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「グロテスクな塊のような状態」

1.《私》は、与えられている役わりが理解できない(冗長なセリフは、自分の役わりを理解できていないことを示している)

私はいつも、「私はこんなにも強く、あなたがかくも弱い人間である」ことに戸惑いを隠せない。もっと言うと、「私は弱く、あなたが強い人間である」ことも理解できていない。弱い/強い、という言葉を使ったが、これには二つの意味がある。一つ目は心と言われるような意識。二つ目は社会に身を置く身体。この二つの役わりの話である。

私たちは、生まれた時から社会の一員として、何かしらの役を与えられている。与えられるのは一役ではなく、複数の役。成長するにつれ変わる役もあるし、一生を通じて変わらない役もある。そして困ったことに、その役を与えられたことを教えてもらえない場合がある。教えられない場合の方が多いといった方が正しい。そしてその役には、複数の意味があることも告げられない。役と自分は馴染まないのに、その配役を押し付けられる時も多々ある。困ったことに役を降りたくても、誰もその役を変わってくれない。

小学生という役を与えられる時、入学式というセレモニーやランドセルなどの小道具によって、成長の次の段階の役を演じなければいけないことを言葉と環境とともに痛烈に知らされる。夫や妻という役を演じる時は、婚姻届や結婚式などを通して、その役になる意味や立ち振る舞いを知らされる。先輩役者でもある親から、夫/妻の演じ方を教わる。そんな風にその時々で役の意味を、周りからなんども言葉や物を通して教えられたり、自問したりする。

『三月の5日間』で、ミッフィーちゃんは自分がかつてうまく演じた学生時代を思い出す。映画館では<彼女>という役を早急に獲得しようと、冗長に相手に詰め寄る。その役が自分にふさわしくないのではないかという不安を口にする。だんだん自分が社会に与えられている役まわり、その全てがうまく演じられていないのではないかも知れないことを口にする。ついにミッフィーちゃんは、何かわからないがうまくこなさないといけない役まわりを与えているこの惑星からの脱出の願望を口にする。その役を与えているのは地球なのか。火星には役を与える何かは存在しないのか。

岡田利規は、『遡行 変型していくための演劇論』の中で、「言葉と仕草の関係は、つまりこうです。線が引かれるとするなら、それは<イメージ>と言葉の間に引かれます、また同時に<イメージ>と仕草の間にもそれが引かれます、したがって言葉と仕草とは、<イメージ>を介した間接的な関係をしか、結びません。」と言う。<イメージ>を<シニフィエ>とも発言しているが、<イメージ>をあえて別の言葉で言うなら、それは<役>なのではないか。

言葉が動きからスリップし、冗長なのは、自分の意識と役とのずれから、起こる/起こっているからではないか。社会生活とは、常にそのズレを起こっていないように見続けないことを続ける生活であり、岡田利規はそのズレを『三月の5日間』で演劇に過剰に取り込んだ。評価の対象外である社会の中での意識と役とのズレ、つまり日常の演技を舞台にあげることは、おかしみを生む。この場合のおかしみは、見ようとしていない、見えていることを、見てしまった時におこる感情だ。

2.《あなた》は、私の役わりの意味を、私に問いただす(あなたは、自問する私でもよい)

私の性別は「女」であるが、「女」には性別以外の意味もある。生まれた時に与えられた性別の方ではない「女」は、演じなければならないことはあまりはっきりと教えられない。けれどその役は、成長とともに社会の中で重要な地位を占める。うまく演じられないと社会から疎外されがちというのは、環境が教えてくれる。もちろん「男」もしかり。その役になじまなくても、降りることはできないし、原則的に変わってくれる人がいないこともだんだん理解してくる。

私は生まれただけなのに、与えられた役を演じないと非難される。それと同時にあなたがうまく演じてくれない事を、非難する。「あなたそれでも男なの?」と。そんなことを言われても、どう演じていいのかわからない。僕はキミより弱いのに、女は男に虐げられていると言われてもピンとこない。かつては男もいばっていたと言うけれど、もうそんな時代じゃなくなっているんじゃないかな。それに文句を言うなら、具体的にこの役の意味をおしえてほしい。動きの指示をしてほしい。指示されても自分が演じられる自信がないけれど。日常は、自分と役の間の戸惑いやズレの軋みに満ちている。

2011年3月以降、日本中で大きな配役変更があり、人々は混乱をきたした。変更した配役のことは詳しくは聞かされていないけれど、今まで以上にうまく演じなければいけないという命令がどこからか発令された。そこで人々は、誰かが東京から九州に引っ越したなら、東京から引っ越さない役を演じる人は、それを演じない人を非難することで、自分の役をうまく演じていることにした。あいつは慌てん坊のバカだというセリフは、自分の立ち回りの良さを強調する言葉だ。あの食品を買う/買わないのはバカで、あの場所に足を運ぶ/運ばないのはバカで、あの発言をする/しないのもバカだ。自分の役の正しさをどうやって証明するのか、正しさがどうやって存在するのか考えられない人たちは、相手の役の間違いを指摘することで、自分の役の正しさを引き出そうとする。

あの空に青い雲がかかったのは、不吉な前兆である。『現在地』では、地球ではないどこか(火星と木星の間?)の村の一部の人たちは他の惑星へと飛び立つ。一部の人たちは、村に残る。どこかへ飛び立てば、不吉なことを受け取る役から逃れられるのか。その役わりを与えているのは惑星なのか。火星より向こうへ行けば、役を与える何かは存在しないのか。『三月の5日間』では火星へ、『現在地』では火星と木星より向こうへ、役つまり<イメージ>から逸脱できる可能性を岡田利規は描いている。<イメージ>の出どころを探ろうとしている。そして重要なことは、逸脱の可能性や出どころを描いてはいるが、逸脱が良いことだとは描いていないし、出どころが重要だとも断言していない、それらを目的としていない。社会の役を舞台の役に落とし込むことで、イメージを分解する。分解は理解であり、崩壊でもある。

3.《本当の自分》を発見すると、本当ではない自分はどこへ行くのか(身振りはどこへいってしまったのか)。

人間は生まれた時に、身振りを持っている。声を持っている。声はそのうち言葉になる。言葉は世界を崩壊させる。言葉は認識となり、母親と乳が別のものだと理解させる。世界はママとマンマに分裂する。全ての四つ足のワンワンは、にゃんにゃんや、もーもーさん、おうまさんとバラバラなり、分裂していく。花の名前を覚えるたびに、国の名前を覚えるたびに、風景は粉々になり、地図には亀裂がはいり、世界は分解していく。理解をとおして世界が繋がって行く、一つの世界を俯瞰して見れるという幻想をよそに、言葉を覚えるたびに、理解をして行くたびに、世界は粉々に分解していく。

20世紀になり海から魚が消えた。というのはオーバーな表現だろうか。しかし実際に分類学上、魚類は存在しなくなった。キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』によれば、魚類は単系統ではないのだから、それぞれの魚の元の系統から分類しなおさなくてはいけない。コンピューターが飛躍的な発展と遂げ、ビックデータと遺伝子レベルで分類をする分岐分類学が発達すると、人々はありとあらゆるものを細かに理解、分解していった。その結果、海には魚というものは存在しないという結論に至った。

魚という身振りはどこへ行ってしまったのか。ナンセンスな話に聞こえるが、私たちは見えない遺伝子を見ることで、見えている魚の存在を証明できなくなってしまった。粉々になり消えて行くものは魚だけではない。現在進行形で、さまざまなものが消えさろうとしている。人間は、統合を目指して分裂の最中にいる。

ただしい役を演じ続け、ただしい認識をもった人たちは、身振りを手放した。もう、火星や木星へは行かない。代わりに分裂の向こう側へわたった人間がいる。『部屋に流れる時間の旅』では今まで可能性として描いていた逸脱を、現実的な形で具体化した。これは身振りを手放してしまった人間へのアイロニーなのか。なぜなら岡田が<イメージ>と呼んだ、私が<役>と名付けた、生とは簡単に分裂の向こう側へとはいけないのだからと、死を描くことで解決できる話ではないのだから。

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