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『セブンスコード』がすごくおもしろい。あと、すごく両義的。

今から『セブンスコード』という作品を中心に黒沢清について論じるのだが、正直な話、なるべく前情報のない状態で本作を一度観て頂きたいという気持ちがある。この先ネタバレ抜きで書くことは無理だ。60分の映像作品だがら決して長くはないし、Netflixに登録(一ヶ月無料登録できる)すればすぐに観ることができるから、是非観てからこの先を読んで頂ければと思う。それでは、60+α分後の未来で会おう。

 

 

1.

…そんなこと言って律儀に観る君達じゃないよな。まぁいい、言うべきことは言った。後は君達の判断に任せる。それでは、先に進めます。

 

社会的・商業的なカテゴリーで言えば、『セブンスコード』は、元来劇映画ではない。実験映画でもないし、テレビドラマでもない。観た人は気付く通り、これは前田敦子という歌手のミュージック・ビデオ(MV)である。後に映画作品として上映されることとなるものの、そもそもはMVとして製作されたものだ。私は、本作が黒沢清の「第二のデビュー作」にあたるものだと確信している。信じられないかもしれないが、これは真剣に取り扱うべき作品なのだ。21世紀に入り、黒沢清の映画公開ペースは明らかに落ちていた。一年に複数の作品を発表していた20世紀後半に比べて、一年に一度も作品が映画館で公開されない年もあったし、『トウキョウソナタ』(2008年)と『リアル 完全なる首長竜の日』(2013年)の間には五年ものブランクがある(テレビドラマ『贖罪』(2012年)を含めたとしても四年のブランクだ)。だが、『セブンスコード』以降、『岸辺の旅』、『クリーピー 偽りの隣人』、『ダゲレオタイプの女』、『散歩する侵略者』と全国公開の映画作品を立て続けに発表し、どれも充実した内容となっている。この充実は、『セブンスコード』がひとつの発火点になっているように感じられるのだ。作品自体の強度がそれを物語る。

 

本作はMVながらストーリー仕立てになっている。前田敦子演じる秋子は東京で知り合った男、松永(鈴木亮平)を追いかけてロシアまでやってきたが、松永にはすげなく扱われ、さらにはマフィアらしきロシア人に捕まって、スーツケースを財布とパスポートごと奪われ、秋子自身は袋につめこまれて殺風景な場所に捨てられるという散々な目に遭う。その後、レストランを経営する日本人と連れ合いの中国女と知り合いになり、再び松永を追いかけることになるが…。あらすじを説明すれば、まずはこのように語れるだろう。

 

映像的に言えば、本作は「斜め」の作品だ。冒頭、ロシア語の看板が目立つ街角で、停まっていたエメラルドグリーンの車が動きだし、それを追いかける前田敦子が赤茶のスーツケースを引きずりながら現れるシーン。この時、映される道は坂道になっており、車が道を上ったかと思えばハンドルを切って下り坂を駆け下りていく。車の動きにより、「斜め」の高低差がより強調される。その後も、映される道がこことどく「斜め」の坂道ばかりだ。

 

「斜め」は部屋を撮る際にも強調される。モラトリアムのまま中年にさしかかってしまったような煮え切らない男、斉藤(山本浩司)が経営するレストラン(この店も坂道に位置している)の店内の映像がそうだ。木村信也によるカメラは部屋の隅から椅子やテーブルやレジカウンターを「斜め」に映す。人が会話する場面、例えば斉藤の連れ合いのシャオイェン(愛茜)と秋子が内職しながら店の中で会話する時も、カメラは同じ向きで座る二人を斜めに、前田敦子を画面左に、愛茜を画面右に映している。アクションのある場面、秋子と斉藤が松永の乗るエメレルドグリーンの車をダッシュで追跡するシーンでも、道がひたすら山道になっており「斜め」に二人が進んでいく様子が映される(しかし、近道をしているという設定とはいえ、生身の人間がスピードを出している車に追いつくのはさすがに笑ってしまった)。その後、松永が入ったとみられる草の茂った廃墟(「マフィアの密売品保管庫」であることが斉藤の口から語られる)を二人が外から覗き見するときも、カメラは横移動しつつ建物に対して若干の傾斜をつけている。映画において、ここまで平行性や垂直性を無視して「斜め」ばかりを映すのは異例のことだ。最後のロングショット、野原にまっすぐ通った一本の車道をカメラに収めながらその後平行移動して草原地帯を映すところでも、カメラ位置が地平線に対して微妙にずれている。違和感の残る微細なズレを作品のラストに持ち込むあたり、「斜め」の映像演出が意識的であることが見て取れる。

 

2.

前述した「マフィアの密売品保管庫」には、黒沢作品に頻出する二つのモチーフが同時に顔を出す。つまり、廃墟と植物。廃墟は『CURE』『蛇の道』『復讐 運命の訪問者』『カリスマ』『LOFT』から『ダゲレオタイプの女』『散歩する侵略者』に至るまで、およそほとんどの黒沢作品には欠かせないアイテムだ。植物も、物語に直接関わる『カリスマ』をはじめ、『回路』『ダゲレオタイプの女』などで執拗に描かれ、セリフでは植物について言及されない『LOFT』『岸辺の旅』においても、織り茂る森林が重要な役割を果たす。

 

廃墟は黒沢作品の「取り返しのつかなさ」に通底する。宮台真司も指摘している通り[1]、黒沢映画は多くの娯楽作品に用いられる「離陸→混沌→着陸」の通過儀礼モデルを有しているが、最終的な秩序の回復が起きない。回復できない「取り返しのつかなさ」を認識する事で、映画が終幕を迎えるというのが黒沢映画に見られるパターンだ。『岸辺の旅』や『ダゲレオタイプの女』において、命を失った者が帰ってくる事はもうない。『ニンゲン合格』において、昏睡状態のなかで過ぎていった10年間は決して戻らない。『リアル 完全なる首長竜の一日』が黒沢清らしくない、物足りない作品であったのは、意識不明だった恋人の意識が戻ることで秩序の回復が完遂してしまうからだ。廃墟は、建築物がなんらかの理由で使われなくなり、管理される事なく朽ち果てたものだが、「すでに死んでいながらそこにある建物」の現前が「取り返しのつかない」ことを可視化させる。決して回復しない秩序を象徴させるように、廃墟は姿を現すのだ。

 

植物は人の目に見えないところで、育ち枯れていく。『カリスマ』や『ダゲレオタイプの女』では「枯れていく」ことが主要テーマとなる。つまり「取り返しのつかないこと」は目に見えないかたちで進行していくということ。『回路』においても、世界を揺るがすような出来事が目に見えぬところで進行する。後戻りできないところにくるまで人間は認識できないから、事態を未然に防げない。あるいは、織り茂る森林はこの世のものではない存在を隠すことに役立つ。たとえば『LOFT』における死体だ。『岸辺の旅』では森の奥の滝で主人公の女性は亡くなった父の幽霊に出会うし、『ダゲレオタイプの女』でも幽霊が現われるのは植物園の中だ。いずれにせよ、植物は目に見えない動きの象徴として描かれる。

 

『セブンスコード』の密売品保管庫は打ち捨てられた廃墟でありつつ、建物内に草が無造作に茂る植物の場でもある。だが、本作においては「取り返しのつかなさ」と「目に見えないこと」はストーリー上表立って主題化されていない。たしかに、この廃墟の、草木が映える中庭らしき場所で秋子は撃ち殺された斉藤の死体を発見することになるが、秋子にとって斉藤は重要な人物ではないし、後に幽霊が現われる事もない。そもそも、本作は秋子にとっての通過儀礼モデルの形態となる物語を有していないのだ。「取り返しのつかない」事態に陥るのは、むしろ松永だ。日本から追いかけてきたおかしな女の子としてぞんざいに秋子を扱っていた松永だが、物語後半にとぼとぼと歩く秋子を発見した彼は不憫に思ったのか、車で彼女を自分の家に連れて行く。だが、そこで松永は秋子から思わぬ攻撃を受ける。人が違ったかのような運動能力で秋子は松永を蹴り、殴り、首を抑えて松永を気絶させる。そして、松永から奪った銃で彼を撃ち殺す。秋子は、松永がマフィアと取引していた核爆弾用の電子部品「クライトロン」を取り戻すためにロシア政府に雇われていた殺し屋だったのだ。秋子視点で捉えれば、全ては予定通りに進行したといっていい。この物語は、頼りない少女だと思われていた人物が実は手練の殺し屋であった事実が判明するという逆転の認知によって成り立っているのだ。

 

となると、喪失や欠落を認識して先に進むような通過儀礼のないこの映画は取り返しのつかない「廃墟性」や目に見えないところで進行する「植物性」とは関係ない作品にも思えてくる。果たしてどうか?それを確かめる前に、本作に見られる「色」の在り方について触れなくてはいけない。

 

3.

『岸辺の旅』を、白と黒が織りなす死の世界と中間色である橙や緑が紡ぐ生の世界との対比のドラマとして批評したのは阿部和重だが[2]、先立つ『セブンスコード』でも全く同様の色彩のドラマが展開されている。物語中に死を迎える二人の男、松永と斉藤はほとんど白と黒の服を着ている。松永は常に白シャツ黒スーツ姿だし、斉藤は白のTシャツかコック服を着ている。斉藤は密売品保管庫で白いコックシャツを血に染めながら絶命しているし、松永が死ぬシーンでは、「黒い」ドアに隠れていた秋子から攻撃を受け、「白い」カーペットの上で気絶し、秋子は「白黒」のボーダー上にデザインされたクッションを松永の頭に押し付け、「黒い」拳銃を打ち抜き、クッションの「白い」羽毛が舞い上がる。白と黒、モノトーンの色彩は死を呼び込む符牒だ。

 

対して、秋子が着るのは、序盤では赤のカットソーにカーキのコート。その後に着ているのは緑のカットソーに赤いバラの刺繍入りのグレーのシャツ、赤いスタジャンとカーキのブーツ。赤系と緑系でまとめられた服装であることがわかる。この赤と緑の組み合わせは、服装だけでなく映像のあちらこちらで見られる。冒頭ワンカット目に映るのは、坂道に停まったエメラルドグリーンの車とその奥の店の赤茶色の看板だ。斉藤の店には赤と橙の看板が立てられているし、シャオイェンの住むアパートは深緑のフェンスで覆われ、その上から緑の木々が顔を出している。クライトロンと報酬を交換する場所の壁はミントグリーンで、赤い箱上の物体が壁に埋め込まれている。クライトロンに付いているコードの色も赤と緑だ。その他、街中の壁にも至る所に赤と緑が散見される。赤と緑を身につける秋子が巡る場所には常に赤と緑が現われ、その色彩が彼女の生命力を証立てている。

 

ところが、松永を殺害し、クライトロンを奪ったあと、彼女は黒のコートと黒のスカート、更には黒のブーツを履いて画面上に現れる。中にきているカットソーはオレンジと水色のボーダーであること以外は死の色彩となるモノトーンで統一されているのだ。と同時に、彼女は赤いリュックを背負っており、緑色のトラックの後ろにのってヒッチハイクを始める。このとき、彼女の周りには、「死の黒」と「生の赤・緑」が同居しており、どちらとも判別できない不安定さを感じさせる事になる。その意味がはっきりするのが最後のシーンだ。ダイナマイトを積んで走らせるトラックを、松永が乗っていた車が追いかけていく。ロングショットで撮られる映像の中、二台の車が奥へ進み、どんどん小さくなってきたところで、銃撃の音が聞こえ、そして画面のちょうど真ん中で爆発が起き、炎が上がる。カメラが斜め右上に移動し、さらには横移動してロシアの木がまばらに生えた野原を映しながら映画はエンディングを迎えるわけだが、最後秋子が死んだかどうかはわからない。爆発に巻き込まれて死んだと予測されるが、確実なことはなにも示されない。この宙ぶらりんな状態がモノトーンと中間色の同居、白黒と赤い緑の同居に現われている。

 

4.

黒沢清映画において主人公が死ぬ事は非常に少ない。どれだけひどいことが起きても、大切な人間が死んでしまったとしても、彼らは生き残ってしまう。[3]黒沢映画に「滅びの美学」はない。アメリカンニューシネマ、たとえば『イージーライダー』や『俺たちに明日はない』のような壮絶な死、あるいは60年代のゴダール映画、『勝手にしやがれ』『彼女のいる舗道』『気狂いピエロ』のような無惨な死は訪れない。黒沢映画の主人公は、或る意味死よりも無惨なかたちで生き残ってしまう。『LOFT』のラストシーンで立ち尽くす中谷美紀のように。『散歩する侵略者』で「愛」を失った妻を見つめる松田龍平のように。生きるための意義を失っても、それでも生き続けることを、黒沢映画は繰り返し描く。だから、いわば彼らの生こそが「廃墟」である。取り返しのつかないことが起きて役立たずになった人生と、役立たずになった建築物が、目には見えない、いわば植物的なつながりで結ばれている。黒沢清には「滅びの美学」がない代わりに、「廃墟の美学」がある。カート・コバーンは自らの頭をショットガンで打ち抜く前に、遺書に「徐々に色あせていくなら、いっそ燃え尽きた方がいい」と書いた。黒沢清は「燃え尽きるくらいなら、徐々に色あせていく方がいい」と、言葉にはせずにつぶやく。植物のように、醜くしおれながら徐々に枯れていく生き物としての人間を描く。

 

では、『セブンスコード』の最後の爆発はどうなるのか?あれこそ「いっそ燃え尽きた方がいい」と言っているようなラストではないのか?ダイナマイトが爆発して、二台の車が見事に燃え尽きているではないのか?秋子が死んだかどうかわからないとはいえ、最後のシーンを彩るのは「滅びの美学」ではないか?

 

私はまだ、この作品を語る上で書かせない或る重要な要素を指摘していない。詩だ。シャオイェンと秋子が別れる前に、シャオイェンが唐突に詩を暗唱する。これは与謝野晶子『旅に立つ』の一節であり、晶子の夫与謝野鉄幹を追ってシベリア鉄道でパリへ向かう時に書いた1912年のものだ。ウラジオストクにはこの詩の石碑が建立されている。映画で読まれるのは詩の一ブロック目だけだが、全文を引用しよう。激烈だ。

 

いざ、天の日は我がために
金の車をきしらせよ、
颶風の羽は東より
いざ、こころよく我を追へ。

黄泉の底まで、なきながら、
頼む男を尋ねたる、
その昔にもえや劣る。
女の恋のせつなさよ。

晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
天がけりゆく、西へ行く、
巴里の君へ逢ひに行く。

 

 

「晶子や物に狂ふらん」だぞ。この詩を最後まで朗読してしまうと凄まじい情念が血走るが、一ブロック目までなら、愛や性の情念に収まらない生命力の躍動の表現だ。トラックが爆発する前、改装する車の荷台で秋子はこの詩を風に吹かれながら叫ぶ。秋子には二度の反転がある。登場時は世間知らずな女子、そこから冷静沈着な殺し屋へ、さらに、自らの生命の燃え盛りを声高らかに謳い上げる詩人へ。そして、その生命力の詩は、「物に狂ふ」ほどの愛情から到来する。本作の主人公が「秋子」と名付けられたのは前田「敦子」と音が近いこと以上に与謝野「晶子」とつながっている。秋子が報酬を日本円ではなくユーロとルーブルで受けとっているのも、シベリア鉄道でウラジオストクからパリへ向かった与謝野晶子の史実を受けてのことだ。最後にトラックが爆破したとしても、そこにあるのは生命力の迸りである。「死に至るまでの生の称揚」?たしかにバタイユのエロティシズム定義を思い出させるようなラストではある。むしろ、生死に関わらず、「青春」と思わず口走ってしまうような生命力の躍動を感じさせることが黒沢映画において異例だ。黒沢映画は何より「廃墟」の映画なのだから。では、やはり『セブンスコード』は黒沢清らしくない、青春的な生の躍動が死を導く滅びの映画か?

 

5.

結論は、イエスであり、同時にノーだ。

 

異例の青春っぷりは、まず『セブンスコード』がミュージックビデオであることと関係している。この映像作品は音楽を際立たせるためにある。ポップで勢いのあるロックナンバーを彩るために、前田敦子という歌手の存在を彩るためにこの映像は存在している。映像は楽曲の内容と関連しており、青春パンク風とも称せるであろう楽曲と前田敦子のアイドルとしての役割を鑑みれば、映像作品にも青春の勢いと躍動感が必要になる。ただし、この曲はただの若々しいパンクナンバーではない。それはタイトルと歌詞からわかる。

 

セブンスコードとは音楽に置ける和音の一種であり、一度、長三度、五度の音に加えて短七度の音で構成された和音のことを指す。ブルースに多用されるコードであり、西洋音楽におけるメジャーコードとマイナーコード、「明るい和音」と「暗い和音」という二分法に与しない「明るいとも暗いとも言えない和音」とされている。セブンスコードが中心となるブルースという音楽は、西洋音楽の理論では捉えきれないもの、西洋の規範にとってのノイズであった。この「明るくも暗くもない」両義性と「規範から脱した」ノイズ性が、「愛」と呼ばれるものの両義性と社会の規範から脱してしまうノイズ性とを重ねあわせているために、映像の元となった曲は「セブンスコード」と名付けられている。この曲のコーラス部分には「悲しみなら忘れられるけど 愛はなかなか消えやしないよ」、あるいは「優しさなら拒否できるけど 愛はいつでも受け入れるだけ」という歌詞がある。「悲しみ」でも「優しさ」でもない、ややこしくて両義的なものが「愛」として定義される。だからこそ「愛しさはセブンスコード」なのだ。そして同時に、曲の最後に「孤独とはセブンスコード」と歌われる。「愛」と「孤独」が「セブンスコード」という言葉を通してイコールで結ばれるところにも両義性が現れる。さらには、この曲の和音進行の中にはセブンスコードが一度も登場しない。『セブンスコード』というタイトル自体が両義的だ。そして、ミュージックビデオあると同時に後に映画としても公開されたと言う意味で、黒沢清が監督した『セブンスコード』という映像作品も両義的な作品である。『セブンスコード』が曲のタイトルでもあり映像作品のタイトルでもあるところも両義的。この両義性づくしはどうだ。

 

当然の帰結として、黒沢清の映像作品にも両義性が含まれる。最後に秋子が生きているか死んでいるかわからないことがそうだ。モノトーンの死のイメージと赤・緑の生のイメージとの対比がそうだ。前半の世間知らずと後半のクールな殺し屋との対比がそうだ。愛の対象と思われてた男(松永)が殺しの標的となる反転もそうだ。そして、激しく動く動物性の、火花を散らして一瞬で燃え尽きようとする「滅びの美学」と、目に見えないところで朽ちていく植物性の、徐々に色あせていく「廃墟の美学」との対比こそが、最も引き裂かれたかたちで、両義性を曝すことになるだろう。

 

『セブンスコード』という映像作品では、楽曲の両義性を引き受けるかのように、過去作品に連なる黒沢清的な要素と、今までにはなかった非=黒沢清的な要素がぶつかりあっている。そして、この両義性のぶつかり合いを映像的に現したのが「斜め」である。二つの意味のどちらにも落ち着かない不安定な状態としての「斜め」が、この作品に相応しい映像のモードとしてある。両義性のぶつかり合いを端的に示すショットが存在する。秋子がクライトロンと報酬を交換する場面だ。その交換場所となる建物は何故かサーカス団の練習場。秋子が建物の中に入ると、画面の奥ではサーカス団がシーソーの練習をしている。二人の団員がシーソーの左右に立ち、交互にジャンプしている。ジャンプする度に、シーソーは右斜め、左斜めに移動する。そして支点となるシーソーの間に映るように、秋子は一度立ち止まるのだ。決して平行にあらないシーソーの中間に立つこと。両義性の中で生きることを、映像が鮮やかに指し示しているのだ。

 

最後に、これが黒沢清の「二度目のデビュー作」であることについてだが、二つの事実を示せば簡潔に証明されるであろう。一つ、『セブンスコード』以降黒沢清がハイペースに傑作を連発していること。二つ、劇場デビュー作『神田川淫乱戦争』と同じ60分という上映時間であること。以上。Q.E.D.

映画の若さに年齢が関係ないことは多くの映画作家が、ジャン=リュック・ゴダールが、マノエル・ド・オリヴェイラが、アレハンドロ・ホドロフスキーが証明している。どんだけ年を重ねても、映画作家は若い作品を作る事ができる。今、黒沢清よりも「若い」映画作家が果たして日本に存在するだろうか。

 

[1]宮台真司『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く 映画時評2015→2016』Blueprint,2017

 

[2]阿部和重「Invisible Touch –『岸辺の旅』論」『世界最強の映画監督 黒沢清の全貌』p211-229,文藝春秋,2017

 

[3]数少ない例外に『ニンゲン合格』があるが、私見では『ニンゲン合格』は「死んだはずなのに生き返ってしまった人間の物語」であり、一種の幽霊譚として見るべきだと考えている。『岸辺の旅』『ダゲレオタイプの女』の先駆的作品として位置づけることもできるが、本論とは論旨がずれるので、考察は別の機会に譲りたい。

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