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私は。知らんけど。

2017年10月31日のBBC NEWS JAPANにBBC番組「ビクトリア・ダービシャー」に、キャサリン・バーンズによる、『「子供に手は出さない」 若い小児性愛者の告白』という読み物があった。記事の内容は、非接触派の小児性愛者(ペドファイル)のアダムとジェイク(共に仮名)へのインタビューを通して、社会における小児性愛者のあり方を伝えていた。

私の知人にも小児性愛者はいる。彼の部屋には、「身長140センチ以下のセーターの作り方」や、「子どもがつくる料理」や、どこで手に入れたのか小学校の卒業アルバムなど、子どもたちがファッションや料理や運動会などを通して、日々の生活を楽しんでいる様子が掲載された本や写真、動画などが、部屋の半分かそれ以上を覆い、山のように積んである。しかし性的行為や幼児虐待の本や映像などはない。性的な表現を見ない理由は、「楽しそうにしている子どもを見ているのが好きであって、苦しい表情をしていたり、大人が背後で虐待している雰囲気は見たくないから」だという。

BBCのインタビューは、彼らの趣向性はどこからくるのか、どのような人生を営んできたのか、またどのように自分の性愛をとらえているのか等々、若い2人の葛藤が主なインタビュー内容だ。しかし小児性愛者になる理由のひとつとして、性格や環境から受けた影響からではなく、脳内の「混線」という原因を提示していた。そこからはLGBTと同様にセクシャルマイノリティの多様な一つとして考えよう、という(つまり法を犯してもいない状態で、犯罪者として扱わないようにしよう)という隠れた主張が読み取れる。


これまで長いこと、小児性愛者は子供時代に虐待されたり、精神的な痛手を負ったりしたケースが多いと考えられていた。だがカナダの臨床心理学者、ジェームズ・カンター博士は小児性愛について、脳内の「混線」が原因だと主張する。小児性愛者の脳をMRI(磁気共鳴画像法)で調べたところ、脳内の異なる領域をつなぎ合わせる白質が少ないことが分かった。妊娠初期の段階で胎児の脳がどのように形成されるかが鍵だと、カンター博士は考える。「小児性愛者が生まれる前の段階で予防するのが理想」だという。

つまり小児性愛者は、自分の意思や人生経験で性愛の年齢や性別を選択しているのではなく、生まれ持った「特性」として、小児に対する性愛があるのだという。彼/彼女らは、自らの意思ではないが、強制もされていない何か(この場合は脳の神経の結合)に動かされている。

アダムとジェイクのように、自分が望んでもいないのに、どんな欲望や特性を持っていのかを自覚しつづけなければいけない状態というのはとても苦しい。ここで私が書く、「苦しい」は小児性愛者であり性愛の目的が達成されない、もしくは社会的弱者だから苦しいのではなくて、自分で選択していないが自分であるとしか言えない状態を、常に自己として引き受け、監視し続けなければいけない苦しみである。もちろん人を傷つける犯罪につながる特性なのだから、自覚を持って行動することは政治的に正しい。

しかし自分の特性がもつ欲望や行動を常に自覚しなくても良いのではないか、それは苦しすぎるということを私は友人に伝えたくて、自分の「ちょっと変わった」特性について話したことがある。二つの「ちょっと変わった」趣味を取り上げて、日常の中に潜んでいるよくあることという位置付けにし、偏見を薄めるのが目的だった。

私のちょっと変わった趣味とは、すべての動植物をさばいて食べてみたいというものだ。世界にはありとあらゆるものを食べる人々がいるので、取り立てて変わったことではない。だから全ての動植物に食欲の妄想をもつのは悪ではないという弁明も持ち合わせていた。それに私は、初めて生魚をさばいた時、内臓を取り出すのに吐き気をもよおして最初はできなかったし、カエルの解剖では気持ち悪くて気絶をしてしまった。だから生来的なものではないという弁護もできる。しかし一方で、子どもの頃からする父へのマッサージで、肩甲骨の窪みから筋肉と骨の状態を想像するのは好きだった。

一人暮らしを始めてからは、料理で肉や魚をさばくのに筋にどのように包丁を入れたら、力を入れずに捌けるのかが気持ちよく感じた。仕事柄、定期収入がないのでお金はいつでも困っていて、もしかして道に生えている草や鳥やなにもかもが食べられるかもしれないと考え始めた時から、その考えは加速し、人間と話している時も、この人はどのようにすれば捌けるのだろういう思考は知らないうちに頭に浮かんでしまうし、愛猫にはここから包丁を入れたらたやすいだろうと筋肉の筋に指を入れながら撫でていた。安部公房の戯曲『人魚伝』の人魚の歯が捌く描写は心地よい。補足しておくと、人食をしたいという話ではない。

という、「他愛もない話」と非接触で犯罪性のない小児性愛者の話を比較し、小児性愛者への見え方の敷居を低くしようと試みた。しかし頭の中で描いていた話してもなんの後ろめたさもない「他愛もない話」は、その欲望を意識して言語化する時に、私は自分の欲望にひどく狼狽してしまった。私は殺生を常に考えている人間ですと、自分でも思いがけず告白をし始めてしまったように感じたからだ。しかし言い淀んではいけない。喋りながら心臓が早くなるのを気づかれてはならない。後ろめたさがあるそぶりが犯罪につながると思われるのだ、と喋りながら冷静を取り繕った。そして喋るほどに、意識するほどに欲望の輪郭ははっきりする。

意識つまり主体は、小児性愛者も(思いがけず)私さえも苦しみの中に閉じ込める。現代社会は無意識でいてもいい欲望の領域が狭くなり、主体の領域が増えている。意識は顕在化するや否や自分に帰属し、責任を伴う。欲望が暴れないように監視をし続けなければならない。ここに無意識の領域を多く持つ人々にとって、「生きづらい」社会の構造がある。また、犯罪性のあるなしに関わらず、主体の少ないとされている日本語の中に住む人々の多くは、この主体をはっきりとさせる社会構造との付き合い方に苦労している。

國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』では、主体がなく主題だけがある行動に苦しむ人々に、自分から行動をする能動態と他人の行動を受け入れる受動態だけでなく、なにかから行動が引き起こされる中動態という概念を提示することによって、自分がどのような状況に置かれているのかを知る手がかりをくれた。実際に『第9章ビリーたちの物語』では小説をテーマに人間の特性が引き起こす悲劇と現実社会にある法の限界と思考の可能性についても論じて見せた。中動態という概念は、苦しい心を少し解放してくれるテーマである。

さてここで、小児性愛者ではなく、別の角度から責任(というより言葉の方向性といったほうが的確)の話をしてみたい。私は常々気になっていることがある。それは「死ね」という言葉だ。「死ね」という言葉は命令形だ。別の言い方をすれば「死になさい」とも言える。丁寧語にすれば、「死んでください」。その方向は自分から他者へ向けられるのではく、他者が一人で行わなければならないものだ。言葉は、発語する側と受け取る側、そしてその両方がいる。しかし「死ね」の意味は、「あなたは死ぬべき(You should die.)」であって 「あなたを殺したい(I want to kill you.)」ではない。「死ね」の主題に「私(たち)」という主語はなく、「あなた(たち)」だけがある。

「私」は自己を意識化させることなく、「あなた」からの行動を引き出そうと試みる。「私」がして欲しいのではなくて、「あなた」がそうするべきなのですよと言葉を投げかける。この言葉を聞くたびに、死んで欲しい時は「死ね」ではなくて、せめて「殺したい」と言って欲しいと私は考える。どんなに威勢良く叫ぼうが、脅そうが、発話者には主体がない。行動は指名されたものだけで行われる。

なぜ「死ね」ではなく「殺したい」にして欲しいのかをもう少し説明すると、「死ぬ」のは「私」で、「あなた」は関与していないからだ。「あなたを殺したい私」がいることを意識化せず、欲望の言葉を使うのはあまりにも無責任すぎる。「死ね」ではなく「殺したい」であれば、「私」と「あなた」の間を行き来きする言葉として機能する。そうすれば世界は私だけの意識に閉じずに他者の中を循環をする。その言葉を受けとりたくなければ「あなた」から、距離をとればいい。

「死んで欲しいと思う人がいる」その環境から抜け出すのは、「私が死ぬべき環境」から抜け出すより簡単だ。それは物理空間がつくるものだからだ。私が何かから引き出されてしてしまう行動をつくる環境を抜け出すのは、原因がないゆえに解決策が取りづらく、とても困難だ。「死ね」という多くの人は知ってか知らずか、その言葉を発する自分を主体化させない。もし本当に死んでしまっても、「殺した」のではなく「死んだ」のだ。それは発話者とは関係なく、その言葉の対象が自発したことを指す。対象自身が「殺された」と言ったとしても(言った時には既に死んでいる状態であるし)、それは中動態的な意味での「殺された」であって、一人の円環からは抜け出せない。死んだ対象は、引き起こされた行動を一人で受け止めなければならない。私はこの場合の中動態を憎む。

私は、「小児性愛者の話」では、自分が手に負えない自己を常に監視するなんて苦しいので嫌だ、主体のない社会構造を求めているとを書き、「死ね」の場合は主体を出現させよ、責任を意識化させよ、中動態は危険だと書いている。この二つの話は矛盾している。しかし問題を切り分けることは可能だ。つまり、社会構造に初めから疎外されたものたちにとっては中動態は安らぎであり、社会に入るためには必要な機能を持っている。一方で、社会構造の中にあるものたちからすると、責任の所在や自己の主体を隠しながら相手の行動を引き起こさせる格好な蓑として中動態は機能する。アーレントが出した『ビリー・バッド』の小説の結論は、アレゴリー的過ぎて単純かもしれない。しかし國分がそれぞれの登場人物につけたす中動態的な解釈は、すべてを許しすぎてアーレントの言わんとしていることから遠ざかってしまうようにも読めた。私たちは受動態やの能動態と同じように、中動態の言語構造にも悩まされてきている。しかしそれが持つ、可能性や希望も否定できない。これからは國分の示してくれた社会構造の中で生きている中動態がどこに潜んでいるのか、またそれとともに生きる方法を探していきたい。

最後に。関西の人と話していると、話の最後を「しらんけど」「わかんけど」で締めくくる時がよくあります。「自分の話している内容を知らないの(無責任)?」と返すと、「そこつっこむな。関西人の優しさや!」と返されます。「私は知らないけれど、何かに引き出されて話しています」というこの言葉の構造も、中動態なのかな。

「子供に手は出さない」 若い小児性愛者の告白

http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-41812774
http://www.bbc.com/news/uk-41213657

 

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