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ガチとフェイクの皮膜論 -- アイドルでもヒップホップでもない『10年代の想像力』

 〈リング〉の上では、自ら進んで引き受けている下劣さのどん底においてすらレスラーたちは神々であり続ける。彼らは、いくばくかの間とはいえ、〈自然〉を開示する鍵であるわけだし、〈善〉と〈悪〉を分割して、結局のところ理解可能な〈正義〉の形象をあらわにする身振りだからである。 -- ロラン・バルト「プロレスする世界」

 

芸といふものは虚と実との皮膜の間にあるものなり 〜「批評宣言」のプロレス性〜

 これを機に虚心に読み返してみて引っかかったのは、2007年の『ゼロ年代の想像力』連載第1回に付けられた副題「〜の向こう側」とは、ヤンキー漫画(『疾風伝説 特攻の拓』)の磁場から派生した言い回しなんじゃないかという論戦スタイルのバックボーンなのだが、そこで“「鈍感で怠惰なこの10年間の批評」の向こう側”の指し示しにもまして過度に目立っているのは、「私たちの生きているこの時代」の文化を語る新鋭の批評家が演じている「もう終わったもの」と「これから始まるもの」の区分を一刀両断する挑発的な身振りである。

「…こう宣言しておこう。これは、「批評」ではない。人を安心させて、思考停止に導くものではなく、むしろ不安にさせ、考えさせるためのものだ。だが不安や憤りこそが、つかの間の安心よりもより大切なものをもたらすことがある。これは「批評」ではない、だからこそ、読み手に伝えることができるものがある。私はそう確信している。」(宇野常寛『ゼロ年代の想像力 「失われた10年」の向こう側』第1回、「SFマガジン」2007年7月号)

 しかし、10年後の今になって注目すべきは、「まずノートの中央に一本の線を引こうと思う。」と威勢良く篩にかけていくこの冒頭部分の論中で宇野が繰り返し対決させる「葬られるべき亡霊」と「今を生きる来たるべきもの」の分割、「既に耐用年数が切れた古いもの」と「本当に新しいもの」を線引きする価値判断の妥当性(内容)よりも、その反復するレトリック=パフォーマンスの形式の原理的なプロトタイプの方なのである。

 それにより、“「いま」と正しく向き合うことで〈偽物〉と〈本物〉に線を引くことができる”という宇野常寛のアンチ・批評的な「確信」が込められたパフォーマンスが何を引き起こしたのか、改めてゼロ年代的批評文体の効果を測定することができるだろう。

 ところで宇野常寛が「引きこもり的な心理主義」に拘泥する九〇年代の古い想像力、“「こんなカルトで不透明な社会での自己実現は信じられない」という若者の気分を代弁していた”とする『新世紀エヴァンゲリオン』に対置して、ゼロ年代の「9.11後の世界が突入したシビアな格差社会、バトルロワイヤル状況を自分の力で生き延びていこうとする積極的な意思に溢れている」想像力を体現する代表的な例として挙げている『DEATH NOTE』のような「社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築していこうとする」作品が生まれてくる土壌として辿る〈少年ジャンプ的トーナメントシステム〉の変遷=「次から次へと強い敵が現れ、主人公は次々とそれを撃破していくというインフレ的なドラマツルギー」は、そもそも1979年に連載開始した『キン肉マン』ブームの時代からプロレスを主要な参照項にしているのだった。(※片上平二郎『「ポピュラーカルチャー論」講義』の第5回を参照。片上は、読者アンケートの反応次第で物語の展開が荒唐無稽に変わる、「ぼくが考えた超人キャラクター」を募集する、など読者の子供たちの予想できない欲望を取り入れたこの漫画は「みんな」で作り上げるポピュラーカルチャーの可能性を先取りしていたと述べている。)

 さらにこの『ゼロ年代』第1回で俎上に載せられた批評シーンに視点を翻してみると、約10年前の2008年10月に東浩紀や佐々木敦や宇野常寛や中森明夫が参加した『小説・批評・メディアの現在と未来をめぐって』と題された早稲田文学の十時間連続シンポジウム(採録は「早稲田文学 ②」号に掲載)では、「そういうライブのパフォーマンスとかもひっくるめて「批評の力」なわけで」「論争や対立をパフォーマンスとして魅せる芸」(東浩紀)といった中森明夫の発言を介してバトルを吹っかける場面があった。司会者役の前田塁(市川真人)が仕掛けたこのシンポジウムを聴講席から観ていた当時の私のブログには「これ以上ないすごいオールスターで自由な顔ぶれだったけどプロレス的な演出が強かったかも。」と記されている。
 そして最近の吉田雅史・佐藤雄一・中島晴矢・韻踏み夫ら新世代の批評家+アーティストが登壇する「日本語ラップ批評ナイト」や『再起動する批評』でも「今はプロレス的な試合/観客が必要」という発言が繰り返しループしている。
 このような、十年一日の「論壇プロレス」的な煽りにも一向に決着が付いていないのは、様々な争点が対立する議論はネット上で日々活発に起きているのだが、「芸」として批評史の記録に残る論争へと昇華される間もなくソーシャルメディアの中での瞬発的な集合的沸騰に吸収され、霧消する傾向がより一層加速しているからである。

 2015年3月の佐々木敦による批評再生塾開講の弁においても、そして第3期のプログラムが進行していくことあるごとに登場する「ガチ」という表現も、元を辿ればプロレス用語の「ガチンコ勝負」(さらに遡ると相撲の世界で古くから使われていた)が短縮していった慣用句である。
 かようにして乱闘=バトルロワイアルという用語が体現するポップカルチャーのみならず、ここ10年間の批評・思想界をもプロレス的な語彙&発想に汚染されていたことがわかるのだが、それが真面目に検討に値するとは気づかれていなかったのである。

 2017年のメジャーな世界の表舞台では、アメリカでは7月にトランプ大統領が自身のツイッターのアカウントから政権に批判的なCNNの記者を模したキャラクターをプロレス会場で攻撃する加工動画(※その元になったのは、就任前の2007年にまだ「不動産王」だったトランプが興行団体WWEの挑戦を受けて「億万長者決戦」に出場した時の、場外乱闘の流れで宣戦布告した団体オーナー・マクマホン氏と殴り合っている映像)を投稿するという奇行が国際ニュースで報じられた。
 一方の日本では1月から秋元康が企画・原作を手がけてAKB/HKT/SKE48のメンバーが「最強クイーン決定トーナメント」に出場する女子レスラー役を演じるドラマ『豆腐プロレス』の放送が始まるなど、今年は「2010年代の想像力」の総決算のようにして相次いで関連した出来事が起きている。

 ではここで浮上してきた固有のジャンルが文化としてどのように発展してきたのか、視点を20世紀に戻してみよう。
 ロラン・バルトは1952年のエッセイ「プロレスする世界」で、プロレスの競技(スポーツ)としてのルールを無効化していく誇張された身振り、そのスペクタクルの過剰性の渦中で〈善悪〉の秩序が逆転していく瞬間が観客に興奮をもたらす「修辞学的な増幅法」を見いだしている。

「プロレスのリズムはまったく違っている。そのリズムの自然な意味は、修辞学的な増幅法だからである。誇張されてゆく情熱、繰り返し更新される最高潮、しだいに昂ぶってゆく相互の応答が、最後にたどり着きうるのは、当然ながら最もバロック的な混乱だけである。いくつかの試合、しかも大成功を博したような試合で、最後を飾るのは、派手な大騒ぎ、歯止めのない乱痴気騒ぎだが、そこでは試合の決着がつかないまま、ジャンルの規則や、レフェリーの監視や、〈リング〉のさまざまな限界が廃止され、勝ち誇る無秩序の渦に押し流され、その無秩序はホールにあふれ出し、レスラー、セコンド、レフェリー、観客たちを、一緒くたに巻き込みながら連れ去ってゆくのだ。」(『現代社会の神話』)

 相手に直接ダメージを与えてダウンさせる目的のボクシング等の格闘技とは違って、プロレスの技は観客への見せ方(スペクタクル性)に重点が置かれている。
 プチ鹿島による入門書『教養としてのプロレス』では、いかに対戦相手の技を光らせるのか、が肝になる「受けの美学」なのだと解説しているが、その演技は観客の反応をも力学に取り込んだ共犯的なものである。

 格闘技好きが昂じて50歳にしてレスリング選手としてデビューしてしまった逸話を持つ哲学者の入不二基義は、2009年の『足の裏に影はあるか? ないか?』で「プロレスの哲学的考察」を展開している。まず入不二は、「プロレスとは、「これはプロレスである」という不可視の前提を、非-言語的にメタコミュニケーションするゲームであると同時に、「これはプロレスなのか?」という疑問の交換をもメタコミュニケーションするゲームである。」(コミュニケーションとしてのプロレス)だと定義する。
 そのゲームにおいてプレイヤー達を外部から支配する最終的なゴール地点(目的=理念)となるのは「本物=最強」という王座の地位である。批評再生塾では「総代」の称号に当たるチャンピオンベルトの防衛をめぐる儀式がその一連を形象化しているのだが、しかしそのコンセプトは単純にスポーツと同じように勝敗の結果だけに現れるわけではないというのが「掟破りの興奮」を原動力にするプロレスへの偏見を生み出す要因だろう(タイトルマッチごとに試合のルールが変えられるため、常に番狂わせの可能性を秘めている。またベルトを破壊する、場外から強奪するといったパフォーマンスにも使われるのでその物質的価値自体が安定していない)。

「「本物」は、つねにすでに、目にしたものから少しずつずれたものとして、とりあえず〈ないもの〉という形でのみ、ある。ゆえに、プロレスファンは、試合という仮象から、「真の意味」を永久に解釈し続ける。」(一九九〇年前後のプロレス)

 レスラー/レフェリー/観客が「プロレス」という場が成立する文脈をめぐってメタコミュニケーションすることで、「本物」という空位置を生み出していく。そこでより重要な役割を果たすのが、リング上の時空間で進行する出来事を切り回すMCの言明(独特の抑揚で煌びやかな衣装を纏った選手の登場を呼び込む会場アナウンス、実況・解説のナレーション、選手同士が互いに舌戦でも試合を盛り上げるマイク・パフォーマンス)である。

 そして入不二が真剣勝負vs八百長、本物のケンカ(実体)vs偽物のショー(仮象)というプロレスを論じる際の定型となる二項対立の問題点を炙り出すロジカルな分析によって取り出す、〈「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス〉を立体的に構築していく要素「パフォーマンス」についての考察は、他のジャンルでのライブ等で何が起きているのかについても応用できるものになっている。

「パフォーマンス(performance)という言葉には、本来はなかったはずの、「負の意味」が付加されることがある。それは、真実のあり方から逸れた装飾物、虚偽の演技、人気取り、おちゃらけ……等々としての「パフォーマンス」である。/パフォーマンスに「うそ」「虚偽」の臭いを感じ取る者は(たとえプロレスファンであっても、逆にプロレス否定論者であっても)、もともとパフォーマンスとは、「真実」よりも「コミュニケーション」に奉仕する行為遂行であることを忘れている。/いわば、プロレスにおけるパフォーマンスとは、言葉におけるレトリックと似たものであり、観客とのコミュニケーションを新たな次元で成立させるための、そして伝達困難なものを伝達するための、不可欠な〈力〉であり、けっして二次的な付加物ではない。/プロレスとは、異なるいくつかの次元のコミュニケーションの錯綜体である。」(コミュニケーションとしてのプロレス)

 2000年代後半以降のSNSと連動したネット動画文化でも「乱入」「挑発」といったメタコミュニケーションへと逸脱する演出手法は常套化しており、その場で観衆を盛り上げる「実況」の役割はアナウンサーから文字による現場レポートへと継承された。

 例えば「熱い本音をぶつける」アイドルのMC術に置き換えると、00年代のアイドル批評は「AKB総選挙」の順位とそのCD=投票券が左右する動員ゲーム的なイベント興行の動向をめぐってのサバイバル戦略的な議論ばかりが大々的に特集され続けている状況に顕著だが、音楽活動を通した歌唱力やダンスのステージングそのものよりも、節目節目での適切なタイミングで「名台詞」が言えるかどうかのMCスキルを中心に回っていた。

 2017年1月には新日本プロレス大会のテーマソングを制作し、元々プロレスからの影響を公言しているラッパー・サイプレス上野は過去にもプロレスラーに捧げた曲「BUMP」を歌っている。他にもJ-POPを遡ると、悪役レスラーの物語を題材にしたキリンジの曲「悪玉」がおなじみである。(※「冷酷なこの世から目をそらすな/未だかつてない悪意を魅せてやる/振り切れ、今こそ俺は自由/「マイクよこせ、早く!」」)

 以上のようにして、「戦わなければ、生き残れない」といったフレーズを宣言する『ゼロ年代の想像力』の半面、すなわち「決断主義的動員ゲーム=バトルロワイアルの克服」というモチーフはプロレス的想像力として上書きできる。かつてSFについて言われたような異ジャンルへの「浸透と拡散」が表面化したのが、それと並行してゲーム的想像力が「物語」を書き換える影響が盛んに論じられていたゼロ年代以降の文化状況だといえる。
 単行本版では初出より奥行きのある複雑な議論構成になっている、「夜神月のような決断主義」が台頭してくる社会的背景を可視化した『ゼロ年代の想像力』後半部分での「回答」はこうなっている。

「彼らの繰り広げるゲームとその暴力が、社会全体に悪影響を及ぼすことのないようにそのルールとシステムを管理する--法システムに象徴されるアーキテクチャー、つまり動員ゲームのルールとシステムにあたる「環境」を社会設計によってコントロールする--つまりある種の「設計主義」がその回答に他ならない。」(第十六章)

 様々な価値観の島宇宙が乱立する情報社会ではコミュニケーションのプラットフォームを設計する者にこそ政治的な大義がある、というのは、どんな価値の中身を掲げるのであれ「◯◯が好きな自分、の◯◯に入るのは実は多少キャラが立っていればピコ太郎でも何でもよくなってしまう、消費行動と購買意欲で自己実現を満たす(空虚な欲求不満の自我を拡大する)仕組み」が盛り上がるのはなぜか、情報メディアの欲望の流れを2011年から予言した佐々木敦『未知との遭遇』での「文化産業の禁断の果実」の分析と照らし合わせてみても、ますます真理になっている。
 ちなみにデータベース的な文化空間が発達するほど世代意識が解体されて行き、「みんな」の顔が捉えがたくなってモヤモヤした隙間に生まれる「ゆるくて微妙で残念なもの」が愛されるようになる、とは先述の『「ポピュラーカルチャー論」講義』でも辿り着く「現在」にあるものだった。

 とはいえ、「現場」の「事件」という概念にしても、「試合=因縁の宿敵との果し合い」フォーマットにしても、インターネット時代のヒップホップやアイドルを語る言葉、ゲームの基本的な設計がプロレスに由来している説、という趣味の領域に収まらない事実もある。

 大和田俊之+磯部涼+吉田雅史『ラップは何を映しているのか』でも大統領に立候補する以前からその過剰なキャラクターをネタにして数々のトランプ・ソングが作られていたというラッパーとの関わりを導入にして、選挙後の「何が本当なのかわからない」裏切りの戦術を得意とする「トランプ節」に触れているが、プチ鹿島は、2016年12月のアメリカ大統領選挙で勝利したトランプが「フェイクニュース」と呼ばれるメディアに後押しされて(世に流れているどこからどこまでが「偽情報」なのかの判定をそれに重ねて線引きするパフォーマンス込みで)全米市民の「本音」に訴えるという手法で支持を拡大していった過程には、約10年前から接点があったプロレス文化の寄与があったのではないかという興味深い洞察を示している。(※「【米大統領選】トランプ躍進の影に”プロレス経験”あり?」

※トランプ大統領とその元参謀バノンがアメコミ/プロレスの世界観に影響を受けている説については、川崎大介がコラムで解説している。
 さらにプチ鹿島は、明確な定義付け無しにメディアを一人歩きしている「プロレス的」とはつまり、半信半疑の見方ができるかどうかの観客の心得である、とそこから学んだ生きる知恵を伝授しているのだが、とりあえずどこまで本気でどこまで演出なのかが渾然一体となった勝負を仕掛ける一連の手続き&駆け引きのことだと要約しておく。

「私はプロレスファンだからオウムに入信せずにすんだ/疑うことなくすべて信じたらそれは「オカルト」(最終地点はカルト)に通じてしまうし、信じることをまったくしなくなったらそれは「ニヒリズム」(最終地点は価値と潤いのない世界)に通じてしまう。だから様々な角度からワクワクできる「半信半疑」でいいのだ。/オウム真理教の信者たちを見ていて、プロレスを経験した私は「この人たちは自分より死ぬほど頭はいいけど、白か黒かだけで遊び心が感じられないなぁ」と、なんとなく思っていた。」(『教養としてのプロレス』)

 

嘘は嘘であると見抜ける人でないとインターネットを使うのは難しい 〜『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』は何を映しているのか〜

 さて、一見気づかれないうちにプロレス的言語ゲームの浸透が完了してしまっている2010年代の時代意識を炙り出すために適した作品群は、インターネット上で流通している画像・動画はまず「ヤラセ」(合成加工されたもの)「デマ」「成りすまし」の可能性を込みにして見ることが前提になっているという昨今の情報社会に根づいたメディア・リテラシーを背景にして(その「半信半疑」のコミュニケーションに覆われていく感覚をある種、逆手に取って)発展してきたフェイク・ドキュメンタリー的映像文化ということになるだろう。
 ネット上で定期的に起きる「祭り」(炎上)が、ニュースで流れた映像の「偽造」「狂言」の可能性をめぐる偏った解釈が自己目的化していくことでとめどなく拡散する、という「情報不足に伴う噂の拡大とインターネットの祭りの共犯性」のメカニズムについては鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』に詳しいが、そもそも佐村河内守のゴーストライター疑惑を釈明する記者会見が「事件」になったのも、NHKで放送された番組『魂の旋律 〜音を失った作曲家〜』の内容が「嘘」であると騒がれたからであった。

 長年のプロレスファンとして知られる映像作家が、作曲家・佐村河内守の自宅を密着取材して物議を醸した映画『FAKE』の森達也である。

 2006年3月にテレビ東京で放送された、森達也監督が本人役を演じて「メディア・リテラシーへの挑戦」を仕掛けたカルト番組『森達也のドキュメンタリーは嘘をつく』の制作にも編集担当で参加した映像作家の松江哲明と森達也が共通してギリギリの際に挑戦している「擬似的なフェイクの仕掛けによってこそ、ドキュメンタリー映像の真実が引きずり出せる」という演出手法は、最近の観客参加型かつポストドラマ的な演劇でもよく応用されているものだ。ちなみに演出家の多田淳之介が主宰の「東京デスロック」は旗揚げメンバーの共通の趣味だったプロレスの技から取ってきたとインタビューで語っている。

『鵜呑みにしないでほしい。疑ってほしい。だが、それでも残る何かに僕らの真意がある。嘘をつききれない、作り手の真実を探してほしい。ドキュメンタリーを作ることと、観ることの醍醐味はそこにあると思う。」(松江哲明『セルフ・ドキュメンタリー』)

 2012年に始まった「一般視聴者から投稿されてきた怪奇・心霊現象が写る映像を検証する番組」という体裁のフェイクドキュメンタリー、白石晃士が脚本・監督・撮影の『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』は、オリジナルビデオという形態ながら劇場版も含めて第9作まで続いている人気シリーズである。『コワすぎ』のDVDが劇中世界にも流通していてそれを見た興味本位の視聴者がビデオを投稿してくる所から物語が始まる、過去のシリーズで怪異に飲み込まれたスタッフが続編で再登場する、という風に頻繁に世界設定の改変が起きる複雑なメタ構造を持っている。

 さておき、そのシリーズよりも、文字通りの意味だけでは判断することが不確かな「パフォーマンス」を論じるここでの主旨にふさわしい作品がある。実際に「擬似現実」を捏造するための指南書でもある白石監督の著書『フェイクドキュメンタリーの教科書:リアリティのある“嘘”を描く映画表現 その歴史と撮影テクニック』に付属の撮り下ろし特典DVDとして制作された短編映画『白石晃士の世界征服宣言』である。

 このDVDには本編のフェイクドキュメンタリーの他に、さらにメイキングドキュメンタリーが収録されており、まるで私物のiPhoneによるワンカット長回しでそのまま記録されたかのような臨場感のある「リアリティのある嘘」を写すための脚本の構想段階から始まって、出演する俳優との読み合わせと芝居の綿密な打ち合わせ、撮影本番に至る舞台裏のプロセスを通して「1日で完成する映画の作り方」がこれだけでわかる懇切丁寧なインストラクション映像になっている。最後には是非これを参考にしてあなたもフェイクドキュメンタリーを作ってみてください、という呼びかけまである。
 撮影現場となった白石監督の自宅の部屋に2人で呼び出され、久保山智夏(『コワすぎ』シリーズで助手のAD市川役を務める)と付き合っている疑惑をかけられて別れろと脅される役の細川佳央がふと漏らした「だんだんちょっと境い目がわかんなくなってきますね」という言葉に対して、白石は「境い目なんかないよ。本気の言葉と本当の言葉だけしかないから。真実です、真実」と答えており、このメイキングの方で偶然記録された一場面は核心的だと思う。

 何重にも仕掛けがあるフェイクな作り事の只中に「本気で本当の言葉」が回帰してくるというシニカルにロマン主義的な現象。

 このようにして、マニアックな際物ジャンルのDVDの再生を停止して切り替えたテレビのニュースから飛び込んでくる「無意味で過剰なこけ脅しのレトリック」に日々塗れて嫌でも「何が嘘で何が本当なのか」のリテラシー教育に労力を費やさなければならない状況に置かれている私たちにとって、フェイクドキュメンタリーは現代のメディアに蠢く「自分の見たいものしか見たくない(蓋をしたい)」と「覆い隠されたありのままのリアルを暴きたい(虚像の覆面を剥がしたい)」という相反するマッチポンプ的な欲望の「自動化した慣習」からズレたリズムで、フィクションの形式を通して観察・学習するために、格好の道具になる。

 白石晃士の作品でお約束になっている、画面に写る出来事の真偽のフレームの反転を突き詰めていくと、人ならざる異世界(われわれが触れてはいけない向こう側の世界)から来る邪悪な呪いが解放されて劇中世界が崩壊に至る、という寓話を享楽することを手掛かりにして、その「ガチとフェイクの皮膜のギリギリ薄皮一枚の領域」の認識を鍛錬すれば対抗手段になり得るのかどうかは、今後の課題である。

 もう一つ、最後にプロレス文化の考察に欠かせないのが、9.11後の「対テロ対策法」が施行されて「正義」の価値観が揺らぎ始めた世相を背景にハリウッド映画を中心にしてルネサンスが起きた『バットマン』『スパイダーマン』といったアメコミヒーローが〈変身〉する時のコスチュームに受け継がれている「覆面」のカーニヴァル的機能である。

 森達也が「プロレスとはそもそもが日陰のジャンルだ。華々しいスポットライトを浴びるようなジャンルではない。カーニバルや場末の酒場に発祥した、不健全で隠微で薄暗いジャンルなのだ。」(「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」)と愛着を込めて語る「仮面」の効果に関連するのだが、ここ数年で急速に大都市の風景を塗り替えるまでになったハロウィンの仮装ブームについては、今論じても季節外れになってしまうので控えたい。

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