印刷

Taking the first steps on the first snow of the season.

はじめに

「すべての歴史は現代史である」とクローチェは言いました。

過去を語る私は、現在を生きている。言い方を逆さにすると、現在の理屈や制度で物事を考えている私によって理解された過去が語らている。現在の理屈ってなんだろう。外を歩く時は靴を履く、お腹が空いたらご飯を食べる、人を殺してはいけない、物はお金を払って買う……等々。

今と違う制度や理屈だった時代を見てみよう。例えば、肥料として価値のあった人糞とそれによって実った大根を交換していた、つまり貨幣経済の周辺の活動も残っていた江戸時代を見た時、「江戸時代はエコロジカルだった」、「合理性を持った時代であった」、「貨幣経済が行き届いていない文明の発達の遅い地だ」、「衛生的ではない」等々の考えや感情が想起される。これ以外にも様々な見方はあるが、人糞と大根を交換していたという事実を歴史家が書き記す価値があると判断したのは、現在とは「何か」が違うから記録に値するべきものだからだ。

現在とは違う「何か」とは、少しむつかしい言い方をすると、現在に内包された問題のことを指す。現在に内包された問題が価値のあるものだとして評価していることを意識することは歴史に責任を持つ上で重要なこと。なぜなら歴史家がその評価基準を持つ存在であるから。補足すると、ここに書いたのは、「困った」という意味の「問題」ではなく、問うこと、考える対象として価値のある事象を意味する。

さて。分かったような分からないような気がするけれど、前述した「人を殺してはいけない」は、その時代の理屈ではなくて永遠に続いている絶対的な倫理では?という疑問を持つ人がいるかもしれない。確かに人が人を殺すことはあってはならない。しかし制度がそれを許す場合がある。その代表たるものは、戦争。戦争はそれ以前の制度やルールや規範を歪める。戦争の最中に、目の前で友人を失う事もあるし、望まずとも誰かの命を奪う事もある。しかし一般人の場合、戦争が終わった後で人を殺した人々に対して殺人や暴力の問題を追求されることはあまりない。なぜなら制度で許された上での殺人、仕事上での暴力だからということを了承した視点を、私たちは持っているからだ。

今も世界のどこかでテロや戦争が起きている。人が人を殺す制度を了承した世界で、私たちは今も生きていまる。これを書いている私も、読んでいるあなたもその制度の中で生きている。人が人を殺すことを悲しいと思い、できればその制度がない世界に生きたいと願いながらも、戦争という制度を理解している。私は戦争も問題だけれど、「戦争という制度を理解できる私たち」を問題にする社会、別の言い方をすると異質だと感じる社会になることを願っている。話を戻すが、そんな風に理屈や制度を通して作られた社会の内側に住んでいる私たちは、世界を変容させるために、現在の中に問題を見つけ出す外側の視点が必要となる。

芸術は問題を照らすことで、記録ではなく、記憶を作る

「すべての歴史は現代史である」と言ったクローチェは、イタリアの哲学者であり歴史学者。上述の言葉は歴史学者に向けられて書かれたものだが、私には現代に生きるアーティストに向けて書いているようにも読めた。現在に内包された問題を通して過去を記録する。ただし歴史家とアーティストが違う点は、アーティストは過去を記録する存在ではない。現在に内包された問題を通して、作品を制作する。勘違いしやすいので補足するが、社会的な問題を取り扱うのがアーティストだとは私は言っていない。現代美術家は、現代という視点を持って作品を制作していると言い換えるとわかりやすいかもしれない。

その話法だと、どの時代のアーティストだってその時代の視点をもって制作をしているのだから、現代芸術家となるのでは?との疑問がすぐに浮上する。確かにその通り。どの時代のアーティストもその時代においては「時代のアーティスト」であると言える。フランスの印象派の時代、1830年代ごろから現れたコローやミレーなどに代表されるバルビゾン派と呼ばれる人たちは、牧歌的な風景画や農民の暮らしを描いていた。今からみると牧歌的な画だ。

しかしそれは技術の面から見ると、絵の具の開発が進み屋外でも制作活動ができるようになった結果として生まれた技法やモチーフであることが理解できる。環境の面から言えば、ヨーロッパ全土で問題になっていた都市部の環境悪化に対立や抵抗した絵画でもある。以上のことをまとめると、産業や科学が花開いた時代に都市部への批評的なまなざしが描かせた絵画とも言える。このように現在の問題を内包することのできる芸術は、人々に今を考える視点を与え、その結果として社会から自立した存在として関わることができ、高い評価を与えられる。

もう少し最近の話をすると、現代美術に与えた影響力の強さから今なお作品を目にする機会が多いマルセル・デュシャンは、インスタレーション作家という名称が一般化する以前のダダイズムという第一次世界大戦の厭世的な雰囲気の中で生まれた芸術運動の中心的人物だった。彼の代表作の一つ『泉 Fontaine』はご存知の方も多いと思うが、市販の男性用便器に、「ばか・のろま」という俗語Muttを用いた「R.Mutt」とサインをしただけの既製品、レディメイドを芸術作品として展示したことで物議をかもした。

現在は既成品を芸術作品とする風潮は一般的だが、当時はアーティストの手仕事の痕跡にアウラが宿り、作品を作品たらしめていると考えられていた。デュシャンの作品の、アーティストの手仕事の痕跡の無さや工業製品や日用品を美術の枠組みに組み込もうとする姿勢は、芸術作品として認めうるものの理論から逸脱していおり、出展料金を払えば誰でも展示ができるはずの展覧会、アンデパンダン展から拒否された。反対者から破棄されたとの見方もあるが、作品を紛失されてしまうという事態も起こったのは、当時の芸術の世界からすれば、理解の範囲を超えた作品だったからだ。

それにしてもなぜ『泉』はそれほどまでに世界に影響や刺激を与えたのか。便器という普段はパブリックな場所に展示されないものだからか、それとも上品なはずの展覧会場に下品というイメージを持ってきたからなのか。自分で制作していないものを、自分の作品として展示しかからなのか。

それら全ては正しいが、一方でその事柄は、当時の状況を語ったに過ぎない。デュシャンは、その当時の思想や理論の中にある「問題」を作品の中に内在化させることに成功したのだ。見えなかったことを見えるように作品化するには、その対象、当時の制度や風習や思想を十分に知っている必要がある。十分に知っているというのは、広く知っているという意味ではなく、深く考察しているということである。

観客は作品を通し自分の頭の中の認識や空間を体感する。デュシャンは展覧会場という空間を超えて、世界という空間に抵抗しえる効果的な作品を的確な時期に投入したのだ。芸術作品の正当性と、その時代の正当だとされているもの中に揺らぎをみつけ、その問題を作品の中に内在化されることで、人々は社会から独立した視点でその作品を眺めることが可能になった。それは同時に、自分たちが世界はこのようにあるという、揺るぎない土台を再定義しなおさねばならない危険な視座でもある。

第一次世界大戦の最中、『泉』を芸術作品として鑑賞する行為はアートの世界を超えて、その後の世界の見え方も変えていった。デュシャンはものの見方のルールを変えたのではなく、変わるべきルールを明確に打ち出したのである。これは物事を十分に考察して行動すれば、世界はほんの少しの力で大きく変わっていくという事実をまざまざと見せ付けられた一つの史実だ。

このエッセイで何を書こうとしているのか。

日常が突如、繰り返さなくなってしまった街と芸術

2011年3月11日、東日本大震災が発生しそれに続き原発事故が起きた。私たちはこれから書き記される歴史の中に生きている。未来の視点を持った人たちは、この時代をどのように記録していくのだろう。未来の人と言うのは、震災以降の視点を持った人とも言い換えられる。その視点が気になって福島を見ていた私は、後に土湯アラフドアートアニュアルという街全体を使った芸術祭の総合ディレクタとして芸術祭に携わることになった。私はこのエッセイで、アラフドアートアニュアルをひもときながら、どのように意識が形を持つのか、人々の文化への関わりを問いたい。

街中を使った芸術祭という大仕事を任された私は、普段はディレクタではなく現代美術というジャンルで制作活動をしているアーティスト。拠点も東北ではなく、猫と一緒に東京に住んでいる。現代美術の中でも、彫刻や絵画ではなく、インスタレーションやコンセプチャルアート、リレーショナルアートといった少し聞きなれない表現方法をベースにしている。企画の手腕があり、土地に詳しくて選ばれたディレクタではない。謙遜でもなんでもなく、行きがかり上、任されただけである。

福島県福島市土湯温泉町の運営員会も芸術が好きだから芸術祭を開催したかったのではなく、放射能の影響で人がいなくなった町並みに彩りを添えたいという気持ちと、町おこしの手法として芸術祭は近年流行っているらしいという新聞の情報を信じ、芸術祭を取り入れようと考えた。夏休みが終わり、紅葉が始まる前の人の少ない時期に人を呼びこむための手段としてのお祭だ。私は、私たちが何をみているのかを探り、町の人たちはアーティストが見ている世界を町おこしとして利用する。そうして、アラフドアートアニュアルは始まった。

福島県福島市にある土湯温泉町は212世帯432人が暮らす、山の谷間の小さな温泉町。震災後、16件あった温泉旅館は震災から1年後には、1/3が廃業に追い込まれた。「フクシマ」が大きく町を覆い、地震や原発事故のあったこの土地に危機が訪れたという話は想像に易いと思う。とは言え2012年8月、私が初めて訪れた土湯温泉町で見た街の景色は、山の中なので津波の被害はないし、地震で倒壊した建物もない。放射線量が高くもなかった。他の、例えば福島駅前などの多くの場所は除染作業をし、放射能値を低くしている。しかし土湯温泉町は除染作業をしていない。その必要がないのだ。

山の谷間に位置する町に流れる川と、川が運ぶ山からの風。放射能はみなさんご存知のように留まる場所があるとその値が高くなる。それが酷いとホットスポットと呼ばれる。土湯温泉町は幸運にも、川の流れにより、海側ではなく山側から風が吹き続け放射能が留まらずにいたのだ。つまり、震災によって変わってはいるものの、自然環境の激変はない。しかし町の旅館の1/3は廃業になった。

変わらないのに、変わった。その変化の要因の大きな一つは、経済の問題だ。宿泊客が来なければ旅館業を営むことはできない。リーマンショックから経済の低迷していたこの土地に、フクシマが追い打ちをかけた。人々は放射能をおそれ、来客数は減り、旅館は従業員払うための給与の貸し渋りを銀行はする。そして温泉宿には破産宣告の張り紙がされ、従業員は他の街に移り、空になった旅館には足場が組まれ、地震でも津波でもなく、建物は人の手で解体されて、更地になる。

地震でも津波でもなく、人の手で建物は更地になる。町の景色は、人の手によって変わっていく。人の手と書いたが、より進んで書くと、人の「あそこは放射能で汚れているフクシマだ」という意識が、町並みを変えた。人の意識が変えた町並みとどのように関わればいいのか。人の意識とどのように向き合うことができるのか。穢れの意識が、町の風景を変えた場所での活動を記すことで、それを探りたい。アーティストは作品を通してものの見え方を変える、世界を変えるというけれど、この町のように一年で町の1/3の建物をなくす劇的な変化を生み出す、意識の変化をどのように捉えるのか。それは一般には「風評被害」と言われるが、その言葉を使わずにその事象を見ていこう。

各年のテーマ

まずは、各年のテーマからどのように意識を見て行ったのかを読み解く。この芸術祭は、アーティストの他に、主に総合研究大学院大学の奥本さんの協力のもと、例えば風やカラス、遺伝子などといった研究者の協力を得て、環境や展示の読み解きをしていった。

2013年

震災後、何も考えずにすごせた日常から、生活の小さな選択ですら自分の態度の正しさを迫られる状況が続いた。 私たちは正しさがどのように存在できるのかも考えず、誰かの正しさを非難するばかりだった。望まぬ形で急激に変化した日常を生きる私たちにとって、自分の思想ではなく、思考の理論を丁寧に見ていく必要があると私は考えた。その手法として、身の回りの事象を丁寧に見ていく。見続けることは、事象が持っている様々な属性や背景に見ている人が能動的に気づくことだ。初年度のアラフドアートアニュアルでは、『言葉を超えた対話の可能性』を掲げた。

2014年

2013年は物事を理解する手法として観察を通した作品との対話を試みた。2014度もその手法は引き続き持ちつつ、その対象と自分との関係を見ていく。強度があるがゆえに制度化されてしまう思想をいかに回避し続けられるか。私たちの周りにある物事は、全てが受け入れられるものではない。時にははねつけなければならないものさえある。しかし、受け入れられはしないけれど、はねつける事もできない問題も同時に存在している。そのような問題を作品との関係と置き換える。作品は「奇妙な他者」のような存在だ。友だちでも他人でも敵でも味方でもない、私たちの問いかけによって現れる不思議な存在である。私たちは奇妙な他者とどのように存在していけるのか問う。この時はその事象を「トレランス(寛容)」と呼んだが、しっくりこず、マジョリティのあり方を考え直し、現在は他の言葉で問い直す必要があると感じている。

2015年

当初は『Slight Shock/微震』というテーマで考えていたが、芸術祭は諸般の事情で福島市での開催は今後不可能となり、北アイルランドで『When the Wind Brows –風が吹くとき-』というタイトルで開催された。本展のタイトル「風が吹くとき」には複数の意味がある。山と川が運ぶ風に守られ、放射能の影響が福島市で最も少ない土湯温泉町。しかし、風から聞いたという根拠の無い噂で、町の経済に打撃を与えられた町。その作品たちを展示する今回の舞台のイギリス領の北アイルランドのポートダウンでは、冷戦時代に作られた核シェルターをモチーフに作品を制作した地元の芸術家たちも参加した。風が放射能を運び、だんだんと死に向かう老夫婦を描いたイギリスの有名な漫画。風に守られる/風にそそのかされる/風に蝕まれる。様々な意味が、この展覧会のタイトルには含まれている。私たちの想像力がつくる現実は、どのような形なのか。今ある政治にとらわれず、文化や芸術の力を養うことで、その試みはなされる。

2016年

『Place as an extension of Body – artists and cultural agendas』この年は、私がキュレータとしてアラフドアートアニュアルの情報展示と、アーティストとして震災後に関わる契機となった作品の再構成した展示、ロンドンと福島をどのような身体感覚で見て行くのかと言う小規模なインスタレーションの展示を行った。身体だけでなく時間的にも震災からはなれつつある記憶をアーティストとしてどのように書き留めて行くことができるのかを考えた。展覧会の規模の小ささと、ロンドンでの影響力のなさを考え、2017年に向けてのディスカッションをメインとした企画にし、4週間の滞在期間中に5度のディスカッションイベントを行った。

芸術 /町おこし/復興

地元の有力者が復興資金を私物化したお祭り

2014年は諸般の事情で福島市に誹謗中傷のメール等が送られてくるようになった。もちろんすべての人間が喜ぶことを行うのは難しく、芸術祭の開催を快く思えない人はいる。その人たちが言う言葉を要約すると、「復興にかこつけ/地元だけで楽しみ/ただのお祭り」という3語に尽きる。復興/地元/お祭りとは何か。別の言い方をすると、「大義の裏に隠れている/全員に開かれていない/その場限りで生産性がない」と批判をしているのだろう。ある共有されると信じられている正しさを持ちだして、それに沿っていないと批判をしているのだ。個別性ではなく、共通性があり、正しさの強度がありそうなこの批判の言葉について考えたい。

若者の復興による町おこしがもたらすもの

芸術祭には沢山の観客が必要だ。そのためには新聞・テレビ・雑誌・ラジオ等の様々なメディアに露出することも必要である。しかしメディアの側の言いたい事の素材として芸術祭が扱われ、先にあげた芸術祭のテーマを「若者」の「復興」による「町おこし」という言葉で見えなくしている現状もある。経済が戻ることを目指しているのか、震災以前に戻ることなのか、震災以前は日常で使うことの少なかった「復興」ということばの大義の意味は何か。遠回りのようだが、アラフドアートアニュアルが始まる一年前の記憶を遡りながら、この試みについて考えていこう。

始まる前の細かすぎる経緯

土湯に訪れるきっかけ、2012年8月

どのように理解すればいいのか分からないまま、土湯温泉町に初めて訪れた2012年8月3日から数週間後、寝袋を持ってもう一度、今度は一人でこの温泉町に訪れた。初回は町おこしとして芸術祭を開催してみたいという町の青年部に呼ばれ、中之条ビエンナーレのディレクタ山重さんを中心とした、スタッフやアーティスト9人で滞在した。その9人のうち、私と宮本和之というカメラマン兼スタッフが土湯温泉町に関わっていくことになるとは、その時は誰も想像していなかった。そもそも私は町おこしとしての芸術祭というものを信用していない。

芸術という「訳のわからないもの」が余暇や消費の対象として適しているはずがない。そして下見旅行とは言え、その時はまだ芸術祭を開催するかは決まっておらず、とりあえずの顔合わせだった。ちょっとずつみんなの思惑は違うが、それはいつものことである。私はその思惑の違いを青年部の人たちに、「アートで町おこしとか考えても、アートってエンタメじゃないから消費が早くないんです。みなさんの期待と違うことばっかりしちゃう気がするんです……。もっと長い文化をつくっていこうっていうならいいけど、たぶんがっかりするかも知れなくて。」としどろもどろに伝えた。

当時青年部長だったタカユキさんは、「あはははは!大丈夫。お客さん呼ぶとか、そういうのは俺たちがすることだから。俺たち今までも町のために色々やってきたし、それも失敗ばっかりだし、成功した方が少ないから。最初っから成功するなんて考えてないから。そこらへんは安心してください。面白いことやっていきましょう。」と笑い、観光協会の池田さんは「もちろん、人が増えるのが嬉しいけど」と付け足した。

そんな下見旅行から半月ほど経って、私は再度一人で土湯を訪れようと試みた。その試みに青年部のツヨシさんが応えた。ツヨシさんはこの時からずっと私やアーティストを支えてくれる重要な人物となった。当時、ツヨシさんのお父さんがはるみや旅館を経営していて、ツヨシさんは料理人として跡継ぎとして働いていた。体格が良く、短パンをおろし履きしてバスケットシューズを履く、さわやかな20代の青年。いつもにこにこ笑って、ちょっと子どものようなあどけない喋り方。街の若者と違うのは、返事が「いいっすよ」じゃなくて、「かしこまりました」。旅館の若旦那ならではの口癖。彼の運営する使われなくなった社員寮の一室に、8日間のアーティスト・イン・レジデンスをした。私が持って行ったのは、寝袋とノートPC、たくさんのカロリーメイト。着ることはなかったけど夏だったので何かあるかも水着もバッグに忍ばせた。

数週間ぶりの温泉街の町並みの所々には、相変わらず差し押さえの張り紙があった。建物自体は問題ないので、差し押さえの張り紙さえ見なければ、営業しているのか休みなのかわからない。売れもせず、解体もされずにいる建物たち。手を入れてない建物たちは、このままならゴーストタウンのようになっていくだろう。ツヨシさんが板前の修行をしていた隣町の老舗旅館も震災で廃業した。あちこちで廃業する旅館たち。自然災害ではなく、人が潰していく建物たち。ボランティアで泥出しした石巻の様子とも、陸前高田の風景とも決定的に違う。

地震や津波ではない、目に見えないこの平坦な変化があまりにも理解の範囲を超えていて、私は特に何をするという意図もなく、この町の「わからなさ」が見たいだけで夜行バスに乗って福島に来てしまった。特にすることもないので、ツヨシさんの仕事の後を付いて回る。お客さんに出すイワナを仕入れに、養殖場へ行く。イトウもいる。養殖場のおじさんは「昔と変わった。山の上にキャンプ場ができてから、水も変わった」と言う。私にはとても澄んでいる水としか見えないが、キャンプ場で変わったのだろう。「旅館、忙しいだろ?」イワナを捕まえながら、おじさんは言う。

「いやー、暇です。週末でも埋まらないです。」ツヨシさんは笑う。養殖場も、原発の影響で規模をだいぶ縮小していた。ツヨシさんの旅館は例年の6割ぐらいの来客。関東圏のお客さんは減り、宮城か福島、時々新潟など、客層は変わった。自分の土地がどんな風に関東の人たちに見られているのか、東北にいるとわかりづらいと言う。東北に来る関東の人は、ボランティアや仕事や私のようなアーティストなど様々だけれども、でもわざわざ「フクシマって放射能が怖い!」と言いにくる人はいない。

ボランティアの人は「応援してるよ」と言う。みんなが「応援している」と声をかけてくれるのに、来客が減るのは、土湯のような津波も地震もなく放射能の値が低い地域が、経済的に追い込まれているは、もしかして土湯に住む自分たちの努力が足りないんじゃないかという気分になっていくと言う。だってみんな「応援してるよ」って言ってくれているのだから。他の県の人たちは応援してくれているのに、宿が埋まらないのは、自分たちのせいなんじゃないかという土湯の人たちの話を聞いて、私はなんと答えたらいいのかわらない。

「今年はすごく(価格が)安くなっちゃったけど、(放射線量の)数字出てないし。(販売価格が)来年は戻るよね。」と言って甘い桃をくれたキヨくんに、戻りますよとも返事もできず「そうですね」と相槌を打つしかない。誰のせいなのかも、大丈夫かどうかわからない。私に桃をくれたキヨくんは農家を半分やめて、放射能測定技師になった。震災前は無かった仕事だ。私が泊まった土湯の部屋は0.05ミリシーベルト。私の池袋の部屋も0.05ミリシーベルト。同じ数字だけど「何か」が違う。私たちは絶えず福島ミリシーベルトと、東京ミリシーベルトという単位の意味を問わなければいけない。

運営委員ができるまで

私と言うアーティストが滞在しているので、青年部の人たちはやるかやらないかわからない芸術祭開催に向けて考えはじめる。私は芸術祭は反対だけれども、私と言う存在は芸術祭をやれと青年部に行っているのと同じだ。寝袋だけ持って「アーティストが土湯温泉のためにリサーチ滞在している」のだから。2012年の夏の時点で、構想段階だった芸術祭は運営委員会を作り現実に向き始める。土湯の芸術祭は会場もさることながら運営をどうするのかも決めていない。

町の青年部は、福島の復興ボラティアで入れ替わり立ち替わり町にやってくる大学生たちに見せられた新聞記事で、芸術祭は経済効果が大きいと知った。その中で知った中之条ビエンナーレのディレクタにコンタクトを取った。現代美術好きが高じて発展したプロジェクトではない。実際にアーティストに会った後で、芸術というものを理解しようと試みる。アーティストも、土湯温泉の現状を知って助けたいという善意だけで参加してるのではない、そこを忘れではいけない。みんなの思惑を少しずつずらして、内包された問題を取り出す、思惑を見ないフリをする。

青年部の人たちは現代美術という言葉も知らなかった。知らなかったからこそ、説明がしやすかった。絵も彫刻もあるけれど、絵でも彫刻でもない芸術。頭の中にしかないかもしれない芸術。そんな意味不明な説明でも、実際のアーティストたちが自分の作品の説明をすることで、青年部の人たちは理解をしていった。「そんなの見たことないから、失敗してもやってみよう」という気持ちを固めた。

お昼ごはんを食べながら青年部長のタカユキさんが考えている芸術祭のコンセプトを聞く。彼はタイトルを考えていた、『つちゆ芸術万華郷』。彼は当て字の漢字が大好きだ。タカユキさんらしいタイトル。しかし、タイトルは中之条ビエンナーレのディレクタ山重さんが中之条と土湯をつなげた共同芸術祭『100年後サミット』と既に名付けていたはずだった。

「それは山重さんが言っていた中之条と土湯をインターネットで中継するっていう企画のことだよ」とタカユキさんは言う。確かに会議で山重さんは例えばインターネットでの対話が距離の壁を超え、行政区をまたいだ企画は素晴らしいと言っていたが、企画ではなく芸術祭の名前が『100年後サミット』だと提案していた。フェイスブックページも作っていた。しかしタイトルを決める程、タカユキさんは色々と考えている。山重さんも思いがある。名前を与えると、物事は見えない形を持って動き出す。それぞれの思惑が形を持ってずれて行く。

私がタイトルを調整する横で、ツヨシさんが少し申し訳なさそうな顔で私を見ていた。青年部の人たちはパソコンが苦手。ほとんど見ない。だから当時、唯一フェイスブックアカウントを持っていたツヨシさんが、青年部とアーティストたちとのパイプ役を任されていた。ネット上での話し合いは、お昼休みにあって話す土湯の時間軸より早く進んでいく。調整よりも言葉の強さが前に出るインターネットでの話し合いの空気感を、多くても日に1度程度しかフェイスブックにログインしないツヨシさんが青年部に伝えるのはとても難しい。一方で、青年部のお昼休みの調整しながら話し合う空気感を文章にしてフェイスブックに書き込むことも難しい。フェイスブックページをプリントアウトして、ファックスで各旅館に送付する。文字はつぶれてあまり読めない。

お互いの状況を伝えることは口下手なツヨシさんにできないけれど、ツヨシさんはいろいろな事情を理解している。「ごめんなさい。わかってないんですけど」を枕詞に話す、ツヨシさんが一番両方の都合を理解している。相手を理解するから、困惑が生まれる。自分の事情と相手の事情の矛盾を素直に抱え込み、困惑を持て余す。私はその困惑の目線を受け止めないように、さっと視線をそらす。それは、ごめんなさいと目で言われるのを受け止めたくないから。しかし私は知っている。私が彼の視線を受け止めることは、現代美術の問題でも町おこしの問題でもない。物事を動かす時の引き受ける覚悟とタイミングの問題。それは精神論ではなく、効率的に進めれば解決することでもない。

私の一人での土湯滞在中、芸術祭が経済効果があるとの新聞記事を見つけた学生が所属する、ある大学の専任講師が来て、大学と土湯青年部とアート部隊それぞれの代表で三者会合を持つことになった。青年部としては、大学に関わってもらい産学協同にしたい思惑がある。ディレクタの山重さんが参加できないということで、ディレクタ代理を私が引き受けた。まず青年部長のタカユキさんがプリントアウトした事業計画書を配った。内容は、土湯の伝統文化を観光により取り入れ、さらにコミュニティーも強化し、それらをアートを通して実現しちゃうぞという内容。

土湯は45%の高齢者。このままだと限界集落になってしまうとデイケアセンターを経営しているタカユキさんは口調をつよくプレゼンする。しかし、私はいろんな場所で過疎や高齢化の話を聞き慣れてしまってあまり危機感を持つことができない。東京でさえ高齢化率25%を超える予定である。高齢国家の日本、自分の地域だけ若者を集めるなんてできない。もっと違う目線で見ないと何も変わらない。

三者会合はうまくいき、運用者がいないので営業がむずかしくなっている公共浴場の地下室をアーティストが滞在する「アーティスト・イン・レジデンス」にするように手はずも進んだ。日帰りできる場所ではないしアーティストの受け入れ体制を作るのが先決。公共浴場の見学で、普段は入れない女湯ではしゃぐ男性たち。私も男湯に入ったけど、気持ちが高揚しなかった。なぜ男性たちは女湯で気分が高揚したのだろう。

地下室は6畳が2部屋と、2.5畳ぐらいの物置のような部屋、0.5畳くらいの物入れ、キッチン、トイレ、押入れの間取り。お風呂は公共浴場の温泉。昔は管理人さん親子が住んでいた部屋だったが、高齢で居なくなり、今は物置として使われている。公共浴場の管理人は、向かいのおみやげ屋さんとおまんじゅう屋さんが交代でやってくれていた。運営がうまくいかず、営業してない時間も多い。
三者会合では中長期事業の話も少し具体的に進んだ。3年後をどんな町にしていくのか。しかし3年後の前に、青年部には現在のお金がない。大学の専任講師は「お金の問題は、僕の仕事です」と、みんなを安心させた。しかし私は大学の講師の役割が予算獲得でいいのかと理解が難しかった。もちろん運営にはお金が必要。助成金の申請書類って作るのは手間がかかる。しかし講師の役目が町おこし予算獲得要員だとは思えない。

アーティストに町おこしはできないけれど、土地の物語を紡いでいくこと、世界を見ることはできる。時間を超えることもできる。ただそれはすぐに消費や理解できない。土地と芸術との相関関係を批評的に明文化する役割が必要で、それが文化として時代を超えて定着していく。明文化するのは学問の一つの役割、講師がこのプロジェクトにいる役割だと私は勝手に理解をしていたで、予算づくりが自分の仕事と言われると、彼の立ち位置がわかりずらい。

その後、講師は助成金書く合宿をすっぽかし、打合せ会議にもなんの連絡もないまま来なくなり、お金を作ることも文章を書くことも、芸術祭に関わることもなくなった。私は泣きながら助成金の申請に翻弄されずいぶんと彼を恨んだが、後にあるアーティストと出会うきっかけにもなった。講師は突然何の会合にも参加しなくなったが、その間に自分がこのプロジェクトを立ち上げたといくつかのイベント等でプレゼンテーションをしてまわっていたようで、そのプレゼンテーションを聞いたアーティストから、芸術祭に関わりたいと連絡がきたのだ。そのアーティストは、NHKのカメラマンでもあり、震災時に津波の映像を撮影した、私たちがニュースでみた唯一の津波の映像の撮影者、鉾井喬であった。

彼は福島出身ではないが、震災後福島の人々を置いて転勤になることができずに、NHKをやめてフリーのカメラマンとなった。人情に厚い人物だが、その人情や正義が作品にも影響する危うい制作もしている。鉾井さんだけでなく震災に対する制作は人情や正義を大義名分としていまうと、先に書いた「問題」を内包する力を持たずとも批評性を放棄して作品を観客は容認するしかなくなる、または感動ポルノと呼ばれる場合があるので注意したい。彼の作品はそのバランスの只中にいた。

総合ディレクタに任命される

8月が終わり、短いアーティスト・イン・レジデンスを終了して私は東京に帰った。それから特に何かを考えるわけでもなく毎月福島に通い初めた。震災まで東北は馴染みがなかったが、高速バスだと5時間、夜行バスだと寝て起きたら到着しているし、通い始めたらあまり距離を感じなくなった。だんだん土湯の人たちと仲良くなった。そんな中、スカイプで途中参加した会議でタカユキさんが改まって「芸術祭を統括するディレクタがいないので、やってもらえないか」と私に打診した。画面の向こうには中之条のディレクタの山重さんがいる。「ディレクタするんだったら移住しないといけないからさ、ユミソンやんなよ」と笑っている。移住しないです、と返しながらも引き受けた。あの建物たちがこの街の景色がどうなっていくのか、フクシマがいつまでこの町を覆うのかも見ていくことにした。青年部からしたらしょっちゅう通っているので、「ごくろさん」の意味の「総合ディレクタ」という肩書きだろう。なぜなら個別ディレクタもいないのに「総合」ディレクタと意味のない最強そうな肩書きだからだ。

レジデンスの管理人として、カメラマン兼スタッフとして宮本ことミヤモが、2012年の12月半ばから公共浴場に住み込むことも決定した。ミヤモは中之条ビエンナーレでも臨時職員として運営を手伝っていた青年だ。声優がめちゃくちゃ好きで詳しいが、オタクなの?と聞くと、オタクと名乗るのほどではない、めっそうもないと良くわからないところで卑下する不思議で真面目な人。私はミヤモの運営の不注意にイライラと怒ってばかりだったが、彼がいなかったら土湯アラフドアートアニュアルは成り立たない人物だ。ミヤモも土湯に滞在するようになり、まだ宿泊所のない私たちはツヨシさんの部屋に寝泊まりし、私とミヤモとツヨシさんの3人暮らしが営まれた。予算も規模も開催日も、全て先の見えない芸術祭の準備に、私はイライラを2人にぶつけ続けた。ツヨシさんは私を山遊びに連れて行き、ミヤモは黙って私のイライラを感じ取って横に座っていた。

10月になってもまだ芸術祭のタイトルが『つちゆ芸術万華郷』になるのか『100年後サミット』になるのか未定だったが、中之条の山重さんから行政区をまたいだ共同開催は難しいと言われ『100年後サミット』はそれぞれが主催した芸術祭のプレイベントとしてインターネットによる対話企画となった。また『つちゆ芸術万華郷』は芸術祭より上位概念にしたいというタカユキさんの希望により、芸術祭の名前は白紙となった。

11月4日に行われたプレイベントとしてのインターネットの対話『100年後サミット』は中之条側は群馬県にあるつむじという広い会場で世界的に活躍するダンサーによるコンテンポラリーダンスの演目や様々なアーティストたちが集い討議をするという充実したイベント。一方、予算もなく福島での人脈もない私はネットで買った安い大容量バッテリーを自分のスマートフォンに取り付けて、青年部のみんなと5時間の街歩き、こけし工人さんの鉄男さんと国ちゃんを入れて2時間の討議をするという7時間のユーストリーム中継企画。しょぼい。

何日か前からリハーサルを兼ねて、一人でぶつぶつとナレーションを入れながら街歩きを重ねたが、リハーサルをすればするほど、本当にこれでいいのか不安しか募らず、誰も見ていない状況はせめて避けようと、東京の知り合いに頼んでユーストリーム中継を見てもらい、私のツィッターアカウントに入ってもらい、街歩きの内容を私が呟いた風に書いて貰った。なぜ私のアカウントで呟いたかと言えば、まだ名称も決まっていないので、公式アカウントさえ作れない状態だったのだ。ユミソン風に呟いたツィートは私が見ると、ユミソンより女性的だった。

街歩き中継に宣伝効果はあるのか、宣伝する先には何があるのか、回線が細くて中之条との中継は途絶えないか。安心要素を探す方が大変な状況で、誰が予算を出すかでもめた100円ショップで買ったホワイトボードをスタッフのミヤモに持たせても、「あと5分っすよ」と声を出し、私も「声で指示しちゃダメって言ってるでしょ!」と声を出して怒り、視聴者が少ないにしろグダグダな中継だった。

そんなユーストリーム中継まち歩きだったが、新聞記者が取材に来た。この時はというか、後々まで気が付かなかったが、いつも観光協会の池田さんが何かあると広報をしてくれていた。広報だけじゃなくて、助成金が集まらなくて困っていた時も助けてくれた。新聞記者はまち歩きを長時間同行してくれ、仕事を抜きにしても面白いし芸術祭が開催される時はぜひ記事にしますと言って、実際に芸術祭の開催前にも作品の制作状況を確認しに取材に来た。

私はこの時はまだ新聞やメディアに出ることは単純に嬉しいと感じていた。メディアというのはこの新聞記者の傍田さんように話を沢山聞いて、私たちの意図を確認してくれるものだと考えていた。会期が迫るにつれ、メディアの側の言いたい事の素材として芸術祭が扱われることに心を痛め、どのように立ち向かえばいいのかわからず苦労した。何をしても、芸術祭の様々な試みを「若者」の「復興」による「町おこし」という言葉が見えなくしていった。何を喋っても、町おこしに奮闘しているように編集される。青年部だけではない、メディアに映る私は「町のため」に「がんばる」「健気」な「女性」以上でも以下でもなくなる。何もかもが「復興」や「放射能」という言葉に回収され、形を変えていく。そして、それを消費した人々に応援される。

まち歩きの時にタカユキさんが「あらふどって単語を芸術祭に使いたいんだけど」と提案した。聞きなれない「あらふど」という言葉は英語でもアラビア語でもなく、日本語である。漢字では「新踏土」と書く東北の方言で、福島では土湯地方の高齢者しか使っていない言葉である。雪深いこの地方では、新雪を踏み固め道を作る作業が必要。新雪を踏み固め新たな道筋を作ることをアラフドと言い、福島のこの土地で新しく始まる芸術祭に希望を託したい、昔親たちの世代が作った『あらふど会』に敬意を払う意味も込めて使いたいとタカユキさんは言った。

それと同時に「2年に1回のビエンナーレってよく言うけど、毎年ってなんていうの」と聞かれ、東京からこの街歩きのためだけに駆けつけてくれた三菱第一号美術館の野口さんが「アニュアルっていいますよね」と答えたので「よし、じゃあうちらは土湯アラフドアートアニュアルだ!ビエンナーレより強いっしょ。頭文字AAAでいいね!」とその場のノリで決めた言葉がそのまま新聞に使われ、私たちの芸術祭の名前は決定した。一回目が開催されるのかも定かでない上に、毎年開催するのかも決めていなかったが、アニュアルと名付けられた。開催が一年を切っている11月になって芸術祭の名前がやっとなし崩し的に決定したものの、予算の目処はついていないというのんびりした進み具合だった。

予算がなく2012年12月の記者発表を迎える

12月10日、記者発表も兼ねた運営委員会の設立総会が行われた。つちゆ芸術万華郷実行委員会が運営する土湯アラフドアートアニュアル2013。実行委員長は青年部長のタカユキさん。この時からディレクタの私と実行委員長のタカユキさんは、一緒に遊ぶ仲の良い人から、敵として見方としての距離と緊張感を持った関係へと変わっていった。この緊張感のある関係をタカユキさんが築いてくれなければ、芸術祭は地域の変わった町おこしとなって、作品は「わかりやすいものを」と言われていたことだろう。

私たちの間で決めたことは多くない。私は町おこしをしない。町の中で現代美術の展覧会を行う。タカユキさんは私に合わせず彼らの手法で運営する。町おこしをする。お互いがお互いを搾取するが、お互いの領分に深く入らない。町の人たちと私との確執が生まれるとタカユキさんはアーティスト側を守る一方で、町の意向も私に伝える存在になった。決起の記者発表で私は総合ディレクタとして「文化芸術は常に人の営みの中にあるもの。今ここにある営みが芸術祭を通してどのように可視化されていくのか楽しみにしています」と語った。芸術は新しい何かをつくるものではないと私は常々思っている。

まだ見えていないもの、でもそれは私たちの中にあるもの、そういったものが芸術を通して見えるような形になり、その形が日常に現れ、普段の思考の中に定着していくと新しい生活が営まれる。この文章の最初に書いた、問題を作品に内在化させることで、社会から独立した視点で作品を眺められるということと共通している。私たちの中にあるまだ見えていないものとは一体なんなのか、土湯温泉町の景色を変えているこの力はどこにあるのか。

私たちは社会の中に生きているので、その外側から社会を眺めることはできない。しかし作品の中にその構造が組み込むことができるなら、作品の外側から、遠くからの視座を持ちうる可能性が生まれる。何度でも言うが、社会問題を扱った作品こそが芸術作品だと言っているのではない。問うべき価値のある問題が私たちの日常にはある。それを文化として継承できたらと思う。それを設立総会で話した。

12月半ばからミヤモが管理人として土湯に住み始め、アーティストの下見も始まるので、そろそろ予算を考えないといけない時期。タカユキさんは4月までには200万円はなんとかなるハズだと言ったので、それを頭にアーティストたちの下見を始めた。私は200万円はなんとかなり、のちに600万円の予算規模だと勝手に思い込んで動いていた。そこにミヤモの人件費は含まれていない。彼はボランティアで住み始めたわけではなく、町の温泉協会に雇われて、職員の番頭さんとして中の湯の管理をすることになった。つまりミヤモはお給料を貰いながら住み込みができ、町はおみやげ屋さんが店番をしてくれない時間帯も公共浴場が営業できる仕組み。実際には4時間番頭に座ること、お風呂掃除をすることの2点がミヤモの職員としての仕事だ。

2013年1月から少しづつアーティストが土湯温泉町に下見にきた。土湯は雪深いので、実際に芸術祭を行う夏の終わりとは見える風景がとても違う。本来なら一年前の同じ気候の頃に下見ができることが望ましいが、今回はそういうわけには行かない。夏休みが終わった後の紅葉の始まる前、つまり観光客が最も少ない時期に芸術祭を開催することが決定した。開催時期は2013年9月6日から10月14日の39日間。

さて、先述した大学講師にこの芸術祭を明文化してもらいたいという当初の目論見は遠のいたが、新たな人たちが参加してくれることとなった。それは社会学者の「せんせい」。一般公開しているゼミの発表を聴講しに行ったのがキッカケで知り合った。「せんせい」と呼んだが、ニックネームのように呼んでいるだけで師弟関係はない。せんせいは芸術祭を見ていく協力者となり、私は情報社会論の非常勤講師として土湯アラフドアートアニュアルが地域に与える社会的影響を学生たちと見ていくという授業を受け持つこととなった。生徒たちのレポートはすばらしく、2013年の町歩きマップにも使用した。しかしせんせいが準備していた全体の明文化はなされず、私がほそぼそとこのエッセイを書いている。

この時期になって、一つ重要な勘違いが浮き彫りになった。中之条ビエンナーレの1/3程度の規模で開催しようと会議で話していた言葉の意味だ。Wikipediaでは中之条ビエンナーレは100名程度のアーティストが参加し、2千万円程の予算。ということは土湯ではアーティストは30人程度で予算は600万円くらいかなと私は簡単に皮算用し、アーティストに声がけをして予算表を作成していた。しかし実際にある予算は200万円「かもしれない」という、ほぼ白紙の状態。

最悪でも青年部の貯金額が40万円あると言われたが、私が作った予算表の600万円には程遠く、40万円ではアーティストの交通費すら払えない。規模は人数と土地の規模の話をしていただけで、予算の話は含まれていなかった。私はそこを確認せずに全ての規模を縮小するのだと考えていた。

アーティストも人間

土湯だけではなく多くの人に見られる現象だが「アーティストと一般の人たちは違う」という認識と「アーティストは清貧を美徳として持っている」という認識。もちろんアーティストは一般の人と違うことが多々ある。しかし移動するには交通費が、作品を制作するのには材料費がかかるのは、他の人たちと一緒である。何日も制作に時間を費やすのならその間の労働時間も発生し、日々の生活のための家賃や食費やもろもろのお金は、「一般の人」と同じように支払う。ゴッホやピカソの絵画が何億円で、無名なアーティストの絵画に値が付けられないという情報を知ることで、生きているアーティストを地域に呼ぶのに最低限の交通費や材料制作費がかかることを見落としてしまう。アーティスト自身で制作費や活動費を負担しても、彼らは自分の作品を見てもらえれば幸せと感じるもの、「アーティストは清貧を美徳として持っている」と信じている人たちもいる。

「自分の表現をするのだから自腹を切ることは厭わないと考えているのがアーティスト」、「貧しくても制作ができれば幸せだと考えているのがアーティスト」、そのような発言を時々耳にする。もちろんお金儲けのためにアーティストをする人は少ない。なぜならお金を儲けるにはあまりにも効率が悪いからだ。しかし身銭を切る、違う言い方をすれば制作時間を削って、例えば日雇い労働などの賃金労働に従事することを幸せと感じるのがアーティスト、との考えは改めてもらいたい。

齟齬があったことを知り、急いで助成金を探したが、ほとんどは締め切りを過ぎていた。締め切りを過ぎていない、芸術とは関係ない助成金に3点応募したがが、すべて落ちた。悲しんでも仕方ないので、広報のチラシは私の家のプリンタで出力して手配りをし、アーティストの下見代は私の貯金から1組1万円を払うというやり方でこの頃は過ごし、時々夜中にお金が心配で起きてしまうという不安な日々。その一方で200万円あれば広告や看板やその他のことはなんとか手作りで作り、開催できるのかもしれないという楽観的な視野もどこかにあった。そのように私も町の人も想像して不安になったり楽観的になったり、つまり具体性を帯びない考えから抜け出せず、それと同時に実際にアーティストが下見を初め、作品のプレゼンテーションを目の前で聞くことで、ぜひとも実現しなくていけないという確信に満ちた気持ちを作っていった時期が冬の終わりであった。

町では雪が溶け始めた頃から、廃業した旅館たちに本格的な足場が組まれ始めた。土湯に行くたびに少しづつ足場が完成し、解体業者が入り建物の形をなくしていった。建物が無くなり、更地になった場所からは今まで見えなかった遠くの山や川が見え、景色の美しさが切ない気分を煽った。2011年春の石巻で、すべてが流され壊されている風景の中で咲く桜の美しさや雲の美しさをどのような気持ちで受け取っていいのかわからなかったことを思い出した。自然は心とはまったく関係なしに美しい。

この頃、せわしなく町を徘徊している私を、温泉の観光客ではないと町の多くの人たちは気がつき始めたが、特に何をしているかは知らない。良くも悪くも「おらが町で何してる」と思われ始める頃だ。私は立ち回りが得意な方ではないのでこの頃から後々まで「挨拶がない」問題と付き合っていくこととなる。土湯温泉町は温泉旅館を主とした観光業で成り立っているので、知らない人たちと接することに町の人は老若男女問わず慣れている。

私を観光客ではないと認識したお爺さんやお婆さんから「町のためにありがとう」と声をかけられる。私が相手を知らなくても、相手は私をみているので「挨拶がない」と指摘したり「ありがとう」と感謝されたりし始める。私も道で出会う人たちには誰かれ構わず声をかけ、芸術祭が始まることを説明して回る。それは普通の展覧会ではなく町を使った芸術祭なのだということを意識し始めたからである。

知り合いが増えると、お年寄りが見てすぐに喜べる分かりやすいものを見せたいという衝動と、まだ見たことのない面白い現代美術を見せたいという思いが交互に頭をよぎる。しかし私の仕事はよい現代美術の展覧会を成功させることによって町の人たちと作品を通した対話を実現することだと決めた。現実の会話ではなく、未来の視座をもった会話を決めた。この決断は当たり前のことでいて重要だが、とてもとても勇気の要ることだった。芸術祭を開催したいから「町を食い物にしている」とも取られるかも知れないし、そう思われなくても町の人たちを簡単に喜ぶもので笑顔にさせたい、みんなの笑顔がみたいという人としての欲求もあるからだ。

展覧会場探し

土湯には廃旅館が幾つかあるが、銀行が差し押さえていたり耐震補強をしていなかったりで、展覧会場として使っていい場所は限られる。山の合間にある土地なので広い場所もない。車で山の方まで行けば拓けた場所もあるが、2013年の芸術祭は街中に展示をすることを目標にしていた。そして町の人が考える「展示に適した場所」と私が考える「展示に適した場所」には少し違いがある。

町の人は旅館のフロントの生花やひな壇があるスペースを展示場所として提供するが、私にとってそれがアーティストにとって最適な場所だとは思えない。もちろん悪い場所ではない。町の人はお飾りをする場として展示会場を考えているが、私が良いと考えるのはそこに作品がある必然性のある場所だったり他の要素が邪魔しないニュートラルな場所。

必然性とニュートラルは対局にある考え方だが、あるアーティストにとっては必然性のある場所を与えたいし、あるアーティストにはニュートラルな場所を与えたいと考えているから。またマテリアルとしてはどちらにしてもニュートラルな方が展示しやすい。

空き家は作品の展示場所としては使いやすいが、町の人たちは空き家を素晴らしいものとは考えていない。どちらかと言えば恥ずかしいもので人様にお見せしたくない。なので空き家で展示をしたいとアーティスト側が思っても、貸す方の人はまさか自分の持っている古い空き家を求めているとは思わずに提供する段階にも至らない。そういった幾つかの思惑の違いを紐解いていかないと展示場所というのは出てこない。

しかし一旦紐解かれると、あそこにもいい家が確かあったはずだ、あそこの建物はどうだろうと情報が出てくる。一番最初に展示予定場所に決定した「いわき屋旅館跡地」は、コンクリートがむき出しになった廃屋があるなと思ってツヨシさんに尋ねた時に、この町で一番古かった400年の歴史を持つ旅館だったことを教えてもらったが、展示場所として提供はしてくれなかった。

しかし夜に土湯の人たちと話している時、「すごくボロいんですけど」と言って懐中電灯を持っていわき屋旅館を案内された。そこは壁も窓も手すりも外されコンクリートがむき出しになった絵に書いたような廃墟だった。とても素晴らしい。展示する必然性のある場所だし、マテリアルとしてはニュートラルです。壁がコンクリートなので穴を開ける時にアンカーを打たなくてはいけないので少しめんどくさいし、湿度の問題や電気が通っていないなどの問題はあるが、広さも天井高も十分にある。「なぜ早くこの場所を提供してくれなかったのか」とツヨシさんに尋ねたら、「ボロいあんな場所を使いたいと考えているとは思わなかった」と言われた。

4月のこけし祭り

年度の変わる4月になり、町では芸術祭のために予算を捻出できないことが判明したが、毎年開催している『秋の収穫祭』が放射能の影響で客足が伸びないだろうという理由からイベント自体を中止し、その予算200万円を『土湯アラフドアートアニュアル2013』の運営資金に当てることが決定した。

最悪の青年部の貯金40万円という予算は逃れたものの、運営資金としてはとても足りない。私は当初書いた600万円の予算から400万円で企画を組み立て直してみた。プレスリリースも作り、発送を始めまた。まだ相変わらず、プレスリリースは私の家のプリンタや、発送には私が子どもの頃から趣味で集めていた記念切手を使うという内職的な方法で運営を進めていたが、この時期から私にディレクタとして交通費が支給されるようになった。

まちづくり協議会ご好意で事務所の一角を土湯アラフドアートアニュアル用に使わせてもらえるようになり、ツヨシさんから家庭用の4人がけのテーブルを頂いて事務所とした。ファックス番号も共通で使わせてもらえることにはなったが、電話対応はできないと言われたので、最初は私の携帯番号を載せていた。しかしプレスリリースを受け取った新聞記者から女性の携帯番号を載せてしまうのは危ないとご心配を頂き、何が危ないのか違いがわからないまま無料のIP電話回線を持つこととなった。間借りにしろ事務所を持ち、土湯アラフドアートアニュアルは少しづつ形を整えていった。仕事環境がツヨシさんの部屋から事務所作業になると、観光協会からまちづくり協議会に出向で来ている池田さんと顔を合わせる時間が多くなり、今まで広報をしてくれていたことや芸術祭に向けての縁の下の力持ちになってくれていたことを知った。

毎年4月は日本三大こけしの「土湯こけし」発祥である土湯温泉町で『土湯こけし祭り』が開催され、日本中からこけしファンが集まり交歓会やシンポジウムが開催される。第三次こけしブームにより、関東圏を中心とした若い女性客がこけし購買層になっている。そんな中、タカユキさんからアーティストの絵付けしたこけしを展示できないかなと相談され、急遽「現代美術こけしブース」を作ってもらい小さな展覧会を開いた。

こけしに顔を書いてくれるアーティストは少なく、あまりにもこけしという概念から逸脱していたのでどのように収集家たちから見られたのかは分からないが、見慣れている形態だからか熱心に見入っていて、こけしという形態から素材や背景をみて、現代美術を理解していくこの展覧会は面白い企画となった。

こけし祭りは、土湯アラフドアートアニュアルを広めるのに効率的と考え、この日のために用意した文言を書き入れたチラシをいつもよりも多めにプリントアウトして東京から持っていった。しかし配り始めてすぐに、「誰が、このチラシを配っていいと言った?」というクレームが入った。チラシを作ることは青年部や実行委員会にも伝えてあるし、こけし工人組合にも話を通してある。

「でもこけし工人さん全員は、そのこと知らねぇべ?全員に挨拶したか?」私はこけし工人さん全員とは面識がない。「じゃあこっちでなんとかしてやっからよ」と、誰だかわからない人にチラシは回収され、私の手を離れ、その後目にすることはなかった。このチャンスで広告ができなかったことは残念だったし、画質の良くない家のプリンタのチラシなんて大した宣伝効果はなかったかもしれないが、「挨拶してない」という理由でこのような対応を受けざるを得なかった私の立ち回りの悪さは、もっと残念だ。小さな地域ではよくあることだと言われたらそれまでだが、それを乗り越える方法を知らない無力さから、私はいつ卒業できるのだろう。

言葉を超えた「挨拶」

小津安二郎の映画『お早う』。土手沿いにひしめき合う長屋を舞台にした人間模様。大人ってなんでつまらないことばっかり言うんだろう、おはよう、こんにちわ、今日は天気がよござんすね。なんだっていうんだい、そんなつまらない口を僕はきかないぞと、主人公の兄弟はテレビを買ってもらうための無言ストライキを起こす。つまらない筈の、意味を成さない筈の「挨拶」が失われた長屋では、人間模様が歪んでいく。恋心を持つ青年は、女性に向かって意味のない挨拶と天気の話をする。私たちの使う言葉の意味を超えた、場に作用する「挨拶」。

私は場に作用させるために、全員に顔を通すことを決めた。土湯温泉町の人口は432人、世帯数は212世帯。決して全員に挨拶できない数ではない。全員に挨拶するには何をすればいいのか。答えは、BBQ。みんなでご飯を一緒に食べて仲良くなろう。全員に告知をするために新聞にチラシを折込することにした。212世帯へのチラシの折込み代金は700円。ミヤモにチラシを作ってもらう。ワードで文章を書き、無料素材集からとってきたアンバランスなBBQの画像を数枚貼り付ける。少し大きな字で「大切な催しなので、ぜひ参加してください」との文言が下線を引いて書いてある。イラストレーターを使ってしまう私には作れない、素朴で完璧なチラシ。私がお婆ちゃんだったら必ず行くだろう。

料理人のツヨシさんが安くて美味しい材料を吟味してくれる。しかし私たちには予算がない。少ない展覧会の予算を使うわけにはいかない。参加人数も当日にならないとわからないが、500円の会費制にして、いかに赤字にならずみんなが満足する量を提供できるのかを考える。肉はどれくらい買えるのか。東京と往復する私はあまり参加できなかったが、ツヨシさんとミヤモは何度も打合せを重ね、スーパーの折込みチラシを穴のあくほどチェックし、どのお店のどの素材を買えばいいのか研究を重ねていた。旅館で多めに炊くご飯を毎日少しずつ冷凍保存しおいてくれた。開催日時は6月10日月曜日に決めた。それは私とせんせいが、学生たちを実習に連れて行く日でもある。

もちろん新聞の折込みだけでは告知が十分でないことはわかっている。私はコピーしたチラシをもって一軒一軒みんなの家を回ることにした。212世帯だったら3日もあれば楽勝だとその時は考えた。ツヨシさんの他に、青年部のリオくんとジュリアンくんも一緒に回ってくれると名乗りを上げてくれた。住民の住所を聞こうと福島市役所の土湯支所に行くと「挨拶するんだったら班長から回らないと」とアドバイスをもらった。遠くから徐々に戻る形で効率的に回ろうと考えていた私は愕然とした。各地域の班長を周り、次は班長の次に偉い人たちの家を周る。いったい町を何周しなければいけないのだろう。狭いと行っても山の中や川の向こうにも家はある。しかし効率は悪いが、そのようにしないと挨拶したことにならないのは、今までの「挨拶がない」というやりとりから予測できた。各家庭を周り始めて、良かったと痛感したのは、東京から旅館を継ぐために帰ってきたリオくんとジュリアンくんが、地域の人たちと接点を持ったことだ。

リオくんもジュリアンくんも旅館を継ぐために東京から帰ってきた20台半ばの若者だが、旅館の中での仕事が多く、町の人たちは帰ってきたことを知っては居たものの実際に会うことはなかった。「あれ、まぁ。こんな大きくなって」とおばあちゃんたちは大喜び。ツヨシさんが各家庭のドアをノックし、リオくんとジュリアンくんが顔を見せる。青年部が居なければ町の人たちの信頼は獲得できない。しかし運悪くその日は町の会議の日だったので留守も多く、全世帯を地域のルールで周るのは無理だと思い知った。それは頭で考えていることを実行に移す時に、地域のルールを適用し忘れていたのが原因だ。

人は、誰かと接する時に常に同じ対応をするわけではない。この人とは、共通の趣味を持っていて理解が早いから肝心な話から入ろうとか、この人は礼儀を重んじる人だから礼節を欠かないように気をつけようとか、相手の持っているルールと自分の持っているルールを突き合わして接する。そして人間には性格があるが、地域にも多かれ少かれ性格がある。その性格を無視して自分のルールで話はじめると、伝えたいことが伝わらず、コミュニケーションが破綻してしまう。今回、コミュニケーションが破綻することはなかったが、伝えるという段階には至らなかった。これは地域系アートの課題点にも見えるが、組織の中で動くとは規模の大小あれ、あまり変わらないことだ。

6月10日はアーティストや私が非常勤をする大学以外の某大学からも、先生と研究者の方、学生たちも駆けつけてくれ、地元勢はお年寄りを中心とした人たちが大勢参加してくれ、楽しい交流が実現された。すっかり挨拶に翻弄されて忘れていた報道機関への告知も、知らぬ間に観光協会の池田さんが手配し、地元新聞にて交流会の様子が伝えられていた。この交流会で得られた情報をきっかけに作品づくりを始めたアーティストも居る。そうして1月から8月まで入れ替わり立ち代わりアーティストたちが下見や制作に入り、油断した頃に「挨拶がない」と指摘され、私たちは芸術祭を作っていった。そして、このBBQを始め、芸術祭を影で支えてくれていた一人に「肉まんさん」がいる。

組織の人たち、外の人たち

土湯アラフドアートアニュアル2013の運営組織『つちゆ芸術万華郷実行委員会』は、青年部長のタカユキさんが実行委員長というように、土湯温泉町の青年部がそのままメンバーになっている。町には20~30代の青年が少ないので、10人程度の町の青年がそのまま青年部だと最初は思っていたが、青年部に入っていない町の青年も数人いた。肉まんさんもその中の一人。巨漢の肉まんさんは、大工仕事や除染業などをしているツヨシさんの小学校からの幼なじみ。肉まんさんは青年部でもつちゆ芸術万華郷のメンバーでもないが、この芸術祭の実作業の多くを手伝っている。

BBQを開催するための道具の準備から、火起こし、料理の下ごしらえ、後片付けまでを巨漢の肉まんさんと小柄なミヤモのコンビが、汗を流しながら作業した。肉まんさんはその他にも、アーティストの制作にインストーラーとして大工仕事に関わったり、車を出して下見に同行してくれたり、私の大失敗を肉まんさんにしかできないやり方でフォローしてくれたりと実作業の色々を一緒にしている。他にもリュウシンさんやナガヤマさんなど、青年部ではないメンバーがお手伝いを率先していたが、雑誌やテレビで紹介される「復興のために、町おこし芸術祭を頑張る若者たち」でさえ映ることはなく、紹介されるのは青年部のみ。つまり旅館の後継ぎたちだけが町のために働く人と紹介される。

ミヤモは土湯に住んではいるがいつか去る、町の人間ではない。肉まんさんは全身に和彫りの入ったイカつい人でカタギでない職業にいた事もあるし、いつもいろんな職業をいったりきたりしている。リュウシンさんやナガヤマさんも似たり寄ったりの経歴だ。しかしこの芸術祭では一番働いている。但し書きがあるからと、ミヤモや肉まんさんの働きは無かったことにされ、その政治性を「そういうものだ」として疑問を持たない日常は悲しいと考え、翌年の芸術祭ではその政治性を打破しようと試みたが、見えない壁は内側にも外側にもあり強靭だということを思い知らされ、実際に翌年の芸術祭ではそれらを打破しようとしすぎる私と、過度に政治性を重んじるせんせいによって芸術祭自体も解体することとなってしまった。今でも同じ状況になったら同じ行動を繰り返してしまいそうだが、政治性はある程度必要であることは、理論上は学べた。

アキラさんの集金

「ユミソン、実際何もしてないじゃん」と、アキラさんは言った。会議とは別に、旅館業の仕事の終わったツヨシさんの部屋で運営の話をすることが多いが、めずらしく参加した青年部のアキラさんは私に疑問を投げた。間髪入れずにツヨシさんが「いやいやいやいや!ユミソンさんが殆どやってるんですよ!!!」と割って入ってくれたが、「何もしていない」も「殆どやっている」も、両方正解だなと考えている私の横で、口下手なツヨシさんとミヤモの二人が、アキラさんに今迄の経緯などを一生懸命話していた。私が攻撃される時、事の次第を説明してくれる二人の話を聞くのは興味深い。それは私が考えるよりも、深い洞察で行動をみており、批判的な眼差しを持っていることに気付かされるから。いろいろな話を聞いて、他人ごとに芸術祭を見ていたアキラさんの気持ちに少し火がついた。

私が何かをしていようとしていまいと、目標の400万円を集める目処はついていない。アキラさんは広告主を募るのはどうかと提案してくれた。小口は5千円から集金をし、ウェブサイトやチラシにバナー広告を載せるという手法。広告主は青年部が足を使って集めようということになり、実際にはアキラさんとツヨシさんの2人が集金をし、あっという間に50万円が集まった。そして足りない予算は他の助成金などで獲得でき、芸術祭の予算は揃った。

「がんばれない」温泉まんじゅうなかやのおじさん

土湯温泉にはいくつかのお土産やさんがあるが、「なかや」は温泉まんじゅうの製造販売もしているお土産やさんだ。震災後の広い店内は商品を並べることをせず、がらんどうとなっていた。それは店主の心のなかのようだった。店主は75を過ぎたお爺さんで、後継ぎの息子は、饅頭の製造が極端に減った震災後は放射能測定技師となっていた。なかやさんは、生まれ育って一度も町の灯が消えた事のない温泉街が突如、真っ暗となり、客室に置くおまんじゅうの製造もなくなり、町に観光客の姿も減った様子にひどく落ち込み、私が会った時は放心状態の最中にいた。がらんどうの店内には饅頭の空箱が放置されていた。

「みんな東京とかから来て、がんばれ!がんばれ!って言って帰るけど、この歳でもうがんばれない。そう言われるのが辛い。」と嘆いていた。「もう町の灯が消えた」「もうそろそろ製造はやめる」と何度となく言っていた。実際に製造個数は数えるほどだった。私は、がらんどうの店内は作品を展示するのに良い空間だと考え、下見にくるアーティストをほぼ全員、このお土産やさんに案内した。アーティストたちもほどよい空間と、数少ない壁や電気のある整えられた室内空間として、なかやさんの店内を見渡し、店主に状況をヒアリングした。30人近くのアーティストから自分のことを聞かれたなかやさんは、日に日に元気になり、半年後には「自分が町の灯を消したら、最後だとおもってこのお店は閉じないでいる」とまで言うようになった。実際、アーティストのために新商品も開発した。

アーティストと店主の思惑は違う。癒しを与えることをアーティストはしていない。寄り添いもしていない。がんばれとも言っていない。店主が元気になったのは、アーティストのおかげであり、そうではない。地域芸術祭の美談として回収されがちなこういった話は、アーティストでなくとも担える話であり、しかし大量の他者が来ることによって可能となる話だ。

そうして芸術祭は作られていった。初年度のオープニングでした挨拶は以下の通りだが、これは全体を通して通じることでもあるので記載しておく。

2013年のオープニング挨拶

こんにちわ。土湯アラフドアートアニュアル総合ディレクタのユミソンです。

「土湯アラフドアートアニュアル2013」の開催に、みなさんと立ち会えたことををまことに嬉しく思います。本芸術祭は、国内外から32組のアーティストが参加し、土湯温泉町の各所に作品展示をする現代美術の展覧会です。土湯アラフドアートアニュアルの『あらふど』とは、「新雪を踏み固め道筋をつくる」という福島の方言です。

土湯温泉町の青年部が運営をしている芸術祭なので、町おこしという位置づけでの芸術祭だと思われている方が殆どだと思います。確かに、震災によって1/3の旅館が廃業した土湯温泉町の現状を変えていこうということで、この芸術祭は始まりました。「町おこし」とは何を指しているのでしょうか?経済的な訴求や即効性のある集客力を求めるなら、既に人気のあるコンテンツを再生産した方が効率的です。

では、芸術祭では「町おこし」は不可能なのでしょうか。

残念ながら、今すぐそれにお答えすることは、私にはできません。それは、芸術を消化していくということは大変に時間のかかる作業だからです。この芸術祭を通して、私たちが何を知って/何を知っていないか、何を見て/何を見ていないのか、何を聞いて/何を聞いていないのか、誰に触れて/誰に触れていないのかを、考えて生きていくきっかけになればと思っています。

それは、言葉を超えた対話の可能性とも言えます。震災後の急激に変わった町の景色とみんなの思考を、どのような思想で見ていくのか。思想のフレームワークがどのように作られていくのか。言葉だけではない対話を私は信じています。その長くかかる文化の形成を「町おこし」という言葉を使ってもいいのなら、土湯アラフドアートアニュアルは、土湯温泉町の文化を作る重要な役目を担う存在になりえると考えています。

先ほど、「あらふど」の説明をしましたが「アニュアル」の説明もしたいと思います。アニュアルとは「毎年の」という意味です。文化というものは継承していきながら、形成されていきます。この土湯アラフドアートアニュアルの継続的な開催が、「町おこし」として地域における芸術の役割の答えを持っていると思います。

一見、奇妙にも見える出品作品たちは、私たちが作品に問いかけない限り、奇妙な他者のままです。この町の人たちや観客は、問いかけを持つことで初めて作品たちとの対話が可能になります。それがいつか作品を越え、町の景色やこの現状に対しても同じように問いかけを持ち、言葉ではない対話を持つことができる強度のある地域へと発展していくことを願います。

長くなりましたが、以上が私の挨拶と変えさせて頂きます。
また、この後のギャラリーツアーでは、全員ではないですが、作品の前で作家たちへ色々な問いを投げかけられるようになっています。ぜひ様々な問いを持って作品や作家に触れて頂けると幸いです。ありがとうございました。

作品について

さて、ここからがエッセイの後半の本番である。作品について語っていきたい。震災後の福島で行われた展覧会であるが、私はアーティストに展覧会に参加して欲しいと依頼した時、「フクシマ」をテーマや題材にして欲しいとは頼んでいない。もちろん題材にするなとの禁止もしていない。私はテーマ展が好きではない。テーマ展は見やすいけれど、アーティストそれぞれの問題意識が薄れるのを懸念してしまう。外向きにはテーマが見えるが、制作者であるアーティストはそれに法らなくてもよいと考える。ただ制作にあたり、キュレーターとの対話は途絶えさせたくはない。なので私がかかげた「対話」や「トレランス」などもアーティストの作品とは関係ないとも言えし、つねに対話に登るので関係が生まれるとも言える。私が掲げたのは、展覧会の枠組みで、枠組みは作品への指示ではない。

これから2013年から現在までの参加アーティストの作品を一つ一つ見ていきたいが、文字数の関係で今回のこのエッセイはここまでにして、後半としてまた次回に続きを書く。

文字数:28800

課題提出者一覧