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日本人のアートに対する意識を問うよ。

序文

ハイパーメディアクリエイター高城剛はこう言ったアイデア(の質、量)は移動距離に比例する”と、移動する時人は自分の目で見て、手で触れ、耳で聞き、五感をフルに使い外部の刺激を受ける。

私も、考え事をするのはもっぱら移動中であり、移動中の時間は思考の時間だとすら思っている。日々変わる空や肌に触れる空気、行き交う人々の服装や話、様々な情報が刺激的だ。

だからこそ、何かアイデアを考える時は椅子に座っていないで、財布を持ち、外部刺激を貪欲に受け入れる為に情報のザルのようになっている外側の自分と、その情報を吟味しあれこれ考える内なる自分と、で外へ赴く。

さて、今回私は批評再生塾第九回「展覧会評を執筆せよ」のテーマを元に思考をする事となる。

今年訪れた展示会は当たりが悪く、キュレーターのコンセプト前に人だかりが出来たり、内輪感の有る展示会で、作品を観るのでは無く、人を観るで終わった、展覧会評執筆危うし。

これはまずい、何かアイデアを思い付け!との一心で電車に飛び乗った。

 

アイデアを見つけた歓喜は、喉が渇いた時に飲むビール同等の幸福感がある。

今私は都営大江戸線に揺られ、ほくそ笑んでいる、良い発見との出会いがあったからだ。

都営大江戸線とは、平成12年に開業した地下鉄であり、アクセスの悪かった麻布十番や、赤羽橋など交通不便地域の解消となった路線、循環線と見せかけた6の字型の変形循環線で東京環状線(ゆめもぐら)と名前が決まりそうになったが、紆余曲折あり大江戸線となった路線である。

良い発見とは、清澄白河駅の改札を通ったその先で見つけたコレだ。

この撮影したモノは「テクノエティック・ツリー」と表題のついたパブリックアートである、タイトルのテクノエティックとは、ギリシア語で心や意識を意味する「ヌース」に由来する「ノエティック」と「テクノロジー」を合成したもの。

ガラスで周囲を覆われ、中心にパスタ色の樹脂?プラスチック?素材が大胆に倒壊ガラス面に接触している。

まるでその姿は、心とテクノロジーが四角いガラスに寄り添う、スマートフォンの画面に囚われる私たちを映し出しているかのようだ。

都営大江戸線は何かある、予感にも似た確信を得た気がした。

公共の展覧会、都営大江戸線

都営大江戸線の駅をあらかた降りパブリックアートを見て回り予感は確信に変わった、どの駅もパブリックアートだけで無く、デザイン的にも個性的で建築デザインの趣向を感じさせる。

意図的に各駅に個性を持たせた事を裏付ける資料も中古の本で見つける事が出来たので、この本から都営大江戸線についてのコンセプトを引用する。

 

 

 

 これまでの地下鉄では、一つの路線にある駅は一つのデザインで統一されていて、各駅に個性は見られず、また、乗降機能ばかり重視され、デザインによる快適性はあまり考慮されていなかった(中略)多様な伝統と個性ある地域に呼応した個性あふれるデザインの駅で全線を構成すれば(中略)全線が魅力のあるものとなるだろう(※1)

 

 

なるほど、各駅にデザインとアートでコンセプトを持たせる事で路線全体で一つの魅力を生み出す事は、作品をギャラリー美術館に意図的並べ、それを含めた作品とする展覧会と同じといえよう。

都営大江戸線の試みは、機能性を求めるあまり遊び心が失われ無味乾燥な空間に対する・・・

と、息巻いたのだが、実際に歩きパブリックアートを追った経験とこの資料を手に入れた事によって、都営大江戸線のパブリックアート群がデザインとアートに対するある警鐘を鳴らしている事に気がついてしまった。

 

私は、自分が見たい幻想のアートを見ていたようだ。

先程の私が発見したパブリックアートを発端に、都営大江戸線のコンセプトなどに触れてきた、普段何気なく使っていると気が付かないが、各駅毎土地を考慮しデザインにも変化があり・・・とプラスの面を見ていたが

実は資料の写真を見て多くの違和感を感じる事になる。

 

 

 

 

 

 

 

(※2)

↑施工当時

↓現在

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、この現在のパブリックアートは実は、素材が朽ちて倒壊し放置されていたのだ。

まるでその姿は、心とテクノロジーが四角いガラスに寄り添う、スマートフォンの画面に囚われる私たちを映し出しているかのようだ。

などと、崩壊したアート作品を前に、作者の狙いを読み取ろうとした事を恥じら無くてはならない。

パブリックアートをめぐり、2018年東京大学本郷キャンパスの中央食堂に設置されていた宇佐美圭司壁画処分問題等も含めある一つの意識が浮かび上がる。

 

日本人のアートとは、ゴミを作る事なのか?

2020年のオリンピックに向けて東京都内では様々な建設が続いている、もちろんそれらの施設にはパブリックアートも設置されるだろう。施設が新しくなるという事は、古い施設は取り壊されるという事だ。

先の東京大学の件もそうだが、パブリックアートが結局ゴミとして処分されている。

何故捨てられるのか?パブリックアートをメンテナンスし管理する意識が低いからなのだろう、都営大江戸線のパブリックアート群も、資料と照らし合わせると、痛みが激しかったり、ポスターを設置されたり散々な物が多い。

保存についてどうするのか?もちろ手入れの悪いパブリックアートについて考える必要性があるのでは無いだろうか?手入れの悪いパブリックアートは彫刻公害とも揶揄され、その先には破棄されてしまうだろう。

パブリックアートは身をもって、放置されたアートが公害へとなる警報を鳴らしている。

都内を舞台とした公共の場の展覧会は終わら無い、

話題にならなくなった作品は、時代に沿わなければ破棄していいのだろうか?

管理者が不明だが、移動するだろう等とけんのんに構えていいのだろうか?

そんな問題定義を発信し続けるだろう。

青山の「こどもの城」前に設置されている、岡本太郎作「こどもの樹」も現在柵に覆われ、処分されないかヒヤヒヤしてしまう。

 

引用一覧

※1「 駅デザインとパブリックアート21世紀の地下鉄駅をめざして 大江戸線26駅写真集 」撮影:伊奈英次 発行東京都地下鉄建設株式会社 P2

※2「 駅デザインとパブリックアート21世紀の地下鉄駅をめざして 大江戸線26駅写真集 」撮影:伊奈英次 発行東京都地下鉄建設株式会社 P106/P107

文字数:2535

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