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音楽と演劇の境界 (線がなければ越えられない)

1.

今はライブエンターテイメントの時代だと人は言う。

音楽業界の構造が変わり、CDが売れなくなり、ストリーミングサービスでも十分な収益を確保できず、代わりにライブ市場が欧米でも日本でも飛躍的に拡大した。コピーのできない「生」の体験を求め、アーティストとオーディンエンスとの一回性の直接的なコミュニケーションの価値は高まった。舞台演出に力をいれ、物語表現を加えたり、プロジェクションマッピングやレーザーアートなどのメディア表現も駆使しながら、総合的なエンターテイメントを志向するミュージシャンが増えた。

今は演劇の多様化の時代だと人は言う。

かつては映画や音楽やアートと同列で語られていた演劇がいつのまにかその輪から外れることになり、サブカルチャー中のサブカルチャーと化した長い時期を経て、今やあらゆるカルチャーを地肉化した多様な演劇が現れる時代となった。音楽、映画、文学、アニメ、ゲーム、建築、医学などあらゆるバックグラウンドを持ち、様々な参照点から引用をおこない、音楽的な反復演出や映像表現などを駆使する演劇が多く見られるようになった。演劇の表現手法はあらゆる方面に拡大し、他ジャンルとの境界を越境していく中で、演劇というジャンルはより大きな運動体となりつつある。

音楽と演劇が共にジャンル越境性を帯びた総合芸術を志向するといわれる時代であるわけだが、越境を語るためには当然そもそもの境界線が画定している必要がある。両者の境界を確認するような議論が行われている様子はみられない。

2020年の東京オリンピック開催に向けて、多くの大型集会施設や劇場、コンサート会場の閉鎖・改修が相次ぎ、興行場所が不足するという事態が2016年に発生した。今でもその懸念が消えたわけではない。市場が拡大しているときに、何故場所が足りないのか?そんな声が上がった。このことが示すのはなにより日本国における芸術文化の相対的な位置付けの低さであるわけだが、「そもそも劇場とコンサート会場がなぜそれぞれ異なった場所を必要とするのか?」という問いは何故現れないのだろう。演劇と演奏の場を共有させるという理屈が出てきてもおかしくない状況において、そのような声は一切聞こえてこない。もちろん、相互浸透がみられるとはいえ演劇と演奏は異なる目的を有するのものと考えられ、それらを一つの建築物で兼ねるという意見は一種の暴論であり、それぞれの芸術体系(演劇や音楽内におけるサブジャンルごとの区別も含めて)がそれぞれに重ねてきた歴史性が分断線を確固たるものにしていることを考慮にいれなくては、場を共有するという発想自体が芸術に対する冒涜だと非難されてもあながち否定できない。そのような意見が出てこないのはそれぞれの形式性が尊重されていると考えることもできる。とはいえども、演劇と音楽がそもそもどのように異なっているのかという設問が設定すらされず、「そういうことになっているから」という「空気」の力に各々の在り方を委ねることは、現状に対して疑問符を付すという芸術が持ち得る批評性を廃棄することに等しく、それはその「場」で演じられる舞台自体の力量を削ぐ結果しか生まず、やがては日本国が規定する芸術価値の低いハードルをさらに下からくぐるような作品ばかりが量産される未来が導かれるだろう。産業としての盛り上がりが質を高める保証はどこにもない。したがって、今舞台芸術というものが社会から滅んでもよいとはどうしても思えない者が行うべきは、「演劇」と「音楽」の原理的な差異に対して眼差しを向け、抽象的な差異のモデルを抽出したのちに、現状に浮かぶ差異について改めて思考するという一連のプロセスである。

2.

今では別個の文化としてみなされる演劇と音楽には、実際のところ明確な区別は存在しないように見える。二つの形式の起源を探るなかで伺えることである。

現代のオリンピックが古代ギリシアをイディアルなモデルとして措定しているように、近代ヨーロッパを通過してグローバルに共有される芸術様式として確立された「音楽」と「演劇」という二つの文化の発祥にも古代ギリシアの存在がある。ニーチェが『悲劇の誕生』においてギリシア悲劇の起源をコーラス、つまり合唱に見出したのはつとに有名な話だが、ジェーン・エレン・ハリソンが著した『古代芸術と祭式』ではニーチェが感覚的に綴ったギリシア悲劇の根源について、民俗学の見地を借りながらより理知的に論証している。

ハリソンの論の肝はギリシア悲劇が豊穣と繁栄を祈る春の祭りから誕生した、という点にある。アイスキュロス、ソフォクレス、およびエウリピデスの悲劇は春の祭式に際して演じられた。ギリシア悲劇に舞いと合唱が必ず挿入されるのは、それが食料と子供という人間共同体の存続に絶対不可欠なものをもたらすためのまじないである踊りと歌の儀式を発祥としているからであり、まじないの効力が信じられなくなって儀式が形骸化して演劇へと変節した後にも、舞いと合唱が形式として残ったことの顕れである。悲劇が演じられた場所はTheatreではなく、それは単に「見物者の座る場所」を意味しており、舞台の中心はあくまで歌と舞いが演じられる場であり、その場のことをギリシア人はOrchestraと呼んでいた。ここまで、演劇と音楽は不可分に存在していた。やがて祭式の集団性が薄れ、英雄という個人の叙事的ドラマへと演劇の重心は移動し、音楽は抑圧の中へ一度沈み込む。音楽の回帰は新たな文化的衝突と宗教国家の確立、つまりローマ帝国のキリスト国教化を待たねばならず、今の大衆音楽に連なるヨーロッパ音楽のグローバル規範化はルネッサンス以降にようやく為されるものである。

ニーチェがディオニソス的と音楽の本質を形容したことは、単に音楽が祭式から芸術へと移っていく過程においてより原始的な祭式性を保存しているものであるという説明にすぎないが、祭式が豊穣と繁栄をもたらすという有用性に基づいてたのに対し、音楽を奏で、聴き、踊るという営みには何の実用的目的も存在しないことは強調されてもよいだろう。音楽は目的を失った呪術であり、無意味の称揚であり、理由律の否定に基づく表現である。1970~80年代のディスコおよびハウスカルチャーの中心的な担い手が同性愛者の黒人だったことは偶然ではない。人類種の保存には貢献しない存在であり、同時に白人優位社会において虐げられ、生きることの意義を奪われていた彼らの居場所は大音量で反復する律動を有する音楽の連続を集団で浴びばながら踊る夜のクラブにしか存在せず、音楽だけが彼らの無意味な生命を祝福していた。

では、祭式から切り離された演劇とはどういうものか?演劇が成り立つ要件は物語・ドラマの「筋」があることでも、演技が行われていることでも、観客と演者という関係性が存することでもない。一つの物質に二つの性格が含まれるという幻想が複数の人間に共有されること。これが演劇の要件である。ある人間が誰かを演じている、たとえば日本の俳優がオイディプスを演じているそのとき、その俳優はオイディプスであると同時に劇外では日常生活を営む日本人の俳優その人でもある、という二重性を作り手も観客も想像力の中で理解することではじめて演劇は成立する。人間でなくても、ロボットでも犬でも石ころでも二重性が鑑賞者達に認められればそれは演劇としてはじまっている。二重性によって人はそこにないものをそこに見出すことができると同時に、そこにある一つの物質から二つ以上の性格を発見することができる。外部への想像力注入と内部認識のときほぐしが同時に為されることが演劇の効用であると言えよう。この二重性は演劇に限らず、文字という物質性によって書く主体と書かれるテクストが分裂する書物にも言えることであり、役者と役柄が二重になるという構造を演劇と共有する劇映画については言わずもがなである。想像力サプライと認識マッサージという演劇構造の持つ二つの機能は多くの人間の集合体である社会のうちに個人が生きるためにの潤滑油として役立ったし、神のような超越者の紐帯なしに、一神教に頼らずに社会が発達するためには必要不可欠であっただろう。演劇の発展は社会の発達と軌を一にしている。

音楽と演劇は諸元を共有しており、形式においてもあらゆる共通点を持つ。演じる者と観る者が共にいるための「場」が必要であること、演者が動くことで観客になんらかの心理的作用が生まれること、そして音が鳴ること。音楽のほうがより音を強調するという言い方は間違いではないが、演劇においても全くの無音ということはほぼあり得ない。無響空間によって上演されることがなければ、無言劇のようなものでも役者の動きによって音は発生する。複製技術が生まれる前までは音楽も純粋な意味で視覚芸術であった。であれば、音楽と演劇の形式はほぼ変わらないし、両者の折衷芸術であるオペラやミュージカルが歴とした一ジャンルとして成立していることもその形式共通性の証である。実際には両者は祭式と芸術をつなぐ橋の両端に立っている。どんな高度な音楽にも無意味を祝す呪術性が含まれ、どんな原始的な演劇も二つの機能を掛け持つ二重性に特徴付けられる。

3.

音楽の呪術性を構造において裏付けるもの。反復である。ほとんどの音楽が反復性を持つ。そして、前述したように、日本の演劇において反復性を強調する劇団がテン年代に注目を浴びた。その代表が柴幸男率いるままごとと、藤田貴大率いるマームとジプシーだろう。ままごとの代表作『わが星』はラップを演劇に大々的に持ち込んだことで知られている。冒頭から時報のクリックが鳴り響き、8ビートのドラムと直線的なベースラインのループ(口ロロの「AM00:00:00」という曲を基にしている)が重なり、或る家族と或る星の物語を語るセリフが韻を踏みながら展開されていく。同じセリフの繰り返しも多く、演者たちは舞台の上で円を作り、その円周を歩き続ける。セリフの繰り返しは少しずつズレを含み、そのズレがドラマを展開させる。

マームとジプシーの諸作では同じシーン、同じセリフを角度を変えながら何度もリフレインさせるという演出がなされる。この繰り返しのなかで感情の高まりを生成していき、後半には演者は泣き叫ぶような声でエモーションが表現される。藤田はこの手法をポップミュージックにおける「リフ」になぞらえて語っている。ままごととマームとジプシーの両劇団が音楽の反復性を演劇に取り入れているのは明らかだが、彼らの演劇は「無意味」とは言えない。『わが星』はソーホーン・ワイルダーの古典戯曲『わが町』を下敷きにしていることで知られているが、そこで語られるのは我々が生きる日常の繰り返しであり、人が生まれ死ぬ時間を星が生まれ死ぬというより長いスパンの時間と重ねることで、我々の日常的生を肯定しようとする紛れもない「意味」が生まれる。

参考文献

ウィット、スティーブン『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』(関美和訳) 早川書房,2015

ニーチェ、フリードリヒ『悲劇の誕生』(西尾幹二訳)中央公論新社,2004

ハリソン、ジェーン・エレン『古代芸術と祭式』(佐々木理訳)ちくま学芸書房,1997

柴那典『ヒットの崩壊』講談社,2016

徳永京子、藤原ちから『演劇最強論』飛鳥新社,2013

野田努『ブラック・マシン・ミュージック』河出書房新社,2001

平田オリザ『都市に祝祭はいらない』晩聲社,1997

若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの接続可能な音楽の在り方』アルテスパブリッシング,2017

文字数:4750

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