印刷

変容し需要される映画

映画というメディアは生まれてきてから、約100年の歴史を持つメディアである。歴史の中で、映画は、芸術としても娯楽としても文化的に多く需要され、今なお毎週のように新しい映画が封切られている。テクノロジーの発展により、映画館という場所でスクリーンを必要としていた映画は、TVにタブレットやスマートフォンでまで、いつでも好きな時に見られるようになっていった。映画というメディアは、老若男女幅広い人々には、ある意味日常化したものとしてメディアと言える。映画館での観客は減っていると言われているが、それは他のディバイスで消費されているだけであって、映画は今も見られ続けている。映画の中身に関して、大きく時代を経て変わってきている。元々は、記憶するものや一種の手品としての内容を帯びているものもあったが、それ以降、物語や芸術性を帯びた実験的なイメージを映し出すものも存在している。観客は、新しい物語や映像を求め続けてきたが、それはこれからも続きそうである。そして、現在それは大きな変化を生んでいる。

カフェやクラブで流される映画は、観客が見ることを必要としていない、空間にただ流されているが、多くは観客が存在して、その映像の1時間から2時間の物語を観る訳である。その中で観客は、それを欲望して観ると言っていい。目によって主人公などに感情移入しながら、その物語に我々は没頭するとともに、非日常を味わう瞬間とも言える。ローラマルヴィも『視覚的快楽と物語』という論文の中でも、視覚快楽嗜好は我々人間の欲望に組み込まれていて、それを刺激するものが映画と言ってもいい。

初めに目を通して、物語を消費している我々は時代によって、その需要は変わって行っている。多くのマジョリティは今必要としている物語を観たい。現在の我々の価値観や人物に近いものを観たいというのは必然と言える。映画の内容含めて大きく変わって行っているのは、目に見えている。アメリカでは、今年のザックスナイダー監督の『ジャスティスリーグ』においても、観客の好む勧善懲悪の物語の中で、今のアメリカを映し出すような人物設定や物語は見られる、スーパーマンというアメリカを象徴としている物の死を復活されるというテーマが現在に、結びついているとも言える。この辺の分析は置いておいても、アメリカにおいてもコミックの映画化が定例化されていると言っていい。MARVELとDCと言う、大手コミックブランドのヒーローを主人公とした作品が毎年生み出されている。アメリカンコミックではクリシェと言える時系列や事実関係の破壊は、当たり前で、実際ヒーローが死んでしまったり、ある行為をしても、シーズンやタイトルが変われば主人公がたとえ変なくても、無かったことに出来たり振り出しに戻ったりする。実際、ティムバートン・クリストファーノーラン・ザックスナイダーの監督したそれぞれのバットマンが存在するのだ。

ここで、日本を見ていると特異とも言えるのが、現在の日本映画の漫画原作映画のマーケットである。新作映画において漫画原作であるもの必然と言っても良い。漫画や、それを原作としたアニメがヒットすれば映画化は、約束されていると言っても良い。今年だけでも数えてみると45本。過去にも漫画原作の映画はいくつも存在した中でも、特にここ近年特質しているように思えるのは、映画における演者が、ほとんど着ぐるみと言っていいほど、あからさまに原作を再現するような衣装。コスプレと言っていいような衣装で演じることである。

マーケット的に漫画は、原作ファンや子供から大人の層までを取り込む作戦や、少年誌の漫画原作が採用されるのは、特にそのような利点が見られる。12月2日公開した『鋼の錬金術師』も、この作品のヴィジュアルを観れば一目瞭然であるが、漫画をそのまま実写化したとしか思えないものとなっている。それぞれの映画の集客が多い少ないかは置いておいても、このような映画が量産されて受け入れられるような理由があるのではないだろうか?

コスプレは、日本においては元々アニメキャラの衣装を着てなりきるというような一部のオタクのものであった。レイヤーと呼ばれるコスプレイヤーは、コミコンや一部のファンの撮影会など、いわゆるマイノリティの文化と言っていい、「多くの人から参入の難しいコミュニティ」*1だったはずである。しかも、それはしきたりやルールが存在するなど、ある集団における特異なものとして存在していた。

今はどうであろうか?ハロウィンでは渋谷・大阪・名古屋の主要都市ではコスプレした人でごった返すようになっている。非日常を楽しめることやSNSにその姿を載せることが、彼ら彼女らにとって快感なのであろう。SNSで多くみられるのは、ユニバーサルスタジオジャパン(ミリオンズという『怪盗グルー』シリーズの脇役だったものが、人気となりキャラクターにコスプレする若者が多い。)や東京ディズニーランドなどのアミューズメントパークでコスプレをし、ハロウィンやクリスマスなどの一回性のイベントなどでも、多く見受けられる。日常から切り離され何者かに成りきることが、幸せに思われる。これまでの自分の愛するキャラクターやファンである意志を示すよりは、カジュアルにコスプレを行っているとも言える。

クリスマスやハロウィンなどのイベントごとでは、クラブという空間の中で仮装することも音楽と一緒に踊り、日常を忘れるようにしているように思える。自分を何者かに変えるということが普通になった今、このようなカリカチュアと言っていいようなものが受け入れられている事実があると言えるのではないだろうか。『スーサイドスクワッド』のハーレイクインも、今年のハロウィンで多くみられたコスプレであり、副次的に映画の集客や鑑賞につながっていると言っていいのかもしれない。

日本の漫画原作の多くに、あからさまに原作漫画を再現する意向も観られ、物語自体漫画を読んでいれば、話自体分かってしまい、仮装と言って戯画化された映画を観客は楽しんでいる。その分かりやすさは、観客にとって受け入れやすいものとされている。このような一見漫画の中のキャラクターが、人間化されることによって、観客は感情移入しやすくなると共に、このようなジャンル映画を安易に観に行けるのかもしれない。

ここまでしないと、観客は集まらないのであろうか。このような映画の簡略化は、特に近年強く感じられる。タイトルから漫画という原作が存在していて、キャラクターや物語が事前にわかる。行く前からある程度の創造できるものと言っていい。もはや映画である必要がなく、漫画として消費されるだけで良いのではないかと思われるが、そのようなことではなくなっている。一重に映画は手軽に気軽に見るものであるように思えてならない。観客は、あまり大きな期待もせずに予定調和な物をあまり期待もせずに映画館を訪れているのかもしれない。社会を映し出す鏡として、作家は自分の無意識の中で浮き上がる物を表象するように、多くの分析や作家への批評を映画は可能としてきた。娯楽として映画が存在した中でも、特に今必要とされているのは、あくまで物語の分かりやすさと仮装=非現実を求めているように思われる。日本における漫画文化の位置づけ事態、これまで、隔られていた映画との大きな溝が埋まっている。

このような現象は、タブレットやスマホで映画が観られるということが大きく関わっているように思える。実際映画館のスクリーンで観ることが、必然とならなくって来ている。ゲームや漫画と同じように消費される映画。これまでは、映画は祝祭的に扱われるものであった。ピクチュア・パレス(映画宮殿)と呼ばれるものも、過去存在しており、実際存在していた「ロサンゼルスシアターのロビーはヴェルサイユ宮殿の鏡の間をモチーフとしていた」*2 観客は、非日常を覗き味わうために、非日常的な空間を演出された映画館を訪れて楽しみに行った。しかし、その時代は終わりを迎えた。観客は果たして本当に映画館やスクリーンを必要としているのか。

ではこれから映画はどのように消費されていくのか、それはやはりオンライン配信が担っていくのではないだろうか。レンタルビデオの最大手であるTUTAYAも、今年店舗の縮小を行っており、映画館の閉館も相次いでいる。一重に映画館でもフィルムからデジタルでの上映に置き換えられている。追い打ちをかけるようにNETFLIX(定額で映画が観れる動画サイト)においてボンジュノの『オクジャ』が配信されたのが、大きな話題となった。韓国の有名監督と言っていい彼の新作は、映画館でかけられるのではなく、ネット配信で観られるのである。NETFLIXは、世界的に見れば1億人のユーザーの登録があるという。映画館では、大人は1800円を払い、上映時間も決まっており、拘束を必要とする映画館からの自由化ともいえる。このまま大きく会員数を伸ばしていけば、映画を観ることに対して観客の意識は変わっていくように思える。映画の変容といえるこのような現象は、今の時代の技術とも連結して、新しい価値観や消費形態を生み出していると言える。特に上記においては、日本においてここ2000年代以降、大きく変わっていると言える。

またこのような新しい形式が影響してか、新しいジャンルと言っても良い映画が生まれた。それは視線そのものが、主人公となった映画。戦争ゲームの定番と言っていい『コールオブデューティ』でも採用されているFPS(ファーストパーソンシューティング)を使った映画『ハードコア』というものがある。FPSは、主に一人称で、主人公の目線で戦争を模すように作られたストーリーの中で、敵を倒すことを目的としたゲームである。『メタルギアソリッド』なども近いジャンルに居るが、主人公の全身が見えず、目線でゲームをやるという、現体験に近いように作られているのが、人気を呼んでいると言ってもいいだろう。

『ハードコア』においては、主人公のヘンリーは人体改造された男であり、機械化された体である。冒頭目覚めたヘンリーは、声帯も機械化されてしまっているため、声を科学者から得ようとするが、エイデンという敵役によって邪魔をされ、声を得ることが出来ない。これに関しては、非常に観客への同化を及ぼすように作られ、大きな効果があると思われる。ヘンリーの目線から見る世界を約100分共にすることによって、体験を共有することにもなるし、ヘンリーとの同化を強めることになる。

ヘンリー=観客の目線は、他の登場人物に注視することを不可能とする。事実この作品は、ヘンリーと出会う人物は次から次へと死んで行き次から次へと新しい人物が現れては消えていく。他のキャラクターへの感情移入を必要とせず、またはこのような特殊な映画において代わる代わる新しいイベントが起きることによって、観客は飽きることのない体験を可能としている。ヘンリー=観客と言っていい、この作品かなりリアルなゴア描写も存在していて、新しいジャンル映画の先駆けと言っても良い。

実際過去にも同一化を狙って、巧みに観客を魅了した映画があった。アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』である。サスペンス映画の金字塔であり、モーテルの惨殺からスラッシャーフィルムの原点とも言われるこの作品はそれを助長するように作られた作品と言える。途中入場を禁止し、この作品を煽るかのようなヒッチコックの自作自演の予告は、観客に期待感を持たせるようにも、集中させる意味でも大きな利点にもなった。あの時代であればスキャンダラスであり、シャワーシーンでの殺害は、大胆なカットであったので、実際、館内で悲鳴をあげるようなことが絶えなかったと言われる。彼女の視線を経験することによって、同一化していくことによって感情か移入しているため、このような現象が起きる。

この系譜は、『13日の金曜日』『エルム街の悪夢』が代表例で、主人公たちも若者がでてくることによって、アメリカや日本を含めてティーンズ層を含めた多くの人の集客を狙ったものと思えるような作り方である。しかし、現在その限界が来ているように思える。このような映画のような乱立によって、ホラーのクリシェとも言うべき決まり事が、定着化してしまった。それらのジャンル映画に風穴を開けたのが、『スクリーム』であり、ホラー映画のクリシェを踏みながら、お化けや怪物に思えた犯人は、人間であるということ。ホラーを半分ブラックユーモアとして捉えながら、観客を煙に巻くような作品であり、秀逸な作品と言える。

近年では『キャビン』の中ではそれが加速して、ホラー要素が全て仕組まれたこと。神的な視点で若者たちを泳がして楽しみ、最後はそのフィクサーたちが無残に殺されるという。メディアになれてしまった私たちを揶揄するようにも捉えられる。安全な場所で動画サイトやニュースにおいて、中東で処刑される兵士の動画が見ることが出来るようになってしまった。インターネットが可能として世界中の今行われていることを、どんなことでもリアルタイムで見られるようになった。『キャビン』の中でも、若者たちがどのように死んでいくかを、フィクサーたちは歓喜を上げて、喜び楽しんでいる。それは、まるでホラー映画を観て、もはや恐怖でなく笑いが生まれたり、ゲームに置いても『コールオブデューティ』やRockstar Gamesという会社がリリースしている『グランドセフトオート』などの自由に法を犯すギャングスター的な生活を楽しんだりする。我々に重なる部分がある。『ハードコア』新しい映画の娯楽としての部分を推し進めるきっかけになると思われるとともに、これまで映画とされていた物はすでに消費され、求められるものは変わっていっていると言っていい。

すでに観客は、新しい物を観たい。これまでに無い物を観たいのは、同然である。現在このような過渡期に居る我々は、大きく映画の消費の仕方を本格的に変わっていくように思われる。作家にとってもこれは大きな問題であり、このように変容され消費されていく中で、どのようにして映画を撮るかが観客としても楽しみではある。まだ、未見であるが『タンジェリング』は、全編iPhoneで撮影された作品なども生まれている中で、これから観客はどのように映画を観るのか、作家はどのように映画を撮るのか、映画の変容や内容は、1世紀の歴史を越えて大きく変わりつつある。

 

*1 『コスプレする社会 サブカルチャーの身体文化』成実弘至編

*2 『映画館と観客の文化史』加藤幹郎

文字数:5959

課題提出者一覧