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可逆性に折りたたまれたものの転回

僕たちの時代は文化の時代じゃない。僕たちが文化だと思っているのは、文化なんかじゃなくて、経済の文化なんだ。つまり今日では、人びとの暮らしは「経済」で起こっていることに左右されているんだ。「経済」で起きているのは、お金のプロセスと生産という事件だ。だから、お金の観念をまちがって考えてしまうと、破局を迎えざるを得ない。この出来そこないのひどい彫刻(=社会)に介入するときには、適切なアクセスがポイントになる。それを美しい彫刻にするような介入が必要なんだ。この造形のモーメントを人びとが自分で体験できることが必要なんだ。個人でやっちゃいけない。未来ではすべてのことを人類は共同でやるべきだからね。
(Joseph Beuys)

以上は現代美術家、ヨゼフ・ボイスの言葉。文化ではなく、「経済の文化」と言われても、私たちは生まれたときから購買に育てられ、購買と共に死ぬのだから、それ以外の文化を知るすべはない。果たして私たちが「経済」以外の「文化」を体験することは可能なのか。

近年、芸術作品の商品化が甚だしいという。それはピカソクッキーやゴッホTシャツ……ではなく、作品そのものを商品として扱うような傾向のこと。つまり投機の対象となること。市場が小さいとされている日本でも2005年から始まったアートフェア東京をはじめとして、2010年代には様々な芸術の見本市が開催されている。死のないはずの、言葉の世界に住む荒川修作と河原温はそれぞれ2010年と2014年にこの世界から逸脱した。経済という数字の世界が、文化という言葉の世界を凌駕していくのか。

コレクターの入れ替わりもあり、かつてはその落札金額を大きな声で口にするのは、はしたないとされていた風潮も、今では作品名よりも金額を先に口に出す方が誇らしげになっている。若手ベンチャーの社長が落札した芸術作品ではなく、その金額がニュースを賑わせる。2017年5月にはゾゾタウンの前沢友作がジャン=ミシェル・バスキアの “Untitled”を123億円で落札した。日本の新聞では落札価格こそタイトルになるが、作品のタイトルが記載されないことも少なくなかった。特に見落としてはいけないのは、ニュースを賑わしているのはアーティストの創作に対するプライマリーの価値ではなく、オークションハウスを通した市場経済を反映したセカンダリーの価格だ。売買の差額は、その数字の言葉は、アーティストの収入とはならない。

新聞は芸術の価値の話をしているようで、芸術の話ではなく経済の話をしている。今や芸術作品の急速な商品化は世界に蔓延し、商品ではない感覚を持つ方が難しい。芸術作品といえど、売買の対象なのだから「商品化される」じゃなくて、所詮は「商品」ではないのかと勘ぐってしまう。商品と作品に何の差があるのか。

台湾にある國立故宮博物院の作品の保管庫は山の中にある。山を切り崩して、まわりから攻められないような形になっている。なぜそんな不便なことをしているのかというと、美術品が国を守ってくれるからだ。故宮博物院には中国の歴代の皇帝が集めていた美術品の数々が収められている。2014年6月24日(火)~7月7日(月)まで東京国立博物館で開催された、『台北 故宮博物院-神品至宝-』では高さ19センチの《翠玉白菜》と5.7センチの《肉形石》を一目見ようと炎天下の中、4時間にも及ぶ長蛇の列ができたことを記憶いている人も多いだろう。

それらは蒋介石が中国を離れるときに北京の故宮(紫禁城)から台湾に持ち出し、故宮博物院に所蔵した品々だ。中国と台湾は緊張関係にあるが、中国が台湾を武力で攻め落としたなら、自国の歴史的価値も一緒に破壊してしまうことになる。なので、故宮博物院の作品が台湾にある間は、中国は台湾に強い武力行使が出来ない(と言っても政治のことはわからないが…!)。

この例だけではなく、第二次世界大戦中の欧州では……旧ソビエトが解体する時は……などという話は数え切れぬほどある。芸術作品は鑑賞のためだけではなく、長い歴史の中で世界中で政治の道具としても使われてきた。

政治が動くほどの価値が芸術作品に与えられているのは、経済が作り上げた商品、数字の世界ではなく、文化が生み出した作品、言葉の世界であるがゆえに起こりえる事件(歴史)である。芸術作品は、個人的なことを取り扱っていても、個人的だからこそその国のその時代を探る手がかりとなる。そういう意味で価値が生まれるのは当然といえるかもしれない。

しかし価値があるとは言え、先に書いたように「作品」を「商品」として利益還元している現状がある。美術館でさえも作品で利益を出すことを求められる。2007年3月フランスとアラブ首長国連邦は、ユニバーサルな美術館、ルーヴル・アブダビの創設を決め、2017年後半にオープンを予定している。ルーブル美術館はつまりフランス政府は莫大な作品のレンタル費を手にいれる。今では世界のどこそこで国を挙げて芸術作品で利益追求する動きが強くなっている。独立行政法人化やそれに似た制度が進み、美術館自体で経営をまかなっていこうという動きが急速に進んでいるからか、文化という曖昧な言葉ではなく、目に見える数字を出さなくてはいけない時代になっているからか。

欧米だけでなく、世界中で同じような現象が起きている。言わずもがなグローバル化の影響が世界中を同じ動きにさせている。これは良いことか悪いことか、という話ではない。しかし美術館の経営が成り立つことと文化的強度が増すことは必ず一致するわけではないという現状は読み取れる。

最初の引用にあった「経済の文化」というのは、経済の加速した現状のことである。芸術がシステムに飲み込まれては、美しい社会彫刻はできないし、芸術がすごすごと「経済の文化」に飲み込まれてしまうとも思えない。なぜならそんな弱いものなら、とっくに過去の政治に飲み込まれているからだ。2017年はドイツのカッセルでドクメンタが開催された。5年毎に開催される政治色の強いこの芸術祭。例年にも増して今年の作品群は、崇高にも美的にも抗うものが多く出た。芸術が大きな力を発揮するのは、まだ体験したことのない経済の外にでるのは、このできそこないのヒドイ彫刻(=社会)が芸術を飲み込もうとしている、まさに今この時だからかもしれない。

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