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国家は言論を統制できるのか

生活の中にある「用の美」を唱え民藝運動をおこした柳宗悦の論考『民藝とは何か』は、民藝叢書に収められる形で1941年に出版された。世界的に見ると1930年代は大不況の時代、1940年代は戦争の時代と言われている。大不況時代は政策として大企業を中心に合理化や統廃合を進めた時代、大量生産のフォーディズムは1950年頃から始まる。1941年は第二次世界大戦の只中。新聞紙等掲載制限令、国防保安法、言論出版集会結社等臨時取締法など言論統制や検閲が強化された年で、すでに1938年には政府が総力戦のために国民を動員できる国家総動員法も可決されている。今とは生活様式も考え方も異なる時代だ。しかし現在へと続く生活の中の美を説いた柳の思想を昔のものと無視はできない。そして『民藝とは何か』は、国家との関係で読み解くと複雑な思想が浮かび上がってくることがわかる。

『民藝とは何か』は三千文字にも満たない短い論考なので、みなさんにも一読をお勧めしたいのだが、要約すると「民衆のもの/官なるもの」という対立軸の中に民藝という思想を見出した柳は、民衆を個人的な意識を持つものではなく集団的な行動をするものとして評価した。そこでは価格と価値が直結はせず、価値観を逆転させることで民藝の価値づけを高めようと試みている。無意識の美、無名性の中に現れる美、手仕事の美という、現在の私たちが民藝という言葉から連想する朴とつとも取れる思想はこの論考にすべて書かれている。

では一体、この論考の何が複雑な思想なのか。素朴さを装っているのは二分法である。この論考では、民/官、自由/伝統、個人名/無記名……といった二分法が多く記されている。二分法は読みやすい。その言葉のままにこの論考を読むとロジックはいたく簡単だ。美は権力の方ではなく私たち民衆の中にある、素朴さの中にある美をみんなで仲良く作っていこうと。しかしそれを記す柳や記されていることを理解できる読者、つまり「第三の立場とはどこにあるのか」を読み込むと複雑なロジックが展開されていることに気がつく。対立軸を乗り越えれるのは、今までと違う思考だ。それは簡単には理解できない。簡単に理解できるのなら、それはすでに違う思考ではないのだから。

無名の人々による廉価な手仕事に美しさがあると謳う柳は一方で、「今日の如き労働の苦痛は間違った資本制度とその許にある未熟な機械制度とが酵した罪なのです」と嘆いている。つまりこれが書かれた時代には、すでに手仕事の時代は終わりを告げようとしている。例に漏れず民藝さえも記された時にはそれの死を意味している。だからこそ書き記すことで柳は延命を試みている。そこには民と官の二分法ではなく、柳の理想とした「過去の民」という三つ目の立場が現れる。これはもちろん「民/官」を越えるためには「過去の民」を参照しようというメッセージが含まれている。過去の民とは、本当に過去にいた民のことを指しているのではなく、柳の理想としている無意識の所作をもった民のことだ。それはまるで労働者ではない。修行僧のようだ。

それらの二分法は、基本的に愛を以ったものや美の心で乗り越えようとしている。しかし柳は伝統の心の中に民藝があると書いているが、それは無理がある。愛や美とは本来自由の方に含まれている。愛や直感、美は伝統という言葉の中に閉じ込めるべきではなく、自由の方にある。なぜなら個人の無意識の知がつくる直感と、集合知的な意識化された伝統とは、影響しあうことはあっても時間の射程と意識空間が違う。伝統に愛を見出すことができても、愛を伝統の中に閉じ込めることはできない。柳が否定している自由とは、自由の中でもリバティーの側面を否定している。伝統と自由という対立軸を作るのではなく、自由を発展的に語った方が理解しやすそうだが、柳にとっては自由は否定すべきものとしてある。読者としてはその矛盾したロジックを読み解くのは、めんどくさい。なぜこのような構成が必要なのか。

最初にも書いたがこの本は検閲や言論統制のある第二次世界大戦の只中に出版されている。その目でこれを読むと、まるで政府におもねいた全体主義を肯定しているような文体としてこの論考は現れる。否定されているのは、個人主義、個人名、豪華、自由、身を飾るもの、少量生産。肯定されているのは、協団、無名、質素、廉価、働くもの、大量生産。個人を捨て、無意識の中で労働をしようと説くこの論考は、素朴に雑器を賛歌しているだけの論考ではない。

では実際に柳は国民は国家のために一つになるべきだという思想をもった人物なのか。柳は韓国の雑器に美を見出し、戦争の最中でさえ韓国の民藝運動に力を入れている。そして沖縄や台湾も重要視している。その事実を知るだけでも、柳は国家主義ではないことは容易に想像がつく。しかしではなぜ全体主義的ともとれる思想を展開するのか。アーツアンドクラフト運動を展開したウィリアム・モリスの小説『ユートピアだより』も個人名や貨幣経済を捨て去った制作の美を称賛しているが、柳はモリスのような社会主義者の側面からではなく、独自の宗教観から個人の脱却を目指している。

私見では柳は国家に無関心であったと思う。より進んでいえば言えば無関心でいようとしたように思う。宗教的思想が戦争に結びつくと全体主義に簡単に入れ替わる。清貧はプロパガンダになりやすい。そして雑器を愛でることや、美しさや愛とはフェティズムの極みである。フェティズムは全体主義にはならない。その大前提があればこそ柳はプロパガンダの危険を知った上でなお、芸術の宗教的思想を躊躇なくこの時代に書き記したと私は読み取る。検閲側が読み取る言葉と、宗教としての芸術の言葉。そしてその背景を含め、読み込む私たち。国家と個人を超える、第三の私たちの読み込む力がこの論考では試されている。タイトルに書いた国家は言論を統制できるのかの問いは、閲覧者の側の私たちに答えがある。

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