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「高橋源一郎=タイムトラベラー説」に向かって

0.タイムマシンに乗って

高橋源一郎は“過去を変える作家”である。
 そのテクストはタイムマシンのごとく時を遡り、過去に影響を与えてきた。ハンク・モーガンがリボルバーで6世紀の騎士を撃ち殺すように。デロリアンがアスファルトに炎を残して旅立つように。
 荒唐無稽な仮説に聞こえるかも知れない。だが、この難攻不落の城を攻め落とすことが必要だと、どうしてもそう思えてしまうのだ。

 

1.過去へ進んで

まず、確かなことから始めよう。高橋が過去の(既存の)出来事やシステムを本歌取り、換骨奪胎し、描いてきたことは議論の余地を持たないだろう。デビュー作「さようなら、ギャングたち」や「ジョン・レノン対火星人」が高橋の経験した60年台やあさま山荘事件がベースにあることは既に指摘されており、「日本文学盛衰史」ならタイトルだけで自明だ。AV業界や野球、アニメ、原発など彼がコラージュする素材は多彩であり、それが限りなく現在に近いものだとしても、あるいはフィクションだとしても、必ず“元の姿=過去”があるものを描いてきた。
 では、過去を変えるとは一体何を意味するのだろうか。もちろん、覆水を盆に返すような、物理現象そのものを変えるような、SF的なオーバーテクノロジーのことを示しているのではない。説明には新たな言葉を作らなければならない。高橋が行っているのは「過去の“本質”を変える作業」であると。“本質”が変わるとは何か。例示を通して、その意味を浮かび上がらせたい。

例1.2009年1月に行われた全国高等学校サッカー選手権大会準々決勝の試合終了後、ロッカールームで敗戦チームの主将(当時)中西隆裕が泣きながら相手チームのFW大迫勇也を絶賛した「大迫半端ないって!」という発言は、当初からYouTubeなどに拡散され、ネット上で話題になった。発言のコミカルさに加えて、自虐でチームを元気づける、良きリーダーとしての資質がその人気の理由だっただろう。このとき、あくまでこの発言の主人公は中西だったのだ。
しかし、2018年6月のワールドカップ日本対コロンビア戦での大迫の活躍によって、この発言の”本質”は変わってしまう。すなわち、「良きリーダーの自虐」から、「大迫の強さの歴史的証言」へと。今や、発言者である中西の人間性は後景へと薄れ、大迫の活躍へとつながるその預言的性質が強く感得されるのだ。

例2.「あなたにも津波が来るわしゃぼん玉」という俳句を今、3・11への想起なしに読むことは不可能だ。だが、この句は1997年に震災とは無関係に東直子によって詠まれたものだ。そして、その事実を知った後で読み返したとしても、やはり3・11のあの津波が想起されるという状況は変わらない。「あの日」を境にこの句はその“本質”を変えてしまったのだ。 (※歌人の穂村弘は震災前までのこの句を、津波はあくまで運命のメタファーであり、それが最も弱くて優しい水であるしゃぼん玉の中に予兆としてある、と読んでいたという。)

重要なのは、上記2例がいわゆる「解釈」の一バリエーションにとどまるものではないということだ。「解釈」を増やすことと過去の“本質”を変えることは違う。
 「解釈」とは何か。過去の出来事の“本質”を変えないまま、物語を付け加えることである。例えば歴史学や通常「文学」と呼ばれるものはその役割を担ってきた。私小説では幾つもの「私」が生まれ、歴史学で言うならば、「本能寺の変」に対して、「黒幕は明智光秀ではなく、豊臣秀吉だったのだ」とか「さらに真の黒幕がいて、徳川家康だ」とか「光秀悪人説」から「信長悪人説」まで矛盾する物語がお互いを侵すことなく並列している。まるでゴーストが実体と重なり合って存在しうるように。知識として幾つかの物語=解釈を知っていても、我々はなお歴史の教科書を混乱することなく読むことができる。過去の“本質”は揺らいでいない。

それに対して、上記の2例はもはや我々が過去を認識する土台そのものが変化していると言わざるを得ない。未来を生きる我々が振り返ってこれらの事象を思うとき、震災やW杯の勝利が不可分のものとして立ちあらわれる。未来と過去は融合し、過去の“本質”そのものが変化しているのだ。ゴーストではなく、実体の方が変化していると言ってもいい。“本質”とは解釈の対象であり、解釈の元である。“本質”とはそれが揺らいだとき、我々が見方そのものを根本から変えざるを得ないところのものである。

 

2.夜へ

しかし、既存の「文学」と高橋源一郎では何が違うのだろうか。なぜ高橋は過去の“本質”を変えていると言えるのだろうか。先に答えを定義するなら、高橋が「物語ではなく、過去の“本質”に拮抗するだけの“出来事”を作っているから」だ。震災もW杯も、現実に起きた圧倒的な“出来事”であったことに注目しよう。予見のできなさ、「私」に回収されない異質さ。それらが現実の“出来事”にはある。他者性を持った“出来事”は同じく他者である過去の“本質”の重さと釣り合い、共振させる。解釈=物語は“本質”を変える力を持たない。だからこそ高橋は物語に閉じないやり方で、“出来事”そのものを存在させるやり方で小説を書き続けてきたのだ。

2007年に出版された高橋の評論「ニッポンの小説」に、彼の他者への真摯なまなざしを見つけることができる。同書において高橋はこれまで「小説というジャンルは、なにより「人生」について、その中でもとりわけ、恋愛と死者について話すことが得意」だと思われてきたと述べ、それについて本当だろうかと疑問を呈する。つまり、近代文学は「生者」に対して徹底的に異質(他者)なものである「死者」を、「生者」に近づけることによって、いわば「死者」を「生者」化する(他者を「私」化すると言ってもいい)ことによって描いてきたのだが、それはむしろ「死者」を分からなくさせるだけではなかったかというのだ。

 「・・・死んだものはだれだって とげられなかった希望や愛 訴えたくても訴えられなかったひとりずつの 真実をいまこそ抱いているのよ・・・」

この現代詩が持つ不自然さを高橋は指摘する。語れるはずのない「死者」が、「生者」と変わらない言葉で語ることが“ふさわしくない”と。
 この「死者」を「過去」と置き換えることは乱暴だろうか。「過去」も「死者」と同様、絶対的な他者として君臨している。「過去」に触れることはできないし、本当は「過去」がどんなものだったのかも我々には知りようがない。刻々過ぎ行く瞬間瞬間に、今PCに文字を打ち込んでいる一瞬前の過去に、自分がどんな顔をしていたのか、私は知らない。この文章を読むあなたが、自分の足をどう組んで/どう組まずに読んでいたか、あなたはきっと分からないだろう。我々が普段思い描く過去は、いわば「生者」化した過去、極端にデフォルメした過去なのだ。「昨日、後楽園遊園地にデートに行った」という事実を、どれだけ記憶に正確に描写したとしてもやはり「過去」そのものを描くことはできない。そして同じことは今起こりつつある“出来事”、あるいは起こるであろう「未来」についても言えるのではないだろうか。「私」の外部、他者という意味で、全ては等号で結ばれる。「他者」=「死者」=「過去」=「出来事」=「未来」。

ではどのようにして「他者」を描くことが可能なのだろうか。高橋は絶対の「他者」は、それゆえにどのようなやり方をもってしても、描きえないという。だが、その不可能性を自覚した上でなら、また昼間の「文法」から離れた上でなら、無数の「細部」を通して近づくことはできると、わずかな可能性を示す。

昼間の「文法」とは何か。高橋は内田樹を引用してこう説明する。「非−私であるすべてのものを名づけ、支配し、整序し、享受し、消費し、廃棄するという他動詞的な能作」「オデュッセウスの冒険譚」であると。これは言うまでもなく、例外はあるにせよ「近代文学の文法」であり、物語であり、すべてを理解可能な形へと「私」化してしまう「解釈」の語法である。ここにおいて、前章で述べた「解釈」が“本質”を揺るがす力を持たないことの理由が明らかになる。「解釈」は他者を「私」へと矮小化する語法であるがゆえに、「私」の中で並列が可能であり、あくまで「私」の内部にとどまるがゆえに、外部=「過去の”本質”」へと影響を及ぼさない。

無数の「細部」とは何か。高橋の小説そのものである。高橋の小説には物語にも論理にも閉じない「細部」が満ち溢れている。というよりもむしろ、「細部」からしか成り立っていないという方が正しいかも知れない。だが、その実体を説明することは不可能だ。なぜなら、物語に閉じないこと、理解可能な形に堕さないこと、「他者」を「他者」のまま存在させることを目指して、“出来事”として高橋の小説は存在しているからだ。無数の「細部」が結びついた「全体」が“出来事”であり、読むという体験を通して、我々は我々の「過去」が揺さぶられるのである。
 だが仮に敗北が約束されているにせよ、難攻不落の城を攻め落とそうと近づくことは無意味ではない。説明が不可能だと知りつつ歩む第一歩として、象徴的な一節を引こう。

 「それから、ぼくは目をつぶり、しんけんにかんがえた。たぶん、2分13秒ぐらいのあいだ。そして、目を開けた。」(「さよならクリストファー・ロビン」p90)

この短い一節にはエッセンスが詰まっている。「2分13秒」という具体的な「細部」。真剣に何かを考えているのに、その間の秒数までカウントしているという矛盾。さらにその「2分13秒」を「たぶん」と「ぐらい」という不確かさで包み、あくまで明瞭には閉じない揺らぎ。闇と光。漢字ひらがな表記が子供性を帯びることで、作者との間にも緊張が生じている。ここには “出来事”の断片=「細部」が理解不能な絶対的な他者として、ありのまま提示されている。そして、これらの「細部」がまた、他者的な仕方で、フラクタルに結びつくことで小説全体は“出来事”として誕生しているのだ。

 

3.未来へ戻って

高橋がある種のリハビリとして小説を書き始めたことは既に指摘されているとおりだ。だからこそ、高橋の小説には「過去」へのまなざしが不可分に含まれているのではないだろうか。60年台を物語ではなく“出来事”として語り直すことで、過去の“本質”を変え、高橋は言葉を取り戻した。その原体験こそが、AV業界の体験を「あ・だ・る・と」で再“出来事”化させた原動力であり、あらゆる「フィクション」をも取り込むモチベーションであり、「恋する原発」を書かせた源ではないだろうか、というとこれは物語化し過ぎているかもしれない。陳腐な結論に落ち着く変わりに、新たな仮説を立てて終わろうと思う。「過去」を手中にした高橋は、今や「未来」へと旅立とうとしているのだ、と。新世紀の始まりに書かれた「日本文学盛衰史」の終わりの一節が、その証明となることを期待して。

「ぼくは瞑目する。
 すると、微かに聞こえてくる、滝壺の向こうに落ちていった一千億人の悲鳴。耳を澄ませば、その中に、確かに未来のぼくの悲鳴も混じっているのだ。」

 

 


【参考文献】

「美術手帖」2018年3月号

カント「純粋理性批判」第二版

文字数:4595

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