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遊び、幽霊、非在 「遠い座敷」論

 

 筒井康隆「遠い座敷」は奇妙な小説である。

 文庫本にして15項のこの短編は、山の頂にある友人の家から、山の麓にある自分の家へと帰るお話である。要約してしまえば、それだけの内容だ。ではどこが奇妙なのか。それは家へと帰る方法である。主人公の宗貞の家と、友人の家は、座敷伝いに繋がっている。座敷は麓へ向かう間に、山の斜面に沿って少しずつ下がっていて、その巨大な家の中を移動して、宗貞は自分の家へと帰ることができるらしい。しかしそんなことがあるだろうか、と読者は訝しみながら読み進めるが、実際、その方法で宗貞は自分の家にたどり着いてしまう。現実にはありえないような設定の建物だが、筒井は巧みな筆致でこの奇妙な小説を書き上げている。ナンセンスと言葉遊びのおかしさと怖さが併存する短編である。本稿では、この小説の奇妙さに向き合い、それを言語化することを試みる。結論を先取りして言えば、この小説は、ハイデガーが「存在の否む働き」と呼んだ「無」=非在についての小説である。

 

「遠い座敷」を詳しく見ていく前に、ハイデガーの存在論の変遷を確認しよう。知られているように、ハイデガーは1927年の『存在と時間』において、現存在(人間)から存在一般を考える哲学を打ち立てた。しかしその試みは、『存在と時間』の下巻の刊行の断念という形で挫折している。ハイデガーは過去の西洋哲学を、形而上学的として批判し、形而上学に拠らない言語体系を作る必要性にかられていたが、『存在と時間』ではその試みが十分に果たされなかったと彼自身が判断し、その後彼は詩作の言語によって新たに存在について考える哲学を始めている。『ヘルダーリンの詩作の解明』(1944年)などがそれである。ハイデガーは存在の思想を新たに打ち立てるために、言語体系の変更を試みた。哲学的言語から、詩作の言語へ。『ヘルダーリンの詩作の解明』で彼の思想はよりラディカルに変化しており、『存在と時間』とは異なり、現存在からではなく、存在そのものから存在一般を考える思想が展開されている。『ヒューマニズムについて』(1947年)の中で「言葉とは存在の家である」とハイデガーが語る時、その「言葉」とは、哲学的言語から詩作の言語への転回を暗に含んでいる。言葉は存在を示すための道具であるが、道具である言葉は適切に選ばれたものでなくてはいけない。

 こうして『ヘルダーリンの詩作の解明』や『ヒューマニズムについて』では、存在についての思考が展開されるが、一方で、存在の否む働き、つまり非在についての思考は中途半端に投げ出されている。『ヒューマニズムについて』の本文は文庫にして150項程度の内容だが、そのなかで非在については僅か5項しか触れられていない。ハイデガーによれば、非在とは次のようなものである。

 

「非ずということが、否定の否定性として、存在の本質のうちで現出してくる。この存在が、ところが、そこでは、絶対的現実性という意味において、無制約的な意志として思索されており、この無制約的な意志は、(略)みずから自身を意志している。(略)存在のうちで否む働きをする面が、私が無と呼ぶものの本質なのである。思索は、存在を思索するからこそ、思索は、無を思索するのである」(『ヒューマニズムについて』134-135項)

 

「非ずということ」すなわち非在の思索は、絶対的現実性=存在の思索によって可能であるということをハイデガーは述べている(ここで非在は、存在のもつ働きとしてあり、例えば誰々がいないこと=不在とは違うものである)。また、その思索は「無制約的な意志」によって思索される。しかしここでは、それ以上の思索は展開されていない。

 私たちはここで、「言葉とは存在の家である」という命題を次のように読み替え、ハイデガーの非在についての思索を一歩進めよう。すなわち、「言葉とは非在の家でもある」という命題について考えることが、本稿が果たすべき試みと言える。仮にそれを「非在の思想」と呼ぶとすれば、そこではどのような言語が必要とされるだろうか。それは形而上学的でもなければ、詩作の言葉でもないだろう。そこで必要となる言葉は、遊びの行為から生まれる言葉である。本稿では、「遠い座敷」という作品を通して、この考えを深めていくことになる。

「遠い座敷」は三つの遊びによって構成されている。物語の筋を見ながら、それを確認しよう。小説は、宗貞と友人の兵一が、兵隊双六を遊んでいるところから始まる。宗貞は兵一と兵隊双六に夢中になって繰り返し遊んでいるうちに、兵一の家では夕餉が始まってしまう。ここですでに一つ目の遊び、「兵隊双六」が登場している。

 居心地の悪さを感じつつも、帰り時を見失った宗貞は、兵一の家の夕飯を相伴することになる。食事の団欒のなか、兵一の家族たちが、この地域一帯に伝わる「ごんの節」という歌あそびを歌い始める。これが二つ目の遊びである。最初は仙人のような風貌の老人が、兵一の初めて聴く格調高い詩と節回しで歌い、次に兵一の父親が、宗貞も知っている詩と節回しの「ごんの節」を歌う。歌は数度繰り返され、繰り返すごとに徐々に格調を下げていく。

 歌遊びの繰り返しが落ち着いた頃に、宗貞はそろそろ家に帰ろうと思い席を立つ。そこに兵一の父親が、「奥の廊下を出て、座敷伝いに進んでいけば、宗貞の家に着く」ことを教えてくれる(前述したように、宗貞の家と、兵一の家は、山の頂から麓まで、座敷によって繋がっている)。以前からなんとなくそうなのではないかと思っていた宗貞は、暗い山道を降りていくよりも、無人とはいえ明かりのある座敷を通って帰るほうが安心だと考え、兵一の父の言葉の通りに座敷を伝って家に帰ることにする。無人の座敷は百を超える数があり、無限に続くかと思われるほどにその道のりは長く、兵一は無人の座敷に次第に恐怖と不安を覚えていく。しかしそこで何か事件が起こるわけでもなく、兵一は自分の家の玄関までたどり着き、小説は終わる。

 三つ目の遊びは、小説の半分ほどを占める、この座敷伝いに家に帰る道行であり、ここではそれを「座敷伝いの遊び」と呼ぼう。「座敷伝いの遊び」は作中で遊びと書かれているわけではないが、宗貞は以前に近所の子供たちと、山の麓の宗貞の家から座敷を(兵一の家からの帰り道とは逆向きに)上の間へ上の間へと進んでいく遊びをしていたことがあったことから、宗貞にとって座敷伝いに家を移動していくことは一種の遊びであったと考えることができる。この遊びはまた、厳格なルールと終了条件を持っている。兵一の父親の言葉にそれは現れている。「座敷伝いに移動すること」がこの遊びの唯一のルールであり、「そうすれば家に着くこと」が遊びの終了条件である。付け加えて言えば、友人の名前が兵一であることは、「兵隊双六」の一、つまり振り出しを暗示している。つまり兵一の家の座敷から始まる「座敷伝いの遊び」は、座敷を一つずつ移動していく双六の構造を持っている。そこからも「座敷伝いの遊び」の遊戯性が指摘できる。

「遠い座敷」はこのように、三つの遊びによって構成された作品である。三つの遊びはどれも反復が強調されている。繰り返し遊ばれる「兵隊双六」、詩と節回しを変えて何度も歌われる「ごんの節」、無限に続くかと思われる座敷を駆けていく「座敷伝いの遊び」。どの遊びにも反復の要素が共通している。また、どの遊びも家に関係したものでもある。「兵隊双六」は、戦争に出征し、勝利して家に帰ってくるまでを双六にした遊戯であり、「ごんの節」を聴いた宗貞は、山の麓の自分の家と、山の頂の兵一の家との格式の違いを実感させられ羞恥を覚える描写がある。「座敷伝いの遊び」については、家に帰る行為そのものである。家に帰るだけのお話が、なぜ小説として成立してしまうのか。その秘密は、今や明らかである。三つの遊びが読者に伝える反復と家のイメージ。それらが、この小説に独特のリアリティを立ち上げ、単なる「家に帰るお話」に留まらない小説としての強度を担保しているのだ。

 

 ところで、家に帰るというモチーフは、ヘルダーリンの詩「帰郷」とも関連性が見つけられる。ハイデガーは『ヘルダーリンの詩作の解明』のなかで、「帰郷」を分析している。「帰郷」は詩作する詩人が、アルプスの頂から、山や湖を経由して故郷へと帰る際の情景を詩作した作品である。山の頂から家へ、という移動は「遠い座敷」と同じである。異なるのは、その経路である。「帰郷」が山や湖といった自然のなかを経由して家へと帰るのに対して、「遠い座敷」の宗貞は家の中を経由して家へと帰る。この差異は重要である。ハイデガーは「帰郷」について次のように書いている。

 

「帰郷とは、根源に対して近くにいることへの帰還である」(『ヘルダーリンの詩作の解明』34項)

 

 ここで根源とは存在そのものである。詩人は詩作において、神々や天使といった存在に挨拶を受けることで、存在そのものの近さを感得し、その近さを故郷へと持ち帰る。故郷の人々は、詩人の詩作に想いを向けることによって、存在そのものの近さに触れることができる。このとき、ヘルダーリンは(そしてハイデガーは)、存在そのものについて詩作/思索している一方で、非在については語ってはいない。では「遠い座敷」の宗貞はどうだろうか。宗貞は非在についての思索を行っている。しかし、それは前述したように、形而上学的でも詩作の言葉でもない。宗貞は遊びの行為のなかで、存在から非在の近さへと至っている。それはどういうことだろうか。

 ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』(1967年)において、遊びを四つのグループ(競争、運、模擬、眩暈)に分類している。「座敷伝いの遊び」はそのなかのどれに属するのか。それは眩暈の遊びである。カイヨワは眩暈の遊び(イリンクス)について、「一時的に知覚の安定を破壊し、明晰であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとする」遊びと書いている。これは宗貞の「座敷伝いの遊び」と共通した特徴である。宗貞は最初の方では座敷を一つ一つ観察しながら進んでいくが、やがて床の間の人形たちが動き出して笑い始めるような不安を感じて、それらを見ないように座敷を駆け抜けていく。知覚は不安定になり、宗貞はパニックに陥り、眩暈の遊びの特徴がここに現れている。

「座敷伝いの遊び」において、眩暈には二つの反復する要素が主に関わっている。無限に続くかに思える座敷、電灯の明かりの明暗、この二つである。襖を開けて進んでも進んでも一向に同じような座敷が続くその光景は宗貞を幻惑する。そしてそれぞれの部屋にはなぜか常に電灯が点っている。それらは20燭光か40燭光の薄暗い明かりであり、その二種類の電灯がランダムな規則で薄暗さの階調を作っている。この二つの要素が、宗貞に不安と恐怖を覚えさせ、しかし「座敷伝いの遊び」によって家に帰る宗貞は、その恐怖から逃れられず眩暈の中を邁進していく。

 また、カイヨワは遊びという行為について次のように書いている。

 

「『遊び』という言葉は、動きの自由、運動のなめらかさ、過度にわたらぬ有益な自由という観念を喚起する。たとえば、歯車の『遊び』とか、また、船が錨を下ろして『遊ぶ』(たゆたう)とかいった場合である」(『遊びと人間』18項)

 

 遊びとは通常、規範の中で行われる。しかし遊びは同時に自由という観念を喚起する。そのような逆説的な意味において、遊びは「無制約的な意志」の行為である。ハイデガーは非在の思索とは「無制約的な意志」による思索であると書いていた。形而上学的でも、詩作でもなく、遊びの行為が「無制約的な意志」を実現する。だから宗貞は遊びの行為のなかで、非在の近さに触れることができる。ではその近さはどのような場面で立ち上がってくるのか。

 前述したように、「帰郷」ではアルプスからの帰路の中、つまり自然のなかで、神々や天使たちが詩人に存在の近さを伝えていた。そこでは晴れやかさや明るみといった表現が使われている。逆に「遠い座敷」では、家の外(自然)は全く出てこない。その代わりに描かれるのが、家の中の情景であり、弱弱しい電灯の暗がりに浮かぶ、床の間に飾られた置物たちである。宗貞に笑いかけてきそうに思わせる不気味な置物たちのなかで、異質な存在感を示しているのが、幽霊の掛軸だ。

 

「顔や姿の美しさは観世音菩薩とそれほど違わないにかかわらず見る者の心に突き刺さってくるまがまがしさがありその女が幽霊であることは宗貞にさえひと眼でわかった。(略)なぜあんなおそろしい絵をわざわざ掛軸にしておくのだろうと宗貞は思った。(略)宗貞は襖を閉めずに走り出した」(「遠い座敷」『エロチック街道』121-122項)

 

「帰郷」において、詩人は神々や天使の挨拶のなかで、存在の近さに近づいた。神々や天使が担っていた役割を、ここでは幽霊が担っている。ここでの幽霊は存在の非在そのものである。宗貞はその幽霊を見る/見られることで、非在の近さに近づいている。そして宗貞は、それまで座敷を通過した際に必ず閉めていた襖を「閉めず」に走り出す(宗貞は普段から、襖は必ず後ろ手に閉めることを父から厳しく言いつけられており、宗貞は帰路の途中まではそれを守っていた)。宗貞が通過した座敷には「開け放された襖」が残される。その一連の行為は、眩暈の遊びのなかで、「無制約的な意志」のもとで行われる。

 ハイデガーはヘルダーリンの「旅」という賛歌において、「家の竈」について次のように書いている。「母なる大地である『家の竈』こそ、晴れやかにするものの根源であ」る、と(『ヘルダーリンの詩作の解明』33項)。晴れやかにするものの根源とは、これもまた存在そのものである。そして「郷里とは竈と根源に対して近くにいる場である」とも書いている。ハイデガーはここで、神々や天使によって存在そのものの近さに近づいた詩人こそが、郷里にある「家の竈」=存在そのものの近さを詩作によって示すことができると述べている。詩人は帰郷し、郷里の人々にそのことを詩作によって伝えるだろう。詩人にとっての「家の竈」は、宗貞にとっての「開け放された襖」である。それは幽霊=非在の近さに近づいた宗貞が残した非在そのものの近さである。「開け放された襖」についての言葉は、非在の近さそのものについての言葉である。それは眩暈の遊びによって、つまり「無制約的な意志」によって生まれる言葉である。形而上学的でも詩作でもない、遊びの行為のなかの言葉から。「言葉は非在の家でもある」という命題が確立する。

 それでは、宗貞は家に帰った後、果たして「開け放された襖」=非在の近さに近づいたことを、家族に伝えることができるだろうか。結論から言えば、宗貞はそれを家族に伝えることはできない。それは次の文章から読み取れる。

 

「それに大人たちは自分の開け放した襖を見てきっとよほど怖かったに違いないなどと話しあいながら笑って許してくれるだろうと宗貞は思った」(「遠い座敷」『エロチック街道』123項)

 

 笑いはこの小説において最初から最後まで通底する要素である。兵一の家族たちは笑いながら団欒し、床の間の人形たちはいかにも笑い出しそうな不気味さを帯びており、どこかの座敷からも知らぬ家族の笑い声が響いてきて、最後に宗貞がたどり着く我が家の玄関にも家族の団欒の笑い声が聞こえてくる。そのように執拗に繰り返される笑いとは、宗貞にとって何なのだろう。それは遠さである。兵一の家族が「ごんの節」を歌いながら笑いあう時、宗貞は一緒に笑いあうことができずに兵一の家族との間に距離を感じている。人形たちのいかにも笑い出しそうなたたずまいや、どこかの座敷の家族の笑い声は、家までの距離の遠さを恐怖という感情として宗貞に伝えている。反復する笑いは、近さではなく遠さを意味する要素である。非在の近さを宗貞に伝える幽霊が、他の置物とは異なり、笑いだす気配をもたないことは示唆的である。

 ヘルダーリンの詩作のなかで、詩人は「家の竈」という存在そのものの近さを郷里の人々に伝えることができるが、一方で、宗貞は非在の近さを、家族に対して伝えることができない。その言葉は一笑に付され、遠ざけられるだろう。また、もう一点重要なのは、「帰郷」における存在の近さが、詩作の言葉のなかにしか存在しないのと同様に、それは遊びの行為のなかにしか存在しないことだ。遊びが終われば(宗貞が家に到着すれば)、その言葉はよりどころを失くしてしまう。そしてまた、実際には、家族は宗貞の「開け放された襖」を見ることはかなわないだろう。宗貞が通ってきた座敷は、誰が住んでいるのか、そもそも今も使われているのかすらもわからない。にもかかわらず、「どの座敷もみな人が来てもいいようにすべてきちんと整頓され掃き清められている」。そうだとすれば、宗貞によって「開け放された襖」もまた、同じようにきちんと閉じられてしまうだろう。

 遊びの行為のなかで、非在は「開け放された襖」についての言葉として示される。しかし、それは遊びの外へ出ることのできない言葉である。遊びは反復する。だが遊びが終われば、誰かが襖を閉じる。

 


 

■参考文献

筒井康隆『エロチック街道』(新潮文庫、1984年)

轟孝夫『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017年)

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973年)

マルティン・ハイデガー『ヘルダーリンの詩作の解明』(濱田恂子訳、創文社、1997年)

マルティン・ハイデガー『ヒューマニズムについて』(渡邊二郎訳、ちくま学芸文庫、1997年)

マルティン・ハイデガー『存在と時間』(熊野純彦訳、岩波文庫、2013年)

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990年)

 

文字数:7296

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