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「無名の実存」に流れる「不眠の時間」

「無名の実存」に流れる「不眠の時間」 ~チェルフィッチュ『現在地』の時間論~

1.裸の時間

2012年4月に初演されたチェルフィッチュ『現在地』は、東日本大震災と原子力発電所事故以後の日本人の不安と混乱を露骨に寓話化している。ひとつの村に、「噂」が広がる。村と世界の滅亡に関する話だ。「噂」を信じるか信じないか、村を出るか出ないかで意見は分かれ、人々は分断されていく。演者たちは全員女性であり、みなが語尾に「わ」をつけて話す様はどこか不自然で、感情の起伏を感じさせない。チェルフェッチュの音楽を多く担当するバンド、サンガツによる静寂からわずかに漏れ出すようなギターの響きの中で、時間は冷たく、じわりじわりと這って進む。どんな悲劇が起きても、どんな惨劇が生まれても、静かに、淡々としか語られない。「噂」の真偽もわからない。二人の演者から真逆の結末が語られた後で、物語は終わりを迎える。

ひとまず『現在地』のあらすじがこのように語れるとして、問題にしたいのは、その這って進むような時間の在り方だ。それはチェルフィッチュを率いる岡田利規が時間に対して敏感であるからだけでなく、時間の知覚の問題系が今に生きる我々の生と密接に連繋しているからだ。

 

2012年8月に記録された、『演劇最強論』収録の徳永京子と藤原ちからによるインタビューで、岡田利規は後塵の演劇人へ自らが与えた影響について、「時間感覚については、僕のやってることはむしろ否定されてる気がします」と答えている。

 

ーー岡田さんのおっしゃる時間の感覚というのは?

 

僕が思ってる時間って、ふたつある。ひとつは時計で測れる時間。この時からこの時まで何秒でしたっていう。それとは別に裸の時間っていうのがあるんですよ。秒数ではなくで体験としての時間。でそれは、退屈というのとニアイコールなんですよね。退屈っていうのは、時間を直に体験してるということ。だからそれって、ものすごく気持ちいいことなのかもしれない。苦痛が快感かもしれない。子供にとってビールって苦いだけで何が美味しいか分かんないけど、やがてそれが美味しいとわかってくる、みたいなのと似たことだと、僕は思うんですけどね。違うのかな。(ⅰ)

 

以上の発言から読み取れるように、岡田は自らが作り演出する演劇において時間感覚を重視している。その時間感覚を岡田は「裸の時間」と呼ぶ。では、この「裸の時間」とはどういったものか?

2.不眠の時間

「裸の時間」が「直に体験する」時間だとして、私たちが日常においてその感覚を体験できる機会としてまず挙げられるのは、「不眠」の時間だ。夜の闇のなかで、意識を眠りの中に溶かそうとしても、眠りは訪れない。眠りを呼び込むためには、目を閉じてひたすらにじっと待つことしか出来ない。だが、いくら待てども眠りはやってこない。無為の中に放り出された不眠の人によって、裸の時間が感覚される。気を散らす対象のない、終わりの見えない、ひたすらに引き延ばされたただの「時間」である。

 

「不眠」について考察した思想家に、エマニュエル・レヴィナスがいる。彼の『実存から実存者へ』には、「不眠」と名付けられた章がある。

 

あたりいちめんに広がる避けようのない無名の実存のざわめきは、引き裂こうにも引き裂けない。そのことはとりわけ、眠りが私たちの求めをかすめて逃げ去るそんな時に明らかになる。もはや夜通し見張るべきものなどないときに、目醒めている理由など何もないのに夜通し眠らずにいる。すると、現前という裸の事実が圧迫する。ひとには存在の義務がある、存在する義務があるのだと。ひとはあらゆる対象やあらゆる内容から離脱してはいるが、それでも現前がある。無の背後に浮かび上がるこの現前は、一個の存在でもなければ空を切る意識の作用のなせるものでもなく、事物や意識をともどもに抱擁する〈ある〉という普遍の事実なのだ。(ⅱ)

 

三角カッコで閉じられる〈ある〉とは、フランス語原文で〈il y a〉、英語の「there is~」に相当する「~がある」を意味する非人称表現だ。この非人称の〈ある〉はレヴィナスにおいて、存在が主体性を持たないままそこに現前する様を表現している。〈ある〉には不眠の経験と共に、第二次世界大戦におけるレヴィナス自身の捕虜収容所体験と彼の同胞と家族を襲ったアウシュヴィッツの大量虐殺が重なる。戦後間もなくの1947年に世に出た『実存から実存者へ』の中で、レヴィナスは収容所体験に見た人間存在の「裸の事実」を記した。名前と主体性を奪われ、自力で生きる力を損なわれた人間は、「私」という一人称で記せるような自我の意識を保てず、世界との境界線を失い、非人称の〈ある〉としか銘記しようのない場所に身を置くことになる。それは、全ての事物の境界が融け込む完全な暗闇の中で、主体的に何をすることできず、ただ受動的にそこに〈ある〉ことしかできない、「不眠」の体験と重ねられる。「裸の時間」は、主体性を奪われた「無名の実存」だけに訪れる、苛烈を極めた時の流れなのである。

 

3,裸の=不眠の時間

ここでレヴィナスが言う「裸の事実」としての「不眠」は、明らかに岡田の「裸の時間」という表現を想起させる。

『現在地』には、主体性を持たない、そこに〈ある〉だけの「無名の実存」が現前している。舞台上にいる七人の女優たちは上演時間中常にステージにいて、自分が登場しないシーンにおいても舞台に置かれた椅子に座り、他の演者が演じている様子を眺めている。椅子に座り続ける登場人物たちは、眠りを奪われ寝ずの番を続ける不眠症者と重なる。レヴィナスは「注意はまなざしを方向づける自我の自由を前提としているが、私たちの眼を閉じさせない不眠の警戒には主体がない」(ⅲ)と言う。眠りを奪われた登場人物たちは、目的も方向付けもないまま、「目を閉じさせない不眠の警戒」として劇を眺め続ける。

加えて、語尾の「わ」の効果がある。彼女達は同じ話し方で、しかも日常私たちが使用している言葉と比べれば明らかにおかしな話し方で、会話を交わす。平田オリザが理論・実践両面において確立し、岡田を含む多くの作家が拡張していった現代口語演劇のリアリティが、『現在地』においては明らかに放棄されている。いや、役者の内面を演技から切り離している、会話における冗長性が意識されているという点で、現代口語演劇の理論を踏襲してはいる。にも関わらず、日常性の再現とは異相の言葉の在り方がそこに見出されている。それは、役者の内面だけでなく、役者が演じる「キャラクター」の内面も剥奪する、無個性の存在感を舞台に現前させる在り方だ。役者には名前も役名も与えられているにも関わらず、社会的覆いを剥がされた「無名の実存」としてそこに〈ある〉。「不眠の警戒」と「語尾の共有」を強制され、一つ一つの個体は「個」としての境界線を失っていくのだ。

静かであったり、時間の流れが遅く感じられる劇は、今までにも存在した。太田省吾演出の『水の駅』(初演1981年)はセリフのない「沈黙劇」として知られているが、壊れた蛇口から流れる水を幾人かの演者が飲む様をゆっくりと見せていくこの劇に、『現在地』と近い時間感覚を覚える者もいるかもしれない。だが、『水の駅』の演者は水を飲んだ後には舞台から次々と去っていくし、彼らの水を飲もうとする行為、あるいは傘を広げたり服を脱いだり連れの女の頬を叩いたりする動きには主体性と意図が感じられる。舞台から去ることのない『現在地』の演者達の動きは非常に小さく、体を上下に揺らしたり、首を下げて地面を見ていたりと、意味を持たないささいな行動を繰り返す。体を動かしているというより体が動いているといってしかるべきだ。そうした動きによって、「裸の=不眠の時間」は生成される。受動性しか持たない『現在地』の苛烈さは、漂う沈黙だけに由来するものではないのだ。

4.劇中劇

「不眠」のテーマは、『現在地』において発せられる言葉の中にも現われている。『現在地』の中で行われる劇中劇の冒頭シーンだ。

 

タエコ まだ起きてたのね。寝たんだと思ってたわ。

シノブ 眠れなかったの。眠れない状態でずっと横になってるのって、知らなかったけど、信じられないくらい苦痛だったから、切り上げてきたわ。眠れなくなる人がいるのは知ってたけど、そんな人のこと全然分からないって思ってたわ。まさか自分がこうなるなんてね。

間。

シノブ おねえちゃんも眠れなかったの?

タエコ 眠れるはずないわ。時々あくびが出るだけだわ。(ⅳ)

 

劇中劇では登場人物中の二人(チエ、サナ)が姉妹を演じるのだが、その舞台は「日本」という「少しずつ荒れ果てて、最後には内戦が起こってなくなったも同然になってしまった」国の「内戦が始まって間もない頃」の話だ。日本を出たいという思いを隠さない姉タエコと、日本を離れるのは今この場所で大変な目に遭っている人たちのことを考えない身勝手な行為だと非難するシノブとの会話で成り立っている。

ここでの「不眠」は「日本の内戦」と関連づけられている。悲惨で禍々しい世界がいつ訪れてもおかしくないという不安、あるいはもうその世界はすでに実現しかけているかもしれないという不安は、現在の日本の状況と地続きだ。地面から、そして海岸から日常を崩壊させる地震が今後も必ず繰り返し起こること。にもかかわらず、不安定な土地の上に原子力発電所がいくつも建っていること。福島原発事故による大規模な放射性物質の拡散が、いつ我々の生命を蝕むかわからないこと。そうした不安自体が「戦争」と大量死を生み出していくかもしれないこと。無限拡大を続ける不安が安眠を妨げる。私たちは不眠に耐えていくしかない(タエコとシノブという名には「耐え忍ぶ」という意が読み取れるだろう)。逃れるためにはこの場所を捨てなければいけないが、それは苦しむ人々を見捨てることと同義だ。「不眠」は、この場所に生きる者の生存条件となる。だが、果たして新たな場所に向かうことが、本当に「不眠」から逃れることにつながるのだろうか。

5.生の条件

劇中劇は『現在地』という劇に対して非常に複雑な関係を有している。この劇中劇は「おとぎ話のように話す」ものと告げられるが、そもそも『現在地』が今ここにある「日本」の寓話、おとぎ話であるように語られている。『現在地』の「村」が「日本」にとっての寓話であるのに対して、劇中劇では「日本」が「村」にとっての寓話になっており、逆転が生じているのだ。それだけではない。タエコは「村」へ行ってゼロから新しい生活を始める計画があると言うが、『現在地』の舞台は「村」と呼ばれている。劇中劇が『現在地』の過去にあたる話であり、同時に『現在地』が上演されている今の日本の未来にあたる可能性が匂わされている。

上演されている現在の日本、劇中劇、『現在地』という三つの時点すべてで、「この場所を離れるか留まるか」という問いが繰り返されている。逃げたはずなのに、滅びの不安が消えてはいないのだ。どんなに逃げても、「不眠」から逃れられない。劇中劇は、それを観ている演者の一人が「みんな神妙な顔して見てるけど、今起きていることから目を逸らすために便利だからそうしているだけなら、意味がないし、狂ってるわ」(ⅴ)と立ち上がって退席することで一時中断される。この言葉は二重の寓話化のために観客である我々にも突き刺さってくる。震災以降の世界を直接的・間接的に描いた作品は『現在地』を含めいくつもあるが、私たちは実際に起きていることから目を逸らすために観ているのではないか?この問いは当然作家自身にも跳ね返る。一体何故、『現在地』は、そしては演劇は上演されなければならないのか?

今まで行ってきた考察は、すべてこの問いに答えるためのものだ。『現在地』は起きていることから眼を逸らすためのものではない。だが、現実から眼を背けるなと人を強制するものでもない。「現実」と呼ばれるものの覆いを外して、我々の生に課された根本条件、「信じられないくらい苦痛」な「不眠の時間」を現前させること。その条件を明らかにするためには、具象的に語られる物語と具体的に現れる身体が同時に提示される演劇という芸術形式が必要だったのだ。

震災から6年が経過し、私たちはあらゆることを忘却しただろうし、これからもっと忘れていくだろう。ひとときでも眠りを回復するには、押し寄せる不安を忘れていかざるを得ないのかもしれない。しかし、課された条件は何一つ変わってはいないだろう。確かな足場を持てないということだけが、唯一の確かなことだ。今でも、「無名の実存」が蠢めき、「裸の=不眠の時間」の流れるこの場所こそが、「私たち」という主体を失った存在の『現在地』である。

 

(ⅰ)徳永京子、藤原ちから『演劇最強論』飛鳥新社、2013

(ⅱ)レヴィナス、エマニュエル『実存から実存者へ』西谷修訳、筑摩書房、2005

(ⅲ)注2

(ⅳ)岡田利規『現在地』河出書房新社、2014

(ⅴ)注4

 

 

(補論)「不眠」の「幽霊」? ~チェルフィッチュ、幽霊不要説~

 

ここまでが『現在地』論だが、今回は岡田氏に直接拙稿をお読みいただけるまたとない機会である。その後のチェルフィッチュ作品に対して私が持っている違和感について、補論として触れさせていただきたい。

 

1.その後の幽霊と時間の旅

『現在地』の後にも、岡田利規とチェルフィッチュは精力的に新しい作品を発表している。中でも『地面と床』(2013年)と現在のところの最新作『部屋に流れる時間の旅』(2017年)は、テーマや作風において『現在地』と多くの共通点を持つ、一つなぎの作品群である。セリフが少なく、発話の抑揚が抑えられていること。今いる場所を離れるべきか留まるべきかという対立が主題であること。そして、3.11が出発点となっていること。ただ一つ、『現在地』とは異なるポイントがある。幽霊だ。

『地面と床』と『部屋に流れる時間の旅』には、幽霊と明示される演者が現われる。インタビューなどでも度々言及しているように岡田は能の影響を受け、幽霊を舞台に登場させることに興味を移していった。

 

幽霊は人類の偉大な発明品だ。私たち人間は自らの想像力を、幽霊というコンセプトに基づいて用いることによって、現在のこの時間を構成する要素の中に〈過去〉が必ず含まれている、という事実を感覚のレベルで確かめることができる。過去をこのような生々しい仕方で形象化できるというのはとても便利なことだ。もし幽霊が存在しないとすれば、それは現在というこの時制の中に過去など織り込まれていないということを意味する。そしてそんなことはないのであるから、つまり幽霊は存在する。こんなにもシンプルな手続きで、現在の中に織り込まれている過去、という概念を実体化させられるのはなんとすばらしいことだろう。(ⅰ)

 

過去を現在の中に織り込むために、幽霊は存在する。岡田が幽霊を登場させることで成そうとしていることは、劇における時間の複層化だ。『地面と床』ではまだシンプルな「過去」と「現在」の混在に留まっていたが、『部屋に流れる時間の旅』はその題名通り、複雑な時間旅行へ観客を誘うものになっている。

2012年、男の部屋へと訪れる女。彼女の口から、その後に二人が恋人になっていくことが語られており、ここで2012年と言う「現在」とその後の「未来」が重ねられる。もう一人の登場人物、男の妻の幽霊は東日本大震災が起きた4日後に持病の発作で亡くなった。幽霊は震災後に広がった、これから世界は良くなるかもしれないというポジティブな感情の記憶を、男に語り続ける。ここで「過去」が重ねられると同時に、幽霊の希望の声が男を過去へ留めるための呪縛となっていることが明示され、「行くべきか、留まるべきか」という主題が現われる。「現在」を起点に、男が「未来」と「過去」に引き裂かれている。舞台には回転する石が置かれているが、同じ場所で廻り続けるその姿は、逡巡する男の戯画のようだ。

「現在」「未来」「過去」という3つの時間に加えて、上演される「今、この時」も当然重ねられる。さらに、この劇の「過去」にあたる震災から4日後までは、3月11日からの5日目までのことであり、つまりこれは2011年の「三月の5日間」を指している。もちろんチェルフィッチュの代表作のタイトルである。2003年の『三月の5日間』と2011年の「三月の5日間」はイラク戦争と東日本大震災という悲惨な出来事の渦中で、若い男女がポジティブな感情を見出すという点において共通の構造を持っており、対応関係は明らかである。つまり、劇中の時間が多重化しているだけでなく、上演されているこの瞬間の時間と『三月の5日間』に流れる時間(この作品自体非常に複雑な時間構造を持っている)も織り込まれており、その複層的な時間の中を彷徨う体験こそが『部屋に流れる時間の旅』と名付けられている。

2.「幽霊」はもうそこにいた

幽霊に話を戻そう。幽霊が「行くべきか、留まるべきか」の主題と多重化された時間を呼び起こす装置であるのは今確認した通りだ。ところが、この幽霊の登場で失われたものがある。それが『現在地』に現前した「無名の実存」の「不眠の時間」である。演者達から固有性と主体性を奪い、そこに〈ある〉だけの徹底的に受動的な存在として舞台に立たせることで、『現在地』は「不眠の時間」を立ち上がらせることに成功していた。ところが、幽霊と生者を同時に劇に登場させると、主客の対応関係が生じ、そこに主体性が現われてしまう。「現在」と「過去」という対立が、「不眠の時間」の苛烈さを脱臼させてしまうのだ。

幽霊が過去を現在の中に織り込むためだと岡田は語るが、『現在地』では、劇中劇の構造によって、幽霊を登場させることなく現在と過去を重ね合っていたのではなかったか。行くべき場所を持たず、どこへ逃げても「不眠」という条件から逃れられない、ただ見続けることしか許されない、絶対的な受動の存在として〈ある〉『現在地』の演者達は、名指されることなくともすでに「幽霊」だったのではないか。私は先程、『現在地』と『地面と床』『部屋に流れる時間の旅』二作を分かつ差異は幽霊の存在だと述べたが、実際には『地面と床』を待たずとも、「幽霊」は舞台に現われていたのである。

『部屋に流れる時間の旅』に関しても、複層的な時間構造を担保しているのは幽霊だけではない。むしろ『三月の5日間』との対応関係によって、過去→現在→未来という時間軸から独立して流れる時間を混入させたことが、複層性を生んだ起因である。幽霊の明示は、時間の複層化の必要条件ではない。

もちろん、作家の在り方が変容していくのは基本的に否定されるべきではないし、明確に名指された幽霊が「行くべきか、留まるべきか」という問いをより切実に響かせるのに一役買っているのも諾える。しかし、『現在地』が宿した「不眠の時間」は岡田が示した私たちの生の条件であり、簡単に捨て去って構わないものではない。であるとすれば、岡田利規とチェルフィッチュが次に成すべき表現は、「不眠の時間」と「幽霊」を両立させたものではないだろうか。私はこのような問いを、岡田氏に投げかけたいと思う。

 

(ⅰ)岡田利規「幽霊の生は大事な問題だ」https://chelfitsch20th.net/articles/206/

文字数:7909

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