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平成の「かわいい」処方箋

「のっぺり」という病

 

平成の批評とは、迫りくる「のっぺり」へのリアクション、あるいは、そのリアクションへのリアクションであった。

 

それは花粉症に似ている。

ある者はその原因たる花粉の襲来を予期して注意喚起をし、またある者はその被害を最小限にとどめるべく予防法を指南し、またある者は処方箋となる。

天気予報が雨だからといって、雨をなくそうという人はいない。

しかし、花粉注意報を見て憤り、それを放つスギを根絶しようという人は、たまにいる。

根絶可能性があるように感じさせるその程度も、その嫌われ具合も、「のっぺり」と花粉は似ている。

 

 

花粉症の原因は主にスギ。

「のっぺり」の原因は主にグローバリズムである。

 

例えば東浩紀によれば、20世紀の哲学者達は、次のように「のっぺり」に応じていた。

 

シュミットもコジェーヴもアーレントも、十九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。(中略)彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。

『ゲンロン0 観光客の哲学』2017

 

「のっぺり」のなにがいけないのか。

例えば「のっぺり」は分裂を生む。

 

現実にはこの四半世紀、グローバリズムが高まるとともに、ナショナリズムもまたその反動として力を強めている。そしていまや両者の衝突こそが政治問題となっている。つまりは、世界はいま、一方でますますつながり境界を消しつつあるのに、他方ではますます離れ境界を再構築しようとしているように見える。ぼくたちが生きているのは、カントが夢見た国家連合の時代(ナショナリズム)でもなければ、SF作家やIT企業家が夢見る世界国家の時代(グローバリズムの時代)でもなく、そのふたつの理想の分裂で特徴づけられる時代である。

『ゲンロン0 観光客の哲学』2017

 

例えば9.11テロが、その両者の衝突の極とされる。

 

「のっぺり」はまた、宮台真司のいう「終わりなき日常」に通じる。

それは、「大きな物語」が凋落した後の空隙を指す語である。

「終わりなき日常」を「ノリ」でやり過ごすことができない人たちが、「キツさに耐えかねて」その空隙を虚構の物語によって埋めようとした試みが、例えば95年のオウムによる「地下鉄サリン事件」であったという。

そして宮台は、そのキツさに耐える術を、当時の「まったり」と生きる女子高生に見出したのだが、彼女たちもまたキツさに耐えかねてメンヘラ化したことがのちに発覚する。

 

「のっぺり」の生きづらさはまた、その不寛容にも因る。

喫煙者を排除する「禁煙ファシズム」しかり、LGBT問題しかり、「多様性を認めよう」と喧伝しながらも、「異人」に冷たい社会。

「多様性」が叫ばれ続けるのは、それがまったく浸透していないことの反映だ。

多数が支持する「規範」からの逸脱、協調生を欠く「非常識」は断罪される。

昭和の猥雑さはそうした差異を覆い隠して守り、あるいはその緩さで差異を包括し、いい意味で見て見ぬ振りをする面が、少なからずあった。

しかし今日、暗がりで性器結合に興じることができる雑居ビルは一掃され、ガラス張りのクリーンなビルが立ち並ぶ見通しのよい街が、判で押したように、そこかしこにつくられていく。

宮台真司いわく、「微熱の街」は冷えた。

 

「のっぺり」とした平成で、昭和的な凹凸のある手触り−突起や凹凸や襞−は嫌われる。

出る杭は叩かれる。道路の凹凸はローラーで舗装される。皮の襞はなめされる。

平滑な、「おしなべて」の世界。

全国各地で一様に、仕切りのない光に溢れたオフィスで、テンプレートの予定調和の談笑が繰り広げられる。

 

そんな平成日本は見事なまでに、グローバリズムに波にノリ、カネだけがものをいう社会に成り下がり、今日では成員の身体までもが「のっぺり」していると、千葉雅也は言う。

 

生活から、歴史的・政治的な意味が蒸発していった。ただたんに経済一本やりになる。平成とは、冷戦の後であり、ただたんに儲けを競うだけになったわけです。カネという抽象性にすべてが「平ら」に「成った」のが「平成」であり、経済的にスーパーフラットに成ったということです。(中略)それが、かつての国体としての身体を失うことなのであり、その新たな状況においては、「別の身体性」とても言うべきものが問題にある。(中略)それは経済の身体です。資本です。資本という身体なのです。

「平成の身体」『文学界』2019年3月号

 

千葉が言う昭和の「重い」身体を引きずる人たちの一部は、平成の「軽い」身体に、少なからず違和感を抱えていたはずである。

千葉をはじめ、平成の批評家たちは、その違和感を言葉にしてきた。

花粉症に「花粉症」という病名がつけられてその認知が得られたように、「のっぺり」という病もまた、平成の批評家たちに言葉を与えられ、「のっぺり」の生きづらさに喘ぐ人たちに、診断書を与えてきた。

 

平成の批評とは、第一に、「のっぺり」という病への命名作業であった。

 

 

「かわいい」という処方箋

 

病を見出した批評家達は、それぞれ処方箋を発行した。

薬の名はそれぞれ違う。

ここでは、その特効薬として、平成のはじめに開発され処方された「かわいい」をとりあげる。

この語が平成の批評史を考えるうえではずせないものであることは、間違いない。

「かわいい」は、平成のはじまりに大塚英志により「発見」され、続いて宮台真司により「希望」を見出される。

その後の「かわいい」は、例えば両者の延長線上に位置する東浩紀においては影をひそめるように見える。

しかし、この「かわいい」という言葉は、東の「観光客の哲学」のなかで命脈を保っている。それどころか、そこに居所を構えたといってよいのではないか。

大塚に産み落とされ、宮台に育てられた「かわいい」は、東に嫁ぎ、その名(姓)を「観光」へと変えたのではなかったか。

 

 

『ゲンロン』の共同討議シリーズ「現代日本の批評」には、この「かわいい」をめぐり、論者同士が「噛み合ってない」ように見える部分がある。

 

『ゲンロン2』(2016年)の小特集「現代日本の批評Ⅱ」では、「平成批評の諸問題1989-2001」と題し、平成の前半の批評を取り上げ共同討議がおこなわれた。基調報告をなした市川真人は、平成批評の歴史を『Mの世代』(1989年)、すなわち、大塚英志と中森明夫の対話を軸に構成した、刊行年と同年に起きた宮崎勤による四件の幼女誘拐殺人事件をめぐる論考集に置く。大塚は、マスコミが映し出す宮崎の「ロリコンマンガとホラービデオの詰まった部屋」を、「かわいいもの」を自分の部屋に並べる「女の子の部屋」と同質のものと捉えた。そこでは、「かわいいもの」を「もっぱら消費する少女」と、大きな物語を共有するのではなく、ビックリマンシールがそうであるように、それぞれが自分の好きな物語を好き勝手に消費する行為とが結びつく(市川によればこれがのちの東がいうデータベース消費へとつながる)。89年に、大塚的な“少女的なもの”としての消費や「かわいい」という価値観が、「批評」の問題として刻まれ、以降の批評に共有されてゆく市川は総括する。

ここからは、大塚による「のっぺり」≒「終わりなき日常」の処方箋が、それぞれの小さな物語≒消費≒少女≒かわいい、であったように読み取れる。

しかし、共同討議では、そうではない。

市川の基調報告を踏まえた共同討議(東浩紀、市川真人、福嶋亮太、大澤聡)で、「かわいい」は二度、議論の中心となる

一度目には、大塚にとっての「かわいい」の意義が、もっぱら「平等幻想」の道具であったことが確認される。

福嶋:大塚さんは「乙女ちっくの時代」のマンガ家を介して「かわいい」という美意識の誕生について語ったわけだけど、それは彼の戦後民主主義論とも関わっているわけでしょう。九〇年代だとすでに、平等幻想も壊れつつあり、戦後民主主義に対してもさまざまな批判が出てきていた。しかし、「かわいい」を持ってくれば、ふたたび階級差が乗り越えられるのではないか。「かわいい」はそういう幻想を作りだした言葉だと思うんですね。

東:それはゼロ年代のアイドル論についてはあてはまると思うけど、大塚さんはもうすこし複雑じゃないかな。

『ゲンロン2』2016

 

つまり、先に確認した「かわいい」=「のっぺり」≒「終わりなき日常」の処方箋とは逆に、「かわいい」は、「のっぺり」≒「終わりなき日常」の促進剤であることが、ここで確認されている。ただし、東だけがこの理解にノレていないように見えることに留意したい。

二度目の「かわいい」議論では、そうした「かわいい」の両義性、あるいは定義の曖昧さが露呈し、議論が混乱する。

東:彼ら(齋藤環、小谷真理)のナウシカ論やエヴァンゲリオン論は、とても政治的に正しい。だからぼくにはいささか物足りない。それは大塚英志の議論と決定的に感触がちがいますね。最初の『Mの世代』の話にもついながるけど、大塚英志はやはりロリコンの「ヤバさ」を知っているんですよ。

市川:どうかな。大塚さんは少女を「かわいい」ものとして称揚するけど、それでは女性は行き場がないでしょう。

東:大塚さんに『「彼女たち」の連合赤軍』(九六年)という本がありますね。彼がそこで言っているのは、連合赤軍事件の暴力性が、じつは「かわいい」の感性と連動していたという解釈です。だから女性の行き場を考えていないわけではない。むしろ、さきほどお加藤典洋の話ではないけれど、彼のほうが屈折した主体を考えていたとも言える。「かわいい」は屈折の別名なんです。(中略)「かわいい」に耽溺するオタクたちを肯定いているわけではない。ただ、齋藤さんや小谷さんの戦闘美少女論は、そのヤバさに直面することを回避しているように見える。オタクというのは、そうそうまっすぐに肯定できない生き方だと思う。

『ゲンロン2』2016

 

第一の「かわいい」議論での東の「ノラなさ」が、ここには響いているように思われる。

東は、「かわいい」を、少なくとも大塚による「かわいい」の解釈を、単なる平等幻想ですませてしまうことに納得していないように見える。

東が挙げた、大塚による連合赤軍事件と「かわいい」の連動は、次のようなものである。

いわゆる連合赤軍事件は71年から72年にかけて、十二人の思想上の同志を「総括」という形で死に至らしめたもので、連合軍事件の女性指導者であった永田洋子もまた、「総括」に加担した一人である。大塚は、「総括」の犠牲となった四人の女性たちが「かわいい女」たちであったことに着目する。犠牲となった女たちは、男たちに「かわい子ちゃん」とみなされ、「かわいい女」としてそれに応えた、男たちの「かわいい」という視線に従順な女たちだったという。しかしただ一人、この視線を男たちに投げ返した女性、金子みちよがいると、大塚は言う。

永田の手記によれば、「総括」のなかで、「森さんをどう思う?」と聞かれた金子は、「目が可愛いと思う」と言う。

金子は女たちを「かわいい女」として抑圧してきた森に対し逆に「かわいい」の語を投げつけるのである。男女間の支配関係の語としてのみ作用していた「かわいい」を最高指導者である森に投げ返した彼女の発言はそれこそ革命的、なものだったとぼくは思う。(中略)

金子の「かわいい」は明らかに、森と金子の間の関係を転倒しているのだ。この新たな「かわいい」の語法は女性たちの口から発せられた瞬間逆に眼前のあらゆる事象をこの「かわいい」の一言で包括してしまうものとして現れる。女性を支配することばとしてあった「かわいい」が、逆に女性たちが彼女をとりまく世界を「かわいい」の一言で支配し直してしまうことばへと変容していったのである。(中略)

実は永田が初めて女性たちを心情的に切り捨てるのは手記を読む限り、この瞬間なのである。彼女は革命思想と「かわいい」の間で逡巡し、最終的には前者の側に立つのだ。(中略)

そこにあったのは、「かわいい」をめぐる闘争だったのである。永田と殺された女性たちを隔てているものは左翼思想の路線の対立などではない。彼女たちの対立を左翼思想のことばでしか語りえない、そのような思考の枠組と、やがて消費社会的感受性へと連なっていくことになる「かわいい」の話に象徴される女たちの感覚である。

大塚英志『彼女たちの連合赤軍』1996

確かに同書で大塚は「かわいい」を、あらゆるものに向けて発せられ、あらゆるものを「等価」のものとする呪語であると説明する。それは宮台が指摘する「かわいい」コミュニケーションの「社会的文脈の無関連化」に似る。90年代の少女たちは「かわいい」をコクーニング(繭籠り)のツールとして使用した。少女たちはあらゆるものを「かわいい」と無害化し、繭に籠もったまま外向的に振舞うことができた。

この「社会的文脈の無関連化」が、連合赤軍事件においては、左翼思想に対立するものとして機能した。大塚と宮台は、「かわいい」のそうした側面に希望を見出したのではなかったか。それは、単なる「平等化に、スーパーフラット化にとどまらない。別のイデオロギーを立ち上げる「暴力」を孕む。

春木有亮の論文「「カワイイは、つくれる」か–現代日本の美のイデオロギー–」もまた、花王社のヘアケア製品「エッセンシャル」と資生堂社のヘアケア製品「ツバキ」の広告映像の比較から、「かわいい」の「したたかさ」をあばきだす。字数が足りないため詳細は割愛するが結論だけ述べると、「かわいい」者は、「自分」と「他者」をおしなべて弱者化することによって、競争原理を排除しつつも、水平方向に位置づく他者からの承認を得ることで逆説的に、「強さ(したたかさ)」を得る。加えて、エッセンシャルの「カワイイ」映像は、初期にはお笑い芸人の「しずちゃん」やおねえタレントの「山咲トオル」を起用しながら、やがてトップモデルの佐々木希がメインに取って代わっていく。すなわち「カワイイ」の水平性は、結局は垂直方向の美のイデオロギーを下敷きにする。イデオロギーの強化を、「カワイイ」というフラットさで、覆い隠しているのだ。

先の東の違和感は、単に「平等幻想」の道具とされたときには失われる、「かわいい」の政治性と暴力性が、議論から抜け落ちていることによるものではないか。

 

ところで、大塚はまた、「かわいい」を次のように説明する。 

〈モノ〉に対する欲望がひとまず充足され、同時にまた、〈モノ〉の機能上の進化をパラダイムとして編成されていた商品供給のシステムが一定の限界値に達し、それ以上の商品を生み出すこともまた困難になったときに新たに出現したのが〈差異化〉の概念である。

モノがその便利さ、使用価値に第一の意義を見出していた時代にあっては記号的価値のみが肥大している〈かわいいもの〉は、モノの秩序の中にあっては異物にすぎない。

大塚英志『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』1995

 

「かわいい」は、一方では、「のっぺり」≒「終わりなき日常」をおしすすめる。しかし、それが「差異」を生む「異物」となったときには、「のっぺり」≒「終わりなき日常」に抵抗する、「のっぺり」していない手触り、凹凸、襞となるのではないか。

さて、東の「観光客の哲学」に、「かわいい」は息づいていると述べた。フラット化した消費社会で、偶然的な「細部」への感情移入(≒誤配)に導かれる観光客。一見すると観光はそれはグローバル化の促進であるが、他方で誤配≒観光客が、それに水を差す。

東のいう誤配を演じなおす「観光客」は、手触りのある「かわいい」とよく似ている。

「観光」という商業的で即物的で世俗的な言葉と同様に、「かわいい」というボキャブラリーの貧困を露呈する言葉もまた、誤解を生みやすい。

東が望むように機能するのは哲学的な特別な「観光客」であり、大塚と宮台が希望を見たように機能するのもまた、特別な(「差異」を生む「異物」となったときの)「かわいい」である。

 

装飾する意志/石

偶然性に導かれる「かわいい」と「観光客」。

千葉雅也もまた、偶然性を「無意味」と重ねて、重視する。

千葉は、穴と石、すなわち〈意味がある無意味〉と〈意味がない無意味〉を、こう述べる。

 二つの無意味は、同じ場所で重なっているのかもしれない。

 同じ場所が、同時に穴であり、蓋でもある。意味を発生させる何かが、意味を遮断する何かにすり替わる。意味を遮断する何かが、意味を発生させる何かにすり替わる。我々の日常ではそうしたすり替わりが起きているのかもしれない……おそらくは偶然的に。

 〈意味がない無意味〉とは身体である。(中略)〈意味がある無意味〉から〈意味がない無意味〉へ−それは思考から身体への転換だ。

千葉の言う身体(からだ、物体、物質、形態、メロディー、反復されるリズム)は、ソシュールの言う「シニフィアン」に似ている。

千葉によれば、『動きすぎてはいけない』における千葉のテーマは、「接続過剰から非意味的切断へ」であり、接続過剰とは、穴=〈意味のある無意味〉を原因とする無限の多義性、非意味的切断の「非意味」が、石=〈意味のない無意味〉である。つまり、思考-接続過剰-穴-(シニフィエ)から身体-非意味的切断-石-(シニフィアン)へ。

穴を見ても、そこから視線を投げ返されることはない、しかし、石を見れば、石から視線が投げ返される。石とは、鏡像関係を結ぶことができるもの。見るものであり、見られるものである。つまり、非意味的切断へ石の無秩序な散らばりのただなかに身を投げ出すと言うことは、能動と受動が曖昧な状態、中動態的な状態のなかに、身を預ける、ということではないか。

石の無秩序な散らばり、すなわち多視座である世界は、宮台真司のいう「森」、「微熱の街」すなわち、「視線の邂逅=中動的合体」が生じる時空、視線の邂逅による中動的合体で個体が消えて解放する時空を喚起する。

石へ向かうこと、それは、失われた〈森〉への郷愁=ノスタルジーの反映ではなかったか。

さてこの思考-接続過剰-穴-(シニフィエ)から身体-非意味的切断-石-(シニフィアン)へ、という二項対立に、さらに付け加えたいのが、山崎正和のいう、デザインと装飾である。

山崎は二者を、普遍性-デザイン-世界支配を目指す造形意思、個別性-装飾-個物の氾濫、の対立と見る。先行してあったであろう装飾の意思は、工業化を経て「もの」離れのデザインへと向かう。

「のっぺり」とした平成はまさに、デザインの時代であった。対して、装飾的なあり方とは、次のような事態である。

 日常生活の意味関連のなかでは、道具は気にならない存在であることが理想であり、もし個物としての印象が強すぎれば、それは邪魔な異物として意識され得る。道具は生活世界という機械のなかの部品であり、すべて他の道具のための道具として、さらにそのまた道具として階層秩序のなかに組み込まれる。また視覚的にも人は生活世界の全体に気を配らなければならず、そのためには一点への凝視を要求するような、個性強烈な個物の存在を鬱陶しいものに感じがちになる。 

山崎正和『装飾とデザイン』2007

 「差異」を生む「異物」である「かわいい」、「細部」への感情移入に導かれる観光客が「装飾」という造形意志に通じる。

平成の「のっぺり」を更新するのは、かわいいマスクの装飾である。

文字数:7984

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