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1984年の機械嫌い

2029年の近未来に、人工知能「スカイネット」が指揮する機械軍により人類が絶滅の危機を迎えていることを『ターミネーター』(1984)が伝えた年、宮崎駿監督は、高度産業文明を崩壊させた最終戦争から1000年後、汚染された大地に「腐海」が拡がり、腐海を守る「蟲」と呼ばれる巨大生物に脅かされる人間を描いた(『風の谷のナウシカ』(1984))。
同じ年、鳥山明は、『週刊少年ジャンプ』で「Dr.スランプ」(1980 – 1984)の連載を終え、ドラゴンボール(1984 – 1995)の連載をスタートさせた。
「Dr.スランプ」は、ペンギン村に住む発明家、則巻千兵衛が作った女の子タイプの人間型ロボット(アンドロイド)、則巻アラレのハチャメチャな日常を描いたギャグ漫画だ。
完全な機械であるアラレちゃんに対し、「ドラゴンボール」の主人公は、険しい山奥で一人生活する猿の尻尾の生えた少年、孫悟空である。彼はのちに宇宙の別の星から来た宇宙人(サイヤ人)であることがわかるのだが、明代の長編小説『西遊記』の怪猿、孫悟空をモデルに、如意棒を駆使しキン斗雲に乗り、すばしっこく動き回るその様は、その尻尾の示す猿を思わせ、アラレちゃんと対照をなす。
ドラゴンボールは、そうした、「猿」に象徴される、原始的なものと、高度な機械文明がないまぜになった世界を描く。物語は、孫悟空のもとに、七つ集めると願いが叶う「ドラゴンボール」を集める少女ブルマが訪れるところからはじまる。ブルマはドラゴンボールを探知する「ドラゴンレーダー」や、スイッチを押して投げれば家や乗り物などといった大型のものを収納することが出来る「ホイポイカプセル」などの高度なメカを駆使する。また、後に登場する宇宙の敵達は、スカウターと呼ばれる片耳に取り付けて、付属の小型スクリーンに相手の戦闘力が表示されるメカを使う。
スカウターが、ある者の戦闘力を数値化して表示するのに対し、悟空は、「気」の強さを感じることで、相手の強さを推し量る。悟空をはじめ本作の戦士達はこの「気」をコントロールして飛行する舞空術を習得している。そして悟空の最大の攻撃は、体内の気を体外にエネルギー化して発車する技「かめはめ派」、あるいは、自分以外の他人や植物、動物、大気などの気をも集めた「元気玉」である。悟空はこの「気」を用いて、高度な機械文明によって力を手にした敵を倒していく。
妖術や仙術に通じるこの「気」こそが、先に言った原始的なものであり、機械に対立する。ドラゴンボールでは、「気」と「機械」とが対立し、「気」が勝利する。
鳥山明がアラレちゃんから悟空へ、「機械」から「気」へ転換した1984年、麻原彰晃(本名・松本智津夫)は、後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始める。空中浮揚をはじめとする彼らの修行は、ドラゴンボールの「気」という、「仙」的な想像力と重なり合う。
奇しくもオウムは、『風の谷のナウシカ』で腐海を守る「蟲」の代表、「王蟲」と同じ音である。
「オウムの会」を設立した麻原は、87年に会を「オウム真理教」と改称し、88年頃から信者殺害・遺体焼却を皮切りに、坂本堤弁護士一家拉致・殺害、松本サリン、地下鉄サリンなど一連のテロ事件を巻き起こし、95年に逮捕され、後に死刑が確定。1984年から35年を待たずして、2018年7月、元幹部六人とともに、死刑は執行された。

オウム真理教が、機械文明への抵抗であったかはわからない。仮にそうであったとしても、その試みは失敗した。1984年から35年後の今日、オウムはなくなり、代わりに「筋トレ」や「ボディメイク」といった、身体をコントロールしようとする振る舞いがブームという。「身体」のコントロールを通して、内側の「気」をも統制しようとする思想が、そこにはある。

ブームといえば、こだわりの豆でおいしいエスプレッソを提供する、いわゆる「サードウェーブコーヒー」ブームも、まだ続いているか、もしくは定着したように見える。
「サードウェーブ」とはすなわち、第二次世界大戦後から1970年代ごろまでの大量生産・大量消費型のコーヒー文化を第一次、その揺り戻しから、より高品質なコーヒーを提供しようとスターバックスをはじめとするという第二次に続く、第三次の波をいう。
その特徴の第一は、品質へのこだわりで、コーヒー農家と直接取引をしたり、豆の産地を重視する。従来のブレンドコーヒーとは違い、一種類の豆を使用する「シングルオリジン」を用いて、品種本来の味を楽しむことを重視し、その特性を引き出すために浅煎りにすることが多い。
つまり、サードウェーブコーヒーとは、大量生産大量消費へのアンチテーゼである。その担い手たちはしばしば、一杯一杯を丁寧にいれる、「丁寧な暮らし」を標榜し、レコードをかけていたりする。サードウェーブコーヒーは、産地や食材を重視する「スローライフ」や、「アナログ盤レコード」ブームとも、無縁でない。
そうしたブームの担い手たちは、大雑把に言えば、「全自動」すなわち完全なる「機械化」への抵抗を見せているように思う。仮にそれが機械への抵抗だとして、そこで想定している機械とはいったいどういうものか。

『風の谷のナウシカ』で、機械文明を象徴したのは、軍事帝国トルメキア国の王女クシャナで、彼女は失った手足を金属による義手義足で覆い、身体も心も他者と触れ合うことはない。対して、王蟲と共振したナウシカは、その肌を晒し、王蟲の触手に包まれ、その傷を治癒される。その肌、粘膜の触れ合いこそが、蟲と人類の共生の可能性を象徴する。このときナウシカの身体は、王蟲と一体化する。
悟空もまた、その元気玉は、自身の身体のみならず、他の人、動物から植物、微生物にいたるまでの気を集めてつくりあげる。このとき悟空の体は、地球と一体化する。
サードウェーブコーヒーやスローフードは、これにやや似ている。例えばサードウェーブコーヒーの、コーヒー豆の味を引き出すという振る舞いの裏には、コーヒー豆をつくりだす水と土、産地の風土や作り手と一体化するという思想がある。コーヒーショップに集う人々もまた、それを分け与えられることで、そこにつながり、一体化していく。自分という個体が、コーヒーを介して膨張していく。

 

宮台真司は言う。「僕が、「言葉の自動機械」でも「法の奴隷」でもない人間や、人工知能(AI)から遠く離れた人間をイメージする場合、性愛に限らず、1人ユニットになったり2人ユニットになったり3人ユニットになったり…と膨縮する可能性を真っ先に想起します。能動受動ユニットが、視線の邂逅を通じて中動的合体を遂げ、より大きな能動受動ユニットを構成するという営みです。」(宮台真司の『A GHOST STORY』評(中編):<森>の思考が思い描く<世界>を『トロピカル・マラディ』に見るhttps://realsound.jp/movie/2019/01/post-306835_3.html)

「考える」とは、自分という「個体」を超えて、他者の「痛み」や「喜び」を感じられることではないか。
つまり、機械が、己の「職分」や「個体」を超えて、他者と通じ合うとき、はじめて機械は、「考える」ことができるようになるのではないか。しかし、それはもはや「機械」と呼ぶべきものとは思われないものになっているだろう。
逆からいえば、人間が己の「職分」や「個体」に閉じこもり、他者と通じ合うことがなければ、それは「機械」と一緒である。

「機械」が考えるか、よりも、「人間」が考えるかを、心配しなければならない。

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