぬ≫がハウスの祖先にあたるという事実が仮構される。誤読による先取りの剽窃が、サンプリングとカーニバルの関係性を切り開いたのだ。「先取りの剽窃」も悪いものではない。

 

Trackという英単語は古仏語で「痕跡」を意味するTracを由来としてもつものである。未だ口頭で伝えられることも多かった「声」を規範とする中世の音楽には上演と解釈の間に亀裂はなく、故にそこに翻訳はない。しかし、今や伝承の「声」は途切れている。何かが翻訳されるということはある時代のパラダイムの断片的な「痕跡」しか存在しないことを自覚したうえでそれらをつなぎ合わせ、一つの「点線 (dotted line)」を仮構することだろう。異なるパラダイムに属する時代のkanon(正典)を完全にkanon(追複)することはできない。kanonにはしみがついている(dotted)。その意味で過去のすべては「先取りの剽窃」なのだ。特に古典の「新訳」、言葉通りの「新訳」における過去とは――ライヒが中世の痕跡となったように――今この時代に存在するあらゆる断片を超時代的Track(痕跡)のサンプルとみなし、それを「先取る」ものとして過去をtrace(追跡)するものだからだ。
 過去とは「去りぬ」ものではなく「来たりぬ」ものなのだ。
 故に『風と共に去りぬ』のラストシーンは言い換えられなければならないだろう。「昨日は今日とは別の日」なのだから。

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