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人には三日しかない 昨日今日明日

人間は可能性の中に放たれ、その身体は可能性に閉じ込められている。人間が可能性の中に放たれているというのは、人間は時間の概念を作り出すことによって、過去や未来を生きることができるという意味である。さらに映画や文学によって、他者が作った自身の身体だけでは体験できない圧縮した時間を体験する術も持っている。一方で、1つの身体は1つの空間、1つの時間の中に閉じ込められる。身体が閉じ込められているからこそ、人は別の空間や時間や身体の可能性を映画や文学の中で体験するのかもしれない。

いくら想像力や記憶力が飛躍しても、メタな視点を持ったとしても世界のすべてを認識することは不可能に近いし、私たちの身体には限界があり、群盲が象を評すようなことしかできない。しかし私は、身体は可能性に開かれていないと書かず、可能性に閉じ込められていると書いた。これからその言葉の意味を見ていきたい。

・クリスチャン・マークレー『The Clock』

監督本人でさえ、最初から最後まで通して見るのが困難な映像作品がある。クリスチャン・マークレー(Christian Marclay)『The Clock』(2010)は、古今東西の様々な映画をコラージュした24時間の映像作品だ。この映像作品はあるルールに則って作られている。それは現実の時間に即して時計の写っている映画のシーンを繋いでいる。切り取られた映像は、次の時が刻まれる前、つまり最長でも1分以内のコラージュだ。私が10時15分に彼の映像作品を見る時、映像作品の中の時計も10時15分を指している。映像の圧縮を解いた作品だ。

映画とは何かという大きな疑問は、内容/形式共に領域が曖昧になりすぎて、その答えは用意できない。では映画を見る身体はどうだろう。映画が始まった1890年代は、政治などのニュースも映画館で上映された。フィルムに写されたすべて映像はドキュメンタリーだろうがニュースだろうが、ドラマだろうが、ジャンルを問わず映画館で上映される映画だった。映画と映像は同義語だった。観客の身体は映画館という環境に閉じ込められていた。

その後、1950 年代にテレビが一般に普及すると観客の身体は不特定多数の人が集まる映画館から解放され、鑑賞場所は個人の領域となった。さらに1970年代はカセットテープレコーダー、つまりビデオが一般家庭に普及し、不特定多数の人々が同時に見る時間から解放され、時間が個人の領域になった。2000年代にはモバイル技術の台頭で場所と時間がさらに解放され、観客は個人からポスト個人となった。

話は逸れるが、私が共同オフィスをもっている神楽坂のビルの地下には、2016年まで「くらら劇場」という成人向け映画館があった。映画館の存在を知った時は、不特定多数の人々が同じ空間で同時にポルノ映画を観るという行為が21世紀にも行われていることに驚いたが、ビルの家主でもある映写技師によると、映画館は自宅では妻の目がある高齢者の憩いの場だという。映写技師としては、フィルムからDVDの放映になり、技術的な楽しみがなくなっていた。観客がポスト個人になった現在といっても、これは1つの論で、すべての人間がそのようになっているわけではないことに留意したい。

・時計としての映像作品

クリスチャン・マークレーの『The Clock』を映画と記述せず、映像作品と書いたのは、映画ではないという意味ではなく、タイトルの示す通り、時計として見るのに適した映像構造を持っているからだ。映像は24時間の尺だが、通したストーリーがないゆえ、途切れなく繰り返す毎日の時間をすべてこの映像作品に置き換えて、見続けることが可能だ。

ストーリーがないとはいえ映画の中の24時間は私たちの退屈なルーチンワークとは違い、様々なアクシデントやイリュージョンが起こる。24時間365日、この作品がどこかで流れ続け、私たちは「今、何時だろう」と目を向けると映像作品が時を教えてくれる。実際マークレーも、「私はこの作品はパブリックな作品として、空港や駅など人々が待ち時間を過ごす場所で見せられたらいいとずっと思っていました。」*1)と発言するように、公共的な場所で時計の役割としての利用を視野にいれている。

では、時計が示す「時間」について時と空間とで見てみよう。今いる場所からぴょんと跳ねて、1秒後に30cm違う場所に存在することは可能だ。自転車に乗れば1秒後にもっと遠くで存在ができる。新幹線に乗れば1秒後には88.8m離れた場所で、存在できる(*2)し、2019年春には最高速度が360km/hの新幹線が試験運転される見通しだ。

人々の身体は技術を使い、より早い空間移動を実現しようとする。その空間移動の時間を縮めて、1秒後ではなく0秒後に別の場所に移動できれば、世界に私は二人存在することになる。そうタイムマシンの完成だ。しかし、私たちは光速よりも早く移動(1秒に世界を7周半という小学校で習うアレ)できず、0秒後の移動の前に、1秒後に約30万kmの移動の壁を越えられない<不可能な世界>が広がっている。橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』によると、この過去でも未来でも現在でもない不可能なタイムマシンのような世界を「あの世」や「非因果的領域」と呼んでいる。

「不可能な世界を有している私が存在する」の図

右と左に斜線を引いたエリアが、自分が1秒間に世界を7周半以上の移動が可能な場合に存在できるであろう、<不可能な世界>。それ以外の領域は、理論上は存在が可能だ。人は、過去を固定されたものだと思いがちだ。例えば「あの時、あの場所に自分がいたから今、自分はここにいる事が可能だ」と。だが実際は、過去は他の場所でも存在可能なのである。なぜなら未来は現在を軸に、過去を反転して同じように可能であるから。

つまり未来も過去も現在の自分の存在という小さな1点を除いて、「自分が存在しなかった世界」の集合で構成される。いわゆるパラレルワールドの可能性だ。「あの時、彼(彼女)に告白していたら……。」的なパラレルワールドは、「あの時、彼(彼女)に告白していた」場合に、存在している自分の場所や唇の動き、空気の振動が可能である。現在の自分の存在が可能なのは、0秒後に世界中(というか宇宙までも)に移動できる、つまり同時多発的にこの世界に自分が存在している、自分が世界を埋め尽くしている<不可能な世界>を有している場合である。そうやって世界は存在している。最初の方に書いた、可能性に閉じ込められている身体というのはここに由来する。

・身体は記憶に閉じ込めきれない

そうやって可能性に閉じ込められているが故に、可能性の中に位置している私たちは、現在の全てを覚えていることはできない。それが大切な記憶だとしても。現在は過去になり、過去は遠くに過ぎてゆく。映画『東京物語』の紀子は戦死した夫の昌二を忘れ、なにかを待つ自分がずるいと義理の父に告白する。

「でも、このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。私、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら一体どうなるんだろう、なんて。夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」

紀子のずるさは、過去が理想とするであろう現在を生きていない後ろめたさと、未来への可能性を持っている身体への期待に由来する。しかし過去が理想とする現在は、ゲームのようにやり直しはきかない。過去へ戻ることが可能だとしても、現時点を変えることはできないという理由で、今がバッドエンドだとしても現在において過去に戻って現在をトゥルーエンドへ変えることはできない。しかし過去が変えられる可能性と同様に、未来の地点を変えることはできる。紀子の住むこぎれいに掃除はされてはいるが、寂しい雰囲気の漂うアパートを構成している時空から抜け出すことは可能である。そのためには、後ろめたさを克服する必要があり、後ろめたさを克服する身体としての忘却の力が、紀子には宿っている。

「こりゃぁ、お母さんの時計じゃけえどなぁ。今じゃこんなものも流行るまいが。お母さんが丁度あんたぐらいの時から持っとったんじゃ。形見に貰うてやっておくれ」

義理の父、周吉は紀子の告白を聞き、妻の形見の時計を渡す。時計は時を刻む。映画『東京物語』のこのシーンが『The Clock』に使用されているかどうか、現在公開されていないので確かめる術が私にはないが、映画における時計の役割というのは、場面転換や重要な時を観客に教える(例えば、爆発までの時間など)場合に使用される。周吉は紀子の時を進ませる、重要な場面転換をした。

私たちの身体は1つの場所に縛られているが故に、(私が存在していたかもしれない)可能性が充満している時の中に生きている。身体が存在できなかった膨大な時間は、時間を圧縮した映画や文学の中で生きることができる。クリスチャン・マークレーの『The Clock』では、その圧縮を放ち、時計と同じ構造を持たせることで空間と同期させた。単純に1分に1つの映像が入るとして、重複しているものもあるとはいえ1,440本の映画を観ることになる。現在の観客としての私たちの横には、時計を見るように現在を確認するように、映像が横たわる。


*1 クリスチャン・マークレー「The Clock」
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/iA2gWGzXUkqv0nhO3y4C
*2 速度を320km/hと仮定

 

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