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新芸術校からの刺客、提出課題一覧

(1)こまんべ「日本文化の「無意識(自然)」と「VIRTUAL」の対位法 (導入)」
(2)スズキナルヒロ「世界に<イデア>をばら撒くこと 」
(3)小林真行「日本文化論は、お、い、と、い、て」
(4)有地慈「スーパー・プライベート宣言」
(5)



(1)
提出者名:こまんべ

タイトル:「日本文化の「無意識(自然)」と「VIRTUAL」の対位法 (導入)」

日本文化論について語る前に、そもそも文化とは何なのか。

辞書(新村出編「広辞苑 第5版」)で引くと、「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。」とある。本稿では、ここで指す”自然”から受ける人の無意識を捉え、日本文化要因の一つの可能性を発見し、”日本文化論”を考える上での導入への収束を試みる。

けれども、文化を語るのは複雑で厄介だ。理由は辞書にある通り、科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など様々な様式を有するからだ。よって本稿ではある1つの媒体に焦点を当てる。芸術の中で絵画を選択する。ここでは、絵画以外のアートである写真、メディアアート、ビデオアート、アニメ、映画等といった、現実の一部を複製しコントロールすることのできる記述媒体については、あえて思考しない事とする。

不透明なもの、神秘的なものを一切許容しない上記媒体は、文化を語る上で重要な”自然”を思考するにはマッチしないと考えたからである。例えば、写真やPCアートにしても、現実には様々な可能性がある中、ある領域に特定し、断片的な部分を現実化(一つを画像)して捉えている。その一つの断片的な現実を元にしているからこそ、強度がある傍ら他の可能性(現実)は捨ててしまっている。何が自然(無意識)であるかという事を抽出するのは、テクノロジーを含める芸術に焦点を当ててしまうと、視覚的特徴量にどうしてもフォーカスされてしまい、極めて取り扱うのが厄介なのである。
しかし、本稿ではテクノロジーアートについては考えないが、今後テクノロジーを考える上での発展を意識しつつ話を進める。

さて絵画にフォーカスしたはよいが、文化を語るのは厄介である。政治や宗教、時代感など様々な要因からは、ある領域にいくらフォーカスを当てても抜けられない。多義的な面が多く議論が絶えない。文化自体を抽出するのはこれでもまだわかりにくい。絶対的原因をまずは探る。かつて人が”自然”に感じてしまい、抗えなかった無意識に着目する。人間にとっての自然で大きいもの、その中でもまずは最も大きい要因である「天候」を考える。

「天候」

天候によって、野外における自然な照明環境の状態は大きく影響する。照明環境の違いは、普段その地域でみる物体の陰影、立体感、質感に大きく影響している。当たり前だが異なる照明環境の中では、同じ3次元物体の見え方も違う。

実は、質感や立体感、陰影を知覚する能力は生まれつきではなく、生後の学習によるものである。質感の発達に関する研究では、赤子が生後6-8ヶ月程度で物体の光沢を見わけることがわかっている。

物体の質感や陰影の捉え方の違いは、西洋と東洋の絵画の様式にもリンクする点がある。例えば、西洋画は東洋画と比較して、明暗や色のコントラストが強い。一方、中国や日本などの北アジアの絵画では、線画のような輪郭にとらわれ、陰影や質感の表現は強く抑制されている。これは東洋画の発達した中国の太平洋岸が曇りや雨の多いモンスーン気候(拡散照明)であることが理由であると言われている。逆に、ルネサンスの中心地であったイタリアが晴れの多い地中海性気候に属していた。

「質感」

では日本ではどうであったか?

日本画は「天候」で分析したとおり、陰影や質感の表現は強く抑制されている。北アジアの絵画(日本画含む)は絵表現の特徴量でいえば少ない。日本画では、デッサンのことを「写生」という。文字通り「生命を写す」ことを指す。写生する時には、自分が花や風景であったらどんな思いで風に吹かれ、光を感じるか、対象になりきり、その”質感”を感じて描いていると言われている。

また、日本では,触覚を表す言葉、オノマトペ(擬音語・擬態語の総称)が存在する。漫画や文学作品の中でもよく使用される言葉だ。日本語の触覚のオノマトペは、他の言語、感覚に比べて非常に数が多いことで知られている。例えば、「ずるずる」と「つるつる」という擬音語がある。ともに麺類などを食べる時の音を表す。この言葉には、麺類の”質感”を表すのに違いがある。「ずるずる」は、そんなに滑らかではない材質の麺を汁とともにすすり上げる時、「つるつる」は、滑らかな材質の麺を食べる時に使用する。これは英語には勿論、同じアジア圏である中国語にも、これに相当する言葉はない。

さらにいえば、同じ意味を指す「中国語、英語、漢語」を探しても、共通性があるとは言えない。なぜなら、それらの質感、詳しく言えば「身体感覚をともなった情緒性のある質感」を聴覚的にも視覚的にも捉えておらず表現していないからだ。日本人が日本語によって物事を感じたり考えたりする際の、無意識にヒントはある。そしてこの無意識が、日本人の文化形成の要因になっている。
例えば、岩絵の具のような素材が日本で発達した事は、質感をより強く感じることができる日本人だからこそだろう。

「VIRTUAL」

とはいえ、世界各地で異なる色彩感覚や質感、配色体系についてすべてを論じることは困難である。また、本稿の言説強度を増すためには、地域による文化伝搬や、歴史の解釈が必要だろう。しかし、本稿ではあえて言及しなかった。
本稿では、文化論を語る中で”質感”を扱い、美術史・人類学だけではない学問分野の垣根を超えた議論をすることの可能性を一提案として投げかけ、筆を置く。

今後、文化を形成し考える上では、テクノロジーを混ぜて考えなければいけない。逆にいえば、テクノロジーの発展を考える上でも文化的な側面を理解し、考えることは重要だ。しかし、私が技術領域(技術研究業界やITスタートアップ業界)にいて感じる違和感、もしくは限界は、テクノロジーが写す一部の現実(VIRTUAL)に、あまりに思考が引き寄せられすぎている。この原因こそが、私がテクノロジーから距離をおき、”質感”について思考を試みた理由である。

日本では、VIRTUALの意味自体が他国と違う意味として解釈されている。日本ではVRをしばしば”仮想現実”と訳すが、これは他国の意味と比較すれば正しくない。VIRTUALの本来的な意味は、『実際には存在しないが、本質において存在していると同等な事実や実際の出来事』。VIRTUALの反意語は、Nominalすなわち「名目上の」という言葉であり、Realと対をなす言葉ではないのだ。日本人自体は、VRをあくまで現実を写した虚構(仮想)として扱っている。何をもって現実としてみなすのか。欧州は、VRの見る”現実の質感”≒”VIRTUAL”についての研究をしている。だからこそ、日本のエンタメに終始したVRだけでなく、医療をはじめとしたリハビリテーション分野での研究も活発なのである。

写真や映像、テクノロジーで写した表現は、断片的な現実でしかない。かつてのテクノロジーアート(ICCの取り組みや映像メディアの実験等)は、”現実の質感”≒”VIRTUAL”をより真摯に取り扱っていたと感じる。
そういえば音楽の作曲技法には「対位法」というものがあるのを思い出す(パッフェルベルのカノンなど)。「対位法」は、2つの独立的なメロディーが主旋律が奏で、相互に組み合わさる音楽理論を指す言葉。文化を形成してきた、「無意識(自然)」と「VIRTUAL」が何かを認識して、対位法のように、この2つの視点を共鳴させることが必要なのかもしれない。対位法のように分野に従属せず、日本文化、そして未来の”文化論”について横断的に考える。
更なる研究を重ねるため”新芸術校”に帰還する。

「参考文献」
バーチャルリアリティ学 舘暲、佐藤誠、廣瀬通孝 2010
日本画と材料 近代に創られた伝統 荒井経 2015
「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー 青木保 1999
インターコミュニケーション 1号 特集:トランスポーテーション NTT出版 1992
情緒と日本人 岡潔 2008
広辞苑第五版 新村出 1998

 


(2)
提出者名:スズキナルヒロ

タイトル:「世界に<イデア>をばら撒くこと 」

0. 友人からの知らせ
またひとつ季節が死んだ。と友人からの知らせが届き、すっかり秋になってしまったことをぼんやりと後悔したのだけれど、たとえばもう一度だけ季節をやり直せるとして、僕がなにをすべきだったのか、そういう振り返ってみてもわからないことが僕たちの人生の一部を構成しているのかもしれない。そういう意味では、僕たちの人生を構成するものは、ある種の信念というよりはむしろ小さな事実の積み重ねに過ぎないのかもしれない。しかしながら、批評であれ、芸術であれ、哲学であれ、僕たちの生に貢献するものは、尊い理念への奉仕なのであるということを僕は記述しなければいけない。それが日本文化論を可能にする唯一の道筋であり、文化を本質的に構成するすべてなのだから。

1.「日本文化論は可能か」
日本文化論を記述することの困難は、いったいそれが誰のために書かれるのか?という問いに直面する。この時代にある日本文化の状況の厳しさは、僕たちが誰のために日本文化批評なるものを書けばいいのか?という深刻さに直面する。この国のこの時代のひとつの文化の傾向を示せば、かつて「文化」が共同体形成や動物的エネルギーの発散のために存在したとして、その役目は「文化」から「アーキテクチャ」に移行しつつある。そこでいったい批評家は「文化」の価値や目的をどこに探し当てるのか。ある文化的事象を語る場合にさえ、それが単純な情報の羅列にならずに意味を持つ配列に組み替えることは、決定的にその文化の価値と目的を記述者が了解していなければならない。批評家の使命があるとするならば、そういったひとつの文化活動の価値を、あるいは文化活動に勤しむひとびとにその価値を伝達することにあるのかもしれない。だが、それだけでは文化を成立させている土壌を変えることはできないのではないか、言い換えれば、ある文化的な事象の分析とそれを記述する技術だけでは、単純に-ひどく文化が漂白される時代を-変えることはできないのではないか。そんな疑念が僕にはずっと付き纏ってきた。これは僕にはずっと批評家の精神があったとかそういうことではなくて、文化のなかで生きてきたひとりの人間として抱えてきた問題でもあった。もちろん、文化現象における事実の調査や分析が文化自体の存続やその文化を愛するひとびと、後世の時代のひとびとにとって大きな愛すべき熱源になることを疑っているわけではない。ここで僕が記述すべきは、日本文化論を語らんとすることが、ひとびとの幸福観のささやかな変更と終局的な不幸の回避に貢献することは不可能なのかという問い/願いであり、それが不可能だとしても不可能性を希求することが、不可視なものの輝きに触れられうるのだという、絵画的な理念の記述を試みることでもある。そのために必要なことは、芸術家における「芸術のための芸術」と同じように、批評家における「批評のための批評」を記述することである。そこで「批評のための批評」がなんであるのかを、以下、提示してみたい。

2.「潔癖的性格」
「潔癖的性格」はアーキテクチャ時代に現われた新しい人格である。「潔癖的性格」というときに思いだされるのは、ベンヤミンがかつて名指した「破壊的性格」と呼ばれるひとびとの人格なのだけれど、この性格がそれと異なるのは個人の人格ではなく公衆の人格であるということである。等しくこの国の文化が漂白される時代の要因は、かつての個人の性格類型がこの時代の人格まで増大したことにある。それは人間的な営み/モラルが必要とされた時代が失効しつつあり、新しい管理技術/アーキテクチャがそれを代替えする時代になったからだともいえる。それゆえ、文化の基調となる人間的営みは後退し、いつしか熱狂は遠い思い出となり、僕たちはすっかり文化を愛する理由を忘れてしまったのである。そういう意味で、アーキテクチャ時代の新しい公衆の人格の出現を嘆いても仕方がなく、ある種の自然現象としてこの恐るべき推移を見守るしかないのが、批評家/芸術家/哲学者のおかれる状況なのである。もし僕たちがここに弱い希望を語ることが許されるならば、システムの自動化/自己増殖の起源が人間の手によってなされ、システムが行き詰まったときに再びシステムが初期設定の回路を参照すること、そして初期設定において設計者が、ひとがひとのためにシステムを作ったのだとする願望だけが残されている。これは僕たちがかつて、ひとがひとのために神をつくったのだと信じたように、システムがまた神に似たなにかだと信じる行為なのであって、新しい秩序に対して僕たちの古い秩序がどこまで適用可能なのかという問いでもある。つまり僕は古い秩序としての芸術的理念「芸術のための芸術」を批評的理念「批評のための批評」として、新しい「潔癖的性格」の時代を生き延びることを提示しようと試みているのである。それが文化の土壌の地殻変動に耐え延びうる唯一の理念的作戦なのであり、しかしながら-おそらくは多くの敗北をみつめるであろうことを真摯に予言しておかなくてはならない。

3. 美術批評の困難
「芸術のための芸術」によって芸術家が触れうるのは<イデア>である。美術批評が困難なのは、とりわけ作品批評において困難なのは、批評家は決して芸術家がみたイデアに触れられないということである。批評家は鑑賞者と同じく芸術作品によって<喚起>させられるが、両者は決して芸術作品のイデアに触れることはできない。なぜなら、事後的な芸術作品から直接的に汲みだされるものは事前的な<イデア>ではなく、事後的な「事実」と「概念」にほかならないからだ。しかしながら、批評家は「批評のための批評」によって<イデア>に触れることができる。批評家は彼が文体に<イデア>を降ろすことができる。本来的な批評家の使命として僕が夢想するのは、批評家がみずからの批評に<イデア>を見い出すことなのだ。もちろん、芸術家も読者も、批評家が来たるべき美術批評にみたイデアに触れることはできない。それでも彼が<文体>が僕たちを<喚起>させる。鑑賞者であれ-読者であれ、芸術作品を享受するものは-根源的な批評を享受するものは、彼らが想像力によって愛すべき<イデア>を目撃しうるのだ。それは、芸術家が触知した<イデア>でもなく、批評家が文体に宿らせた<イデア>でもなく、彼らが彼らの想像力の回路によって誕生させた<イデア>なのだ。

事後的な美術批評にイデアはない。事後的な芸術作品を通り抜けた事前的な美術批評だけにイデアはある。事後的な美術批評がもつものは「事実」と「反復」だけであり、事前的な美術批評がもつものは「表現」と「変奏」である。「美術批評のための美術批評」が美術批評家を表現者にする。美術批評家は「批評のための批評」によって新しい<イデア>を生みだす。それにより、新しい<イデア>が世界に誕生する。「批評のための批評」によって、世界に存在する<イデア>の絶対数を増大させること、それこそが重要なのだ。

4. 僕たちはどう生きるか/世界に<イデア>をばら撒くこと
芸術家の<イデア>であれ、批評家の<イデア>であれ、鑑賞者の<イデア>であれ、僕たちが<僕たちの神>をみることを僕は夢想している。それは不可能なことであり、不可能であるからこそ、僕たちは不可能性に夢をみるのかもしれない。それでも、僕が最後に語りたいのは、僕たちはどう生きるか、である。ここに記述することは復活と再生を夢見るあまりに青年的な憧憬なのかもしれないけれど、「文化」を根源から愛するということのひとつの時代の道筋として、僕たちはどう生きるか、を反復的に記述したい。

等しく文化が漂白される時代において、僕たちはどう生きるか。『日本文化論』を事後的に可能にさせる道筋について考えたい。僕たちの人生を構成するものは、無数の小さな事実とそこにあった可能性でできている。僕たちの人生を振り返ってみれば、そういった小さな記憶に生の輝きが宿っているのかもしれない。僕たちの記憶を呼び覚ますのは<イデア>の残滓にある。それは僕たちの認識が決して<真理>と一致することはないからだともいえる。

この国の文化がかつての役割をアーキテクチャに代替えされる時代のなかで、文化そのものだけでなく-文化を構成する<土壌>が漂白される時代のなかで、「潔癖的性格」と名指すべき公衆が出現する時代のなかで、僕たちに残された道は<イデア>の絶対数を増やすことにある。それが「潔癖的性格」の時代を生き抜く掟なのだ。もしひとつ書き忘れたことがあるとするならば「潔癖的性格」を変えることはできない。それゆえ、僕たちはじっと時代の性格が変わることを、性格が運命に導かれることを待つしかない。僕たちが願うべき「ひとびとの幸福観のささやかな変更」とは、いくらかのひとびとが時代の公衆的性格から目覚め、<人間的な営み>をあたためることを思い出すことであり、回避すべき「終局的な不幸」とは、文化の死、そして批評家/芸術家/哲学者が世界から絶滅することである。類のための<生>に貢献することは、来たるべき新しい時代の到来まで、僕たちが世界に<イデア>をばら撒くことだ。死んでいく愛すべき小さな事実を根源的に救う術は、僕たちがより多くの<イデア>をつくることにしかない。それゆえ、『日本文化論』を可能にする術は「批評のための批評」を記述することであり、「潔癖的性格」に耐えうるのは「芸術のための芸術」だけなのである。

最後に僕が言うべきは、本当に語るべき筋は別にあったかもしれない、それでも僕が僕によって語りうる筋はこれなのだということをどうかお許しください。


(3)
提出者名:小林真行

タイトル:「日本文化論は、お、い、と、い、て」

ラーメン店ミシュラン掲載
2007年11月20日にミシュランガイド東京2008が発売された。ミシュランガイドとは、1900年にフランスのタイヤメーカーミシュランが、パリ万博に合わせ、自動車運転者向けに都市別の駐車場、ガソリンスタンドや宿泊施設、車の整備工場を載せたガイドブックを始まりとし、今では世界各都市版を年1回発行するレストランホテルガイドである。星をつける事が料理に対しての評価基準としており、最高で3つ星を獲得する事がレストランの世界最高名誉になっている。ミシュランガイド東京2008では、いわゆる高級店が星をほぼ独占した傾向だったが、調査員の日本人割合が増え、年々日本食理解が進むにつれ、居酒屋、とんかつ、おでんなどの飲食店の登場し始めた。そして、2012年版には「ビブグルマン」という星付け以外のカテゴリーができ、多様な飲食店がミシュランガイドに掲載された。ビブグルマンとは、星の評価からは外れはするものの、コストパフォーマンスの高い飲食店というカテゴリーである。そして2016年版には、1つのラーメン店に1つ星がつく。細分化された日本食の1つの極北にミシュランの星が到達したのである。それまで多くの人々が、日常から切断されていた食の出来事だったところに、そのラーメン店は、セブンイレブンとの共同開発でカップラーメンを発売するまでに至り、お湯を注ぐだけでミシュランの星付きの味と接続できる状況になる。
味覚の中には、後天的に美味しいと感じる味覚がある。Acquired tasteと言われるもので、個々の記憶や経験、身体的成長などで味覚が変わる事である。私が、あるラーメン店で見かけた『当店のらーめんは、3回はお召し上がりください』などは、ラーメンのアクワイアードテイストの好例だろう。そして、ラーメンの場合、人が先天的に美味しさを感じる「糖」「脂肪」「だし」のうち、脂肪とだしを使用している。先天的美味しさを持ち合わせながら、なぜ後天的美味しさで発見される場合があるのか。それは、ラーメンを食する時、私たちは媒介者を食べているからである。
ラーメンにおける媒介者は、麺である。先天的美味しさはスープにあり、それを口に運ぶ機能として麺が存在しているのだが、麺自体には、味付けはされない。スープには食感が存在しないため、その食感を補う形で麺があり、仮に麺に味付けをしたとしても、先天的美味しさの糖を入れては味のバランスが崩れ、油とだしを入れては、小麦粉を麺に出来ない。麺は、スープの美味しさを舌に伝えるメディアなのだ。私たちはメディアを食べている。本質的に美味しいものを食べているわけではない。メディアにのった情報なのだ。情報なので、一度では理解できない場合もある。情報を確認するために、3回は確認が必要なのだろう。
そして、「日本におけるラーメン」が立脚してくる起点として、戦後のアメリカの小麦戦略があり、アメリカの余剰農産物処理法によって、終戦後の日本が大量な小麦粉の捌け口になったことが根本にある。同時に、長いスパンで、日本に小麦を買わせ続ける戦略であり、現在でも約60%をアメリカから輸入しており、成功していると言って良いのだろう。長期にわたり、アメリカから情報を伝える媒体の原料を輸入し、原点を中国に持つ料理が、国民食となっていった。

インスタグラム2017
2010年代、SNSの過渡期の最中にインスタグラムがあらわれた。日本国内のアクティブユーザーが2017年8月に2000万人を突破とのニュースを最近見かけた。インスタグラムを利用する場面は、「自宅でくつろいでいる時」「移動中」「仕事の休憩時間」がベスト3で、よく見るコンテンツは「有名人の投稿」「友人の投稿」「ファッション」だそうだ。そして多くがスマホでの閲覧だろう。インスタグラムはその他にも正方形フォーマットの写真、ストーリーズ機能などの特徴がある。現代人は24時間スマホを手の届くところに置き、一瞬の暇さえあれば、誰かのいつかの写真や動画をチェックし、気になる投稿はハッシュタグで自動アーカイブされたところに行き、史上最高のビジュアルリテラシーが発達したコミュニティツールとして参加するのだ。そして、現代人はこの環境に身を投じているためロザリンド・E・クラウスの言う『視覚的無意識』を無意識に発見し、「有名人の投稿」には、有名人のパブリックイメージそのままを、あるいは脱構築する何かを発見し、「友人の投稿」には、投稿者のボケ(意識された視覚)や、視覚的無意識にツッコミを入れる。コミュニティ参加をそれぞれのアカウントと強弱をつけた繋がりの中で簡単に行う。それと同時に発達したリテラシーは、投稿された図像を瞬間的に判断し、スワイプのみの速読を可能にし、フォローしているアカウントの(仮定された)今の状況を確認し、最速のコミュニケーション=いいね!を押していく。
一方、投稿する側は、インスタ映え(過剰に意識された視覚)なる写真を撮影する傾向が強く、それは、fecebookとリア充を通過したビジュアルリテラシー上に存在し、いかにインスタ映えのフォームに当てはめていくかの作業になる。カフェの料理を陰翳礼讃よろしく逆光で撮影したり、アクションカメラを使用しFPS視点をも取り込んだ写真や、インスタ映えスポットなる場所で広角レンズ自撮り写真をあげる。それは、日本の写真におけるローカルコミュニティに存在する(いわゆる写真村)写真のフォームの新しいかたちである。今までの写真村のフォームは、「桜」「日の出日の入り」「富士山」「紅葉」など、主に保守的な男性に消費されるものであり、鑑賞される場所も限られていた。しかし、全く同じ構造を持つインスタ映えは、若い女性が消費し、ハッシュタグをつければ、世界中に見つけられる状況になった。新しいSNSと写真とコニュミケーションツールを、アメリカから輸入している最中とコンテンツゆえ、アメリカ西海岸文化の模倣のような写真が多い事に、まだ、インスタグラムの日本的ガラパゴス化が起こりきれてない状況を見て取れる。

新しい地図
逃げよう。自分を縛りつけるものから。ボーダーを超えよう。塗り替えていこう。自由と平和を愛し、武器は、アイデアと愛嬌。バカにされたっていい。心をこめて、心を打つ。さあ、風通しよくいこう。
と、国民的アイドルはいう。彼らは、まるまる「平成」を生きた。平成の閉塞感に彼らは常に自由でいようと言い続けてきた。1995年に「俺たちに明日はある」を発売している事もエポックではないだろうか。しかし、彼らは自由でいられなくなった。彼らは閉塞感のための対立項としての自由であろうとしたのだろうが、結果として閉塞感を気がつかないふりをする行為を私たちに助長してしまった。もちろん、前提として、本人たちがその様な意図でない事をここに補足する。その彼らは、今回逃げようと言う。この盲目的にガラパゴス化する島国の逃れられない宿命から、逃げようと。そして、格差、政治と経済、有名無名など、2層構造の世界を風通し良くいこうと。これは、とても希望を持ててしまう言葉で、今回も私たちは錯覚してしまう。これが、コンビニでカップラーメンを買えば、世界基準の味に接続し、ハッシュタグをつければ、テイラースイフトと並列できても、それは錯覚だとわかっている様に。そう、この閉塞はいつも通りだ。
平成が終わろうとしている。この島の人たちは、この島に住み続け、この島なるものを担保し続ける。決して良い場所ではないこの土地で。錯覚を気がつかないふりをし、フォームの中身の書き換えを永遠と繰り返し、消費する。そして、時々現れる希望に歓喜する。平田オリザは、「下り坂をそろそろと下る」で、司馬遼太郎の「坂の上の雲」冒頭『まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている』を引用し、『まことに小さい国が、衰退期をむかえようとしている』と書き出す。開花が終わり、散り始めている現在に、現代版大本営発表かのごとく、マスメディアは2020年まで延命のドーピングを打ち続ける。大本営発表から、国民的アイドル、ラーメンまで、日本人はメディアを信じすぎた。
新しい地図では、ロケーションに日本を連想させるものは2シーン程度のみに抑えられている。逃げる場所は、日本ではない事を示唆している様だ。日本は逃げても逃げても逃げきれない島なのだから。(彼らは、今まで所属していた事務所の方針でインターネットから切断された場所にいた。今回の活動が、インターネットを逃げる場所としているのなら、彼らに明日はないが)
ならば、この国で、私たちの選択は2択。国外に逃げるか。成熟した社会の先の衰退の景色の中、哀しむ事なく生きていくか。
私たちの地図
2020年以降も、国家は、成長や改革、日本を取り戻すなどと言い続けていく事は容易に想像できる。国民の盲目化は進む。いつのまにか国家がハラキリ的思考を推し進めるかもしれない。しかし、私たちは、国家の縮小を粛々と見続ける事を受け入れ、地図を小さくしながらも描いていく生き方を提案したい。

留まってもいい。自分を自分たらしめたものから。ボーダーを潜ろう。退色も悪くない。自由と平和を愛し、武器は、アイデアと愛嬌。バカにされたっていい。心をこめて、心をこめて。風通しなどよくはならないが。

小さい地図に思いつく事を書き、ありったけのフォームを実装し、時にはカップラーメンを食べ、その様子を、SNSにあげる。小さい地図を頼りに、開拓され尽くされた土地を歩く。ポケモンが出てくる時もあれば、貝塚が出てくる時もある。そうやって、今までの地層の様な文化の中から分子ガストロノミー的に再構築してフォームに当てはめていく。いいね!はまあまあついている。下り坂をそろそろと下る時が来ても、手元には小さいながらも新しい地図がある。それがあれば、私たちは、下り方を再発明、あるいは再定義できるかもしれない。そして、これは、まさに現代美術の方法論でもある。現代美術が、衰退の景色を受け入れながら、傍観の視点も可能し、およそ行くはずもないところに私たちを導く。様々な予想外を取り込んでいく僕たちの手にある小さな地図こそ文化のひとひらである。


(4)
提出者名:有地慈

タイトル:「スーパー・プライベート宣言」

日常はループである。
朝起きる。準備する。子どもを幼稚園へ送る。パート先へ向かう…
生活圏の中央に位置する広い霊園を支点に全てがまわる。
自転車で霊園を囲み走り続ける日々。
この街から出られない。

ある日、謎の案内標識に導かれ、日本で初めての飛行機死亡事故の墜落地点に辿り着く。
そしてその事故現場の記念碑もまた、広い霊園の一角に位置していたのであった。
ここで仮説が生まれる。
墜落事故によってこの街に霊園を囲んだループ現象が発生したのではないか。
わたしのママチャリは大破したブレリオ機の意思を乗せ、過剰な生、ループする日常を強いられているのではないか。

この街のループから離脱した人間がいる。
パート先のスーパーの常連Aさんである。
彼を最後に見たのは半年前の昼過ぎ、霊園の中央に位置する交差点だった。
この交差点には誰もルーツを知らない大きな石が埋まっている。

『石を掘り出し、ループを止め、過去の飛行機事故を無効化する。』

私はこの交差点の境界に挟まった石を掘り起こす計画を立てた。

(有地慈「スーパー・プライベート」ステートメント全文)
・・・
有地慈が2017年11月、ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校3期生としてグループBの展覧会「健康な街」にて発表した「スーパー・プライベート3部作」の第一弾は、一見、真っ白な祭壇のような出で立ちであった。
高さ2m程の二枚組のパネルをさらに90度につないだL字空間がこちらを向いている。正面奥のモニターでは10分ほどの映像が流され、台座の上ではやはり白で統一された八の字のレールの上を自転車と飛行機のプリントが貼り付けられたプラレール車がせわしなく走り続けている。台座の下からは上部の左右対称性を打ち破るかのように無造作に重なった木片と大きな自然石がはみ出している。目線の高さに浮いているのは十字架だろうか。しかし近付いて確認するとそれは逆さに吊るされた飛行機の形を模したものであることがわかる。
これがステートメントにあるブレリオ式飛行機、1913年3月26日に起きた日本で初めての飛行機墜落死亡事故の際に大破した二人乗りの軍用機だ。
エンジン不調と突風による左翼の破損により機体は機首を地上に向けて垂直に落下。搭乗していた木村鈴四郎陸軍砲兵中尉と徳田金一陸軍歩兵中尉は共に即死した。
飛行機が落ちたのは埼玉県所沢市松井村牛沼北方だった。斎場があるということで買い手がつかなかったその土地は現在では巨大な霊園が広がっており、事故現場を飲み込み今もなお拡大を続けている。
1.「大きな主題」へ「セカイ系」の文法をもって接続を試みる「超個人的物語」

外から取り入れた借り物の技術がエラーを起こして墜落し、その事故現場が「斎場近く」であったことはどことなく不吉だ。
今でこそ忘れ去られているが、この事故は大戦前夜とも言える日本列島に少なからず衝撃を与えた。当時としては大変な額の弔慰金が集められ、また「やまと新聞社」の熱心な呼びかけによって両中尉銅像付きの立派な記念塔が建設された。歌人・与謝野晶子はこの事故を受けて短歌15首を寄せている(「新しき世の犠牲かなし御空行き 危きを行きむなしくなりぬ」など)。また殉職した両中尉を弔う「噫(ああ)両中尉」というレコードと楽譜までもが作られ販売されていたという。まるで国を挙げて暗い予感を消し去ろうと躍起になっていたのではとすら思えてくる。

有地はこの飛行機事故に「敗戦の予兆」を読み取った。
本作では大きな主題を「悪い場所の解消」に設定し、敗戦の予兆である飛行機の墜落を無効化することを試みている。
映像の中で有地は「現在の自らの生活がある街」と「過去に飛行機墜落事故があった街」という現在と過去二つの街を霊園を媒介に通じ合わせている。
「現在の街」にて、「霊園で働くAさん」からヒントを得てループする日常からの脱出を目指すという「超個人的物語」を動機に霊園の中央にある「自然石」を掘り起こす。そしてその行為が「過去の街」にアクセスし墜落事故現場にある「墜落地点の石碑」を取り去ることにつながる=墜落事故のなかった街を出現させる、という物語を描いている。
また、掘り起こした自然石を街から持ち出した数日間、「悪い場所」は解消されていることになり、そのような状況を想定することでグループBのテーマである「健康な街」に応えていたと考えられる。
2.どこまでも迫り来る実存により可能となる「脱地域アート」

幼少期から成人してしばらくまで新興宗教団体に所属していた有地は「大きな物語の失効した世界」を歩く「信仰を失った者」という二重のポストモダンを抱えている。

白く見えるパネルに近付くと、それが一定のパターンをもつ花柄であることがわかる。壁紙だ。そしてその壁紙の貼られたパネル-むしろ壁そのもの、の上にはさらに複数のキャンバスが掛けられており、そのキャンバスにも同様の花柄の壁紙が貼られていることがわかる。
中央に吊るされた飛行機のシルエットが逆さの十字架をほのめかしている点を踏まえると、壁紙の繰り返しというモチーフはニーチェの永劫回帰を想起させるだろう。
ただし、さらにキャンバスを目で追うと、それら壁紙は部分的に色濃くなっており、壁紙の模様が糸で縫い出されているということがわかる。すべてのキャンバスが同じパターンの花柄をなぞり縫い出されているわけだが、見比べるとわずかにその手業にズレが生じていることが確認できる。
有地は所属していた新興宗教の唱える永遠の生、輪廻転生にループから出られぬような閉塞感を抱いており、信仰から距離をとり日常に足場を探す中でもなおループするモデルを見つけては逸脱を試みる。壁紙の縫い跡の変化からそれを読み取ることができる。

台座に乗った八の字に走るプラレールもその暗喩となるだろう。
レール部分にはパネルと同じ壁紙が貼られており、その上を側面は自転車、上部には飛行機の画が貼られたプラレール車が走っている。この模型は中央に置かれた拳ほどの石を抜き取ることでレールが破綻し、そのまま石を台座下へ落とすことで石に括られた紐づたいに滑車が動き、吊り下がっていた十字がレールすれすれから上方へ持ち上がる仕組みだ。
そうして自転車と飛行機の画が貼られたプラレール車は停止する。

作品の背景に土地性を踏まえていることを考えると、すぐに思い起こされるのは典型的な地域アートだ。
ただし、土地から物理的に切り離されていることや台座奥のモニターに映る作家の一人語り、日常に沿うエピソード、生活移動手段である自転車に乗って走る体感を反映した映像などからもわかるように、これは地域アートとして定番のサイトスペシフィックな要素や社会的テーマとは離れた、むしろ相反する作品と言っても過言ではない。
現実には実際の事故とは何の関係もないと思われる石を掘り出し、作品の一部として会場に持ち込んでいることからも、一見土地性を強く帯びていたテーマが最終的に作家の実存の問題へと絡め取られていったことが伺える。

どこまでも迫り来る実存により「脱地域アート」、つまりどのようなテーマや条件下にあっても、作家の実存的意味の追求という目的のもと制作の体系づけを可能にし、一時のまつりごとに使い捨てられない自律性のある作品を積み上げる回路を見出すことができると言える。
本作は以上2点の効果を以って「スーパー・プライベート」と呼び得ている。
「スーパー・プライベート」はもちろん「スーパーフラット」にかかっているものと思われ、これは視覚的定義というよりも「ハイとロウ」の境界をなくした「スーパーフラット」がさらに「プライベート」までもを取り込み更新されているという作家の主張が読み取れる。
2次元から一人称へ。
いわゆる「セカイ系」が日本アニメの新たな主流構造として世界的にも認識されつつある今、本作のようにその文法をもって超個人的物語を大きな主題へと接続しようとする作品はしばらく続くであろう。しかしそれはいくらかの問題も孕む。

超個人的物語の消化をもって大きな問題を扱うということを安易に良しとしてしまえば、それは客観的批評の届かない自己満足的な閉じたディストピアを生み出しかねない。
本作発表時にもあった「震災以後の視座がない」という指摘に関し有地は翌年3月に行われた展示「スーパー・プライベートⅡ~成長しないでぷーちゃん~」にて回収していると主張する。しかしそれも第一弾同様「セカイ系」の援用により問題を現実から遠ざけ完結させてしまう危険性を孕んでいたと言わざるを得ないだろう。
また、作品の自律性が実存という軸を持ちながらもあくまで石を掘り出す行為(プラクティス)そのものより、繰り返し縫った壁紙や街の縮図のプラレール模型(シミュラクル)によって支えられているように見えることからも「日本におけるオブジェの思想」という作家の意図とは別の皮肉が含まれ得る。
「悪い場所」はいつでも我々の背後からまた立ち現れる。
展覧会の搬出後、有地が予算の関係という経済的理由とはいえ石をまた同じ場所に戻したということからもそれは懸念される。石は戻され、飛行機は墜落し、再び悪い場所が出現した街で生きることは、我々に、そして作家自身にどのような生を可能とするだろうか。
真に生の一回性を手に入れるのは死ぬときであるとするなら、やはり日常はループでしかあり得ないのだろうか。

何らかの結論を出す代わりに、最後にひとつの希望的観測を提示してこの論考を終えたい。
「スーパー・プライベート3部作」は来年開催をひかえている有地の個展にて完結する。
有地が作品の中で故意に取りこぼした、というよりは執拗に無視し続けた領域がある。米軍の所沢通信基地である。
本作「スーパー・プライベート」第一弾で扱った飛行機墜落事故は、ブレリオ機に搭乗した両中尉が青山練兵場から所沢陸軍飛行場へ帰還する際発生したものだった。霊園から徒歩20分程の距離に旧所沢飛行場は位置する。
この飛行場は敗戦後、米軍に接収された。1982年までに7割は返還され、航空記念公園をはじめ公共施設用地として市民の憩いの場となっているが、そのすぐとなりの敷地には未だ米軍通信基地が広がっている。

「スーパー・プライベート」は一貫して有地の「プライベート」を素材としている。
第一弾では墜落事故のあった街での自らの日常を扱った。第二弾の「ぷーちゃん展」では「子どもの成長記録」という、ある意味本人のプライベートよりもより強固なプライベートという方向へ研ぎ澄まされていった。
そして迎える第3弾では有地の母親へと焦点が移される。
沖縄出身の母親にはかつて「米軍兵父親と沖縄県民母親のハーフの友人」がいたという。有地は母とその人物を巡る物語を追った映像作品を発表することで、第一弾の飛行機事故であえて触れなかった基地問題を別の方向から回収しようとしているのではないか。

毒を持って毒を制すと言っては語弊があるが、「超個人的物語」を抱えたまま、悪い場所の「外側」として、国内であって国内ではない米軍基地へと一気にテーマを押し広げる姿勢は、有地が日本文化としての現代アートの可能性を諦めていないことを示唆している。
「大きな主題」へ接続を試みる「超個人的物語」は、問題の矮小化でなく、閉じた主体をこの世界でいかように動かし得るかでその価値を問われるべきなのだ。


提出者:長谷川祐輔

タイトル:「ファッションのパラダイムシフト〜日本人デザイナーに見る主要概念の変遷を巡って~」
・中心と周縁という対立構造が可能だった頃
日本の現代ファッションを語る際、1980 年代から今日まで議論の中心に出てくる人物は変わってない。三宅
一生、川久保玲、山本耀司。なぜ80 年代のパリで、この3人の日本人デザイナーだけが特異な存在として現れ
たのか。本稿ではいささか遠回りになるが踏まえておくべき前提として3人に関係する基礎的な議論を概観し、
現代に至る系譜について考察していく。
3人のデザイナーにとって「戦争」は深く関係している。もちろん彼らがパリに渡ったのは60~80 年代なの
で、直接的に敗戦をテーマとした服がデザインされたわけではない。ここで3人と「戦争との関係」と言うのは
主に幼少期〜大学までの期間においてである。
五月革命、ニューヨークのヒッピー運動、ヴェトナム戦争、パリコレ、一枚の布、ギリシャへの放浪、そこで
のプリーツの発見、「A-POC」、日本からパリに向かい再び日本に返ってきた三宅がパリに与えた影響には、日本
的なものが伺える。
三宅は1938 年生まれ、広島の出身。1945 年の小学校低学年当時、被爆経験がある。その経験から、破壊され
てしまうことの儚さを肌感覚で覚え、美的なデザインへと関心が向かう。広島の平和公園近くにある、彫刻家の
イサム•ノグチによるデザインの橋を見て、生涯に通底する原体験に近い影響を受けたという話は有名だ。
大学は多摩美術大学の図案科に入学。当時、洋服について関心が無かったわけではない。しかし「日本人が洋
服を作る」ということを意識し、洋服を進路としては選択しなかった。
「日本人に服を作ることは無理だろう、と思ったのです。舞台衣装とか、そういうのならあるかもしれないが」
(1)
しかし三宅は大学に入学以降、結局独学で服作りを勉強し始める。1960 年に日本で開催された世界デザイン
会議に、衣服デザインの部門がなかったことに対して坂倉準三(当時世界デザイン会議委員長)、今井田勲(当
時文化出版局局長)宛てに抗議文を送ったことは有名だ。
三宅が初めてパリに渡ったのは1965 年。パリに渡って三宅はまず学校に入り、カッティングを学ぶ。初めての
パリの長期滞在が、コレクションを開くためではなく再び勉強するためだったという点は、川久保、山本と大き
く異なる点だろう。(2) 三宅は海外で研鑽を積んだ後日本に帰国し、日本で仕事を始めたのは1970 年。そして東
京に事務所を開いてから始めはパリではなくニューヨークでコレクションを発表する。三宅がデザイナーになろ
うと思った背景にはパリよりもニューヨークに対する思いが強かった。
「ぼくがデザイナーになろうと思ったのは、五月革命であり、ニューヨークのヒッピーたちに出会ってのこと。
最終的にジーンズやT シャツのような服をつくれるデザイナーになりたいと思っていました。そこでぶつかった
のが量産化の問題で、それはデザイナーがタッチできる問題ではないと当時は思っていた。」(3)
三宅にはビジネス的な巧みさよりもクリエイションを評価してもらいたかったという思いがある。アメリカは
今で言うファストファッションの流れが強く、ファッションにおいてクリエイションを追求する場としてはパリ
が適していた(その流れは今も基本的に変わらない)。以上のような背景から三宅は本格的にパリへ向かう。1973
年のことだった。
川久保と山本がパリにもたらした「黒の衝撃」は現代ファッションの文脈では繰り返し語られてきた(未だに
語られている)。なぜ衝撃なのかと言えば、大まかに言えばそれは色彩とフォルム、さらにそこから「文明の衝
突」が想起される点においてである。まず色彩は、それまで西洋ではタブーとされていた黒をふんだんに用いて、
さらにいかに女性を美しく見せるかといったフォルムに関して二人の日本人デザイナーはボロボロの造形を提
示した。時代を経て2017 年現在では黒い服はもちろん、ボロボロの服もおしゃれと見なされるようになった。
ここで二人のデザイナーに関してこれ以上の記述は考察を進める上で必須ではないので割愛する。
以上3人のファッションデザイナーについて概観した。なぜ三宅、山本、川久保が日本から西洋に向かい今も
なお語られる準神話的な存在になったのか。それは彼らの服に文明的な視野が含まれていたからだろう。三宅の
「一枚の布」は立体で作る西洋から見れば日本的に映るかもしれない。川久保と山本は色彩、フォルムにおいて
西洋のメインストリームとは対照的であり、デザイナー本人たちはそう言わないが西洋に対するカウンターを確
信犯的に試みたとして読み取ることができるだろう。(4)当然といえば当然だが、ここでは物質としての服を巡
って揺れ動きが見られる。服の色、造形など。つまりここで問題視されていた美は、いかに女性(あるいは人間)
を美しく見せるかといった視覚的に認知可能な、絶対的な価値としての美の概念があった。しかしそのような美
を前提としたデザイン活動はリアリティを失いつつある。では今ファッションが扱える、あるいは扱うべき問題
系は如何なるものなのか。
・物質的なものから非物質的なもの、絶対的なものから儚いものへ。「Ephemeral」
の概念について。
現代のファッションデザイナーにおいて非物質的な領域へと関心が移行している発言が伺える。ファッション
ブランドMIKIO SAKABE のデザイナー坂部三樹郎は自身がコレクションを制作する際に重要なこととして「人
が新鮮に見えること」を挙げている。(5) また服をほとんど作らないファッションデザイナー山懸良和はファッ
ションとは本来的な語義から「流れるもの」であり、制作にあたっては自身のバックグラウンドを地理的条件、
家族関係、などから徹底的に洗い出すことから始める方法を教えている。(6)以上の発言に加え、2 人のデザイナーが口を揃えて言うのは、ファッションは西洋よりも東洋的なものと相性がいいのではないかということだ。実
際2 人のデザイナーは従来のランウェイ形式以外での展示も試みている。2017 年4 月に池袋パルコで行われた
展覧会「MEITEN」では売り場で服を販売する一方、ファッションの展示では見られない仕掛けもあった。試着
室に入るとさらにもう一つ扉があり、そのまま奥に突き抜けると壁が鏡で覆われた部屋になっている。そこで自
分の試着した姿を見ることも可能だ。しかしその「鏡の部屋」は出展デザイナーが定期的にファッションショー
を行うための空間でもあった。予めスケジュールが決められていて、指定された時間になると予定されていたデ
ザイナーによるファッションショーが始まる。(7) 2013 年には事後的に振り返ればMEITEN のフォーマットのモ
デルとなった展覧会「絶命展」が開かれている。ここでは主にモデルがマネキンではなく生身の人間を使うなど
して、「ファッションの生命感」、「瞬間生」をどのように展示するか、が試みられた。
ファッションデザイナー自らが西洋的なものよりも東洋的なものに対して親和性を感じているという発言は、
見過ごされてはならない。西洋的な絶対美から東洋的な儚いもの(ephemeral)への関心の転移は、人間にとっ
ての表層である服のデザインだけでなく、人間そのものについて考えることにも通底している。
ファッションの好みというのは個別的なものだ。しかし個別の好みであるにもかかわらず、それぞれの時代を
振り返ればそこには確実に全体としての様相がある。個別の好みから始動し、次第にそれが世界へ浸透すること
で全体の様相を作り上げていく。ファッションは本来的にそのような特質を備えている。ファッションデザイナ
ーの関心が、物質的なものから非物質的なものへと移行している現代においてリアリティがあるのは、造形面で
の絶対的な美ではなく、ファッションのファッション性としての「ephemeral」の概念に着目することだ。80
年代に築かれた日本ファッションの神話から手を切りアップデートしていくには、色彩やフォルムといった表層
的な部分に目を奪われるのではなく、制作全体を支える理念が必要だ。そして必要とされる理念は今、日本ファ
ッション史における重要なデザイナーを読み解く中で、明確に現れている。

注釈
1三宅一生『三宅一生 未来のデザインを語る』重延浩編、岩波書店、2013
2 川久保と山本の最初の渡仏は、日本で自身のブランドを始めた後で、コレクションを開くためのものだった。
3 1 と同書
4 川久保は多くのインタビューで、自分の好きなモノを持ち込んだ結果予想外のことが起こったというような発
言しか繰り返さない。参考文献として 清水早苗、NHK 番組制作班『アンリミテッド:コム デ ギャルソン』、
平凡社、2005
5 山縣良和×坂部三樹郎 司会=黒瀬陽平「世界を動かすファッション——『ファッションの魔法』を取り戻すた
めに」 (ゲンロンカフェ 20140423)
6 筆者は山懸良和が講師を務めるファッションの学校coconogacco に在籍したことがある。イギリスの美術大学
セントラル・セントマーチンズとcoconogacco のコラボレーションサマーコースに参加した。そこでは自分の「人
生マップ」を作ることからクリエイションを始めるといった授業がなされていた。
7 筆者はMEITEN にデザイナーの立場で参加した。
参考文献
・三宅一生『三宅一生 未来のデザインを語る』重延浩編、岩波書店、2013
・清水早苗、NHK 番組制作班『アンリミテッド:コム デ ギャルソン』平凡社、2005
・ 田口淑子、文化出版局『山本耀司。モードの記録。モードの意味を変えた山本耀司の足跡を探して。』文化出
版局、2014
・ 蘆田裕史『ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評』フィルムアート社、2011
・ 安田登『あわいの時代の『論語』:ヒューマン2.0』春秋社、2017
・ アルフォンス・リンギス『変形する身体』小林徹訳、水声社、2015
・ マリリン・ストラザーン『部分的つながり』大杉高司、水声社、2015
・メリッサ・マッラ=アルバレス「西洋が東洋をまとったとき ――川久保玲と山本耀司、そしてファッシ
ョンにおけるジャパニーズ・アヴァンギャルドの台頭」(『DRESSTUDY』第57 号、2010)
・フランス・グラン「東京—パリ-東京、1980 年、そして現在?」(『DRESSTUDY』第57 号、2010)
・内田繁「インタビュー:〈弱さ〉の感覚を形にして ――日本のモダン・デザインとデザイン教育 」
(『DRESSTUDY』第56 号、2009)
・新居理絵「ヘルムート・ラングとその創造的世界」(『DRESSTUDY』第56 号、2009)
・松岡正剛「隠居が編集した江戸の贅沢:「いき」と「通」の道楽哲学」(『DRESSTUDY』第51 号、2007)
・ 田中忠三郎『物には心がある。』アミューズエデュテインメント、2011
・ Agnes Rocamora、Anneke Smelik Thinking through Fashion A Guide to Key Theorists
: I.B. Tauris & Company
・ Monica Titton Fashion Criticism unraveled: A socialical critique of criticism in fashion
media(International journal of Fashion studies :volume3 number2 2015)
・ Malcolm Barnard Fashion Theory: An introducetion : Routledge 2014

文字数:21020

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