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批評とは対象の概念を明るみにする作業である

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批評とは批評対象を歴史の中に位置付ける作業、ではない。それは結果だ。哲学者のジル・ドゥルーズは自身の論集『シネマ』の目的は「映画史の構築ではなく、映画的概念を引き起こす」(『シネマ』第1巻の英語版序文)というように、批評とは対象の概念を明るみにする作業である。

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批評によって引き起こされる「概念」とは何か。概念とは、「形式論理学で、事物の本質をとらえる思考の形式」であり、「内包と外延をもち、言語によって表される」である(デジタル大辞泉)。内包と外延は固定されたものではない。内包が違えば、外延の集まりは異なる。その逆もしかり。言語は内包と外延の関係をとりもつ。批評は言語により表される。しかし人は言語をあまり信用しない。

人はコミュニケーションを取る時に7%のみ言葉に頼るとアメリカの心理学者メラビアンは言う。7 %の言葉、38 %の声のトーンや口調。残り55 %はボディーランゲージがコミュニケーションにおける割合という実験結果を出した、いわゆる7-38-55の「メラビアンの法則」は、1971年の著書「Silent messages(非言語コミュニケーション)」によるものだが、現在のポスト・トゥルース政治にもつながる重要な指摘だ。しかし批評はこの7%で勝負を挑む。

私たちにゆるされた7%の言葉はどのように使えば効果的なのか。ソクラテスは、文章は技術ではなく形式が書かせるものだという。「技術として君のところにあるわけではないのだ、ホロメスについてうまく語る、ということはね。それはむしろ、神的な力なのだ、それが君を動かしているのだ」(プラトン初期対話篇『イオン』森進一訳)。

神(真理)の媒介者としての芸術家が作った作品は、それに触れた鉄が磁石に変化しその磁力により連なり合うように、真理(神)→作品(芸術家)→言葉(批評家)→世界(民衆)と、同じ力が作用した時に連なりを持つ。作用させる神的な力とは、それぞれの役に内在している質の方向性を変化させる力のことである。それは、概念の意味で引用した「事物の本質をとらえる思考の形式」と同義である。

神的な力とは、思考の形式と言い換えられる。注意したいのは、「事物の本質をとらえる思考の形式」を批評家が作るのではない。「事物の本質をとらえる思考の形式」は物事に内在されており、批評家がすべきことはそれを明るみに出す、鉄に内在されている磁石の力の方向性を整えることなのである。

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事物の本質をとらえる思考の形式を使い、対象の概念を明るみにする作業をすれば批評は成立するのかといえば、否である。むろん言語によって書かれたそれを読者に読ませるという次の作業が必要になってくる。

「現代文学・文化批評用語辞典」の項目AUDIENCEの一部を抜粋すると「作品の意味は、作者が意図した意味に限定されるわけではなく、テクストそのものに本来備わっているわけでもない。このような認識によって、オーディエンスの役割が強調されるようになった。それどころか、現代の様々な理論は、意味を生み出す際のオーディエンスの役割を重視する。たとえば、おおいに影響があった『S/Z』において、フランスの批評家ロラン・バルトは、「書きうる」テクストを理想とした。「書きうる(writerly)」とテクストとは、作家自身と同様な創造的役割を読者の側に割り当てるテクストである」。届け先の読者にいかに読まれるか、それにより作品の解釈の一部は変わってくる。

これは先に述べた真理(神)→作品(芸術家)→言葉(批評家)→世界(民衆)の矢印は一方通行(→)ではなく双方向的(⇄)であるということを示唆している。現代において真理(神)は世界(民衆)によってある程度書き換えが可能であるという認識の表れである。真理と世界の間にある作品(芸術家)や言葉(批評家)は、現代の双方向性に耐えうるものとして機能しなければならない。

批評再生塾講義内で劇作家の岡田利規は「初演をどこで行うかは演劇の制作に影響を与えるが、重要ではない」といった。この言葉を読み替えると「どこにむけて書かれるかは文体に影響を与えるが、重要ではない」ということだ。ここで示された「重要」とは、演劇の場合その後に各地で行われる再演への影響を指し、批評の場合その後の読者への影響を指す。制作/執筆時には強い影響を与えるが、完成した作品/批評文は発表後は、その時間と場所を問わなくなる。そして評論家の佐々木敦は批評再生塾講義を始め各所で発言している「何を言ったかではなく、誰が言ったか」まで含めると、批評が読まれる時には、初稿の場所性よりも作者が持つコンテクストが重要ということになる。

岡崎乾二郎は「墓は語るか」のカタログの中で、「言うこと、述べることは、自ら死すべきものとして身を投げ出す(横たえる)ことであり、そのときいまだ語られない、語られるものたちはそのまま、集められ、そこに保護される(匿われる=隠される)。すなわち言うことは、自ら露わにして、かえって手つかずのものたちをあるがまま匿う。見える言葉、聞ける言葉は死すべきものである。その言葉に托し語られている(=匿われている)ところのものは、姿を現さず(目でも見えず音としても聞けず)、ゆえにあるがままの生をとどめ、そこを行き交う」という。

書かれた言葉は墓碑(モニュメント、記憶装置)となり、書かれなかった言葉は自動的に秘密の領域へと移動する。「ゆえに何度でも新しく再生することも可能にする」。ニコラ・プッサンによって描かれた絵画『Et in Arcadia ego』で牧童は、墓碑の文字(われ、また、アルカディアにありき)は読めるが、アルカディアに墓碑としてのアルカディアを置くことでその意味(メメント・モリ)を知ることを閉ざし、かつてあった/今もなおある/これから先もありえる、円環の場所としてのアルカディアにとどまり続ける。

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少し角度を変えて10年前に創刊された思想雑誌「思想地図vol.1」の「創刊によせて」の一部を読んでみよう。

「2008年の今、少なからぬ書き手が、かつてのような論壇的あるいはイデオロギー的な位置取りに捕らわれず、率直に現代日本の課題に向き合い新しい読者を獲得しつつある。しかし他方で、彼らの言説が、その繊細で同時代的な問題意識ゆえに、グローバルなイデオロギーや理論から切り離され、外国との連携を失い始めていることも事実である。もしかしたら、私たちはいま、大変思想的に豊かなのだが、しかし、ただ日本語で日本について書かれているという条件のためだけにその豊かさが忘れられる運命にあるような、一種の袋小路の時代に入り始めているのかもしれない。」

2018年現在、批評を出版から見るとファッション批評誌「vanitas」、芸術批評誌「REAR」、「アーギュメンツ」、文化批評誌「アラザル」、「ヱクリヲ」、「PLANETS」、「クライテリア」、「ゲンロン」、「生活の批評」、演劇批評誌「シアターアーツ」2017年5月発刊予定の「紙背」等々あり、「少なからぬ書き手が、かつてのような論壇的あるいはイデオロギー的な位置取りに捕らわれず、率直に現代日本の課題に向き合い新しい読者を獲得しつつある」状況は、2008年よりより活発になっていると言っても良いだろう。

しかし、グローバルなイデオロギーや理論から積極的に距離を取り、日本の独自性を強調することがよしとされる世論が震災以降に強まったことも後押ししているからか、自動翻訳の発達や海外への敷居が10年前よりも飛躍的に低くなった現在も「彼らの言説が、その繊細で同時代的な問題意識ゆえに、グローバルなイデオロギーや理論から切り離され、外国との連携を失い始めていることも事実である」ことは引き継がれたままである。私たちはこの10年袋小路の入り口で、プッサンの描くアルカディアで憂う牧童のごとく時間を断絶することなく、ありえたかも知れない理想郷を思い描く円環の中にいるのか(そもそもわれわれは死者なのか)。それとも死を思う(死の断絶を取り入れることで時間を一方通行へ流す)ことができるのか。

批評とは対象の概念を明るみにする作業であると、タイトルにも書いたが私たちは私たちが何者であるのかを明るみにしなければならない。

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