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二つの越境

ワタリウム美術館で開催中の「HYPER LANDSCAPE 越えてゆく風景」展は、2000年以降に活動を始めた二人の作家、平面作品を主に手がける梅沢和木と、立体作品を主に手がけるTAKU OBATAの作品展である。しかし、展示の大半は梅沢の作品からなり、その活動期全般にわたり主要な作品を網羅している点からも本展は、梅沢和木の回顧展と言ってよい。そして本展は、梅沢作品の特質、すなわち、それが引き起こす二つの往還運動を、鮮やかにえぐり出す、極めて批評的な展覧会である。梅沢作品を見るとき感じる、気持ちの良さ、心地よさの理由を、本展は教えてくれる。

会場の主部をなす2Fの吹き抜け空間では、5mを越える高さの壁面いっぱいを覆う、梅沢の平面世界に圧倒される。

それを構成するのは、インターネットを介して寄せ集められた「画像」の断片である。その断片の多くは、アニメの美少女キャラクターの身体の一部である(と思われる)。彼女たちの多彩かつ明快かつ平滑な、髪、目、肌、衣服こそが、梅沢の作品の色彩、質感を決定づける。

しかし、梅沢が主に初期の作品を再構成してかたちづくったという、壁面を覆うそれは、本展の作品リストには掲載されない。本展においてそれは〈壁紙〉であり、その上には、リストに掲載される〈作品〉、すなわち、大小のパネルやモニターからなる複数の画面が架かけられる。そのため、〈壁紙〉は半ば覆われる。パネルやモニターが掲出する画面もやはり、それを構成するのは、件のインターネットの画像の断片である。壁紙との違いは、そこに2011年の東日本大震災による被災した事物の画像や、仏像の画像などが、登場し、アニメの美少女キャラクターの占める割合が、減少していることである。

この光景、つまり、〈壁紙〉があらわす巨大な世界のなかに、小さな複数の〈作品〉世界が点在する展示空間は、寺院の曝涼(虫干)を想起させる。

例えば、京都の大徳寺本坊は、狩野探幽が手がけたその襖絵が重要文化財に指定されるものである。襖絵は、期間限定で公開されるもので、部屋への立ち入りは禁じられ、室外の縁側からのみ、鑑賞が許可される。しかし年に一度、毎年10月第二日曜日の曝涼(虫干)の日に限って、室内に立ち入ることが許可される。室内に入り、襖絵に近づいて鑑賞ができると思いきや、そうはいかない。探幽の襖絵のうえには、寺宝の掛け軸が、容赦なく、大量に掛けられる。襖絵は掛け軸に覆われて、その大半が見えなくなってしまう。そして、その日の主役は、年に一度その曝涼でのみ公開される国宝、牧谿筆「観音猿鶴図」三幅なのである。探幽の襖絵は、その時、掛軸のための壁紙となり、脇役に後退せざるを得ない。普段は図として鑑賞の対象とされる襖絵が、掛軸に、その「図」という地位を奪われ、「地」へと転化せしめられる。

この、図から地への転化という運動を、梅沢の〈壁紙〉が備えることを、鑑賞者は感じ取る。重要なのは、同形の構造と運動が、梅沢の〈作品〉、すなわち、〈壁紙〉(地)のうえにある〈作品〉(図)の内部にも認められることである。

先に述べた通り、梅沢の〈作品〉(図)を構成するのは、梅沢がインターネットを介して取得した、大量の種々の「画像」の断片であり、断片の集積が、ときにキメラ的なキャラクターを、あるいはモニュメンタルな建造物、魔方陣、風景をも、かたちづくっていく。言い換えれば、その集積を捉えればそこには、なんらかの形象、すなわち、キャラクター、建造物、魔方陣、風景といった図が立ち上がる。このとき、鑑賞者は、個々の断片が、ある断片であるという事実は、一旦消し去られる。たほうで、個々の断片を、断片であると捉えるときには、その集積が生み出す形象のほうが、消し去られる。

つまり、梅沢の作品を見るとき私たちは、画像の断片やその集積が、あるときは図となり、あるときは地となる、その転化の運動を引き起こすとともに、その運動に巻き込まれる。終わりなき図と地の交替、その知覚と認識、主客が曖昧なその運動の最中に放り込まれる。本展の展示は、作品の構造の類比をなす。

加えて、梅沢の〈壁紙〉と〈作品〉とともに展示されるTAKU OBATAの彫刻作品もまた、梅沢作品の、そうしたあり方を浮き彫りにする。本展に展示されるTAKU OBATAの彫像の、目元から地面と水平に突き出す物体、水平方向に拡張された衣服は、コンピュータがフリーズした際に発生するバグのようにも見える。

たほうで、梅沢の作品のなかにも、ディスプレイに表示されるWindowが入れ子状に無限に表示されるイメージ、やはりコンピュータのバグを思わせる断片がある。コンピュータのディスプレイに表示されるこうした「バグ」は、すなわち、コンピュータの世界の「歪み」である。それは、ディスプレイの画像や映像に魅入り、それが織りなす世界に埋没している者に、それがあくまでもディスプレイであることを思い起こさせる機能を持つ。絵画が作り出すイリュージョンに沈殿しながら、ふと、それがキャンパスと絵の具であることを思い起こすかのごとく。TAKU OBATAの彫像もまた、それがコンピュータのバグによって作り出されたデジタルのイメージであるかのように見せつつも、作品を注視すればすなわち目につく木のひび割れ、彩色の濃淡によって、それが掘り削られ色をつけられた木であることを、思い起こされる。そうした、イメージと素材の往還運動、すなわち、イメージがわたしたちを連れ出していく先の世界と、素材とわたしたちの身体が同居する「現実」の世界、この複数の世界を往還する運動、梅沢の作品は、それを引き起こす要素が複雑に組み込まれている。「画像」の断片は、それが属した「画像」の文脈の世界に、そして断片の集積は、それが形成する形象の世界に、わたしたちを連れ出す。たほうで、先のバグや、解像度の荒さを示すギザギザの断片は、コンピュータという素材を、さらには、梅沢の絵の具による加筆は、絵の具とキャンパスという素材を思い起こすことで、「現実」の世界に、鑑賞者を引き戻す。

梅沢の作品を見るうちに、鑑賞者は、「図」と「地」、「イメージ」と「現実」、この二つの往還運動に、知らないうちに埋没する。それこそが、梅沢作品を見るときに感じる、快の正体である。

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