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「メタ」と「優しさ」の平成年間 〜「カメラを止めるな!」論 〜

0.

平成を語る前に、ゾンビの話をしなくてはらない。

ゾンビとはヴードゥー教に起源を持つ「生ける死体」のことだ。ゾンビをテーマにした映画やゲームは数多いが、そのほとんどが「①ゾンビは理性や感情を持たない」「②本能のままに人間の肉を欲し、襲いかかる」「③ゾンビに噛まれた人間はゾンビになる」などの特徴を持っている。この“ゾンビ”像を決定づけたのは、1968年公開のジョージ・A・ロメロによるハリウッド映画「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(以下、「ナイト〜」)だ。当時タブーであった「カニバリズム」などの残酷描写、救いのないエンディングなどから批判を受けたものの、異例のロングランを記録、多数のフォロワーを生み出し、今では「文化的、歴史的、芸術的」に重要なフィルムとしてアメリカ議会図書館に登録されている。

お気づきのように1968年は昭和だ。昭和43年。

なぜ、平成の前にゾンビか。それは、「ナイト〜」が昭和、あるいは平成以前を象徴するポップカルチャーだからだ。「ナイト〜」は、当時カウンターカルチャーとして、すなわち、メインストリームや体制に対する反発として、受容されていた。アメリカでは1964年に「公民権法」が成立したとはいえ、「血の日曜日事件」に代表されるように、黒人への人種差別が未だ根強い時代。「ナイト〜」では黒人が賢く、強い主人公として描かれる。また、ゾンビは上記③の条件から導かれるように、ねずみ算式に増えていき、近代的理性が作った社会、家族を崩壊させていく。監督であるロメロ自身がメインストリームであるハリウッドの商業主義に嫌気がさし、地元ピッツバーグで自主映画として制作した作品であることも示唆的だ。

重要なのは当時、カルチャーが、カウンターとして成立し、大衆に受けていたということにある(カウンターであるためには、敵となる確固としたメインが前提になければならない)。実際、「ナイト〜」で才能を認められたロメロは、78年に再びゾンビ映画「ドーン・オブ・ザ・デッド」で世界的なヒットを飛ばす。もちろんカウンターカルチャーはアメリカ限定の事象ではなく、日本では、高度経済成長や既存の体制に対するカウンターとして、学生運動が大きな盛り上がりを見せていた。

このように、平成以前とは、多くの論者が言う「大きな物語」が信じられていた時代(の最後)に当たる。「大きな物語」とはフランスの哲学者リオタールの言葉だが、東浩紀に倣ってわかりやすく定義するならば、「社会の構成員が共有する価値観やイデオロギーのこと」だ。そしてそれは「社会全体に対する共有化圧力を保持」し、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきであるというメタ物語的な合意」が存在していたのである。

その意味で「大きな物語」はメインだけではなく、カウンターの側にも共有される理念としてあった。「白人優位」という大きな物語に対して、「人種平等」という大きな物語が対立する。お互いは、お互いのイデオロギー故に、一部分の妥協や、「そういう価値観もあるよね」と言った相対化を許さない。当時の冷戦構造の根本であった資本主義対社会主義にしても同じことが言える。

 

1.

平成とは、そうした「大きな物語」が消失し、無数の「小さな物語」が林立するようになった時代だと言えるだろう。昭和の学生運動はその共有化圧力の高さ故に、内ゲバ化し、限界が明らかになった。社会主義は崩壊し、勝者であるはずの資本主義にしても、それが唯一無二の価値でないことは、高度経済成長あるいはバブルの終焉によって、明示されてしまった。ヴェトナム戦争によってアメリカ的な正義は揺らぎ、西洋近代的理性も言わば“捏造”であることが発覚し、あらゆる価値が相対化する。カウンターなき時代、もはやゾンビが攻撃するべき対象がいないなった時代だと言ってもいい。思想的な区分としては、一般に「大きな物語」の時代をモダン=近代と呼び、「小さな物語」の時代をポストモダンと呼ぶ。

もちろんポストモダン的な思想(前述のリオタール、あるいはドゥルーズ・ガタリなどのポストモダン思想)と社会現象は1970年代からその萌芽を見せており、平成という元号の出現と共に突如現れたわけではない。だが、1989年=平成元年にベルリンの壁が崩壊し、イデオロギーの象徴であった冷戦が終結するように、潜在的だったポストモダンが、顕在化、本格化する時代だということは間違っていないだろう。

では、「小さな物語」とは何か。ここでも東浩紀に倣って端的に言うならば、「多様な消費者の好みに合わせて調整され、「カスタマイズ」され、それゆえに他の物語を想像させる寛容さを抱えて作られている物語、あるいは「データベース消費」のもとにある物語である。」ポップカルチャーの作品に寄せて言い換えるならば、もはや生産者から提供されるストーリーや物語が重要なのではなく、消費者が自分の好みに合わせて言わば“欲望のままに”二次創作を行うことができる「キャラクターのデータベース」が重要であり、その「データベース」からお互いの物語を侵すことのない幾つもの小宇宙が作られていくような作品群だ。そこでは原作すらも特権的な地位を剥奪されて、二次創作と同列に並ぶ。東浩紀はこうした現象を、「ライトノベル」や「美少女ゲーム」に象徴的に見出した。そして、その消費者たちを「動物的」であると描写し、彼らがそれでも「人間的」に生きるためにはどのように世界に接すればよいのかという問いを立てている。

そして、その問題意識の射程は決してオタクだけにとどまるものではなく、広く平成という時代、そしてそこに生きる大衆にまで届くものだと私は考える。イデオロギーや規範ではなく、個々の欲望により忠実な姿は、政治的にはイギリスのEU離脱や、トランプ政権の誕生に象徴的に現れており、そのくせ経済では、利益の最大化を目論みお互いにくっついている状況、文化では大塚英志が平成元年に発見した「かわいい」という価値観が、「kawaii」化し強化されていること、「なろう系小説」というオタクの欲望の単純化と強化の極北が流行していることなど、幾つもの事象に見出されるだろう。

 

2.

「欲望と消費」が支配する、絶望に近い平成の中で、人は如何にして人たればよいのか。平成の終わりに、空前の大ヒットを遂げようとしている一つの映画がその答えを示しているように思う。2017年11月に公開された邦画「カメラを止めるな!」は、昭和にその存在価値を失ったはずのゾンビ映画だ。といっても、失われたイデオロギーを復活させよ!という、時代錯誤的なカウンターカルチャーではもちろんない。

当然ながら、平成年間に作られたゾンビ作品群※1は、「ナイト〜」ほど大衆を巻き込む力を失っていた。東が「ゲーム的リアリズムの誕生」において指摘するように、「作品の自然主義的、表象文化的読解」はポストモダンにおいて、以前ほどの意味を持たないからだ。理性が唯一の価値ではない現在において、ゾンビは理性に対する狂気のメタファーたり得ない。主人公を含む犠牲者たちはホラー映画の典型的なキャラクターとしての役割※2しか持たず、その社会的な意味を透かし見ることはできない。それは「カメラを止めるな!」のゾンビにおいても同じだ。ゾンビはあくまでキャラクターとしてのゾンビでしかない。しかし、ここに平成あるいは、ポストモダン的な読解という光を当てると、違う姿が浮かび上がってくる。

作品論に入る前に、概観を説明しておきたい。「カメラを止めるな!」は、わずか300万円という低予算で制作され、出演者はほとんど無名、監督の上田慎一郎にとっても初の劇場長編映画である。大手の配給会社がバックに居るわけでもなく、当然ながら、たった2館の上映からスタートだった。しかしまたたく間に口コミで話題になると、大手配給会社の協力をとりつけ、現在では全国で100館以上の拡大上映。インディーズでは異例の大ヒットを記録している。

この映画は、マーケティングや有名俳優の登用、大規模なCMといった生産者あるいは資本主義の力ではなく、あくまで口コミという消費者の力によってヒットしているという点で、極めてポストモダン的※3であると同時に、力のあるポップ(大衆)カルチャーであることを実際の数字以上に示している。

 

3.

(ここからは「カメラを止めるな!」のネタバレを含みます。性質上、ネタバレ無しの批評が不可能なので、ぜひ一度ご覧になってからお読みください。)

では、一体何がポップ(大衆)の心を掴むのだろうか。幾つかの要素があるが、まずは映画の冒頭から37分間がワンカットであることに注目したい。映画は大きく2つに別れる。前半のワンカット=ゾンビ映画パートと、後半のその映画を作ったスタッフたちの裏側パートだ。ここでワンカットとは、シーン中一度もカットが切り替わらない特殊な技法を意味する。例えば、通常二人の会話のシーンであれば、話し手のAを聞き手のBの背越しに写し、次に話し手が替われば、逆にAの背越しのカメラに切り替えるというように、カットによるジャンプ(この場合は空間のジャンプ。時間がジャンプする場合もある)をする方が、むしろ自然な印象を与える(人には話している人間の顔を見たいという欲求がある。演出としてあえて裏切る場合もある)。ただ、ワンカットには、そうしたジャンプが無いがゆえの緊張感と、臨場感が存在する。そして当然ながら、「カメラを止めるな!」の37分間も独特の緊張感と臨場感を有し、ゾンビ映画自体のストーリーはありふれたもの※4であるにもかかわらず、見るものを映画世界の中へと引き込んでいく。

だが、ワンカットの魔力を緊張感と臨場感のみに見る読解は、あまりにも「自然主義的」に過ぎる。ここで再び東浩紀の理論を補助線として引きたい。東は「ゲーム的リアリズムの誕生」において、タイトルの通り「ゲーム的リアリズム」を提唱する。端的に言ってしまえば「ゲームオーバー」から「セーブ」地点へ戻ってのやり直しをリアルに感じる想像力のことだ。同書の中で、東は桜坂洋のライトノベル「All You Need Is Kill」を参照する。「All You」の主人公はタイムループに囚われ、同じ時間を何度も経験する。敵を倒さない限り、何度もループするという主人公の状況は、まさにゲーム的な「セーブ」地点からのやり直しであると言えるだろう。しかし、何度も物語をやり直し=選択可能な(メタ物語的な宙吊り状態にある)主人公は、クライマックスにおいて、一つの物語の選択を強いられる。この展開に込めた桜坂のメッセージを東は以下のように解釈する。

 メッセージは明らかである。目の前には複数の人生がある。ひとつの物語を選べば必ずほかの物語を失う、(中略)選択の残酷さを引き受けたうえでひとつの物語を選べ。

そして、このメッセージは他ならぬ我々にも突き刺さる。主人公の状況はポストモダン化の進行のなか、選択肢の多さに圧倒され、特定の価値を選ぶことがますます難しくなっている、私たち自身の生の条件の隠喩になっているからである。だが、「All You」のように実際にはタイムリープできない我々は、すでに無限の可能性の中から “今、ここ”を選んだ上で立っている。そのことの限りない肯定を「ゲーム的リアリズム」は複数性を自覚することによって逆説的に照らし出すことができるという。

「カメラを止めるな!」のワンカットは、言わばセーブのない一回勝負だ。カットが割ってあれば、途中からのリプレイが可能だが、一つのミスで最初からやり直さなくてはならない。では、「カメラを止めるな!」は複数性(ゲーム的リアリズム)を排除した、一回性の物語なのだろうか。そうではない。高度に情報化した社会において、我々は既に映画制作の難しさをある程度想像できるようになっているからだ(ジャッキーチェンがNG集をエンドロールに見せてくれるように、DVDにスタッフコメンタリーがあるように)。ワンカットものは会話劇のように場面転換がなく、役者やスタッフの動きが少なければ難易度が下がるが、これはゾンビ映画である。死体の準備や特殊メイク(腕の切断まである!)、格闘の描写(斧で斬りつける!)を如何に実現すればいいのか。視聴者はそこに幾度ものリハーサルと、何テイクか失敗の影を幻視する(実際に流された本番は6テイク目のものだったという)。

我々は我々の生と同様、これまでの選択が消し去ってきた可能性の影を、ワンカットに見出す(脚本が一つであったとしても同じ演技は二度となく、寸分たがわぬカメラワークも二度とない)。「ゲーム的リアリズム」は複数性故に、言わば失われた影が「今、ここ」に重なることを通して、その輝きを高めるのであった。「カメラを止めるな!」はワンカットという「セーブ」禁止の究極のゲームによって、極限まで「今、ここ」を讃えていたのだ。

 

4.

情報化によって視聴者がリテラシーを高めるということは、言わば「底が割れる=メタ的な視点を持つ」ということを意味する。本音が本音たりえず、常にメタに回収されていくのは政治においても、人間関係においても平成が直面している問題のように思える。上述のように「カメラを止めるな!」はこの「底が割れている」ことを逆手に取った極めて平成的な映画なのだが、もう一つの事実からも示唆される。それは、ワンカットの劇中に、明らかな瑕疵が散見されることである。

これを説明するためにもう一度、「カメラを止めるな!」の設計を説明しよう。前章の初めに、この映画は2つのパートに分かれると述べたが、より正確には3つのレイヤーに分かれている。劇中劇である「①ゾンビ映画」、この①ゾンビ映画を撮りにやってきたクルーが本物のゾンビに襲われるという「②ワンカット・オブ・ザ・デッド」、この②ワンカットオブ・ザ・デッドを制作するスタッフたちの「③メイキング」だ。「ワンカット・オブ・ザ・デッド」は37分のワンカットのことであるが、これが劇中劇であったことは、37分の最後まで明かされない(ネタバレされてない限り)。だから正確には「ゾンビ映画」は劇中劇中劇であることが途中で明らかになる。

だが、真の劇であると信じて「ワンカット〜」を見ていると、幾つものおかしな点が出てくる。ヒロイン役の女優が同じセリフを2回言ったり、切断されたはずの腕が特殊メイクの不十分さにより見えていたり、死んだはずの人物が起き上がったり、カメラワークがおかしいなど、例を上げればキリがないほど出てくる。しかし、それらが気になって駄作だと途中で席を立つ人はほとんどいない。それは、先に述べたワンカットの魔力(緊張感、臨場感、究極のゲーム的リアリズム)によって疑問が浮かび上がりながらも、見続けてしまうという作品の強度に加えて、「インディーズ」あるいは「低予算で撮られた」という事実が、観客に「だったらしょうがないか」というある種の優しささえ喚起させているからではないだろうか。今、消費者は作り手側の苦労さえ想像した上で、瑕疵を無視して再び物語に戻るという曲芸を乗りこなすように“成長”してしまっている。そして、平成の我々はネタバレを含めて極限まで映画の情報を入れないように努めたとしても、「タイトル」の他に「低予算」の映画であることくらいはどうしても観る前に知ってしまう社会に生きているのだ。

だが、この瑕疵のほとんどは、計算された瑕疵であり、次の「メイキング」のパートにおいて、パズル的に明らかにされる。そしてこのパズルがクイズを解くという知的快感とともにコメディであり、主人公の悲哀とその回復をも同時に描くという3重の構成となることで、大きなカタルシスを生んでいる。主人公の悲哀とは、端的に言うと娘と資本主義の板挟みだ。中年の映像ディレクターである主人公は、お金のために「そこそこの映像」を量産するサラリーマンであり、それゆえに芸術的な「ホンモノの映像」を志向する思春期の娘(アシスタントとしてドラマの現場でバイトをしている)から嫌われている。「ワンカット〜」を撮影することで、クルーを家族的に味方につけながら、娘の信頼を(家族を)回復するというありがちな物語だ。だが、先述したようにありふれた物語は、3重の構成によって強度を保ち、感動や笑いと行ったカタルシスを生み出している。

「視聴者が瑕疵故に途中で席を立つことはない」という信頼を前提とした極めて綱渡り的なカタルシスの成功は一体何を意味するだろうか。それは言い換えれば「メタ」と「優しさ」に対する信頼の成功だと言っていい。そして、平成とはまさにそのような時代なのだ。インスタグラムで、インスタ映えのためだけに無理して写真をとっていることを「メタ」的に知りつつも、「優しく」いいねをする時代。あるいはそれは自己承認欲求の肥大として否定的に捉えられるかもしれない。または、つながり過剰なのかもしれない。だが、そこに一切の笑いがないと言い切れるだろうか?あるいは楽しい瞬間は何もないと?輝ける「今、ここ」が存在しないと?

全ての価値が相対化し、メタ化した時代に何が可能なのか。それは底を知りつつ、知らないふりして乗っかる知性、メタの上で踊るという軽やかさ、欲望の枷としての他者への思いやり以外にはない。「カメラを止めるな!」は平成という最悪の時代において、最低限のヒューマニズム(家族、クルーの家族化)を担保にしながら、その上で楽しむということの尊さを、極めて直截に伝えているのではないだろうか。あるいはそのポジティブなメッセージと受け手が響き合うからこそ、異例の大ヒットを記録しているのではないだろうか。

最後に蛇足だが、「カメラを止めるな!」の3層構造は、それぞれ「ゾンビ映画」=モダンの想像力、「ワンカット〜」=ポストモダンの想像力、「メイキング」=メタを楽しむ平成の想像力と同期していることを指摘して終わりたい。

 

 

※1

テレビゲーム「バイオハザード」シリーズや、漫画「アイアムアヒーロー」など優れたゾンビ作品があることは否定しない。しかし、それはあくまで「小さな物語」的な欲望を越えられていないのではないか。ゾンビはキャラクターとしても相当な強度を持つ。かつて人間だったものがそうではなくなるという恐怖や、人体の損壊、パニック描写は本能に根ざした欲望を刺激する。宇野常寛的に言うならば、ウェルメイドな物語を作りやすいキャラクターであり、現象なのだ。

 

※2

被害者あるいは生存者の人種の別に意味はなく、如何にショッキングであるか、意外であるかなどが問題視される。高度に情報化した現在、犠牲者の順番は作り手と受け手の間の狐の化かしあい的なゲームの様相を呈している。

 

※3

「生産」から「消費」への力場の移動もポストモダンの重要なファクターの一つだ。テレビや雑誌といった一方向的なマスメディアから、インターネットから始まったSNSに代表される双方向的なコミュニケーションへの変化もその代表として言えるだろう。データベースから消費者が自由に物語を構築するというイメージと相似を描く。

 

※4

「カメラを止めるな!」ゾンビパートのストーリーは以下である。ゾンビ映画の撮影をしに、山奥の廃墟でロケをしていたクルーが、本物のゾンビに襲われる。果たしてそこから脱出できるのか!?というもの。あらすじだけ聞いても「ふーん、なんか聞いたことあるな」で終わってしまうようなものであるにも関わらず、ワンカットの魔力が観客をつなぎとめる。

 

 

 

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