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書くことを、書くことの不可能性を超えて書くこと――世界、私、私以前

 

□「私」の外の「非-私」を聴く

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を描いた映画『サウルの息子』では徹底して「私」が扱われている。

本作はナチスとユダヤ人という大きな問題系ではなく主人公サウルの「私」的な事柄に焦点が当てられている。主人公は仲間たちの脱出計画に興味を示さず、ひたすらに、ある子供を埋葬することに執着する。
 このような「私」性は極端な被写界深度の浅さによって収容所の凄惨な風景がぼかされていること、サウルがイディッシュ語ではなくハンガリー語を話し、しばしば仲間の間でも通訳を必要とすること、あるいは収容所の外に状況を伝えるために登場人物が写真を撮ろうとする試みが立ち昇る煙によって失敗すること――私-外世界を映し出すカメラが役に立たないことによる隠喩ーーによっても示されているだろう。
 視覚は「私」に閉ざすのだ。しかし、作品内に聴こえくるものに注目するならばこの作品の別の様相が現れる。
 作品中では、死を嘆く、痛みに呻く、ガス室の扉を叩く、ナチスが怒鳴る、カポ役の囚人が怒鳴る……様々な音が混じり合っている。
 耳には瞼がない。音は文字と異なる。サウルが「外」を否認しようとしても、それは現前してくる。それらは管理して製作することが不可能なほどに混沌をなしており――映画は集団で制作されるものである――、そこには断片として偶然に現れる悲-非劇がある。
 『サウルの息子』では「私」という檻によって極限状態になお存在する個が描かれると同時に、そのことによって逆説的に語り得ない「外」が示されているのだ。

「私」は「私」でしかない。けれど、それを自覚する時に「外」が聴こえくる。
 この徹底した世界認識が『サウルの息子』の「私」である。

 

□「私」の外の「私」を聴く

吹奏楽部を描いたアニメーション映画『リズと青い鳥』では徹底して「私」が扱われている。

ほぼ冒頭にあたる、主人公鎧塚みぞれが、唯一心を開く傘木希美を待つシーンをみてみよう。
 まず特殊奏法ピアノなどによる間歇的な単音にみぞれの動作音がリズムを形作るのだが、その後希美が現れると間歇的な音はみぞれの高揚感を示すように反復、音楽化され2人の足音は完全にテンポと一致する。その後、練習室で希美の声がみぞれを中心にパンニングされることからも、音はみぞれの内面と同期している「「私」的」なものに思える。しかし、本当にそうだろうか。
 二人の足音は歩いていく中で少しずつズレ非同期的になっていくこと。あるいは作品に満ちる音の中にみぞれにとっての「外」が断片的に含まれていることーー日用品を実際の学校で録音し音素材として使用している『リズと青い鳥』の音楽には、それが物語内で鳴る音か、みぞれの内面を表象する音かを曖昧にするようなものが多く含まれているーー。
 みぞれの「私」には聴こえくる亀裂が入っている。耳には瞼がない。
 亀裂は作品を通して展開されていき、みぞれと希美の愛着の関係性がある面において逆転していたことが明らかにな――つまり希美側の内面=「私」が明確に示され――るところで頂点を迎える。
 その後の最終シーン。みぞれと希美は同時に同じ言葉を喋り、みぞれは「ハッピーアイスクリーム」と叫ぶ。有名な、あの遊び。一瞬の同期。その後数歩分だけ2人の足音が重なり合う。しかし希美はこの遊びを知らず「なに? みぞれアイスが食べたいの?」と返す。足音はすれ違い、音楽だけが流れていく。この「ハッピーアイスクリーム」はみぞれが「外」、つまり希美ではない吹奏部員の同士のやり取りから偶然に聴いた遊びである。

「私」は多元的にありそれぞれ孤立してすれ違っている。けれど、「外」は聴こえくるだけのものではない。孤独な「私」同士が同期する瞬間は確かにある。
 この当たり前で美しい世界認識が『リズと青い鳥』の「私」である。

 

□ 世界、聴こえくる、私

社会学者、岸正彦の「断片的なものの社会学」では「私」は扱われていない。

本書の中で岸は、「偶然ここにある」ということの無意味さを礼賛していく。しかしそれは無意味それ自体の意味を礼讃する否定神学的美学ではないだろう。もし全てのディテールが完全な無意味、つまり「私」の絶対外部という意味に回収されるのならば一つ一つの断片は固有性を失うからだ。
 例えば、岸は戦争体験を語る男に偶然訪れた突然の沈黙を聴き書く。例えば、幼少期にたまたま触れた平凡な石について、書く。例えばある日、ビルのエレベーターに乗る見知らぬ他人を目にして、一緒に乗っているような同期的感覚になったことを、書く。例えば……
 これらの断片の中には意味未満の意味、言語化し得ない未-セカイが現れている。
 何かを「書く」時、それを書く「私」からは逃れられない意味の通る言葉を紡ぐことは個人製作であり根源的にモノフォニーである。そして何かを読む時、それを読む「私」からは逃れられない。
 この事実は近代文学という構成物に、そして「視点」というパラダイムへと自然に結実する。
 しかし、文字は音と異ならない五感の全ては本来的に聴こえくるものだからだ。視覚は「私」に閉ざさない。聴くことに瞼がないように、視ることにも必ずしも瞼があるわけではない。偶然視てしまうこと、触れてしまうこと。来るものは「私」と同期し、あるいは同期せず「私」から離れていく。
 「私」と「私以前」の境界の、未-意味的質感を持った「世界」を書く/読む=聴くということ「書くこと」が「世界自体」と緊張関係を持ち、ある特異なインターフェースとなること。
 書くのではなく聴くこと、あるいは、書くことの不可能性を超えて作ること。そして、書くことの不可能性を超えて書くこと。それらのことで再び「書くこと」≒「私」を浮かび上がらせること。

つまり「世界」と「私」について向き合う断片たちの総体が「文学」の全体だろう。

文字数:2394

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