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tofubeats break frame

生まれ故郷である神戸に〈こもり〉、自宅に〈こもり〉、パソコンに〈こもり〉、制作を続けるtofubeats。女性アイドル、アーティストの楽曲を手がけるときには、彼女達の写真を壁に貼り、制作の励みにするという。tofubeatsは、こうした〈こもる〉、残念な自己像を楽曲内外で言及し、そのイメージをメディアにさらす。その振る舞い、そのキャリア、その楽曲は、いずれも彼の「非モテ」/「オタク」という「キャラ」をかたちづくってきた。たほうでtofubeatsは、若くして成功した、日本代表するトラックメイカーである。

tofubetaのサクセスストーリーとは、「非モテ」/「オタク」の勝利の物語なのだ。

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 中学生の頃からインターネット上に膨大な量の楽曲を無料で配信する活動を黙々と続けていたというtofubeats。転機が訪れたのは大学時代、2012年夏に配信した楽曲『水星 feat,オノマトペ大臣』がiTunes Storeのチャートで総合1位となったことだった。地方の大学生だったtofubeatsは一躍脚光を浴び、2013年にはメジャーデビューを果たす。

 このサクセスストーリーと、それを導いた楽曲『水星』は、tofubeatsと「セカイ系」との親和を示す。「セカイ系」とは、日本のマンガ、アニメ、ライトノベルなどの物語構造における特定の傾向を指す言葉で、具体的には、若い男女の恋愛関係を典型とする狭小な人間関係が世界の危機や終末を左右するといった極端なファンタジーに基づく物語構造のことである。この呼称には、成熟した大人の社会関係(あるいは精神分析家のJ・ラカンが言うところの「象徴界」)を拒絶し、二者関係(「想像界」)とその彼方(「現実界」)を直結させるという未成熟な世界観が含意されているという*。

 神戸の自室に居ながらにして、日本を代表するトラックメイカーとなり、突然「世界」とつながってしまったデビュー譚、そして、『水星』で繰り返されるフレーズ「めくるめくミラーボール乗って水星にでも旅に出ようか」に端的に示される、主人公(ボク)とヒロイン(キミ)のダンスホールという二者の関係が、いわゆる「社会」をすっ飛ばして、突如宇宙の彼方の「水星」と直結するという世界観は、「セカイ系」の想像力に沿う。

 tofubeatsの想像力はさらに、「セカイ系」と並んで取り沙汰される、「ループもの」とも親和性が高い。「ループもの」とは、やはりマンガ、アニメ、ライトノベルなどで、時間の巻き戻り、あるいは、以前体験したのと似た世界へのワープによって、反復する時間を描く作品を指す。「ループもの」のなかでも、特に、ポストモダンを語るうえで重視されるのが、1981年に押井守が監督した、「ビューティフル・ドリーマー」である。テレビ・アニメ「うる星やつら」の劇場版として制作されたこの作品は、「現実」と「夢」の間の反転が繰り返される。片上平二郎は、宮台真司、東浩紀、大澤真幸、宇野常寛らの指摘を踏まえて本作が、大きな成長の目標がないままに“いまここ”の消費社会が与えてくれる快楽を日々“ゆるく”味わい続けながら、同じような日常を生きているわたしたちにとって、ある部分で“憧れ”の光景であり、また、同時にある種のリアリティーを伴った“終わらない”ことによる“息苦しさ”を伴った光景であると評する**。

 tofubeatsのいくつかの楽曲は、このループを想起させる。たとえば、「ディスコの神様 feat.藤井隆」(2014年)のミュージックビデオの後半部のクライマックスでは、ボーカルに迎えた藤井隆とtofubeatsが登場し、「ディスコの神様よ今夜楽しませてちょうだい」にはじまるフレーズが繰り返される。このミュージックビデオでは、カメラは終始左から右へと水平に移動し、対象を映し出す。すなわち映し出される対象、たとえば歌い踊る藤井隆の姿は右から左へとスクロールし、そのままでは画面の左端へと消えてしまうのだが、完全に画面外へ移動する前に画面が切り替わり、藤井隆の姿はまた画面中央に据えられ、また左へとスクロールし、画面外へ出かかっては画面が切り替わり、また中央から左端へ、というスクロールを繰り返す。この画面の切り替えは、同一のフレーズ、メロディ、の反復と相まって、時間が巻き戻され、繰り返される、すなわち、ループするという印象をすという印象を与える。

 このミュージックビデオでは、異なる四人の女性が、同様の画面のスクロールと切り替えで、入れ替わり立ち替わり登場する。四人はそれぞれ、ホテルの室内でバスローブ姿の女性、制服に身をつつみホテルの室内を清掃する女性、化粧室でメイクをする女性、カフェで電話をかける女性であり、四人はともすれば同一ホテル内の場所にいる、おそらくはなんの接点もない、人たちである。しかし、同一のカメラワークで等価に映し出される彼女たちは、等価に見える。すなわち、彼女たちの人生は、入れ替え可能であり、それぞれの人生は、あったかもしれない、別の人生を写しているかのように見える。すなわち、この映像は、同一の世界に住まう別々の四人の世界を映しているようにも、四つの平行世界(パラレルワールド)をループする一人の世界を映しているようにも、見える。

 かように、tofubeatsのキャリアや楽曲は、オタクの想像力を語る文脈と相似する。

 そのことを自認するかのように、tofubeatsは、しばしば「オタク」と同列に置かれる、「非モテ」の自己像を提示する。それが端的にあらわれるのは、「Too Manu Girls feat.KREVA」(2015年)である。Tofubeatsによれば、この楽曲は、「KREVAさんがめっちゃ女の子にモテる人、僕がめっちゃ女の子の画像を保存している人って歌」***である。ラッパーのKREVAが歌う、1ヶ月で3人から告白されたという歌詞に対抗し、tofubeatsはこう応答する。

いつまでも作業
アイドル 女優のアカペラで作業
あいつの好きな曲作る稼業は
Too Many Girls 今日もありがとう
そろそろ3TBのデータ
こればっかで家出てねえな
出てねえな
ところで”Too Many Girls”って何の話?
トーフは画像保存するらしい
FREE Wi-Fiさえ飛んで来ないから
イーモバ3台持ってるらしい
1st verseとは正反対
でも嘘ついちゃったらもっとダサい
ワーワー言うても仕方ないから
パソコンのフォルダ開いたらめちゃめちゃ
Too Many Girls…
(とはいえめちゃめちゃめちゃめちゃいるmany girls)

 こうした「セカイ系」「ループもの」と親和性の高い「オタク」そして「非モテ」の文脈と、冒頭に述べた〈こもる〉制作スタイルとが相まったところに、tofubeatsはいる。すなわち、tofubeatsが歌い踊り、DJともなるクラブは、成熟した大人の社会ではなく、tofubeatsの〈こもる〉「自室」あるいは「パソコン/インターネット」セカイの、拡張である。クラブでtofubeatsの楽曲を享受することは、tofubeatsのセカイに〈こもる〉こと、すなわち、「社会」という文脈から離脱し、「僕とキミの日常」を「彼方」と直結させ、終わりなき日常をループする享楽を得ることだと言える。

 「非モテ」/「オタク」に享楽を提供するtofubeatsは、「非モテ」/「オタク」のアイドルであり、ヒーローである。虐げられた、マイナーな存在だと自認する「非モテ」/「オタク」こそが、今日のマジョリティーなのだから、tofubeatsがメジャーとなるのは必然であった。

 しかし、tofubeatsは、そうして自らつくりあげた、もしくはつくりあげさせられた「非モテ」/「オタク」という自己像、その枠を、みずから壊すにいたる。「SHOPPINGMALL」(2016年)でtofubeatsはこう歌う。

 何がリアル 何がリアルじゃないか

 そんなこと誰にわかるというか

 このミュージックビデオには、tofubeatsの他の楽曲のミュージックビデオにもしばしば登場する白い枠線が画面内に配される。しかし、上記のフレーズをのべるとき、この枠線は明滅し、一時的に消失する。この枠線はあたかも、つくられた「非モテ」/「オタク」という自己像を示す枠である。その明滅と消失は、これが虚構であることを示すと同時に、そこに安住する生き方への警告を発するかのように、見える。

 

*下記サイト内の星野太による解説を参照した。

http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

**片上平二郎「ループする日常と成熟という夢」『応用社会学研究』No.51(2009)

***下記サイト内のtofubeatsの発言を引用した。

http://asbs.jp/feature_detail/755/

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