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見えないものを見ようとするしかない ー不可視の映画、その誕生を祝してー

1.

見えない映画とは何か?

今回の課題のリード文で渡邉大輔が書いているように、蓮實重彦は『ユリイカ 蓮實重彦特集号』のインタビューにおいて「本当に見つづけなければならないのか?ことによると、あるとき見ることをやめてしまうことこそが最大の映画批評であるという可能性もあるのではないか?」と驚くべきことを口にする。もちろん、蓮實は「徹底的に表層を見る」という姿勢を貫き通すことを、映画批評家としての信条に据えてきた人物である。

 

同インタビューで本人が語るように、「徹底的に表層を見る」という姿勢はそもそも不可避な不可能さを有する。人間はスクリーンに映る事物を全て目で把握できないし映ったものをすべて意識下にはおけない。「よく知っている」と思っていた映画も、見返すと全く記憶にない画面が存在したりする。さらには、客席の場所によって見え方も変わる。スクリーンの正面目の前と後ろの端っこでは映り方は大いに異なるものだから、一つの普遍的な画面は存在しない。目の能力の限界、意識や記憶という脳の機能の限界、さらにはそうした器官的特性も鑑賞の条件も見る者によって異なるという普遍性の限界。表層を絶対視することには、いくつもの無理が伴う。しかし、だからこそ蓮實はその不可能性にこだわっていたのではなかったか。不可能と向き合うというその荒唐無稽が、映画批評に緊張を与え、説得的かつ中毒的な言葉を生み出す。それが蓮實の批評の力であったはずだ。

 

途中で見ることをやめるというのは、あまりに一般的な行為に属する。映画を観ている間に眠る人間は、全ての映像を意識的に見つづけようとする人間に比べて圧倒的に多数派だ。もちろん、映画というメディア、および全ての芸術形式を無暗に神聖視する態度は拒むべきであるし、ベンヤミン風に言えば「気散じ」、音楽用語における「アンビエント」の態度は今に至るまで有効性を保っているだろう。だが、「見ることをやめる」という態度はあまりに当たり前すぎて、新しい何かがそこに宿る可能性があるのかと疑わしく思える。そこで今、180度首を回転させて、逆方向の不可能性に目を向ける必要がある。「表層を見る」以上に切り詰められた不可能性が、気散じに逃れることが選択肢にない不可能性がそこに現れる。向こう側からは決して視線を返されることがない。彼らが見ているのは、いわば「不可視の映画」である。

 

2.

今年5月に公開された河瀬直美監督映画『光』は、視覚障害者の映画用音声ガイドの仕事をしている若い女性が弱視のカメラマンの男に惹かれていくという筋書きを持つ。実世界においても視覚障害者向けの音声サービスは増えてきており、UDCastという、音声ガイドが流れる仕組みのスマホ用アプリを利用した映画館での上映やDVDの発売も実施されている。この音声の助けを借りて、視覚障害者は映画を「見る」ことができる。『光』も、河瀬の前作『あん』に音声ガイドを付けたことがきっかけとなって作られている。本作においては、恋愛映画としての側面と合わせて、いかに言葉と音声のみで映画を描写していくかというテーマも重要視される。ここで、やはり問わざるを得ない。映画は、なによりイメージが展開されていく表層を見る芸術形式であるはずだ。であるならば、表層を一切見られない人間は、その時一体何を見ているのか。

 

「耳にはまぶたがついていない」という言葉を、聞いたことがあるかもしれない。目と違って、耳は保護されてないし、常になんらかの音を聞き取り続ける。だからこそ、耳は人間にとってより根源的な器官だと。率直にいって、嘘だ。耳にまぶたがないのはたしかにそうだろう。だが、本当に目を閉じれば何も見えないのか。今あなたがまぶたを閉じると、そこには今この瞬間まで目が見ていたものの残像が映る。その残像は移動していく。浮かんだ色や形はぼやけていき、どこかへ消えて、気付けば別の形が現れる。あるいは、決して目にしてはいないはずの幾何学模様が、まぶたの裏に浮かぶこともあるだおる。つまり、あなたは何も聞かないことができないように、何も見ないこともできない。そして、まぶたを何度か開閉すれば気付くだろう。目を閉じた時に見えるものは開けた時にも見えていて、世界は二重のイメージとして表れていることに。まぶたを閉じた時に見えるイメージが、全盲だとしても見えるのか、定かではない。だが、視覚障害者を囲むのが完全な暗闇だとしても、彼らは暗闇を「見ている」。何故なら、暗闇とは別の外の世界があることを知っているからだ。彼らは闇と同時に、決して出ていくことのできない外側という二つの世界を見ている。もちろん、闇の外側に出られるか出られないかの差は圧倒的だ。しかし、同時に二つの世界を見ているという点で、私たちは共通している。

 

視覚障害者達は、音と言葉からイメージを想像力によって創造して、映画を見る。彼らが拠り所とするのは気ままで移ろ気な想像力ではなく、強制された闇を忘れるための意志に基づく想像力だ。映画鑑賞と補助となる音声ガイドの存在は彼らにとって切実な意味を持つ。それらは彼らを絶対の闇から解放する「光」となる。映画『光』において、視覚障害者の人々が主人公の女性の音声ガイドに厳しい声をこぼすのは、映画鑑賞の質を高めるためといった生易しい理由からではない。彼らにとっては、映画鑑賞自体が不可能を可能にする、いわば奇跡だからである。生ある限り課された定めから解かれる時間がこれから起こるかもしれない。その期待を奪われることは、怒りまじりの絶望を生む。故に、音と言葉に対する審美眼は否応がなしに鋭さを増す。彼らよりも映画を厳しく見ていると、果たして誰が言えるだろうか。

 

冒頭に挙げた蓮實重彦の発言は、現在の視覚障害者が映画を「見る」ことができる状況を知って知らずか反映している。映画の鑑賞法の新たな可能性は、「見えない」世界において何を見ることができるかという問いに潜んでおり、その意味で、現在の世界には視覚障害の映画批評家が存在しても構わない。いや、存在して然るべきだろう。

 

3.

しかし、それだけでは、視覚障害故の特権性(そこには当然差別の視線も含まれうる)に回収されてしまう。いくら彼らが厳しい審美眼で映画を見て語ったとしても、その感受性、その言葉は果たして「見える」ものに届くのだろうか?視線を伴わない視線の力が厳しければ厳しいほど、違う世界の感性の在り方だと、「見えない」者を障害者というレッテルの檻に閉じ込めて「見える」者は安堵するのではないだろうか。現代的なテーマであるはずの『光』のどこかに致命的な古さを感じたとしたなら、それはこの映画が盲目を特権として描いてしまっていることに由来する。

 

健常者の若い女性と、視力を少しずつ奪われる中年の天才カメラマンはことあるごとに衝突する。冒頭、女性が奈良の街を歩くシーンにおいて、カメラはロングショットで遠くから彼女の動きを映し出す。対して、カメラマンの男視点の映像は被写体深度が極端に深く、あらゆる風景・物体がクローズアップで映る。かつてベーラ・バラージュは『視覚的人間』においてクローズアップを細々したものを鋭く見るための技法として語ったが、ここでは逆にものが漠然としか見えない人間の世界を表すために、その技術は使われている。女性と男性は社会的属性も、カメラに写る時の在り方も真反対に位置する。やがて、男性の狭い視界に女性の姿が。偶然両者にとって共に大切な場所であった森へ彼らは向かい、その場所で彼らはお互いの顔に触れ合う。にわかに、彼らは口づけを交しはじめ、陽光が優しく強く映像を染め上げる・・・。

 

この映画の違和感は、顔を触る行為が十分にエロティックであるにもかかわらず、必然性のないキスシーンがはじまることだけに起因するのではない。二人の顔が光のなかで溶け合うショットが被写体深度の深いクローズアップで撮られるのは、「見える」女性が「見えない」男性の世界へと踏み込んだことを示す。この映画は見える者と見えない者との対立が、見えないものの世界へ入っていくことで止揚されるという構造を持っている。『オイディプス王』や『春琴抄』と同じように見える者が見えない者の世界へ入っていく話なのだが、決して目を抉ったり刺したりするようなことはない。あくまで、相手の世界を理解することで分かりあえない他者との合一化が達成される映画だ。そして、この「理解」が、見えざるものの特権化を生む。「見える」私が「見えない」あなたを理解すること。それは積極的に「理解」されてしかるべき対象物として視覚障害を特権化(=差別)することであり、相互的な運動とは似ても似つかぬものだ。これはカメラワークの対比と恋愛物語としてのプロットに限った話ではなく、音声ガイドという仕事においては「彼らの立場になること」が常に正義であるかのように描かれるところにも現われている。極めて穏健で道徳的な態度が、方針として示される。本作の持つ違和感なその穏健な差別性に因るものだ。そこに自らも盲人になるという飛躍は生まれない。ジャンプすることもないまま向こう岸に届いたと錯覚する『光』という映画は、ソフォクレスよりも古い。

 

とはいえ、見える者が見えない者のところ飛躍すること(つまり盲目になること)は、「見えない」ことで一体化しており、不可視のものまで含めた映画を観る意味を問い直すという観点においては意味をなさない。一方的な特権性の付与ではない相互的な在り方を探らなくては、見えない者に突きつけられた条件は、見える者とは関わらないものとして安易に処理されてしまい、可能性の蕾みもしぼんでしまう。ではどうすればいいか。

 

4.

渡邊大輔がリード文で蓮實重彦の他に名前を挙げているのが土屋伸彰だ。土屋は『21世紀のアニメーションがわかる本』において、現代のアニメーションの特徴を説明するために、映画『聲の形』を「全く新しい個人の感覚を作り上げている作品」として取り上げる。聴覚障害の少女と、小学生時代に彼女をいじめていた少年、その周囲にいる人々が織りなすこの群像劇において、聴覚障害という特性は他の人物たちの抱える様々な問題とは区別されず、ある意味無差別に扱われている。

 

『聲の形』が行っていることが何かといえば、それぞれの人間がユニークな来歴を持つという前提をいったん無効化し、フラットにするということだ。差異は少しくらいあるだろうが、大筋では同じである。これもまた、ミクロとマクロがつながりあい、その両者が混ざりあうなかで起こる、「私たち」の時代における世界への一つの態度なのではないか。「私たち」のなかに「あなたたち」が見出され、それが新たに「私たち」の一部をなす運動が起こることが。

 

 

『聲の形』においては、個別の「私」として障害や悩みが描かれない。 すべての人物達が交換可能で、突起した個性として表現されない「私たち」が宿っていると、土屋は語る。しかし、『聲の形』では最後、主人公の将也が他者を受け入れることでずっと見れなかった他人の顔が「見える」ようになる(劇中ずっと他人の顔に貼られていた×印が落ちるという映像で演出される)。このエンディングは「私たち」という集団性から、「私」という個別性に後退している印象を与える。他人を受け入れることを知った「私」の物語に集約する際の多幸感に満ちた白抜きの映像は、土屋が旧世代に属する「私」の作家として挙げた庵野秀明の代表作『エヴァンゲリオン』アニメ版のラスト、意識世界のなかで主人公碇シンジが「僕はここにいていいんだ!」と自己肯定の言葉を放った後に、今まで登場してきたキャラクター達から(妄想の中で)祝福される際の映像と酷似している。土屋が「私たち」の感性を持つアニメーションの新しいかたちとして名を挙げた作品は、最後の最後で、全てが「見える」(と思う)ことでかつての「私」へと回帰してしまうのだ。

 

この無様な終幕が私たちに教えてくれることは、「私たち」として生きることのあまりに豊かな険しさだ。その険しさに耐え切れず、「私たち」は最後「私」として世界を見ることを選んだ。本来「私たち」は決して「見える」に到達しない。いつか視界が開けて世界がクリアになることなど有り得ないのだ。そのことを鮮やかに示した映画が存在する。

 

5.

今年1月に日本で公開されたロウ・イエ監督による中国映画『ブラインドマッサージ』は、『聲の形』に通ずる「私たち性」を備えた実写映画だ。南京の盲人マッサージ店で働く男女たちの群像劇である本作は、『光』と同様、被写体深度の深いクローズアップで視覚障害者たちの闇や視界の狭さを表現している。だが、この映画には健常者との対比はない。全編を通して主に視覚障害者同士のやりとりで成り立っており、彼らは特権性や聖性とはかけ離れた、あまりに俗物な悩みを抱えている。つまり、恋と性と金。主人公格の若き男、小馬(シャオマー)は、店長の親友である王先生のフィアンセ、小孔(シャオコン)に恋をする。欲望を抑えきれない小馬は、王先生やほかの同僚もいる一室で小孔の首に鼻を近づけ、匂いを嗅ぎ始める。小孔は顔を赤らめかすかな吐息を漏らすが、王先生は気づかない。盲目であるがゆえに、緊張感ある三角関係がひとつの空間で現出してしまうという稀有な場面がここで描かれているが、友人や同僚の恋人に恋をすること自体は、盲目とは関係なく無条件で起こりうるありふれた事件だ。

 

店長の沙(シャ)先生は香港返還によるマッサージ店バブルがはじけった後の店の経営に苦しみながら、美人と名高い同僚都紅(ドゥーホン)にかなわぬ恋をしているが、都紅は、紗先生は私が好きなのではく「美しい女をわがものにする」という名誉が欲しいだけだと喝破する。自らのステータスとして異性を考えてしまうことも、世界中にあふれた俗悪な固定概念であり、盲人としての特性は特に関係ない。王先生と小孔も、健常者である王の弟の借金問題で結婚ができないという、誰にでも起こりうる状況の中で苦しんでいる。彼らの悩みや苦しみは全て、健常者とも交換可能なものとして描かれるのだ。

 

劇の中盤、叶わぬ恋に苦悶する小馬を心配した別の同僚が、彼を性感マッサージ店へと連れて行く。そこで彼は鬼気迫る表情で腰を振り上げて童貞を捨てることとなり、その相手である風俗嬢マンに新たな恋をする。やがて両想いになる彼らだが、そこには盲人と健常者という対立はまるで現れない。むしろ、彼らはブラインドと性感の「マッサージ」という触覚的共通性と、厳しい生を強制された境遇同士としての共感、そして性欲によってつながっている。理解する/されるという関係性によってではない。

 

性感マッサージ店の様子も、部屋が店内が狭いのだから当然だが、クローズアップで映される。マッサージ店の目が見える女性たちにとっても視界は狭いのだ。さらに狭い個室の中で性行為に及ぶ彼らの汗や熱量は、観客まで伝わってくるかのようだ。この映画の中では、あらゆるものが見えにくい。強い雨が降るシーンが何度も繰り返され、外の景色が霞みだす。セックスや殴り合いのシーンにおいては、カメラの動きはみだれ、より不明瞭さを増す。画面に映る景色としても、登場人物たちの心象としても、見通しは一切開かれない。見える者にとっても見えない者にとっても、この映画は「見えない」映画だ。代わりに、この映画は匂いや感触、体温など、目に見えない感覚を暑苦しいまでに伝えてくる。見えない感覚の受容において、見える者と見えない者の差異はなくなり、同質性を基盤においた「私たち」が生まれる。

 

6.

『ブラインドマッサージ』が示すのは、健常者だろうと障害者だろうと、「だれも見えていない」ということだ。若い盲人にとっても風俗嬢にとっても世界は不透明だ。視界が霞むなかで、確かなのは雨と共に流れる血と汗だけ。「見る」ことは常に、不可視を伴う。

 

 

目を閉じた時に見える世界と、開いた時に見える世界の二重写しを常に意識して見ることのできる人間はいない。いや、実際のところ二重どころではないかもしれない。私たちが目という器官を働かせると同時に、目に見えないイメージも常に描いている。この文章を書いている今も、私はMacBook Proのスクリーンに視線を寄せながら、『光』『ブラインドマッサージ』『聲の形』のシーンを思い出しつつ、同時に取り留めもない連想の中から去来するいくつものイメージを眺めている。見る行為は常に複数性を伴うものなのであり、その複数を全て意識下に置くことなど不可能なのだ。不可視のものが、常に「見る」行為に内包されていること。「私たち」は不可視という条件を受け入れて生きていくしかない。それが『ブラインドマッサージ』の伝えるメッセージであり、「見る」ことの不可能性という場所に流血を顧みずに留まり続けるこの作品こそ、「私たち」という感性が最後まで徹底的に貫かれた新しい「不可視の映画」なのだ。

 

同質的な「私たち」が、「見えない」という条件の下に一体化される世界においては、観客の在り方としても区別は無効化される。視覚障害者は健常者が見る世界が見えない代わりに、健常者の見えない世界を見ている。この関係性は健常者間、視覚障害者間にも生じるものであり、決して特権化されえない。Aが見ているものが、Bには見えない。代わりに、Aが見ていないものをBは見ている。当たり前の話だ。身「見るもの」としての「私たち」は、視覚障害者という新たな観客も包括している。「私たち」は、常に何かが見えていないという意識に苛まれる。「見る」の複数性を知った「私たち」が「見る」映画はすべて、「不可視の映画」である。今、観客である「私たち」の目の前に迫るものは、見えるものをすべて見る不可能性から、見えないものを見る不可能性へとシフトしたのだ。見えないものを見ようとすること。それが、限界までピンと張られた弦のような緊張感を孕みながら、不可能が可能になる奇跡を待ち続けるというかつて以上に険しくも豊かな荒唐無稽の戯れであることは、ここまで読んだ私たちにとっては言うまでもない。

文字数:7400

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