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水が笑う、ラジオのように ー蓮沼執太についてー

1.

蓮沼執太は、わからない。

音楽に限った話ではないが、継続的に作品を世に送り出す作家は大きく二つに分類できる。統合的な作家と増殖的な作家に。前者は作品ごとに様式を変容させながら、自らの作家性を常に更新し続ける作家をさす。端的に、前作と違うものを作り続けると言ってもいい。異質なスタイルを一つの作家性にまとめてあげていく意味で、彼らは統合的である。フォーク→グラム→ファンク→エレクトロニクスetcと作風を変遷させる中でアイデンティティを確立していったデヴィッド・ボウイが代表例だろう。後者は常にひとつのスタイルを保って作家性を固定させるが、作品が同じようなものだからこそ比較した時に顕然する差異を魅力とする。一つの様式から差異化された作品を生みつづけていく増殖的な作家と呼ぶことができる。例としては、40年近くギターリフを基調とするハードロックというスタイルを崩さずにライヴ活動を継続し、新作を作り続けるAC/DCのようなバンドが挙げられる。

もちろん、単純に全てを二分できると言っているわけではない。作家の内在性によるものではなく、外部環境によって変化をもとめられる、あるいは変化を制限されることも大いにあり得る。バンドメンバーの脱退によって作風が変化したり、セールスの停滞を理由に新しい作風を外部から強要されたり、逆に本人が異質なことを試したくても作家のイメージを守るために周囲からストップがかかることもあるだろう。だが、内在的には、作家はどちらかの方向性を必ず有しており、本人の性質は簡単に変化するものではない。

蓮沼執太を「わからない」と書いたのは、この二分法に当てはめるのが極めて困難な作家だからだ。蓮沼の作家活動は強く統合的であると同時に強く増殖的なのである。

 

2.

蓮沼が音楽的に幅広いボキャブラリーを有しているのは間違いない。自然に在る音や偶発性を重視するジョン・ケージ的な音の脱構築的捉え方、和音やリズム、言葉などの構成から楽曲を組み立てる古典的なポップスの発想、音ひとつひとつの響きに耳を研ぎ澄ますことで演奏や作曲の在り方を更新せんとする音響やポストロックの手法。そうした音楽に対する異なる思想が蓮沼の作品のなかで共存しており、作品ごとに異なるアプローチが試みられることによってそれぞれに別の顔が見えてくる。セカンドアルバム『Hooray』(2007年)は電子音一音ごとの響きが聴き手の感覚を刺激する、オウテカやアルヴァ・ノトといったアーティストを想起させるようなエレクトロニカだったが、既存曲のライヴ音源を編集したアルバム『Wannapunch!』(2010年)は、トータス、ペレ、ゴーストアンドウオッカなどの90年代以降に現われたアメリカのインストロックバンドを思わせる、編集の妙と生演奏のダイナミズムの融合を強調したアルバムだった。かと思えば、ソロ名義の最新作『メロディーズ』(2016年)は全曲蓮沼のボーカル入りの紛うことなきポップスであり、かつては左右にパンを強く振っていた音響オリエンテッドな音配置も、古典的なポップスの音に合わせて中心寄りに変化している(パンを振るとは、ステレオの左右どちらかに音を寄せていく作業を指しており、スピーカーの右側からしか聞こえないギターの音があれば、それは右側にパンを振っていることになる)。このアルバムからは欧米や日本のポップミュージシャン、キャロル・キングやジャクソン5、矢野顕子や細野晴臣が作り上げてきたポップスの黄金律がそこかしこから聞こえてくる。このように、蓮沼の作品はそれぞれ異なるスタイルを基に作られており、連想される固有名詞のジャンルは作品ごとに驚くほどかけ離れている。蓮沼の作品遍歴を確かめていけば、そこには明らかに異質なものの合成によってアーティスト像が造られていく統合性が伺える。

蓮沼の活動の在り方からも統合性は見て取れる。蓮沼は以前から多くのミュージシャンと共演・共作を行っている。タブラ奏者のU-zhaanとは共同名義のアルバム『2 Tone』を今年発表し、蓮沼執太フィル『時が奏でる』にはラッパーの環ROYや歌手の木下美沙都、サックス奏者・文筆家の大谷能生などが参加し、その他にも高野寛、砂原良徳、Phew、イルリメ、灰野敬二、勝井佑二、坂本美雨などと共演している。今挙げたミュージシャン達はポップス、ヒップホップ、テクノ、ジャズ、ノイズと、活躍するジャンルは多岐にわたり、それぞれが顔を合わせることは滅多にないような面々である。また、音楽家以外にも映画監督の瀬田なつき、劇団の快々、漫画家の西島大介、文学者の柴田元幸と多方面のアーティストとコラボレートしている。これだけ多種多様な作家達と共演・共作しているということは、それぞれの作家にそれぞれのスタイルで反応できるということであり、異なるものを一つの社会的人格にまとめている蓮沼の統合性の表れである。今挙げたミュージシャンやアーティストたちはほとんどが蓮沼より年上だが、そうした先輩に当たる存在達と渡り合えるあたりに、社会的人間としての成熟を見て取ることもできるだろう。作品における大幅な変化も、流行を追いかけていったり、行き当たりばったりに加えていくというよりも、周囲に流されない自律した自我に基づく地に足のついた印象を与えるものだ。

3.

ところが、同時に蓮沼の作品には一つのスタイルを繰り返しているような増殖性も感じられる。『メロディーズ』の冒頭曲「アコースティクス」は、J-Waveで月〜木曜の日中に放送されていたプログラム「Acoustic County」のテーマ曲が元々のモチーフとなっている。10年を超える蓮沼のキャリアではじめて全曲がポップス仕様となった本作の冒頭を飾る曲がラジオ番組のためのテーマを基にしているのは象徴的だ。インタビューによれば、蓮沼はこのアルバムは「ラジオでかけてもらえるような大衆的な作品」を目指していた(http://r-p-m.jp/interview/hasunumashuta_melodies)。ラジオは車の運転や仕事など、何か別のことをしながら聞くのに適したメディア装置だ。ここでいわれる「大衆的」という形容詞は集中して聴かなくてもかまわない、聞き流してもいいという含意も込められている。こうした態度はブライアン・イーノが記した”As ignorable as it is interesting.”(興味深いが無視できる)という言葉を思わせる意味でアンビエント的であり、その点においては彼の音楽の本質はフィールドレコーディングされた自然音に電子音やピアノ、アコースティックギターの響きが重ねながら、日常に馴染むような「家具の音楽」としてのアンビエント性を追求したファーストアルバム『Shuta Hasunuma』の頃から変わっていない。蓮沼の音楽は日常から離れた世界を描くのでもなく、感情の大きなうねりを表現するのでもなく、常に日常と共にある環境的な「家具」であり続けている。

増殖性については、『メロディーズ』に収録されている4つの曲「起点」「ハミング」「テレポート」「TIME」に基調音(ルート音)違いで同じコード進行が使用されていることからも見て取れる。ルート音をⅠと表記した時にⅣ→Ⅴ→Ⅲ→Ⅵと進むのがそのコード進行だが(ルートがドの場合はファ→ソ→ミ→ラ)、「ハミング」以外の3曲はこの進行がほぼ1曲を通して反復している。にも関わらず、全ての曲は一聴した限り、似た曲だと感じるものは少ないだろう。共通のコードから別の曲を生み出すというのは、増殖的な在り方の一種である。

そしてなにより、同名曲の別ヴァージョンが非常に多いことが蓮沼の増殖性を表している。「Earphone & Headphone In My Head」と「Discover Tokyo」は4枚のアルバムに別ヴァージョンで収録されているし、他にも12曲の楽曲が複数のアルバムに収録されている。さらに、タイトルは異なるが同じメロディが使われているものもいくつか存在している。たとえば『メロディーズ』は全曲が新曲なのだが、「ハミング」のメロディーは『Shuta Hasunuma』に収録されていた「Ikumono」のギターのフレーズをほぼそのまま拝借している。

 

4.

また、蓮沼は子供用の楽器で作られた音楽、トイポップも好んでおり、自らも子供用の琴楽器やトイピアノを音源に使用しているが、彼の音楽にはある種の「子供性」が常に宿っている。それは彼の楽曲構造に顕れる。4枚目のアルバム『Pop Ooga』の最後に収録されている「Barr Barr」は、ルート音C#に対してF#→C→B→G#→G→D#→D→C#と和音が進む、おそらく蓮沼の曲の中で最も不協和感が強いコード進行を採用しているが、1:54あたりから入ってくるボーカルメロディはC#、D#、F、G#、A#の五音のみで構成されている。この五音は日本の童謡やスコットランド民謡で多く使われるヨナ抜き音階、「お正月」「うみ」「蛍の光」などの楽曲で用いられている音階であり、複雑な音階に対応できない子供が歌うのに適したものだ。蓮沼の曲では、和音がダイアトニック環境(ドレミファソラシの7音で構成された環境)から外れたとしても、メインとなる楽器のメロディは環境内のシンプルな音階で作られている。

 

加えて、蓮沼はコード進行の飛躍を好まない。一度から四度のコード、つまりルート音がCの時にC(ド)に対してF(ファ)に飛ぶコード進行はブルース、ロックンロールの基本的なコード進行であり、ポップス、ジャズなどにおいてもあまた使用されるものだが、蓮沼の曲で使われているのは「Green Repair」「Sunny Day In Saginomiya」の2曲のみである。代わりに、ⅠからⅣへ飛ばずに、Ⅰ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅳと順々に上昇していく進行を持つ曲は「アコースティクス」「Wannapunch!」「Discover Tokyo」「YY」の4曲を数え、Ⅱ→Ⅲ→Ⅳ、Ⅲ→Ⅳ→Ⅴ、Ⅳ→Ⅴ→Ⅵとルート音以外から上昇するものを加えれば「クリーム貝塚」「ニュー」「Soul Osci」など10曲に及び、Ⅳ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰのように順々に下降していくコード進行まで含めるとさらに数が増えていく。この傾向を最近のヒット曲と比較してみると、オンエア回数やCD売り上げなどを換算して決める「J-Wave Tokyo 100」の2016年度の年間チャートベスト10(→https://www.j-wave.co.jp/original/tokiohot100/chart_2016/main.htm)の楽曲内にはⅠ→Ⅳというコード進行を含む曲がラッドウィンプス「前々前世」、ブルーノ・マーズ「24k Magic」など4曲に及ぶのに比べ、Ⅰ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅳ、あるいはⅡ→Ⅲ→Ⅳ、Ⅲ→Ⅳ→Ⅴ、Ⅳ→Ⅴ→Ⅵというコード進行を持つ曲が一つもない。また、過去に目を向けてみれば、たとえば蓮沼の「ストローク」という楽曲の女性コーラスのノリやメロディは、アメリカのロック歌手ルー・リードによる1972年のヒット曲「ワイルドサイドを歩け」のコーラスを想起させるものがあるが、後者がⅠ→Ⅳの進行の循環で構成されているのに対し、前者はⅠ→Ⅱの反復が楽曲の基調を成している。このように比較していくと、世界的に流通しているポップスの作曲家に比べて、蓮沼が飛躍せずに順々に上昇・下降していくコード進行を好む作家であることがわかる。この飛躍のなさ、音階を階段状に一段一段上り下りする

和音選びも、ジャンプができない、一歩一歩確かめるようにすすむ幼児のよちよち歩きを思わせるものがある。

 

音数が多いのも蓮沼の作品の特徴である。音数というのは使用されている楽器の数、あるいはPC上の打ち込みであれば別トラックで区別されるような異なる音質の音数のことを指す。大人数が演奏者として参加している『時が奏でる』は当然のことながら、それ以前のソロ作品でも複数の鍵盤楽器、複数のギター、様々な電子音や自然音が一曲の中に重ねられている。環境音楽、アンビエントミュージックとして考えれば音数の多さは、ブライアン・イーノをはじめ、エイフェックス・ツインやオヴァルといった代表的なアンビエント作家が音数の少ないミニマムな方向性を持つのと対照的だ。加えて、蓮沼が重ねる音はプロフェッショナルなテクニックで演奏されたものというより、子供が演奏したような素朴な響きをもつ。音数の多さと素朴な演奏という二つの特徴はパスカル・コムラードなどのトイポップの作品にも共通するものである。

 

以上のように蓮沼の音楽を繙いていくと、それは常にトイポップ的なアンビエントミュージック、子供の感性で作られた家具の音楽であり、スタイルの変化はそのヴァリエーション、一つにリミックスに過ぎないとも言えてしまうのだ。

 

5.

では、成熟を思わせる統合性と、子供的な増殖性という矛盾した要素を、どのように考えればいいのだろうか。

ここで、一つの物質的なイメージを提示したい。水だ。

 

ワタリウム美術館の地下スペース「オン・サンデーズ」で11月26日まで開かれている磯村暖の個展『Good Neighbors』は水による壁の越境をテーマにしたものだ。そこではアメリカ、フランス、タイなど全世界各地の作家とのコラボレートによる箱形の作品が6つ並んでおり、その箱をつなぐホースから水が作品内に流れている。磯村のステートメントと作品を合わせてみれば、世界の分断を迫る「壁」の存在が顕在化する現在において、文化が異なる他者とつながる、他者と「善き隣人」になるためのツールとして水がイメージされていることがわかる。

言うまでもなく、水は透明な流動体である。常に流れつづけ、色や味を持たない。故に、色や味を持つ物体に、強くはないが確かな影響を与えうるものだ。色や味を個のアイデンティティとアナロジックに捉えれば、色や味のなさが、無味の透明性が蓮沼執太のとらえどころのない在り方と結びつく。透明だからこそ、彼の音楽はエレクトロニカにもポップスにもなる。ジャズプレイヤーともノイズミュージシャンともラッパーとも共同作業が出来る。そして同時に流動体だ。固体化せずに次の場所へと淀みなく移動する。動き続けることによって、壁を越えて、あらゆる存在の媒介となることができる。だが、水は常に水のままだ。透明な流動体のままだ。蓮沼の音楽の本質は変わらない。それは環境的な、アンビエントな存在である。そして、環境の中でも、水としての役割を担う。飛躍はせずに流れつづける。水であることは、変わり続けることであり変わらないことである。成熟であり、子供である。彼はその透明な流動体としての在り方を保ったまま、今日も次の場所へと流れるだろう。壁を越えて。

 

結論。蓮沼執太は水である。

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