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Amazonレビューの後で、文学を論じることは野蛮である。 ——お客様、あまりにお客様的な★★★★★論壇の未来(は段ボール箱の中に)

“アウシュヴィッツの後で、詩を書くことは野蛮である”

“ARBEIT MACHT FRIE(労働は自由にする)”

三度目の「野蛮」

 まず最初にアドルノの命題が呟かれた。第二次世界大戦後の一九四九年に書きつけられた「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、……」という一節から取り出された「文化産業」批判の切迫したフレーズが、今なお多様な解釈へと反響してバズり続けているそのエッセイはちくま学芸文庫の『プリズメン—文化批判と社会』(この商品のレビューはまだありません。レビューを書いてください。)で読むことができる。

 特定民族の「最終解決」なる奇妙な標語で書類にゴーサインが捺されてしまった、計画的かつ効率的な大量殺戮を可能にした強制収容所のテクノロジーと「それ以後」の時代の芸術はどう向きあうべきなのか、と展開して言い換えられるそのアフォリズムに込められた逆説的な含意を二番目に捩ったのが、福田和也の文芸批評集『アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である。』(この商品のレビューはまだありません。レビューを書いてください。)だった。

 二〇一〇年刊の書名に刻まれている、アップル・コンピュータ社が開発した携帯型デジタル音楽プレイヤー「iPod」はあっという間に名前を聞かなくなり、たった数年で同じ機能が搭載されたパーソナルデバイスの新機種「iPhone」のシリーズに淘汰され、懐かしい過去の思い出の底へと遠ざかってしまった。
 よって三度目にそのフレーズをさらに書き換えるならば、というのが本論の試みである。

 福田和也が問い直そうとした、『機械的、組織的大量殺人にかかわった、ナチス親衛隊の将校たちは、けして無教養な無頼漢ではなかった。しばしば高潔な教養人であった。彼らはバッハを愛し、カントを読み、ウェルギリウスの詩の一節を暗誦することができた。彼らのうちのある者は、収容所から音楽家を選抜し、晩餐にバッハやブラームスを演奏させていたのである。/その意味をひとしなみに否定することはできないとしても、最高の美学的、教養的な精髄が、強制収容所と共存しうること、その意味あいは考えぬかれねばならない。』というアドルノの「芸術そのものの断罪」。
 カバーした当の福田がこのパッセージは、「作詞者テオドール・アドルノの意図を超えた、ヒット・チューンになった」と感慨を述べるように、たとえ「9.11」以後の二十一世紀の世界では『ホロコーストの恐怖は、その野蛮さは、さほどブリリアントではなくなってしまった。アピールしなくなってしまった』、なぜなら『ホロコーストの恐怖は、市民的日常と対峙するもの、その陰画であり、その対抗物であった』のだが、しかし『高度情報技術の地球的普及が、恐怖の様態を変えてしまった』ため、『今や、大いなる恐怖は、世俗的日常と分断されない。日常と惨禍を分かつ非武装地帯の帯は、とうの昔に解消されてしまった』のだとしても、何度言い換えてもこのフレーズの深淵さは日々目まぐるしく「新商品」が入れ替わり続ける消費のサイクルに組み込まれた現代人を呪縛している。ここで唐突に出版大衆化/消費社会化のモードが決定づけられた戦前の一九三〇年代まで遡ると、『ひとびとは次から次へと新たなテクストを巡回する。もはや反芻などしない。やはり新居の言葉を援用すれば、「意味の深かい無変化よりも、意味のない変化を愛する」。/求められるのは速度だ。変化であり効率だ。』(大澤聡「批評メディア論」)というわけである。繰り返す、このリズム……。

 そして図らずも、通販サイトの格付けレビューに覆われたインターネット世界にいち早く先駆けていた批評的仕事も福田和也の『作家の値打ち』(39件のレビュー:★3.5)なのだった。
 初期の著作から一貫して、ファシズムへと過激化していく20世紀西欧におけるテクノロジーの詩学、アドルノと並行して「アウシュヴィッツはブロイラー工場と同じである」と発言して物議を醸した、その後のナチ加担疑惑での毀誉褒貶も止まないハイデガー的な技術の「挑発/駆り立て/集立」の概念(人間そのものをも資材=利用と収奪の対象へと変えていくという予見)との緊張関係の上で思考していた批評家がなぜこのような文明論的背景を差し置いた明快なブックガイドを打ち出したのか。それは「数値などに還元できない審美的基準」としての「理屈以前に了解されているべき常識、文壇的な感受性といったもの」が崩壊しつつあるという危機感を抱いたからだと前置きしている。

 ちなみに九〇年代の渡部直己『「電通」文学にまみれて―チャート式小説技術時評』(3件のレビュー:★3.7)の後で、相対的な評価基準の恣意性を明るみにする目的で「採点式文芸時評」を書籍の形にしてパフォーマティヴに世に問うた現代日本文学の批評家は他に佐々木敦の『絶対安全文芸批評』(1件のレビュー:★5.0)と小谷野敦の『芥川賞の偏差値』(17件のレビュー:★3.5)を合わせてどうやら三人だけである。
 書評家を名乗る大森望+豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』(第一弾はちくま文庫、31件のレビュー:★3.9)シリーズを含めると五人に増えるのだが、もちろん福田和也のように「文芸にかかわる価値の全面崩壊現象」への危機感が動機になっているか否かに関わらず、佐々木敦や小谷野敦の場合でも内輪=関係者の外側にいる客観的読者による文芸の価値評定の基準などあり得るのか? という、あえてのアイロニカルな「相対化」の提示だったわけだが、ところがそんな批評家たちの思いとは裏腹に、ベタに数値化が共有される時代がやって来てしまった。

 保坂和志は『「三十歳までなんか生きるな」と思ってた』(7件のレビュー:★4.0)で、『作家の値打ち』をまともに距離を取って読めていない人間こそ、一つの評価基準が正しいと信じてしまう中央集権的な思考に侵されているのだとその功罪を合わせて評していたが、★★★★★のパラメータで商品の肯定的/批判的評価が数値化される影響力が最も強い大手サイトのカスタマーレビューの欄を巡回してみたところ、どうやら★1つの最低評価が付く要因の一つに「期待外れだった/読む前の想像と違うものが届いた」からだという感想が寄せられているケースが散見される。

 基本的にレビューの文末に「役に立った/役に立たなかった」の選択肢が表示されてレビューの評価自体が統計的に集約され、商品価値=即時的な有用性があるかないかのエビデンスに特化されたコメントの集積になっているのだが、消費者の「購買意欲」を指標にした否定的な評価への異論・反論もできる仕組みなのでその商品ページのレビュー欄でユーザー同士、時に著者本人の反論まで入り乱れた論争が起きている例もある。

 ここで別の例を観察してみると、大型スーパーやショッピングモールの店頭の掲示板によく張り出されている「集計結果」に見覚えがある人も多いと思われるのだが、そもそも「お客様の声」とは経営側が普段気がつかない“改善点”を指摘して欲しいという旨の雰囲気で募集されており(アンケート用紙を設置された箱に投稿するしくみ)、限りなく苦情やクレームに近接した「ダメ出し」へと方向付けられているのではないか。

 そして、大澤聡が『批評メディア論』で「固有名消費」と相互補完の関係にあるのが「精神的自立を確保するイレギュラーな方法」としての匿名批評だったという機能を思い出してみると、カスタマーレビューの空間から批評の可能性を掬い取ることはできるだろうか。

『匿名批評はこの「欠陥」を補塡するべく「流行」した。「印象」でも「理論」でもなく、「社会」につく。
 小林はこう結ぶ。「もし匿名批評が、健全に発達したなら、文藝時評の如きは要もないものとなるだらう」。むしろ、そう「ならなくてはならぬ」、と。』(「批評メディア論」、第5章 匿名批評論)

 つまり一方で「匿名でしか言えない鋭い寸評」がこの欄へと転生している側面があるのだとしたら、「商品の流通に付随して消費者の欲求不満/満足を統計的に数値化するための動物的なノイズ」が推奨されるお客様によるお客様のための欄=空間の性格を変質させるにはどうすればいいのか、という不遜な構想が一瞬浮かぶのだが、ぶっちゃけて言えば「購入を検討するお客様にとって役に立つ」かどうか別のレベルで価値を示す優れたレビューに賞金を出せばいいのでは(純文学の「純」の部分を支える文学賞的な権威性の導入)という身も蓋もない、なおかつ古き良き「経済的に自立した」人間化に立ち返る解決策があるのだが、しかし今や「人間」に後戻りする道こそ滑稽なのだというSF的想像力を全面展開しているのが、同棲相手よりも新発売された商品が並ぶ陳列棚の乱れを直して欲しいという「コンビニの声」に愛着を持ってしまう物語の村田沙耶香の『コンビニ人間』(489件のレビュー:★3.9)なのだった。
 ここに、「文学」的想像力へと転回する隙が空いている。

『もちろんこのプロセスはこれで終わりではないでしょう。今後も「ニッポンの文学」は果てしなく相対化されていくだろうと思います。本書で論じてきた事どもによって、新たに生じてくる何ものかによって。』(「ニッポンの文学」、エピローグ 「文学」はどこにいくのか?)

 「文学は文学である」というトートロジーをジャンル小説による相対化の流れ(〜は文学である)へと放り込んでシャッフルする、という佐々木敦『ニッポンの文学』(12件のレビュー:★3.3)の結論部分にある提案を応用して「ジャンル」を「メディア形式」に無理やり変換してみれば、「お客様のコメントも文学である」になってしまうのである。
要は「批評家=作者と読者=購入者のあいだを媒介してお届けする側の気持ちも考えてみよう」という視点の交錯である。

批評メディアの第三項/「物流」を文学する!?

『批評にせよ思想にせよ、まずは物理的なパッケージをまとう。商品としての外装だ。そのうえで、消費者=読者に広く供される。とうぜん、他の言語商品や情報商品との競争に晒されるだろう。/再度反復しよう。言論は商品として存在した。市場のダイナミズムの渦中に放り込まれる。私たちはこの存立条件を意識化する地点から出発しなおさなければならない。ごく素朴に。経済資本に還元されざる価値の剔出ばかりがテクストと対峙する誠実な態度ではない。むしろ逆だ。』(大澤聡「批評メディア論」、序章 編集批評論)

「あの、現金でお願いします」
 私は男の子の後ろ姿をショーウィンドーごしに見送りながら、ああゆう人が『みんな読んでるなら』の理由だけで本屋でベストセラーを選ぶんだろうニャ。と妙に納得した。
販売の仕事って想像力をやしなえるわ。(宮崎誉子「アルファベット・クッキー」)

 ところで突然一場面がフラッシュバックしてきたのだが、「お客様にお問い合わせされる側」に視点を切り返してみると、言うなればカスタマーセンターの中枢に入り込んで「ウップンと不満」を受け止める側に立って小説を書いているのが、宮崎誉子である。配送センターで働く派遣社員やコールセンターのテレオペスタッフの内幕を独特の文体で活写した二〇〇九年の『派遣ちゃん』(7件のレビュー:★1.9)に続いて久々の中編小説「水田マリのわだかまり」が「新潮」二〇一七年六月号に掲載されているのだが、数年のブランクを感じさせない作風の「変わらなさ」に驚かされる。軽快なフレーズのキレも健在だった。

「水田さんは若いのに、なんであんな夢も希望もない工場で働く気になったの? まぁ人には事情があるけど、工場って一言で説明すると、闇じゃん」
「闇だけですかね? でもウップンと不満は、生きるのに欠かせないガソリンですよ」
「水田さんのドヤ顔と心にも無い発言、お姉さんは一生忘れないよ」
「忘れて下さい」(「水田マリのわだかまり」)

 一九九八年にリトルモア・ストリートノベル大賞を受賞してデビューした宮崎誉子の小説はヒップホップでいうところの、路上での密売に手を染める裏稼業の生き様を題材にしたハスリング・ラップならぬハスリング小説だといえるのだが(ハイリスク・ハイリターンな「非合法」とハイリスク・ローリターンな「非正規」の似て非なる重なりがポイント)、それを証拠に初期から頻繁にキングギドラ「F.F.B」やライムスター&クレイジーケンバンドなどの九〇年代末に流れていた日本語ラップの名曲やリリックが作中に引用されている。念のため補足すると「本物」の新宿ストリートライフ(MSC)でしのぎを削るラッパーが台頭してくるのはもう少し後の時期である。

 ちなみに代表作の一つ『日々の泡』(1件のカスタマーレビュー:★4.0)は、現在は河出書房新社が引き継いでいる歴史を遡ると改造社から創刊されたのが一九三三年の雑誌「文藝」に載った連作が二〇〇五年に単行本になったものである。

 その帯文に付いている「時給850年(交通費なし)/こんな仕事を続けてていいのかニャー/労働&日々の汗を描く、ハートでビートを奏でるタフなプロレタリア文学!」というコピーが的確に一言で要約しているのだが、ラップ/R&Bの他に当時のロックバンドやJ-POPの曲名や人名や歌詞がさりげなく溶け込んでいる。今まで刊行された小説集を順番に辿っていくと、リズミカルな改行によって脱臼、カットアップされた文体が響いているどの作品でも「労働」と「音楽」が切り離せないものとして結合しているのがわかる。

『私が労働について書きたいと思ったのは、働いていると理不尽な事に驚くからです。モチロン楽しい事も学ぶ事もありますが、それ以上にウソ〜ンとゆうような事も多々あります。』(「日々の泡」あとがき)

 そしてとにかく工場/倉庫や小売店舗の裏方での、商品の梱包用に使い終わった段ボール箱を一々潰して整理する単純作業の無駄な手間を描けているかどうか、が現代的な労働の「単調なリズム」の本質を捉えられているか否かの分かれ目だと主張してもそれほど間違いではないと思うのだが、インターネット時代の「流通革命」が何に支えられているのかの不可視のインフラへの想像力の一種として、物流のネットワークの最末端を支えている(書籍を注文した読者=ユーザーが手にする外装に余分に付け加わった)「段ボール」という即物的なパッケージ素材の表情が浮かび上がってくる。
  最初の作品集『世界の終わり』(3件のレビュー:★3.3)に収録の新規開店するレンタルビデオ店の話「ライム☆スター」では、職場の人間関係に纏い付く、どれも同じような無機質な段ボールとの格闘はこうなっている。「水田マリ」と比較してみよう。

掛け声とともにドンドン荷物が進んでゆく。
「この、ダンボール、ズッズシッと重い」
 私はへっぴり腰でダンボールを渡した。
「『ジャンプ』はしょうがないですよ」
 ガイコツは嬉しそうに笑った。
(……)
「俺、あいつと同じバンドなんですよ」
 私は再び重いダンボールと格闘した。
「手伝いますか?」
 ガイコツは半分ダンボールを持った。
「ありがとう」
「あいつの携帯にかけてください」
「べつに興味ないから……」
 ガイコツは私を物凄い力で突き飛ばした。
「ひっ……」
 私はダンボールを抱えたまま転げ落ちた。(「ライム☆スター」)

 良品は段ボールに入れて、不良品はオリコンに入れる。
「水田さん、あなた負けず嫌いじゃないでしょ」
「たぶん、負けず嫌いではないと思います」
「工場って戦場だからね」と、前置きしたリーダーは左隣りに立ち、右手でババババッと重いパウチを一瞬で、2本ずつつかみ、段ボールに入れてゆく。神業のように見えなくもない。
「戦場なら、リーダーは最強の戦士ですね」
「それはどうも、ねぇ水田さんって、笑っちゃうぐらいマジメでしょ」
「笑えないけどマジメだと思います」
 喋りながら仕分けると、ミスをしないか不安になる。
「向上心ゼロだと、いくらマジメでもスピードアップは無理だよね」
「すいません」
 図星をつかれ、暗い気持ちでパウチを一本ずつ段ボールに入れる。
「あのね水田さん、暗さは伝染するの。戦場だからこそ笑顔で仕事して」
「笑顔ですね」
 自分でもわかる、ひきつり笑いで作業を続ける。(「水田マリのわだかまり」)

 矢野利裕は文芸誌「すばる」の「批評の未来2017」特集に掲載された「平成文学史序説」で、村田沙耶香の『コンビニ人間』を到達点にして二〇〇〇年代半ばから既成の文壇内に台頭してきた一群の「登場人物が定職に就いていない」小説(岡田利規、小山田浩子、柴崎友香、上田岳弘、等々の作家達)を、「純文学が盛り上がっているように見える」現時点での見取り図を概観しておくのが必要だという前置きの上でかつて平野謙が図式化した三派鼎立論(「昭和文学史」)を借りて「新感覚系プロレタリア文学」と呼び、一定の完成度が高い作品/商品を生み出す「手法と問題意識の結びつき」だと整理する一方で、その動向に対して疑問を投げかけてもいる。つまりそのような趣向の作品が芥川賞を獲り続けている、という近年の状況にも現れているように、自動的に評価されるルーティンに『巻き込まれていないだろうか。少しの前衛性と少しの社会性という発想に、なんとなく動員されてはいないだろうか。』という指摘なわけだが、そこからさらに翻って「書くべき主題を愚直に書いている作家」として取り上げられるのは木村友祐の『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(6件のレビュー:★4.3)である。

『書かれるべき主題とは、ここにあるような「見えない人」たちの世界のことである(……)日常からは「見えない」人や物を題材にすることは、それだけで意義がある。「新感覚」的に日常を捉え返すのではなく、そもそも日常の外に追いやられた世界を描くこと。』(矢野利裕「新感覚系とプロレタリア文学の現代——平成文学史序説」より)

 おそらく、宮崎誉子の小説における会話や地の文の端々でカメラやテープレコーダーの比喩が登場するのは、自身が見聞きした非正規労働の「嘘もリアルも妄想もゴチャマゼにして物語にする」ためのこのような使命を帯びている。
 そこからさらに、「平成のプロレタリア文学」から新たに見えて・聞こえてくるのは、一律に効率化され整序された(段ボール箱がベルトコンベア式に流れていく)空間の複層性である。
 例えば宮崎誉子の作品につけまつ毛やネイル、マニキュア、ピアス、マスカラ、ブランドの香水、茶髪に染めた巻き髪など校則/服務規程の規格を逸脱したギャル的な服装が頻出するのは、千葉雅也が『生のあらゆる側面がますます形骸的なエビデンシャリズムに拘束されつつあるという今日の文化状況に風穴を開ける』ものとして挙げる『たちまちに変質し霧散していくことを肯定する九十年代的ストリート・カルチャーの刹那性』(「アンチ・エビデンス」)がマルチレイヤーとして重なっている、といえる。何しろ宮崎誉子はそのジャンルの名前には『従来の日本文学とは異なるポップで新しい文学という意味合いが込められて』いたのに『一過性のブームとして、あっという間に消費され、忘れ去られてしまった』(佐々木敦「ニッポンの音楽」、7件のレビュー:★3.1)一九九七〜九八年頃の文芸のキーワード、失われた「J文学」の末裔だったという出自も付け加えておこう。

 とりあえずこの辺りで現段階の結論へとまとめていこう。宮崎誉子の小説の登場人物は、大きく分けてもう動かなくなった者(自殺した友人や同級生など、すぐ近所を漂う身近な死者。手紙や記憶の中の声などを通して語る)と家の中では動けるけど働かない者(ニート、大抵主人公の兄弟や幼なじみ)、外に出て働き続ける者(デビュー作から大抵不平不満を饒舌に語る、「死にたくなる瞬間は好きなことについて考え、生き続けている。」主人公として設定されている)の三バリエーションが延々と淡々とループしているのだが、ほとんどサーガのような様相を呈している。ここに祖父・祖母に子供を預けて失踪する素行不良の父・母や、職場に棲息する奇怪な生態がキャラの立った管理職のおばさん・おじさん(日々ネチネチと部下の勤務態度を締め付けてくる)がモンスターのような存在として配置されている。他にもいくつか系列があるはずだが、今回は割愛しなければならない。

 「水田マリ」では主人公の祖父が勤めていた巨大な洗剤工事を舞台にして、「職場に常駐する巻き髪ギャルの生保レディ=山下さん」の妹がいじめられて自殺していて、いじめていたのがベテランパートの松戸さんの娘だったというように人間関係がこじれている。

 ここで一見すると非現実的な夢や理想を抱えたまま大人になれない未熟な子供/常識的な社会人のリアリズムの対にそのまま敗者と勝者、ネガティヴとポジティヴ、マイノリティとマジョリティの図式がスライドしてそれぞれの住まう「記憶・歴史/夢・幻想/現実」のテリトリーに該当するかと思いきや、佐々木敦も『絶対安全文芸批評』及び『文学拡張マニュアル』の書評で指摘しているように、最も非人間的に「お気楽さ」と「お先真っ暗さ」のあいだで引き裂かれたフォルムで世界が崩壊し続けている、日々のルーティンがオフビートに快調なノリでまるでジェームス・ブラウンの16ビートのごとくに揺らぎを孕みつつミニマルに回転している、のは「働き続ける者」の領分なのである。
 そう捉えると意外と大塚英志経由で江藤淳の文芸批評とも通底するのかもしれない。
 福田和也/アドルノが警告していた文化産業に飼い馴らされる「音楽」と、宮崎誉子の音楽的なワーキング小説を対比した時の看過しがたいギャップには西欧クラシック音楽と20世紀以降のアメリカ音楽〜ブラックミュージックの切断面が走っている気がするのだが、そこで規律空間からズレつつノる「ビート」の律動が関わってくるという問題に触れないわけにはいかないのだが、日々の単純作業のルーティンでこそ、それを乗りこなすリズム感が鍛えられる。つまり消費社会のループの時間を多重化して書き換える、『複数秩序を単線上に叙述することによって訛りが発生する』(「ラッパー宣言」)という最近活況を呈している日本語ラップ批評の一翼で安東三らによって論じられているグルーヴの考察については、また別の機会に続きを述べたい。

※本文中で記録した、日々変動する(x件のレビュー:★x.0)の評価は2017年6月12日時点のものである。

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