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岸辺の旅

1)

デフラグ(デフラグメンテーション)とはハードディスクドライブ(HDD)の空いた隙間に断片的に書き込まれたデータを書き換え、連続した状態にする作業のことである。

HDDにフラグメンテーション(以下、断片化)が起こると、HDDの隙間に一つのファイルを複数に分けて、書き込まれる。その小分けにされたファイルを読み込む時、もとの一つのファイルへと読み込に直す。断片化されたファイルが増えると、読み込みに時間がかかる。今は自動処理によりHDDのデフラグの必要はあまり言われないが、かつてはPCの利用者自らが断片化を解消するためにデフラグの処理を行う必要があった。

デフラグは断片化と同様にHDDに負担がかかるため、頻繁には行わない方が良いとされるが、私はかつてデフラグ作業が好きだった。それはPCが最適化されて作業時間が短縮化するからではなく、飛び飛びに分散されたデータがあるべき一つの塊へと組み替えられるさまをデフラグツールが視覚化してくれるからだ。そしてブロックゲームのテトリスやぷよぷよやツムツムのような隙間を無くしていくような爽快感も、何もしなくても簡単に得られる。

2)

今回論じる『岸辺の旅』は、湯本香樹実の小説を2015年に黒沢清が映画化したもの。ピアノ教師(瑞希)の元に、なんの前触れもなく失踪した夫(優介)が帰ってくる。優介は生前と変わらぬ姿で、変わらぬ質量を持ちながらも、自身は三年前に自死したと言う。そしてこれから二人で旅に出ようと誘う。優介が連れて行くのは、死者として過ごした三年間で関係した人たちが生活を営む場所。瑞希は、優介と同じように死んでもなお現世で生き続ける人たちと旅先々で出会う。各地で死者たちは自分の想いを遂げ、現世から消失し、旅の最後には優介も現世から消失する。

収入の安定した大学病院の歯科医であり、時々は美しい同僚と後腐れのない不倫をし、優しく自分を愛してくれるピアノ教師の妻を持つ優介はなぜ突発的に自死を選んだのか。それは「自分でも直前までわからなかった病気」のせいであり、そんな自身の存在も「なんで俺は歯医者をやっていたのだろう」という、わからなさの中で起こった。自死とはこの世のステージから身体が放り出される出来事だ。現世から放り出された身体は「海の中でカニに食べられた」。カニのハサミに切り刻まれたかどうかはわからないが、身体はデフラグできないほどに断片化した。

優介を始め、この映画に出てくる死者は、シュレーディンガーの猫である。死せるものが持つ能力を発揮するが、生きている状態と同じような質量や神経感覚を持つ、生と死が重なり合った状態として現れる。亡霊や死者は、最終的に死んでいる存在であり、成仏するという結果がわかっているのなら、シュレーディンガーの猫にならない筈だが、映画の進行の中では死んでいるという結果を内包した描き方を避けることにより、死と生を一つの役の中に重なり合った状態としてとどめている。

3)

ホラー映画のほとんどは死者を描いている。死者という存在は、怖い。それは私たちがあの世を知らないからだ。知らないこと、これから知ることは、不安へとつながる。「記憶の空白=これから知ること=不安(ホラー)」。しかし『岸辺の旅』に出てくる死者は怖くない。それは生前と同じ生活を続けているからに他ならないし、映画の中の登場人物でさえ死者と生きている者の区別がついていない。一方で、『岸辺の旅』には不安な気持ちを呼ぶシーンも多くある。それは揺れるカーテンや、朝起きたら空っぽになっているベッドの凹み、何かの陰影。まだ知らない、これから知るかもしれないことが不安を煽る。空白は不安だが、必要な存在だ。

現世において断片化した心は、収納しきれないと人生がクラッシュする。ブロックゲームのテトリスのように、本来は「あの時どうにかできたかも知れない」隙間があるにも関わらず、ブロックは画面を埋め尽くし、これ以上何かを入れる余裕はなくなり、ゲームはオーバーする。

そのブロックたちをデフラグできたなら、生きる隙間(余裕)があることが明るみになる。ゆえに「死ななくてもよかったのではないか」と思える。『岸辺の旅』は、記憶をデフラグする旅の物語でもあり、死の状態とは、記憶とはなにかを問う物語でもある。瑞希と共に旅をする優介は、心に余裕があり、自死しなくてもよかったのではないかと思える。しかし優介の心の余裕は死後に、旅というデフラグを行ったことで生まれた空白であり、生前には残念ながらそのデフラグは行われなかった。生きている瑞希は、記憶のデフラグの旅を行うことで、優介や他の死者たちの断片化された生活を一つに読み込み直し、自身の生活に笑顔と活気を取り戻す。そして、死者である優介の元へ共に旅たたず、いつかの再開を約束する。

4)

他の映画にも目を向けてみよう。神秘思想家グルジェフの自叙伝を映画化したピーター・ブルック監督『注目すべき人々との出会い』(Meetings with Remarkable Men:1979年)でも、描き方は違うが、生や記憶がテーマとなっている。ある時、少年グルジェフは、死んだ後の人間はどうなるのかと父に聞く。父は、身体が死んだ後も「何か」はしばらく続くと答える。

少年:人間が死んだら何も残らないの?

父:そうだな……

父:魂が残ると言うが、わしはそう思っておらんのだ。

父:だが私は疑いもなく信じておる。

父:人間はある経験を通じて、自身のうちに繊細な何かを育くむことができる。

父:この何かは死ぬときに一緒に消滅しない。

父:ずっと後だ。

 

またある時、笛の練習をする少年グルジェフは、ふと疑問を持ち父に尋ねる。

少年:語り部は誰から習うの?

父:親爺からさ

少年:その親爺は誰から?

父:そのまた親爺からって具合さ。

少年:その先は?

父:神に行き着く。

 

グルジェフ少年は青年になり、自分の存在理由、つまり語りや記憶の行き着く先の「神」を知るために秘密教団を探す旅に出る。持って生まれた魂が漂うのではなく、経験を通じて育んだ何かは残る。恋人や家族、友人と継続的な関係を持つことは、うっとおしい反面、安心だ。複数の人々が私を記憶し、私が複数の人々を記憶し、何かを育くみ、身体がなくなった後もこの世に長くとどめておく。「記憶の継続=知っていること=安心」。

また黒沢清の愛弟子、清原惟が監督した映画『私たちの家』(2017年)では、母(桐子)と14歳のセリの生活と、透子と記憶のないサナの生活が、交わることなく、同じ時に同じ場所で営まれる。あの世とこの世のパラレルの物語でも、サスペンスでも、SFでもなく、しかしそれらの要素のすべてがかいま見れる。家自体が生き物のように育んだ「何か」の気配を、家主の身体がなくとも、音や光として描くことで、不安と安心を感じさせる。物語の矛盾の説明をせず、設定だけが明確にされ、映像の展開を進めるその手法は黒沢清的であり、教え子である清原が黒沢清に何をみたかが、わかりやすく描かれている興味深い作品だ。

5)

デフラグはしすぎるとHDDに負担をかけ、断片化しすぎた時のように、その寿命を縮める。当たり前だが、人間の記憶はPCのように簡単にデフラグできない。ゆえに映画の中の優介が自死をしたことを見ている私たちは疑問に思わない。映画の中だから、会えない人に会い、謝れない人に謝り、誓えない愛を誓うことに疑問を持たない。そして人間は行き着く先が「神」というどこだかわからない語りを持つがゆえに、自分と他人の境界が曖昧になり、記憶をデフラグすることができる。記憶をデフラグすることができるゆえに、映画の中に自己のリアリティを投影できる。

黒沢清『岸辺の旅』は、その構造を使い、散らばった断片の世界を描いている。

 

 

 

文字数:3170

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