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蓮實重彥、またはくだらない律動性

蓮實重彥は呪われた作家であり、呪う作家だ。読む者を呪うものとして蓮實は現れ、そのために蓮實自身が呪われる。この男の書くものの何が呪うか。激しい断定口調か。延々と続く長いセンテンスか。意外性のある形容詞の使用法か。違う。蓮實の呪いの正体、それは律動。リズムである。

 

1.

蓮實の文のリズム。それはどのようなものか。

 

それとはなしに変革の予兆を肌で感じとりながらも、マルセル・カミュの低俗な姿勢に辟易し、ヴァディムの頽廃美をとことんまで信頼もできず、さりとてルイ・マルのもっともらしい面構えに未来を賭ける気にもなれないまま期待と苛立たしさのなかで時を過していた一九五〇年代後半のわれわれにとって、シャブロールとトリュフォー、そしてゴダールのあいつぐ登場は、まぎれもなく事件以上の何ものかであった。

『映像の詩学』

 

これは「『勝手にしやがれ』から『気狂いピエロ』へ」と題されたジャン・リュック・ゴダール論の冒頭一文目だが、この一文にすでに蓮實の律動的特徴が現われている。この文章の凄いところは、一文のなかで六つの固有名詞に価値判断をすべて完了しているところだが、前半の三つの人名が否定的、後半三つの人名が肯定的に描かれ始めていることは、その固有名を聞いたことのない者でもすぐに判別できる。そこにさりげなく紛れ込まされた「われわれ」という一人称複数の代名詞によって、読者はその価値判断を一度受け入れることなしにはこの先の文章を読めないように環境づけられる。ならば受け入れないことは可能か。「まぁこの人はこんなこと言ってるけど俺にはよくわからないから、とりあえず先を読んでみるか」と価値判断を保留しながら、そのエクリチュールの誘惑に乗っていくことはできるのか。実際には、前述の文章を読んだ時点で既に呪いは始まっている。つまり、否定・否定・否定・肯定のリズムである。

 

蓮實は紋切り型の言葉を三つ並べながら、それを切り裂いた後に自分の主張を覆いから外す。例えばこのような文章。

 

批評家たちは、そうした挑発的な擁護の姿勢を忘れ、ひたすら何の役にも立たぬ形容詞ばかりを列挙することで義務を果たしたつもりでいた。曰く、エイゼンシュテインは優れた芸術家である。卓抜な理論家である。創造的な形式の冒険家である、云々。そのどれひとつをとっても間違いではないが、そうした形容詞がどれほど無益な聖別化に貢献してしまったかを改めて考えてみる必要がある。われわれはあえて断言しよう。エイゼンシュテインは単純に面白いのだと。実際、単純に面白くない作品が人の心をうったためしがない。

『映画狂人神出鬼没』

 

優れた、卓抜な、創造的な、という三つの形容詞を列挙した後に、面白いという形容詞を自らの切り札として差し出す。その時に、「われわれ」という一人称複数を忍ばせるのも忘れない。考えてみれば実に単純な仕掛けだが、その効果は絶大だ。人はリズムには逆らえない。キックドラムが一定のリズムで鳴り響けば、体は反応する。蓮實の否定・否定・否定・肯定は誰もが逆らえないリズム、もしくはセイレーンの歌声だ。

あるいはこのような文章もある。

 

たとえば小津の映画ではキャメラが動かないと誰もが涼しい顔で口にする。低い位置に捉えられたキャメラの位置も変わらない、移動撮影がほとんどない、俯瞰は例外的にしか用いられない。こうした技法的な側面を語る言葉に含まれている動詞の否定形は、これまたごく自然に、描かれた世界の単調な表情を指摘する文章にひきつがれる。小津にあっては、愛情の激しい葛藤が描かれない。物語の展開は起伏にとぼしい。舞台が一定の家族に限定されたまま、社会的な広がりを示さない。このあといくらでも列挙しうるだろうこうした否定的な言辞が、ながらく小津的な単調さという神話をかたちづくっていたことは記憶に新しい。

『監督 小津安二郎』

 

この文章のなかには否定三つのリズムが二つ入り込んでいる。しかもそれは、小津安二郎の映画を巡る言説に蔓延する「否定」を否定するために。まず、撮影技法における三つの否定形を指摘した後に、映画の中で描かれる世界についての三つの否定形を提示する。「いくらでも列挙しうる」と書きながら、その列挙を三つに抑えている。この二つの否定×3も、小津を「肯定的な言辞によって肯定しなければならない」という反転への布石となっている。否定すべき要素は三つ。それが後の肯定に魔力的な説得力を持たせるための韻律なのである。あくまで数字の問題として、蓮實の言説は捉えられなければいけない。三つの否定という呪文抜きにして、この映画批評は成り立たない。

 

2.

ロラン・バルト『映像の修辞学』には訳者の一人である蓮實の「ロラン・バルト、または複数化する断片」が収録されているが、題名通り蓮實はバルトを「複数的」な存在として描き、その複数性は「いかなる場所にもとどまるまいとする欲望を欲望しつつあるその場所をもあえて抹殺しようという欲望」に依るものだと語る。ここではないどこかへいきたい、と思うときの「ここ」にはすらいたくない、とでも言い換えられる、或る意味わがままな在り方こそがバルトを複数的な存在にしている。しかしながら、というべきか、だから当然、というべきか、兎にも角にもこの複数性は蓮實にも当てはまる。

 

批評家としての蓮實を形容するとき、まず誰もが絶対に思い浮かべる語彙があるとすれば、それは「表層」以外には有り得ない。『表層批評宣言』という長尺のマニフェストを初期の著作にもつ蓮實は、テクストにしろフィルムにしろ、常に表層を観続けろという規範を示しつづけた作家だと言われる。『ボヴァリー夫人』に一度でも「エンマ・ボヴァリー」と記されていたかと詰問する言葉、『地獄の黙示録』の画面に映っているのはヴェトナム戦争ではなく河を渡る船であると断言する言葉などからは、「行間」や「内面」という言辞を軽蔑し「表層」を最重視する態度がこれでもかと感じられるわけだが、なにも重要なのは「表層」だけではない。蓮實は映画の作り手たち、監督だけでなく撮影や照明、音響などの担い手の名前も覚えておくべきだという訓示を学生達に与えていたことが船橋淳の論考で明かされており、膨大な固有名が織りなす映画の歴史性も常に重要視してきた。『映像の詩学』に収録されたブニュエル論「ルイス・ブニュエル、または越境者の論理」などは、多くの著名な人間を悲惨な目に遭わせてきた国境越えを、このスペイン出身の作家が何故か容易く何度も行いえたという伝記的事実なくしては書き得ないものである。

 

蓮實はスクリーンに映るすべての表層を目に捉え記憶せよと命令するだけでなく、その表層の形成に関わった人物も記憶せよと命じる。ここにあるのは映画を部分的に捉えることなく、総合的に把握しながら細部の連繋や画面の連なりを体感することを是とする鑑賞観だ。こうした意識は、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』において映画の鑑賞態度として見出した「気散じ」に反発したアドルノの姿勢と近接している。アドルノは複製技術が産み出した文化、映画やポピュラーミュージックから踵を返し、19世紀的な、集中して全体を把握するという芸術の在り方の称揚へと主張を傾けていく。蓮實の映画に対する態度にもアドルノと同様の19世紀的な傾向を見出すことができるが、その態度を向ける先が20世紀的な映画というメディアであることに差異がある。これは、娯楽映画誕生の最初期にベーラ・バラージュが映画に他の芸術様式と同等の地位を獲得させようと『視覚的人間』と執筆したときの態度に近い。蓮實の時代には、映画にも芸術的と認められる作品も多くあるが、蓮實が称揚したのはくだらない娯楽作品だと考えられていたジョン・フォードの西部劇、ハリウッドのギャング映画やコメディ作品、古臭い家族ドラマとみなされていた小津の映画など、当時は芸術として低級という捉え方が多数派であった作家・作品群であり、そうした映画をひたすらに視覚的に感受していくことで、高度な芸術的達成を見出すという批評スタンスを蓮實は取っていた。先程の引用、エイゼンシュテインは単純に面白いという主張にも同様のスタンスを見いだせる。この「くだらない」ものに高尚さを捉えんとする態度は極めて20世紀的な態度だといえる。

 

ベタな高尚さの行き着く先が二度に及ぶ壊滅的な戦争であったことの反省としての「くだらない」ものへの注目というのは、20世紀における一種の文化的条件でもあった。人間の「低い」部分、高尚さとはかけ離れた醜さに着目したバタイユ、便器を芸術作品だと言い張ったデュシャンなど第一次大戦後のフランスにはじまり、第二次大戦後のウォーホルをはじめとするポップアートの流れ、長らく抑圧されてきた黒人の音楽のポピュラーミュージックに対する多大な影響、さらにはキャンプ様式やパンクカルチャーなど、多くの20世紀文化が「くだらない」ものとして捉えられていた文化を称揚することでその文化の新しさの基盤を造っており、蓮實の批評もそうした20世紀的文脈で捉えられる。このように考えていくと、蓮實のスタンスは19世紀精神と20世紀精神のキメラではないかという視点が浮上してくる。

 

3.

しかし、蓮實のキメラ性は二つの融合だけではない。カンタン・メイヤスー『有限性の後で』をメルクマールとする思弁的実在論という思想潮流が21世紀に登場したことは周知の事実だが、蓮實の映画批評はこの新しい思想とも共通項を有する。簡潔に概観しよう。メイヤスーはカントの超越論的発送をひっくり返そうとしている。カントは物自体を認識できないと断言した。人間の思考と思考の対象となる事物は必ず関係性を有しており、その関係性抜きに事物自体を認識することは不可能であると考えた。カントの議論の説得性がカント以降の哲学を強く規定し、物自体ではなく物を思考する人間の条件を問い続けることとなった。カントが哲学、およびそれに基づく文系全般の学問に強いた規定は、物の在り方を研究対象とする理系の学問分野との分裂を呼び起こし、知の連携が不可能になるという悪しき状況が産み出されてしまった。メイヤスーは思考と事物が常に関係しているという相関主義を切り崩し、物自体を思考することは可能であることを証明せんとする。こうした物自体を、外部の絶対者の追求、つまり形而上学抜きで認識・思考するというあり方が蓮實の表層への注目と類似している。蓮實は観客の条件を問うことなく、映画そのものを観ることが可能であることを前提としたうえで、言葉を費やす。そして、そこに絶対的な理想を見出すことなく、変わり続ける映像に自らの視線を曝す「フィルム体験」を生きようとする。蓮實の語る映画との出会いは「物自体」を思考する体験なのだ。フーコー、ドゥルーズ、デリダといったフランスの思想家達と同時代に生きながらも、その先に現われた思想とも蓮實は通底している。そうなると、19世紀と20世紀だけでなく、21世紀の精神までが蓮實のキメラ性に加わることとなる。

 

この、3つの世紀の全てに属しているようでどこにも属していない複数性は「いかなる場所にもとどまるまいとする欲望を欲望しつつあるその場所をもあえて抹殺しようという欲望」と蓮實がロラン・バルトについて記した欲望を彼自身が生きていることを示している。蓮實の批評の影響力はそこから来る。つまり、それは19世紀から来るのでもなく、20世紀から来るのでもなく、21世紀から来るのでもない。それは未だ現われてないところから、例えばそれは22世紀から到来する。それは「欲望しつつあるその場所をもあえて抹殺しようという欲望」が完遂した後の、蓮實重彥と呼ばれる存在が姿を消えた後の場所からやってくるものなのだ。蓮實重彥の映画批評は、「きたるべきもの」の予感として我々の前に置かれている。

 

4.

ここまで読んだ誰もが気付くことだろうが、私は蓮實の律動を模倣して書いた。「19世紀ではない・20世紀ではない・21世紀ではない・22世紀だ」という否定・否定・否定・肯定のリズムで文章を書き進めた。ここで、私に恐ろしいと言うべきことが起きている。私はそもそも蓮實重彥が22世紀的な「きたるべきもの」の予感の批評家などど本気で信じていなかった。蓮實の19世紀性、20世紀性、21世紀性を、一部の文化・思想現象との類似から炙り出すことに無理があるし、本来はさらに多くの事象を取り出し分析しなくては議論の信憑性など保証されるはずがない。なにより、今は2017年12月18日であり、21世紀精神の包括的把握など不可能である。にもかかわらず、私は蓮實が22世紀的な存在であるという結論を自分で読み返しながら説得されてしまっていることに気付く。そして、それは三つの否定の具体的な検証抜きで納得されてしまう。

 

ここで書かれた私の文章における否定×3などは、短い時間内ででっちあげたお粗末なものに過ぎないが、そこには万が一にも真実が含まれている可能性を否定できない。そして、より真実が含まれている可能性が高いように思わせてしまうのが否定・否定・否定・肯定のリズムである。このリズムの上に置かれると「マルセル・カミュは本当に低俗な姿勢で映画を撮っているのか」「ヴァディムの頽廃美は信頼できないのか」「ルイ・マルは本当にもっともらしい面構えをしているのか」という至極真っ当な疑問が置き去りにされてしまう。蓮實の場合はそこに膨大な映画的記憶を抱えているというバックグラウンドをちらつかせているから、たとえマルセル・カミュやルイ・マルの作品を観たことがなかったとしても、読者はその言葉に疑問の余地なく正当性を見出してしまう。

 

5.

それにしても、蓮實重彥は何故この否定・否定・否定・肯定のリズムを好んで用いるのだろうか。

 

全ての文献を確認できたわけではないが、蓮實がこのリズムを文章に用いるのは往々にして映画批評の場であり、文芸批評やフランス現代思想に関するテクストにこのリズムが使われていない。例えば、『表層批評宣言』の冒頭部で否定されるのは批評において幾度も反復される「批評とは何か?」「批評はいつ始まるか?」「批評と創作はどう違うか?」「批評の方法はいかにあるべきか?」「批評の現代とは何か?」という「五つ」の問いの立て方であって、「三」という数字はここで一切関係をもたないし、この否定は然るべき文量を費やして論理的に反駁している。テクスト上では無根拠なものと読めてしまう映画批評においての三つの否定とは様態が異なるのだ。問いはこのように変化する。なぜ蓮實は映画批評の場でのみこの呪術めいた効果をもつリズムを用いるのか?

 

この問いに対する答えはひとまず単純な形でしか用意されない。すなわち、映画批評において蓮實は扇動者であるということ。読むものを、是が非でも動揺させて、映画館に向かわさなくてはならない。そこでは、スクリーンに目を向けるという行為を意識化させなくてはならない。人は映画を物語や監督の内面などというものと容易く結びつけて、映画をメッセージの容れ物としてしか受けとめていない。つまり、映画を受けとめていない。これでは、優れた映画を優れていると讃える感性が育たず、映画は痩せほそるだかりだ。まずは、手段を選ばずに、映画を見るように煽動しなくてはいけない。

 

蓮實はそもそもアカデミズムの世界ではフランス文学の専門家であり、映画に関しては立場上はただの愛好家であった。フランス文学、またはその複合名詞の前半部に関わるフランス思想、後半部と関わる日本文学について書く時にはアカデミックな論理性の規律を守っている。映画はそうしたアカデミシャンとしての規則に乗らない形で論を展開できる場であり、目的は観客の煽動である。であるならば、多少いかがわしいくらいがちょうどいいではないか。かくして、映画批評は蓮實重彥の解放区となる。そこではマノエル・ド・オリヴェイラの誕生日が小津安二郎の誕生日であると同時に命日である日にあたるという理由から、オリヴェイラが「世界最大の映画作家」であると断言される。ジョン・フォードが自己紹介するときに「私の名前はジョン・フォード。喜劇映画の監督です」と言ったという逸話から「真に偉大なシネアストはいずれも潜在的な喜劇映画の監督である」という定義が生まれる。端的にいって無茶苦茶であるが、この無責任な断定は、表層を見るという姿勢の倫理的なまでの徹底・膨大な映画的記憶のストック・否定×3から肯定という文体の律動性の三位一体を浴びてしまった後になると、にわかには否決できないものとなる。この三つのどれか一つ欠けただけでも、呪いの力は大幅に弱まったことだろう。しかし、三位一体の呪いにかかってしまえば、言葉は全て聖典のように輝く。かくして、映画の解放者として現われたはずの蓮實が映画を呪縛する存在として君臨し、蓮實自身がその玉座に呪縛されることとなったのだ。

 

結.

故に、われわれは蓮實の三位一体を一つずつ分解して、検討してみなくてはいけなかった。それこそが、蓮實の呪縛を、さらには呪縛者となってしまった蓮實自身を解放する手だてとなる。メディアの変容に伴って表層への徹底は審問に付され、映画的記憶についても、VHSからDVD、さらにインターネットの登場など時代が進む中でその限界が問われてきたと言っていい。だが、蓮實の文体については、まだ十分な検討がなされていない。いいかえれば、映画の全体的把握を指向する19世紀的蓮實、「表層」という「物自体」を思考する21世紀的蓮實とは異なった、「くだらない」ものを嗜好しながらいかがわしい呪文と戯れる20世紀的蓮實が放置されている。『ユリイカ』の蓮實重彥特集号にも、渡部直己による『ボヴァリー夫人論』のテクスト分析は含まれているものの、映画批評に関するテクスト分析は見られなかった。今、蓮實重彥の研究に足りないのは蓮實の映画批評におけるテクスト論である。だからこそ、私は映画批評におけるその律動性を指摘した。こうした分析の上に、表層でもなく、記憶でもなく、律動でもない、21世紀でもなく、19世紀でもなく、20世紀でもない、きたるべき蓮實重彥、つまり新たな解放の予感がはじめて触知される。

文字数:7449

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