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あなたに北海道を愛しているとは言わせない

◆目次
塔と羊
鬼門と繁花/オソレとエロ
日本神話と西洋開花/アイヌのカラダ
鏡/ドウミンのカラダ
◆本文

塔と羊

両国にある職場からはスカイツリーが見える。北海道にある前の職場からも塔が見えた。札幌の東の端、道立野幌森林公園に立つ「北海道百年記念塔」。研究室のデスクに座る度、目の前の窓からその姿を眺めた。表面を焦茶の鉄板に覆われた細いメトロノームのようなその塔は、先端の一部が空に引っ張られるように伸びていた。青い空と緑の木々に、あるいは雪原によく映えるその姿は、雨の日には先端がぼやけ、雪の日には全体がぼやけ、吹雪の時にはまったく見えなくなった。

それは見るからに何かを記念した塔であるが、それが何を記念して建てられたものか、ほとんどの人は知らないし、興味もないようだった。塔に登れた時はまだ、それを目当てに来る人もいたのだろうが、老朽化で閉鎖してからは、私のように近場にいるものが散歩のついでに(ポケモンGOのジムであったために)、訪れるくらいだった。

記念塔は昭和43年(1968)の北海道開道百年事業の一環で建設された。塔のデザインは全国の公募による審査で井口健のものが採用された。デザインコンペの資料が、やはりこの事業で建設された「北海道開拓記念館」にのこっていて、次点が黒川紀章であったことを知った。

塔から歩いて5分ほどのところに建てられた「記念館」は、佐藤武夫の建築で、建築に詳しい人には知られた建物である。煉瓦造りの直線による構成は、「開道百年」というテーマに合わせたもので、建物内部には馬蹄や車輪など、「開拓」にちなんだ意匠が織り込まれる。北海道功労賞の授賞式に使われる荘厳な「記念ホール」に、博物館機能を付随することとなり、道立の総合博物館として昭和46年(1971)に開館した。この「記念館」から、毎日のようにわたしは塔を眺めていた。

平成25年(2013)に、「記念館」は「北海道博物館」へと名前を変え、平成30年(2018)に、「記念塔」の解体が決定した。なぜ名前を変えなければ、解体されねばならないのか。

二つの「記念碑」は、建設当初に反対運動が起こる程度には、嫌われていた。それは、「開拓」、すなわち先住民の土地への「侵略」を、「記念」することへの嫌悪である。「記念」という言葉自体には肯定の意味も否定の意味も含まれない。しかし、「記念」という言葉と施設の造形は、否応無くそ「顕彰」の意を発するようだ。

開拓を記念しようとする立場と、記念を許さない立場の態度が、そこにはある。開拓の功労者を同胞だと感覚する開拓民側の立場と、開拓者を侵略者と敵視する先住民族アイヌ民族側の立場。

2010年代の改名と解体の背景はしかし、こうした安易な二項対立図式にはとどまらないように思われる。先に対立すると見た両者は、建設への賛成反対という態度は違えども、ともに「開拓」の「痛み」を共有していた。争点はその「痛み」への対処である。反対者のなかには、「記念」碑を建てることによる「痛み」の忘却を危惧したものもあっただろう。

 悪い予感は当たる。塔を倒したのは、建設当初の反対者達ではない。賛成/反対の両者が共有する「開拓」の「痛み」を、まるで外国のできごとかのように感覚し、「開拓」という古臭い醜悪な歴史を忘却した、牧歌的な北海道を愛する人、それが北海道らしいのだと、なんとなく、しかし疑いなく信じている人、すなわち今日の大多数の北海道の人々である。「痛み」なきそうした北海道人たちを、本稿では「ドウミン」と呼ぶ。もちろんわたしは、典型的な「ドウミン」である。

塔を倒したのは、建設当初の反対者達ではないと先に述べた。しかし、ややこしいことに、塔の倒壊は、建設に反対した者たち、開拓を記念することを許さない、アイヌ民族側の勝利であるかのような誤解がある。それが、もっとも憎むべき開拓を忘却したドウミンによるものであるにもかかわらず、つまりドウミンは、開拓以前の古きよき北海道、アイヌ民族たちが、支配を受けるまえに生きていた自由な北海道を楯にしているの。

近年のアイヌ民族文化キャンペーンに違和感があるのはこのためだ。「自然と共生するアイヌ」、「自然豊かな北海道」というピースフルでナチュラルな、今日好感度の高い北海道イメージこそを愛するドウミンにとって、「開拓」—−アイヌ民族の土地と文化の収奪、士族/民間移住者のみならず囚人労働者、タコ部屋労働者の犠牲、炭鉱労働者の犠牲によって成し遂げられた北海道の形成ーは、邪魔なのだ。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、その痛烈な批判と読める。村上は、羊という、まさしく牧歌的なモチーフを入り口に、開拓の影と虚しさを容赦なく暴き出す。矛盾にまみれた開拓と緬羊産業の導入と失敗を織り込んだ登場人物の挙動や土地の描写が浮かび上がらせるのは、そうした、輝きを失った、鬱々とした、70年代終わりの北海道であった。これは、同時期にテレビ放映され、北海道の観光産業の発展に大きく寄与した『北の国から』が映し出した、「自然豊かな」北海道のイメージへの反証ではなかったか。(『羊をめぐる冒険』『北の国から』の中身を詳細に書く。)

「開拓」を、どちらかというと肯定的に捉えて結晶化させた「北海道百年記念塔」は、それらに土地と文化を収奪されたアイヌ民族の文化の再評価によってなされたのでは、決してない。ピースフルでナチュラルな観光地である北海道、すなわち、カネを生む経済資源としてカチがある、ドウミンが掲げる北海道イメージに打ち負かされる仕方で、塔は倒れる。

2020年、国立のアイヌ博物館が、白老にできる。アイヌ民族の文化はより広く普及するだろう。そのことは自体はよい。しかしそれを実現したのは、アイヌ民族の文化を称揚するという「信念」や「道徳」や「倫理」では決してない。それがないわけではないが、それだけではない。「自然豊か」なアイヌ民族文化を称揚する、という仮面をかぶった「損得勘定」社会こそが、大きな要因なのである。

広告産業という名の新しい開発者たちは実に手際良くその大地を切り開いているようだった。

村上春樹『羊をめぐる冒険』1982

ここでわたしがそうした資本主義や、政策の批判を行いたいわけではない。そうした政策を生み出してしまう、「隠蔽」のための「仮面」をこそ「内実」だと信じ込んでしまう、ドウミンの心性をこそ、批評したいのだ。

『羊をめぐる冒険』に登場する、羊の着ぐるみを「羊男」は、そうした心性を絶妙に表現している。戦争が怖いからずっと隠れていたという彼は、戦争の加害者でありながら被害者面をしている、戦後日本社会の比喩である。

しかし、彼のその、つぎはぎだらけのぼろぼろの着ぐるみは、それを見る者はもちろん、着ぐるみをかぶる本人にとっても、明らかな着ぐるみ、「つくりもの」であり、「まがいもの」である。羊男は、自分が着ぐるみを着ていることを自覚しつつ、その「弱さ」をなかば開き直るように認めつつ、後ろめたさを感じてもいる。そのうえで、それでも脱げない着ぐるみに固執するのだ。

ドウミンは違う。ドウミンの着ぐるみは、薄い透明な皮膜のように、それを着ているものも見ているものも、それがあることに着がついていない。無自覚のままそれを見にまとい、そのことをまったく忘却してしまっているのだ。数少ない繊細な人々はしかし、その薄い着ぐるみに気がつくだろう。村上春樹はその一人だ。

「弱さ」を自覚しない、微塵の後ろめたさの羊の群。着ぐるみをかぶったことに気がつかないマスコットが群れる北海道は、不気味なテーマパークである。

しかし、テーマパークは楽しく、羊の肉はうまい。本稿は、このテーマパークの案内パンフレットである。パークの魅惑と、羊肉の美味のヒミツを、お伝えする。なぜそんなことをするのか。わたしはあなたなに、北海道を愛していると言いづらくさせたいのである。

鬼門と繁花/オソレとエロ

北海道は巨大なテーマパークだ、といってしまうと、なんとも陳腐であるが、確かにこの地は、江戸時代から、テーマパークたる要素を備えていた。

より細かくいえば、それは江戸時代の悪所に似ている。悪所−—江戸の遊興空間、遊郭や盛り場、劇場街を、こう呼ぶ。陣内秀信によれば、歌舞伎や廓の繁栄の歴史は、反面、都市中心部からの追い立ての歴史であった。

広末保によれば、悪所は町人の日常の暮らしとは全く異質な非日常な場でありながら、都市の辺界に日常的に位置するっものであった。江戸の町人は、都市の辺界に、階層秩序的論理や価値観を超越する、日常的意識から解放された広場を獲得したのであった。

しかも広末によれば、歌舞伎の芝居者は、日常的此岸の辺界を浮遊する死霊や怨霊の世界を演ずるものであり、遊女は根源的には巫女性と結合する存在であった。これを踏まえて陣内は、悪所が聖地と結びつき、「無縁」「無主」の原理が支配する「アジール」であったという。そうした「アジール」は、悪所とともに、都市の周縁部に集められた、寺社やその門前町にも見出されると、陣内はいう。

注目すべきは、そうした「アジール」が、江戸城を中心とする江戸の市街の東北、すなわち鬼門に位置することである。

 花の山 鬼の門とハ おもわれず 

『柳多留』十一篇

十八世紀に東叡山を詠んだこの川柳は、庶民に親しまれた桜の名所が「鬼門」に位置するとの認知が、広く定着していたことを伝える。東叡山の名は、徳川家康を東照大権現という「神」に祀り上げた、大僧正天海(?―一六四三)によってつけられた。桓武天皇が平安城に都を定めたとき、皇城の東北にあたる比叡山を鬼門鎮護の地とし、同地に延暦寺を建てたという伝承に倣い、江戸城の東北/鬼門にあたる忍岡、今日の上野の地を東叡山と名づけ、寛永寺を築いたという。

「鬼門」という「迷信」を、半ば疑い、半ば信じる。怪訝に思いつつもどこか惹かれる。そうした人々の態度は、今日も江戸時代も似たようなものだったようだ。新井白石は懐疑的な立場で、この「鬼門」を、さまざまな文献を引いて考証し、『鬼門説』を著した。

そのなかで白石は、二代将軍徳川秀忠による、鬼門の見解について記している。御殿の造営にあたりある者が、鬼門忌の習いに従って、東北の隅を欠くべきであると進言した。当時は鬼門守護のために、内裏(京都御所)をはじめとする当時の敷地や建物は、北東の隅に角を作らないように、「缺(か)け」(凹み)を設けた。それに対して秀忠は、「天下はなを一家のごとし。我家の鬼門は蝦夷の地にやあるべき。其外の地、禁忌にかゝハるに及ぶべからず」、すなわち、自らが治める天下は、いよいよ一家のごとく統治されており、この天下という家の鬼門は、「蝦夷の地」の他にはないと答えたという。

蝦夷地と鬼門を結びつける事例は枚挙にいとまがない。その代表者である義経のことを述べておこう。

 北海道の民間説話を調べた阿部敏夫によれば、北海道には110以上の場所で源義経(1159-1189)にまつわる伝説が存在する。義経山や義経岩、義経神社に加え、北海道最初の機関車は「義経号」と名付けられた。源義経といえば、平安末期、機知に富んだ戦術で平氏を追討しながらも、兄頼朝との不和から都を追放され、逃亡した先の奥州平泉で自害し、31歳でこの世を去った人物である。その悲劇的な生涯は人々の同情を集め、彼を英雄視する数多くの伝説を生んだ。なかでも「義経蝦夷渡伝説」―義経は平泉で死なずに蝦夷地に渡り、その地で大王と仰がれ、神としてまつられた―という物語は、義経の死にまつわる伝説のうち、最も流布したものである。(義経の蝦夷征伐は、蝦夷地の支配/開発とともに、そして義経チンギスハン伝説は、満州の支配/開発とともに世に流布したといい、これらの伝説は日本の帝国主義と無縁でないという。)

 義経はまた、御伽草紙『御曹子島渡』では、鬼退治の英雄であり、その所縁の鞍馬寺は北方を司る毘沙門天を本尊とする異界の入口とみなされた。義経の蝦夷征伐は、北方/異界の鬼退治、すなわち鬼門守護と結びつく。

 将軍秀忠によれば、江戸時代唯一の鬼門である「蝦夷の地」、その東北隅にある蝦夷ヶ島は、同時に、遊興の地でもあった。

テーマパークのゲートにあたる、蝦夷ヶ島の入口、現在の道南渡島半島に位置する三つの港、松前・江差・箱館から成る松前三湊は、「繁花之場所」として、江戸時代の人々の注目を集めていたのである。

三浦泰之によれば、当時の松前三湊の旅行案内書『千島講宿帳』(1850-51頃)は、山ノ上と呼ばれる江差の繁華街を、茶屋や遊女屋、芝居小屋が立ち並び、年中芝居が行われる「古今無類の繁花」と紹介する。

さらに三浦は、出羽国酒田から親に黙って箱館に「他所奉公」に出かけた、鉄代(20歳)を紹介する。山形の二十歳の女が、親に黙ってすすきののキャバクラでバイトをしていた、というようなことだ。鉄代は親に連れ戻され、親の同意なく働いたという罪で取り調べを受けた。その取り調べ記録によれば、鉄代はかねがね、「松前」は「繁花之場所」で「面白」い「御国」であることを聞いていたので、ぜひ行ってみたいと思った、のだそうだ。

鬼門と繁花、すなわち、オソレとエロが同居する蝦夷ヶ島の伝統は、例えば、網走番外地的なものと、ススキノ的なものとの同居に、今日も引き継がれているのではないか。

鉄代をはじめ、江戸時代の人々は蝦夷ヶ島に渡る手段は、船しかない。今日北海道に行くのに船を使うことは稀である。しかし、飛行機にしても、電車にしても、空を飛び、あるいは海底に潜るという、非日常の運動を伴わなければ、そこへ行くことはできないという点で、今もなお蝦夷ヶ島/北海道は、地続きでない異界である。

ところで、先に鬼門守護の習いに敷地の、北東隅を「缺(か)く」(凹ませる)習いがあるきを述べた。この俗説がなければ、蝦夷ヶ島/北海道は日本になっていなかったかもしれない。このテーマパークの外形は、ちょうど北東部を欠いた、菱形なのである。そのかたちは、47都道府県のなかで、もっとも表象され消費される輪郭線であるが、それは江戸時代から続く安心のかたちだったのである。

日本神話と西洋開花/アイヌのカラダ

 日本神話は、幕末から明治時代にかけて、急に描かれるようになった。神々たちは、身体をもたなかった。

 アイヌを描いた絵と、幕末から明治の日本神話の神々の絵、アイヌと神の姿は似ている。

 アイヌの肉体が、神々の肉体に転用された。(明治天皇の肖像を描く際にイタリア人画家が自身の身体をモデルにしたという例がある)。

 江戸時代の蝦夷地調査は、アイヌと古代日本の風俗の共通性を強調する。

 他方で、幕末から明治に日本を訪れたヨーロッパ人は、アイヌ民族をヨーロッパ人の祖先とする説を踏まえて、アイヌ民族に高い関心を寄せ、やはりヨーロッパとの共通性を指摘してきた。

 つまり、アイヌは、その肉体によって、古代日本、とりわけ天皇に続く神々と、ヨーロッパとを媒介した。

北海道の価値は、そのカタチとカラダにこそ、ある。

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