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流れるヒロインー『寝ても冷めも』の液体ー

『ハッピーアワー』は、重心を失った人物たちが、揺れ、それまでとは違う重心を取り戻す、その変化を、克明に、繊細に、映し出す、「揺れ」の映画である。物語内に差し挟まれる二つの震災、阪神と東日本の大震災は、「揺れ」、すなわち「足場の不安定性」という本作の主題と直結すると、三浦哲哉は言う(『ハッピーアワー論』)。

『寝ても冷めても』でも、同様のことが起こっている。

「揺れ」の映画である『ハッピーアワー』に対して、本先は、「流れ」の映画と言って良い。重心によって貫かれていた『ハッピーアワー』に対し、本作は、液体の換喩によって貫かれている。東日本大震災は、本作では、津波、すなわち、「流れの不安定性」という本作の主題と直結する。

どういうことか。

 

1、『寝ても覚めても』のあらすじ

『寝ても覚めても』は、二人の同じ顔の男、麦(ばく)と亮平の間で揺れる朝子の物語である。まずは「流れ」にこだわらず、そのあらすじを確認したい。

大阪。
泉谷朝子は、鳥居麦と運命的な出会いを果たす。家のない、携帯もなにも持たない霞のような麦(ばく)。友人の春代に、「不幸になる」と忠告されながらも、朝子は麦に夢中。幸福な日々を過ごすなか、ある時突然、麦は、戻らなくなる。

2年後、東京。
丸子亮平が勤務先の会議室の片付けをしていたところに、隣のカフェの店員が、コーヒーポットを回収に訪れる。朝子である。目を見開き、亮平を凝視する朝子。亮平の顔は、麦と瓜二つであった。ぎこちない態度をとる朝子に惹かれていく亮平。対して、麦が頭をかすめ、亮平を避ける朝子であったが、亮平と朝子を通して恋人同士となった亮平の同僚串橋と朝子の友人マヤとともに四人で交流するうち、次第に亮平に惹かれていく。亮平に思いを告げられ唇を重ねた二人であったが、罪悪感からか朝子は亮平の前から姿を消す。朝子に会えることを期待してマヤの出演する舞台を訪れた亮平は、朝子が来ないと告げられた矢先、震災に襲われる。交通機関が麻痺し、歩いて帰路につくその途上、群衆の中で、朝子が亮平を待ち受けていた。

5年後、二人は共に暮らし、満たされた日々を過ごしていた。ある日、二人は出掛けた先で、偶然春代と会う。亮平の顔を見て訝しがる春代に対し、亮平が好きだと言う朝子。それを聞き安心したという春代は、同時に麦が現在芸能界で活躍していることを告げる。春代に促され、ビルの巨大広告に、麦の姿を見る朝子。動揺したものの、亮平に麦のことを告げることを決意した矢先、大阪本社への異動を命じられた亮平が、朝子にプロポーズする。それに対し、麦のことを告白した朝子。半ば察していた亮平は、麦と似ているおかげで朝子と付き合えたと応じ、朝子は亮平を抱きしめる。

引越前日、一人引越作業をしている朝子がインターホンに応えて扉を開けると、麦がいる。迎えに来たという呼びかけに対し、扉を締め、座り込む朝子。そこに亮平と友人たちが戻り、冷静を装う朝子。夜、別れの食事のために、レストランの円卓を囲む一同。そこに、幻影かと思われた麦が再び登場する。朝子は麦の手をとり、亮平を置き去りにして、その場を去る。一夜明けて、北海道を目指す麦の車で東北まで着いたところで、これ以上一緒にはいけないと朝子は言い、一人引き返し、大阪の亮平のもとへと戻る。

 

 

2、あさちゃんと麦 −水と植物−

映画の英題は、Asako 1&2。ここでは、これを、「あさちゃん」と「あさこ」に言い換えたい。

大阪での朝子は、「あさちゃん」。
関西弁で呼ばれるその音は、あさって、に通じ(のちに友人のマヤが、「明後日の方向を向いている朝子」という台詞がある)、春代の、いつもやや諌める調子で言う「あさちゃん」は、朝子を、あさってちゃん、と揶揄しているようにも聞こえる。朝子はそんな、ぼーっとしたところのある、地に足がついていない女に見え、自ずと周りに集まる友人は皆、面倒見のよい世話焼きな人たちだ。「んなわけあるかい」と岡崎に突っ込まれるような嘘みたいな出会いを果たした朝子と麦。麦の父親は穀物の研究者で、妹は米(まい)という。麦という、その名も好きだと言う朝子。

大阪での朝子、すなわち「あさちゃん」は、その姓泉谷に示されるように、活き活きと湧く水である。麦は、その水を吸い上げるものとしてあらわれる。
朝子と麦の、この水と植物の関係が、まさしく映画の植物によって示される場面が、三つある。

一つ目は、大阪での、水を与えるあさちゃんとそれを吸い上げる麦を象徴する場面。
岡崎家に皆が集まり、花火や夕食を楽しんだある晩、麦はパンを買いに行くと言って出て行ったきり、翌日朝になっても戻らない。後の戻らない麦を示唆する出来事である。不安がる朝子に対し、よくあることだと諭す岡崎。堪らず飛び出す朝子をよそ目に、部屋に残された岡崎は、ベランダの鉢植に丁寧に水をかける。その岡崎の視線の先で、帰り着いた麦に、朝子は駆け寄り、抱きしめる。

 

二つ目は、東京に行った朝子が、いないはずの麦に囚われていることをあらわす場面。朝子と亮平が出会ったのちのある日、入館時間を過ぎたという理由でギャラリーへの入場を拒否されている朝子とマヤを見かけた亮平は、機転を利かせてそれを助ける。その後、三人はカフェで、窓際のカウンターに並んでいる。ぎこちない朝子を挟み、努めて明るく振る舞う亮平とマヤ。朝子は立ち上がり、礼を述べて去る。朝子の目の前のコーヒーカップの横には、小さな観葉植物がある。鉢植に入るのではなく、テーブルの上に直接土が盛られているように見える。水を与えたら、こぼれてしまいそうだ。これは、自らの水を吸い上げてくれる麦を失った、朝子をあらわしている。

三つ目は、朝子と亮平が結ばれて五年後、一緒に暮らす様子をはじめて映し出す場面。テーブルに向かい合って座り、朝食をとる二人の背後には、キッチンとカウンターがある。カウンターに置かれた観葉植物は、ちょうど、亮平の顔と頭によって覆われる。長く伸びたその葉先は、亮平の頭越しに四方に飛び出している。見え隠れする植物もまた、朝子にとっての麦の影のあり方をあらわしている。五年を経て、麦の影は亮平に覆われるが、完全に隠れているわけではない。それは確かにそこにあり、見え隠れするものとして、映し出される。

湧き出る泉は、行き先がなければ、溢れるばかりで、息苦しい。麦という行き先を得た泉は、次々に水を湧き上げる。そこには喜びが満ちている。泉は、吸い上げられることによって、流れることができた。生きていると感じることができた。

しかし、麦はいなくなる。そのことがナレーションによって告げられたあとに登場するのが、会議室で片付けをする亮平。そこに朝子が訪れることとなる。亮平との出会いによって、朝子は別の流れに身を置くこととなる。

 

3、朝子と亮平 −コーヒーと日本酒−

あさちゃんと麦が、水と植物の関係であるのに対し、朝子と亮平は、ともに液体である。
コーヒーと日本酒、この換喩に注目したい。

亮平が片付ける会議室のテーブルの上には、白いポットがある。会議のために用意された、隣のビルのカフェ、ウニミラクルのものである。カフェの店員がそれをとりにくるから渡すようにと、別の社員が亮平に告げる。残っていれば、おいしいので飲んだらよい、とも。それを受けて亮平は、ポットに残ったコーヒーを最後の一滴まですべてカップに注ぎ、飲み干す。飲み干したところに、朝子は登場する。

東京の朝子は、もはや湧き出る泉ではなく、ポットに溜まったコーヒーそのものである。麦という幻影をくぐり、底に落ち、溜まった、澱んだ、黒い液体。

対する亮平は、瓶入りの日本酒(清酒の文字が一瞬映される)を販売している。原作の亮平の会社は何をしているかよくわからないIT関連会社で、日本酒は映画化にあたって持ち込まれた要素である。

会議室を訪れた朝子を写した画面は、朝子から見た会議室の亮平(この時点では、麦にそっくりなスーツ姿の男でしかない)に切り替わる。その時、亮平の背後のテーブルの上、画面左端にはコーヒーポットが、右端には日本酒の瓶が三本が、対称の位置に配置される。

コーヒーと日本酒。一方は黒く、他方は透き通る。一方は、抽出液を底に溜め、他方は、米と麹を発酵させたその上澄みを取り出す。一方は外から見えないポットに包まれ、他方は中が見える透明な瓶に入れられる。

朝子は、黒いタートルネックに茶色のエプロン姿で、大阪での白や黄色の明るい衣装から一転する。さらに、異様に濃いアイラインをひいている。首まで肌を覆う服と濃いメイク、あたかもポットの中のコーヒーのごとく、自らを閉ざす朝子が、そこにはいる。

対する亮平は、初対面の、ぎこちない朝子に対しても明るく応じる。閉ざされた朝子とは対照的に、開かれた社交的な人間として、その後も一貫して、描かれる。後に述べるが、透明な日本酒瓶が三本並んで映し出されたように、酒は開き、人々をつなぐ役割を果たす。
さらに亮平は、上澄み液である日本酒のような、人の清らかな面を見ようとする男として映し出される。端的にあらわれるのは、震災後の帰路。電車が止まっていると通行人に呼びかけては無視される作業着姿の男に、亮平は唯一人応え、謝意を伝える。続いて、携帯を握りしめ涙を拭い座り込む人(大事な人が被災したのだろう)を見かけ、気遣って声をかける。困っている人を見過ごせない亮平の描写もまた、原作からの大きな変更である。原作の亮平は、やはり社交的な人物であるが、親切さや気遣いを見せることはなく、朝子の他にも女の影がある様子である。しかし、映画の亮平は、とことんよい人、清い人、として描き出される。そのことが、終盤の朝子の裏切りの残酷さ、悲痛さを高めることともなる。

黒く澱んだコーヒー。清く透き通る日本酒。二者は対照をなすが、ともに同じ液体である。コーヒーを取りに来た朝子に対し、亮平は、そのおいしさを、「水が違う」と言いあらわし、日本酒も水が命です、と付け加える。コーヒーと日本酒、すなわち朝子と亮平が、ともに、清い水から成ることを、亮平は告げる。

さらに亮平は、ポットの底に溜まったコーヒーを飲み干す亮平は、麦に代わって朝子の水を吸い上げる人物でもある。朝子の止まった水は、亮平によって、再び流れを取り戻す。亮平によって開かれていく朝子が、やはりコーヒーと日本酒によって、巧みに表現されている。

 

ポットに入ったコーヒーに続き、コーヒーは、先の三人でのカフェの場面に登場する。三人はともにマグカップに入ったコーヒーを前に話すものの、それぞれがまだ閉ざされている段階である。

そのときのマヤの提言で、朝子とマヤが、亮平とその同僚串橋を夕食に招くこととなる。三浦哲哉をして、「信じがたい」ほど「密度の濃い」8分と言わしめる、きわめて重要な役割を果たす場面がある。串橋がマヤの舞台の映像を見て「中途半端」と批判し、ショックを受けるマヤ、青ざめる亮平をよそ目に、朝子が「一つのことをやり続けている」マヤを尊敬していると反論する。帰ろうとする串橋を、亮平は「今帰ったら一生マヤさんに会えんくなる」と言って引き止め諭す。謝る串橋とそれを許すマヤ。この雰囲気をどうにかするのは、朝子のお好み焼きにかかっている、となり、和やかな雰囲気が形成される。そのお好み焼きにとともに、テーブルには、亮平の会社の日本酒がならぶ。日本酒が、一瞬ばらばらになり、かえってそのことで、強く結びつくこととなかった四人を繋ぐのだった。

 

夕食会の次の場面は、亮平の会社の会議室での、串橋による英語のプレゼンの場面となる。テーブルにつくスーツ姿の外国人たちは、スクリーンを眺めつつ、ウニミラクルのコーヒーポットから各々のカップにコーヒを注いでは、隣人にポットを回している。亮平以外の人間が、ポットのコーヒーを飲むのである。さらに五年後、朝子の働くカフェを訪れる亮平の手元には、ガラスに入ったアイスコーヒーが映される。コーヒーが他者へとつながり、外から見えるものへと変わっていく。

 

また、亮平と朝子は、連れ立って被災地の祭りの手伝いに、東北を訪れる。その夜の宴会では、やはり亮平の会社の酒が酌み交わされる。身近な友人を超えて、酒は、朝子を開き、外の人々へと繋げていく。

朝子は、自分をそのように開く亮平をこそ、好きだと知る。東北から戻り、疲れ切った亮平をマッサージしながら、朝子は「亮平が好き、好きになってしまった」と言う。どうしていいかわからないくらいに、と。

 

澱み溜まり、瑞々しさを失っていた朝子の水は、亮平に飲まれ、すなわち汲み取られ、再び動き出したのであった。

 

4、朝子の夢とあさちゃんの覚醒

亮平によって開かれた朝子は、生を取り戻したように見える。ただし、注意しなければならないことがある。
酒は、開く。しかしそれは同時に、眠りを誘う。反対に、コーヒーは、閉ざす。しかしそれは同時に、覚醒を導く。

亮平の酒によって外へと開かれた朝子の世界、しかしそれは同時に、あるべき真実ではない、夢の世界の営みなのではないか。亮平を捨てた後、麦とともに北を目指す朝子は、麦に言う。「わたしはまるで今、夢を見ているような気がする。違う。今までの方が、全部長い夢だったような気がする。すごく、幸せな夢だった。」

亮平が繰り返し呼ぶその名は、朝子。その呼びかけには、朝来い、朝来いと、目覚めを迫る切実さがこもっている。その声は、一度は朝子に届く。震災後、雑踏で出会い抱き合う二人は、互いの名を呼びあう。続く場面は、東京の夜明け、そして、五年後の一つ屋根の下で暮らす朝子と亮平の朝食の場面へと展開する。

しかし、それは真の目覚めではなかった。朝子はそれらを夢として、捨て去っていった。打ちひしがれる亮平を見て、泣き喚き崩れ去るマヤ。朝子の振る舞いは、「一つのことをやり続けている」マヤを尊敬していると言うその発言もまた、夢として葬ることを意味する。積み上げてきたものに依って立つマヤにとって、それを崩されることが最も辛い。朝子は、亮平と、そしてマヤ達とともに積み上げてきたものを、粉々に破壊しながら、流れ去っていった。

目覚めを促す亮平やマヤの、自分を呼ぶ声。朝子は、それを、聞けば聞くほど、ますます、そこが眠りの中であるという思いを強くしていたのではないか。そこへ突如訪れたのが春代である。その呼び声は、あさちゃんの目覚めの予兆として響いていたのだった。

 

しかし、朝子は朝子として目覚めようと、もがいてもいた。春代の登場と、麦の現況を目の当たりにした朝子は、揺れる自分に罪悪感を感じながらも麦との決別を決心し、亮平に麦との過去を告白するのだった。

 

5、朝子の目覚め

このときの亮平の応答が違っていたら、あの絶望的な事件は、起きなかったのではないか。

大阪で麦と付き合っていたという朝子に対し、およそ察しはついていたという亮平。思わないところがなかったわけではないが、麦と似ているおかげで、朝子と付き合えたと言う。亮平を抱きしめる朝子。
このやりとりは、皿洗いの最中に行われた。水道の水を止め告白する朝子に対し、亮平は、水を出し、皿の泡を洗い流しながら、それに答える。

亮平は、麦という汚れを、洗い流そうとした。しかしそれが簡単に洗い流せるものではなかったことが、後に明らかとなる。

 

突如あらわれた麦の手を取り、タクシーに乗り込む朝子。その間、それを追い、タクシーの窓を叩く亮平を、一度も見ることがなかった。あまりにも潔く、残酷。胸をえぐられるようなシーンである。タクシーの窓枠に枠取られる亮平は、朝子の今ここから、離れた別のどこかへと追いやられたのであった。
底に溜まっていた黒い液体が、亮平によって穏やかな流れを取り戻したところから一転、途端に方向を変え、激流となった。

 

では、どうすればよかったのか。洗い流すのではなく、汚れなければならなかったことが、最後のシーンで、美しく明かされる。

 

亮平を捨て去った朝子の動きを追っていこう。

タクシーから麦の車に乗り換え、北を目指す車中で眠りについた朝子。目覚めると車は、防波堤の傍に停車していた、仙台の南あたりに着いたと麦は言う。海が見たくなって高速を降りたが、全然見えない、波の音も聞こえないという麦は、防波堤を超えて海を見に行こうと朝子を誘う。朝子はその誘いを断り、これ以上一緒にはいけないと、言う。そっかと言って、別れを告げ、走り去る車。

 

このシーンは、先に亮平と朝子がレンタカーで東北に行った帰りのシーンを想起させる。帰り道、やはり車中で眠りについた朝子が目覚めたのは、やはり車が高速を降りたところであった。枠取られていない亮平の顔が、そこにはある。

 

帰路を目指す亮平には、二人の家が見えている。亮平は、周囲をよく見ることができ、その声を聞くことができる人物であった。海が見えない、波の音も聞こえないという麦とは、対照的である。

 

麦には周囲が見えない。麦はまっすぐに、あさちゃんだけを見る。見知らぬ男があさちゃんに近寄った時、それを無言で蹴り飛ばす暴力は、その盲目さによって発動する。あさちゃんは、そんな麦の合わせ鏡のように、やはり麦しか見えていない。あさちゃんと麦、二人は互いをしか見ていない、二人だけの世界にいる。

 

対して、朝子と亮平は、二人以外の周囲の人々を含んだ社会の中にいる。亮平が、そのことを可能にする。

 

防波堤を前に、一緒には行けないと麦に伝える朝子は、そうした麦と亮平の違いを悟ったに違いない。

そして、津波を防ぐ防波堤を前に、みずからの破壊的な逃避行を省みた。見つめる波は穏やかで、単調だった。それを見つめる朝子の、穏やかで、清々しく、確信に満ち、美しいその顔は、朝子に真の目覚めが訪れたことを見るものに伝える。

大阪に戻った朝子は、罵られながらも亮平に謝る。雨の中、傘を放り投げ、濡れながら走り、追い追われる二人。亮平は遂に朝子を家に入れ、二人はともに川を見つめる。「きったない川やで」という亮平、「でも、きれい」という朝子。きったない川側から、画面に並ぶ二人を見つめる観客。二人はともに、ならんで、川を見る。そのことは、朝子と麦が、ともに海を見ることはなかったことと、対照をなす

コーヒーと日本酒が、ここではじめて混じり合ったことを、きったない川は伝える。亮平のグレーのティーシャツは、雨に濡れ、ところどころ黒く変色し、汚れている。朝子は濡れた上着を脱ぎ捨て、白いタンクトップ姿で、清々しい。亮平は、上澄み液だけを求めて、汚れを無理に洗い流そうとするのではなく、朝子の澱みを受け入れ、汚れた。清らかな朝子は、その亮平の犠牲のうえに、ある。朝子はそのことを知っている。汚れた亮平の、かけがえのなさを、それこそが、清らかになった自分よりずっと尊く美しいことを、知っている。汚れた亮平の痛みと犠牲、それを知っている朝子の覚悟が、画面の隅々に行き渡ったところで、映画は終わる。二人がきったない川となり、どこまでも流れてゆくだろうことを、「RIVER」を聴きながら、観客は確信する。

 

6、「見る者」から「流れる者」へ

 液体の換喩は、原作からの変更によって生じた。

 濱口は「見えているもの全部をそのまま写真に撮りたかった」という見るヒロインの願いを叶えるように「目の文体」によって綴られた原作は、液体の映画へと変転した。ヒロインの目を超え、多様な他者が介在する映画の、そして、他者との関わりをこそ描く濱口映画に、必然の変更だった。

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