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「わたしがいなかった街で」砂羽の繋げる東京/大阪/広島

「わたしがいなかった街で」砂羽の繋げる東京/大阪/広島

 柴崎友香の『わたしがいなかった街で』は主人公、平賀砂羽の日々の日常が描かれている。この小説の中で、象徴的に三つの場所が描かれている。砂羽の住む東京、彼女の友達である中井の住む大阪、そして彼女の祖父が住んでいた広島。この三つの場所に示されるのは、「戦争」である。彼女を起点としてこれらの場所は繋げられていく。

前者の話というのは、平尾砂羽という夫の健吾と離婚して1年がたった36歳の彼女が、東京で一人暮らしの中で、友達の有子や、過去に通っていた写真教室の友達である中井の関係や、クズイという消息の取れない男の記憶と、夏という彼の妹。平日は非正規雇用として働いている貿易会社の事務の仕事についての悩み。彼女は、有子の父親と衝突してしまう場面や、仕事においても同僚の加藤美奈のようには振る舞うことが出来ず、周りに合わせるのが難しく、可愛げがないと思えるような主人公である。

ここで、柴崎友香の過去の作品と比べてみても砂羽は珍しいタイプのキャラクターと言える。元々柴崎の大いに評価された『きょうのできごと』や初期の柴崎の作品は、大阪や京都という地域性を生かした、そこに住む大学生などのリアリズムが主題であった。それは、我々が経験していない場所や時間で有っても、ノスタルジーや過ぎ去った日々の記憶を喚起させてくれる。それはどこか感傷的な部分も多い。

対して、今回の作品ではあくまで30代女性のリアルが描かれている。そのようなノスタルジーは存在せず、砂羽の日常の内面を細かく描写していて、彼女は生や死についても深く考え始める。

砂羽は変わった趣味を持っている、作中家で何度も一人戦争ドキュメンタリーを見ている場面が描かれる。それらは、サラエヴォの紛争や太平洋戦争の映像である。

レコーダーのカウンターを見ると、002100を過ぎたところだった。この番組を見るのは、二度目で、

前に見たときも001200あたりでサラエヴォの銃撃戦が始まり、同じことが起こった。彼らは、わたしが見るたびに、

死体になる。再生ボタンを押すたびに、また生きて、また死ぬ。この番組が制作された十五年前のイギリスでも、

去年の錦糸町でも、今日ここでも、明日でも、繰り返された。(24ページ)

 それは、あまりにも淡々と描かれていてまるで感情を失っているようである。

一方9.11、ワールドトレードセンターでのテロに関しての言及があり、彼女はその瞬間を思い出せる。その描写は一年後に亡くなる父の発言や行動までに至る。『WTCは、瞬時にして世界が同じ映像的な記憶を共有する建築となった』。*1

しかし、彼女は過去の映像もしくは、歴史として残る映像を見るとき自分がいなかった過去の事象を「映像」として、つまり「事実」ではないものとして知覚しているように思える。まるでそれは「物」のようにして。

現在我々はそのような映像を、実際の「映像」や「フィクション」も見慣れてしまったと言えるかもしれない。今まで我々は戦争を写真から、ニュース映画から、テレビから、今では簡単に携帯電話でYou Tubeなどの動画サイトで、簡単に現在と過去の戦争をみることが可能である。しかし、それを現在起きている「現実」、もしくは、起きていた「事実」として認識できているのか。仮想敵であるゾンビに置き換えた映画やテレビゲームの影響は強く、その度ごとに我々は、起きている「事実」もしくは、起きていた悲惨な「映像」は虚構として受け取ってしまう。

誰かに見せようとして。映像の中のできごとは、何十年もついこのあいだも、よく知る街も遠い国も、均しい距離で、

わたしの目の前に現れる。・・・

今起きているできごとを、わたしはいつ知るのだろうか。また時間が経って、知らなかったと思い、ただ過去に起きたこととして見るだけなのだろうか・・・なにを知りたいのか、なんで見続けているのか。(184ページ)

 その一方で砂羽は実際に、その場所を見ようとする、もしくは誰かに依頼してその場所を見ようとする。

海野十三の『海野十三敗戦日記』の引用がなされ、その記述がある東京のその場所を現在の砂羽が訪れ、1945年のこの場所に思いをはせるのだ。中井に頼み、大阪城に残る弾痕の写真を見て、その彼女の近くにそれがあることを実感する。その後、彼女はその写真のものは虚構でなく、実際に触ることが出来るものである。写真からそのように感じる彼女は。自分が生きているということを再考する。

受動的に感受するだけでなく、実際に訪れてみたりする行動はダークツーリズムとも言えるかもしれない。それは災害地や戦争の跡地を訪れるということは、『その悲しみを普遍化する方法を考えることによって、個別の不幸・不運は次世代の教訓へと生まれ変わっていくだろう。』*2

砂羽は、何かを生み出そうと向き合おうとしている。今まで透明化していた戦争の傷跡を如実に表していて、そこには常に生と死にという大きな揺らぎに動かされていた人々が居た。現在一人になった彼女の孤独や不安もしくは、自分自身の問いとも取れる。

砂羽は彼女の住んでいる東京、中井のいる大阪、祖父が居た広島は三つの場所を繋いでいく。物語の途中読者の予想としては、この物語は彼女の「自分探し」によって成長と共に終わるようにしていくのが、物語のクリシェに思える。しかし、彼女は小説の最後に急に倒れて、しかも助けを必要とせず、自らの力で立ち向かおうとして、そんな状況でも治療を拒否しようとして、終わる。彼女の強情さと、可愛げのない砂羽は継続していて、感情移入する読者は職も失った彼女が一層心配になってしまう。これ以降、砂羽は小説に登場しない。

実はこの後の場面に非常に重要なシークエンスが待っている。「夏」というクズイの妹の大阪での出来事で締めくくられるが、その前の高松での「夏」の体験と最後に来る大阪での場面から、この物語は砂羽から「夏」へと受け継がれていく。

「夏」というキャラクターは、砂羽と共通点が多い。過去に男によってDVに近い体験をして、あくまで自分が悪いと思ってしまって我慢をしていた彼女だったが、彼の行動に疑問に思い始め、周りの助けもあり彼から逃れ、別れることができた。砂羽も浮気されてしまい健吾と別れってしまったという過去を持つ、両者は男性との間にトラブルがあり、トラウマともいえる。仕事に対しても、両者現状を疑問に思いつつ、続ける描写も共通している。

「夏」の描写は少ない中、砂羽と同様に高松の出来事をきっかけに彼女は生について考えるようになる。瀬戸内海で行われる美術のイベントのために、友人と高松に向かった彼女は、大阪に帰る高速バスの中で、窓から夕陽に照らされる稲を見る、ふと隣を見ると隣の席の女性は、その美しさに涙を流しているのに気づく。彼女は、そこから「生」を感じ取る。

ずっとわからないかもしれないけど、それでも、わたしは、自分が生きている世界のどこかに死ぬほど美しい瞬間や、

長い人生の経験をかみしめて生きている人がいることを、少しでも知ることができるし、いつか、もしかしたら、そういう瞬間に

辿り着くことがあるかもしれないと、思い続けることができる。(266ページ)

 このシーンは、砂羽の求めていた回答に対しての一つの回答にも思える。そこには、人がいるということ。非常に短い時間の瞬間的な場面であるが、その気づきが夏には出来た。また他の柴崎氏の作品にも共通して、上記のような瞬間が描かれる。それは彼女の文学作品の確信とも言える。

物語は最後、「夏」は仕事である塾の夏期講習の授業を終え、京橋の慰霊碑に向かう彼女は、先日に空襲の慰霊祭のニュースを見て、その場所に向かった訳であるが、この場面は非常に象徴的なシーンである。その慰霊碑に佇む老婆と彼女は慰霊碑を前にして、老婆から戦争の話を聞く。一方、その現実世界はどこからか火事が起きていて家屋が燃え盛る。二人の話は、現実と過去がまるで結びついたかのように見せて物語は終わる。

戦後70年が過ぎて、「平和」の続く私たちは、この小説から過去を考える意味を教えてくれる。太平洋戦争と敗戦という、そして1945年の夏の日本の運命を変える大きな出来事は、今でも我々の中に受け継がれている。実際、東京/大阪/広島には、過去の情報とともに存在するものとして傷痕や風景が残っている場所と言える。また作中の中で、砂羽は広島を去った祖父の決断によって、救われて現在存在していること。また、終戦前日に空襲を受けて、死んでしまった人に対しても、彼らが救われた可能性を夢想する。実際、私も現在他界した祖父や存命の祖母から、戦時中の命の危険を感じた話は、一つや二つ当たり前のように出てくる。この小説はあの夏は終わっておらず、我々に脈々と受け継がれていることを、ただそれが透明化してしまってそれをどのように意識するのかを訴えかけているようにも思える。

戦争というネガティブなものから、この作品は生きるということを問い直す重要性を考えるきっかけを与えてくれるように思う。情報として戦争というものを残していくことは現在、メディアや文化にとって簡単に思える。しかし、この小説を読んだ者は自らにこう問わずにはいられないはずだ、「わたしがいなかった場所はどのようであったのだろうか?」と。

 

本文引用

柴崎友香「わたしがいなかった街で」(2012年)

*1 五十嵐太郎著「忘却しない建築」

*2 井出明著「ダークツーリズムが被害地をつなぐ(福島第一原発観光地計画の哲学)」

『福島第一原発観光地計画 思想地図β vol.4-2』 収録

文字数:3938

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