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ラッパーは2度死ぬ--TRAPのマゾヒズムと“パリピ”身体の彼岸

“時はいろんな形で俺らを傷つけ試してくるけど
アナログ盤みたいにね 傷も味になればいい
そうだね だからこのまま”-- PUNPEE「Scenario(Film)」

 前回の課題ではヒップホップがなぜ「今ここ」の上下運動のリズムに没入していくのかの「壊れた都市空間」を揺るがす震度=バイブレーションの所在にまで辿り着いた。低音のキックとベースを増幅したビートを乗りこなして床をガンガン踏み鳴らすダンスというのはトゥシューズの爪先で立つエレガントさを競うバレエの身体表現などと比べても、合理的に整序された体系を構築して精神的な高みへと上昇する志向の西洋の文化とは真逆のベクトルだという基本姿勢は少しは明らかになっただろうか。ニューヨーク市ブロンクス区の街角でブレイクダンスとラップミュージックが誕生する歴史を描いたドラマで言う所の『ゲットダウン』である。クール&ザ・ギャングのファンクチューンまで遡ると「Get down on it, if you really want it!/Get down on it, you gotta feel it!」である。

それともう一つ、最近ポピュラリティを獲得しているラップの歌詞がただ商品名を誇示して連呼しているだけ、コンシャスなメッセージに高める手前で原始的な欲望を正直にそのまま晒け出しているだけと言えるような無意味化、もしくは口唇期的な幼児退行化しているという(「ポスト・テクスト・ラップ」などと名付けられている)傾向を踏まえて、引き続きラッパーの身体性について考えてみよう。
 例えば音楽批評の鼎談『ラップは何を映しているのか』ではその特徴が「リリックの内容よりもフレージングやサウンドに重きが置かれ、オートチューンを活用したメロディラインを伴うことも多い」と要約されているムーブメントが台頭してきたことは、その方向転換を促進する最大の要因だと言って間違いはないだろう。
 かつてリリシストだと詩的才能の本物性が称えられたNASにオマージュを捧げるNORIKIYOが、2017年の『It Ain’t Nothing Like Hip Hop』で“おれはTRAPも好き でも原点がね 俺にこう言う「おいブレてんじゃねえよ」” とコメントを呟くほど、もしくは2016年に宇多田ヒカルのアルバム『Fantôme』に収録の「忘却」にラッパーとして参加したのも話題になったKOHHのカリスマ性の衰えなさなど、アメリカと日本以外のアジア・ヨーロッパでもTRAPサウンドの勢いは留まる気配がないのが現状だ。

 例えば、MigosやFutureをブレイクさせた楽曲プロデューサーでもあるMetro Boominらが牽引するTRAPサウンドの波及力をダイレクトに消化&吸収した日本語ラップのヒットチューンが、JP THE WAVYの「Cho Wavy De Gomenne Remix」である。2017年6月にYouTubeにアップされたこの「feat.SALU」バージョンの、カラフルなサイバーパンク的ファッションが特徴的なラッパー兼ダンサーでもあるWAVYが夜の渋谷の路上で女性ダンサーたちを引き連れてウェイヴフォームを踊るMVがネット上で次々と「超WAVYでごめんね」というフレーズをリミックスする動画が増殖するなどしてバズり始めたのは記憶に新しい。

“最近流行りTrap もう終わって来てるDab
俺のマインドでRap これがWavyのスタンス
Migos-Bad&Boujee 聴いて踊るPussy
次は俺のNew shitで踊るHomieは超Lit
(……)
だから俺は歩くしっかり
横の仲間 下の仲間 上の仲間
連れて今は夢の半ば
俺の墓場 それはここだ

でもまだまだまだ死ぬ訳にはいかないから
今は出来る事を波に乗って為すが侭

[Hook]
超Wavyで御免ね
Sorry for my ladys
今まで見た事無い このType

Cho Wavy De Gomenne
Cho Wavy De Gomenne”

 いかにも今時の反射神経で街路を漂っている軽快さがSNSで支持される魅力になっているであろうWAVYがなぜ曲中で「俺の墓場 それはここだ」と告げているのかは一旦後回しにするが、この曲に関して限りなくお笑い芸人が発信する一発ギャグ(いわゆるリズムネタ)の流行り方に近いと評するのは日本語ラップ界ではタブーなのだが、ここはプロモーションメディアではなく批評再生塾なので細かいことは気にしなくて良かったのだった。
 というのも、アメリカ南部の地域でドラッグ売買を生業とするラッパー界隈の人々とクラブカルチャーの結びつきから生まれたというバックグラウンドは大分異なるものの、TRAPでよくリリックの合間に挟まる“yeah”でも“yo!”でもない“aye(エイッ)”という原始的に間が抜けたコーラスのかけ声は、時に「いないないばあ」的な振り付けのステージパフォーマンスと合わせ技になってほとんど宴会芸の域だと思われるからだ。例えば川崎を拠点にする20代前半の新鋭グループ・BAD HOPの2ndアルバム『Mobb Life』でも「俺ら派手な遊びしすぎたせいさ/朝までヘネシー」というノリで顕著に取り入れられている。

 それを証拠に、今年発表されたアルバム『CULTURE』が全米のチャートを席巻しているMigosの「Bad and Boujie」の映像を見てみよう。高級ブランドで着飾った無表情な女たちを近所のファストフード店に呼んでワインとカップヌードルを振る舞うというブニュエルの映画の1シーンのようなチグハグさがタイトルの「ブージー=ブルジョワジーを茶化した隠語」が表す風刺的ニュアンスの違和感を醸し出している。そして破裂音の語呂の良さを優先した3連フロウの縺れたラップに奇矯な裏声のコーラスを入れる3人組とLil Uzi Vertの掛け合いは、リリックだけを取ると「葉っぱをクッキングして俺たちは何も無い所から何者かに成ったんだ/俺はヤングでリッチ、それにブージー、馬鹿じゃないのでウージー(銃)は離さない」といった陳腐なテンプレート的内容なのだが、こういったTRAP独特の隙間の多いリズムに乗って威勢良くなるべく無意味でしょうもないことを叫んで輪唱するスタイルによって、1回聴けば耳に余韻が残るポップな「どうでも良さ」に達している。

 要するに(「一気飲み」コールは社会問題化した危険性の啓蒙により廃れたものの)大学のサークルや会社の忘年会、ホスト〜ホステスの世界が生態系をなしている夜の街で人知れず伝承されてきた宴会芸=飲み会のコールの燃料となる“酒”が“ドラッグ”に代わったものだと捉えると、ジャパニーズTRAPのルーツはかつて持ちネタの『ぽいぽいぽいぽぽいぽいぽぴー』で吉本興業のレーベルからCDデビューしている六本木系水商売パフォーマンスユニット・あやまんJAPANであるという仮説が成り立つ。真面目に言って、既成のトラック(00年のユーロビート「LOVE&JOY」)をジャックしてリズミカルに下ネタの合いの手を入れる替え歌芸のスタイルはラップと比較されるべきだと思うのだが、ちなみにそのメンバーの1人・ファンタジスタさくらだは現在、90年代日本語ラップの代表的な存在・スチャダラパーのMC BOSEと結婚して育児中の主婦タレントとして活動している。多少脱線したが、言い換えるとまったく政治性がない方向で野次とシュプレヒコールを盛り上げていく類のハレの音楽なのだ。

 そもそもネット上で流通するラップ楽曲の一群を指して「TRAP」という名前で呼ばれるようになったジャンルが虚実入り乱れたイメージを纏いつつ一人歩きを始めたのは2012年頃からだという。元々はサウスサイド=アトランタで使われていた「ドラッグディールの現場」を意味するスラングを転用して2000年代初頭からできあがっていたものが地元のラップ・シーンを離れて膨張していった過程について詳しくは『ベース・ミュージック ディスクガイド』で和田哲郎が解説している。「トラップは明確なジャンルというよりはベース・ミュージックとヒップホップのハブであり、インターネットとストリートのハブとして存在するといった方が適当であるかもしれない。」(同書)
 要はその空き家のような取り引き場所(TRAP HOUSE)が象徴する「ハードな仕事」を鼓舞するのにふさわしいチキチキしたビートに乗ったテーマソングというぐらいのあやふやな定義しか持たなかったジャンルが、2015年には「フランスは人口6千6百万、ラッパーは1千万人、で、フロウは、たった一種類」(小林雅明氏のツイッターで紹介されていた動画より)と揶揄されるほど世界中に蔓延するダンスミュージックの様式として影響力が拡がって行ったわけだ。
 2012年にEDMのプロデューサーだったBaauerがTRAPのビートを取り入れた「Harlem Shake」が引き起こした現象は世に認知されるきっかけとなった一つだろう。オーストラリアの学生から飛び火して欧米のSNSを中心に曲に合わせて突然体をシェイクする非日常的な動きで踊り狂うネタ動画を投稿するブームでイントロが使われたことで、この曲が音源化された翌年にはビルボードチャートで1位を獲得した。同じく2012年にはイギリスの電子音楽レーベル・Warp Recordsがサウスヒップホップを咀嚼したハドソン・モホークとルニスのユニット『TNGHT』をリリース、さらにその収録曲がカニエ・ウェストのアルバム『Yeezus』のトラックとして使われるなど、じわじわ侵食が進んでいたのだ。
 ところがしかし、ふざけた歌詞の内容とは対照的に、ここ数年のTRAP系の楽曲自体はひたすら不穏で陰鬱な重低音を基調にした「暗い」サウンドプロダクションを突き詰めていくようになるという奇妙な二律背反性はどういうことか。

 実際、2010年代前半頃から最初にローランドTR-808を使って打ち込んだ痙攣的なビートがリバイバルし始めたのをよく耳にするようになった時は、まるで鞭打ちの刑を工場でオートメーション化したものを一回り旧式の無骨なロービットのドラムマシンで再現したような拷問的リズムだと、具体的に言い換えるならば裏拍を小刻みにハイハットで微分しつつ歪んだシンセベースのダウンビートに重なるピシィィッッという調教的な圧迫感のあるスネア+クラップ音がアクセントで響くのがマゾヒスティックなサウンドだという印象だった。
 『ラップは何を映しているのか』でも、幼児退行的な語呂合わせの快楽と並行してドラッギーなサウンドの「内向的・自閉的な方向」が指摘されていたのと合わせて、2016年にはアルバム『Atrocity Exhibition(残虐行為博覧会)』で1980〜90年代の白人系ゴシック・ロック/インダストリアルの世界観に接近するDanny Brownのようなラッパーまで現れていた。(※ジョイ・ディヴィジョンやナイン・インチ・ネイルズの曲名を引用する他に、前作ではポストパンク・バンドのディス・ヒートをサンプリングしている)

 これは一種の、フロイトが第一次大戦直後に「死の欲動=タナトス」を理論化した『快感原則の彼岸』で語っている所の「不快=苦痛でしかありえないことを執拗に繰り返す」反復強迫のメカニズムがポップ音楽のトレンドに組み込まれて「デジタル技術で加工された中毒性の高い攻撃的サウンド」として洗練されて行っていると言えるのではないか。
 ラップの歌詞の無内容化・幼稚なだらしなさを剥き出しにする叫びはその「ドリル」や「クランク」とも形容されるビートに対するパフォーマティヴな降伏であり、逆説的な後退戦である。
 以上の前置きからTRAP特有の意図的に音程を踏み外す緊張感を高める単音階のピアノ・メロディーの上でラップと歌の中間のフレーズをオートチューンで加工すると声の人間的感覚が麻痺したようなカタコト風の異物感が醸し出される酩酊的な楽曲が前傾化する、「呂律が回らなくなった麻痺した身体」のモードをここからさらに説明できるかもしれない。

 というのも、「無機物に還る」本能としての自己破壊的タナトスは繰り返し無意識に回帰してくる外的ショック(フロイトが直面したのは約100年前の戦争神経症)に対する防衛機制として表面化するのだった。

 ジル・ドゥルーズは、「人はなぜ苦痛の記憶を繰り返し想起するのか」を考察した『快感原則の彼岸』を再評価する第10章「死の本能とは何か?」を含む著書『マゾッホとサド』で、嗜虐=サディズムの「否定」と被虐=マゾヒズムの「否認」を区別している。「否認」による「世界の分身化」、特殊な契約を女主人(パートナー)と結ぶことで経験的なこの世界を「宙吊り」にするというマゾヒスト的身振りについては千葉雅也の『動きすぎてはいけない』が要約している。

「この否定性は、破壊ではない。もうひとつの、あるいはひとつ以上の虚構的な世界を--別の彼岸、いわば此岸的な彼岸を--構築すること。マゾヒストはそのために、特殊な「契約」を相手と結ぶことで、その領域において、経験的な世界を「一種の未決定状態、中間状態」へと変化させる。契約とは、フィクションの仮説である。異なる関係づけの自由=空間を拓くこと。この世界において世界の分身を、契約によって構築する--」(千葉雅也『動きすぎてはいけない』より)

 さらにドゥルーズは「マゾヒスト的服従」の「下降」の運動から法をくつがえすユーモアの機制を導き出している(対してサディストが使うのは法の高次の原理へと上昇するアイロニーである)。

「法を、言葉どおりとらえる。その至上の、あるいは第一義的性格には意義をとなえない。あたかもその性格の力によって法が人間に禁じる快楽を、法が自分のためにとっておくかのように行動する。するとその隙間から、まさしく法を観察し、法と一体化することに徹しきることで、その快楽のいくらかが味わえるだろう。法は、もはや原理への遡行によってイロニックにくつがえされるのではなく、帰結を深く究明することによって、ユーモラスなかたちで斜めによじまげられるのだ。」(『マゾッホとサド』より)

 ドゥルーズが概念化した苦痛=快楽に呻くマゾヒズム的倒錯者の「冷淡さ」。
 アフリカ系にしてもヒスパニック系にしてもアメリカにおける有色人種のカルチャーは、警察や監獄の規律テクノロジーとの緊張関係を抜きにしては発展して来なかったはずだが、チェーン・アクセサリーを好むラッパーたちの全身にいくつタトゥー(刺青の種類によっては囚人の印からアウトローのファッションへと転用された歴史がある)を入れられるかを競って見せびらかす趣味はこの説を補強するだろうか。

 ドゥルーズの「アイロニー/ユーモア」概念を援用する千葉雅也の『勉強の哲学』では、「深い勉強」の準備段階として遡行する周りの環境から自閉した享楽的こだわりのノリ=「言葉を言っているというより、たんに「口をもぐもぐすること」の原始的な気持ちよさ」に浸っている言語の自己目的化した玩具的使用の例で刺青の喩えが出てきたので一応参照しておきたい。

「言語とは、傷跡です。
言語の形態が、この身に刻まれた。それは、刺青である。
その痛みをともなう形態との出会いを、しかし私たちは、享楽している。マゾ的に。
非意味的形態としての言語が刻み込まれたときの痛みを享楽するというのが、言語を使う人間にとって、根本的なマゾヒズムである。

勉強とは、新たに言葉に出会い直すことで、その「言語の痛気持ちよさ」をまた反復することなのです。」(第2章「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」より)

 要するに、4/4拍子(偶数拍)と3連符(奇数拍)を組み合わせたグラグラ不安定に揺らぐ千鳥足的なリズムに撓められて、そのどこでもない深淵に片足を突っ込んだ体勢に身を置いた「宙吊り」状態からいかにディレイがかったしょうもない煩悩を叫ぶ瞬間のインパクトを強めるか、というのがTRAPの肝である。

 そういえば曲中で「死」についての言及が多いラッパーがもう1人いることを忘れていたが、KOHHの印象的なフレーズを振り返ると「ちょっと痛いけどタトゥー入れたい」にしても「お金じゃない アート」にしても「ビッチのカバンは重い」にしても譫言のような仮死の夢遊状態に特化したフロウが新しかったのではないか。
 その意味ではとてもシラフでは聴けた音楽ジャンルではないということになってしまうが、つまりタテノリのビートに責められてどうでも良くなった呻きを無意識から垂れ流している滑稽さ(ユーモア)でドライヴしているジャンルだったのである。

 そう考えると、TRAPのヒット(というかアディクション)を支えているのが約100年前から引き続いて21世紀人の抱えているより込み入った「心身の耐えがたさ」(國分功一郎『中動態の世界』)であるという社会的背景が仄見えてくる。

 シカゴ発にせよインドネシアにせよ南アフリカにせよ地域ごとの土着のリズムパターンが次々とネット上で共有・拡散・消費されてゆくグローカル・ビーツ時代の「EDM=電子音によるダンス・ミュージック」のサブジャンルをどう区切るのか、使っている機材の出す音がほぼ重なっているため現在のクラブミュージックはどう呼ぶかのジャンル分けが有名無実化しているようにも思えるのだが、トラップやダブステップやグライムとも横の繋がりのあるEDMと「パリピ」がどういう21世紀版カルチャーなのかざっくり雰囲気で把握するには、日本のヤバイTシャツ屋さんというバンドの『あつまれ!パーティーピーポー』を聴いてください。この曲の「俺も混ぜてくれ 酒飲めへんし 踊れへんけど」というようにパリピへの憧れを外側からひねくれたバンドマンの視点で歌った詞が、ベタなロックフェスアンセムを作るのでおなじみのLMFAOとサウスのラッパー・Lil Jonの曲「Shots」のパロディになっている。

 さて、このような“パリピ身体の仮死の夢遊状態”から「どうでもいい叫び声」の強度を析出する回路と比較検討するべき、演劇表現がクラブカルチャー以降のダンスに応答した例の一つといえる舞台作品がある。

 このまま章を跨ぎたいのは山々なのだが、残り時間が尽きてしまった。今月横浜STスポットで再演するにあたって、「演劇の構造についても色々な可能性に挑んでいる時期」に「最後に「死」を扱った作品でもあり、結果的に初めて「生」を扱った作品」だったと主宰の演出家が初演時を振り返っているのだが、「俳優の身体を酷使しているように見える/身体の変化を利用して今ここにある「生」を舞台に乗せようとする」方法論が極まったその東京デスロック『再生』の2017年バージョンについては、さらに次回論じることを予告しておこう。

 

 

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