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人間=機械時代の身体

しかしながら魂のすべての能力はかくのごとく脳の組織そのものならびに体全体に依拠しており、否あきらかにこの組織そのものに他ならない以上、これはまことに経験を積んだ機械と言うべきである!けだし人間だけが人道を分け与えられていたとしても、そのために機械でなくなると言えるだろうか?

ド・ラ・メリメ『人間機械論』

 

1.

モータースポーツが危険と隣り合わせなのは周知の事実だが、その中でも最高峰と呼ばれるF1(フォーミュラー・ワン)においては、1950年のグランプリ制度導入から1994年のアイルトン・セナの事故死に至るまで37人のドライバーがレース中の事故が原因で死亡している。燃え盛る車体の中から抜け出せなくなった1973年のロジャー・ウィリアムソン、マーシャルの若者の体を真っ二つに引き裂きながら自らも頭部に消化器をぶつけ即死した1977年のトム・ブライス。1970年のヨッヘン・リントは死亡した後にチャンピオンとなった。かつてのF1の歴史は、残酷な死の祭典の様相を呈している。しかし、セナの死以後のドライバーの事故死は2014年のジュール・ビアンキの一例のみ。ビアンキがレースから9ヶ月後の死であったことを考えれば、事故直後のドライバーの死は一度もないことになる。1年ごとにおよそ1人のペースで死者が出ていたのに比べれば、ここ20年で1人の死者という数字がどれだけ少ないものか理解できる。この驚異的な減少は、ドライバーの頭部を守るためのサイドプロテクターのマシン設置の義務化や、ピットレーンにおけるスピード制限、サーキットのコース幅の拡張など、様々な安全対策が採られたことに多くを負っていることは間違いない。しかし、モータースポーツはより速く走ることが常に求められている。安全性と速度という矛盾した要素を両方追い続けている以上、危険がなくなることはない[ⅰ]。外的要因の改良だけでは、死亡事故はなくならない。故に、ここで内的要因、つまりドライバー自身の肉体の進化も考慮されるべきだ。

 

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写真の人物は2005年、2006年のF1年間チャンピオンであり、未だ現役で最前線のレーサーとして活躍しているフェルナンド・アロンソである。写真でも確認できる通り、彼の身体のなによりの特徴は首の太さだ。首周りの長さは45cmといわれ、男性平均を10cm上回っている[ⅱ]。F1という競技は首に対して、強烈な負担のかかるものだ。平均速度200km/hのレースにおいてコーナーを曲がる際には、遠心力によって首にかかる力が5Gにのぼることもある。ドライバーは「(自分の頭+ヘルメットの重さ)×5」という荷重を、首で支えなければならない。頭部の重さは体重の8~10%、ヘルメットはおよそ1.5kgのものを使用しているから、少なく見積もっても30kg以上の力が首にかかることになる。首以外にも心臓や腕に強い負担がかかっており、ドライバーは当然トレーニングを重ねてレースに臨む。だが、実践に勝るトレーニングはない。マシンとの共同作業の中で、彼らは機械のように強靭な身体を生成していく。F1の歴史は、身体の耐性強化の歴史でもあり、死亡事故の極端な減少は、ドライバーの身体が機械に合わせて進化しつつあることの証左であるとも言える。

 

2.

以上の観点から、ひとつの仮説に行き当たる。人間の身体は、機械の能力向上に合わせて、機械と競うようにアップデートするのではないだろうか。人間は互いに競い合う生き物であり、競争心があらゆる技術を発達させたことは疑いを容れないだろう。こうした競争心ゆえの進化は人間対人間だけでなく、人間対機械の場合にも言えることではないか。その証左として挙げられるのが、21世紀のポピュラー音楽におけるドラマーの活躍である。

 

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マーク・ジュリアナというドラマーがいる。1980年北米生まれ、ジャズ・ドラマーとして名を馳せながらデヴィッド・ボウイの遺作にも参加するなど、多方面での活躍を見せている彼のドラミングの特徴はリズムに対する正確無比な感覚にある。ジュリアナはサステイン(持続音)やリヴァーヴ(残響音)を極力排したドライなサウンドセッティングの上で、打点の律動的正確さを強調するどころか、まるでサンプリングしたかのようにほぼ同じ音像のキック、スネア、ハイハットを鳴らすことが出来る。ジャズは即興や演者同士のコミュニケーションから生まれる人間的な音楽だと考えられてきたが、ジュリアナは機械的に正確な演奏を売りにジャズの世界で評価を受けてきた。彼のようなドラマーが誕生した背景には1980年代以降の音楽界の機械化がある。1981年に電子楽器同士を接合するための世界共通企画MIDI(Musical Instruments Digital Interface)が誕生し、同時期にリズムマシン、シンセサイザー、サンプラーなどの機器が安価で入手できるようになり、リズム音の電子化、いわゆる「打ち込み」が一般化した。PC上で音楽製作のできるソフト、DAW(Digital Audio Station)が登場して以降その傾向はさらにすすみ、テクノ、ヒップホップ、エレクトロニカなどの生ドラムを必要としない音楽ジャンルが勃興し、その傾向はポピュラーミュージック全般に及ぶ。当然そうした音楽ではドラマーが不要となるし、ドラマーを必要とする音楽では機械化の反動として人間臭い、エラーやノイズも含んだ「生な」音像が求められることになるだろう。[ⅲ]ドラム不在の音楽か、人間臭いドラミングか。そうした二極化の間を抜け出るかのように存在感を示し始めたのが機械を模倣するドラマーである。ヒップホップのビートを人力で再現するクエストラブやクリス・デイブ、機械的正確さとロックバンドのダイナミズムを両立させるジョン・ステニアー(バトルス)やブライアン・デヴェンドーフ(ザ・ナショナル)など、電子楽器により作られたリズムを人力化するドラマーが21世紀を境に数多く現われた。マーク・ジュリアナはそうした傾向の最右翼的な存在だといっていい。この傾向が生じる一番の理由は、リズムマシンの発明によって人類ははじめて「完全に正確なリズム」を聴いたということだろう。機械の進化により正確なリズムが誕生し、競争するようにドラマーはリズムの精度を高めていった。音楽のリズム要素においては、機械は明らかに人間を進化させる触媒として機能したのだ。

 

3.

もう一つ、機械と人間が競い合う例をあげよう。ロボット工学者石黒浩と劇作家・演出家平田オリザは2007年よりロボット・アンドロイド演劇を進めてきた。ロボットによって人を感心させるのではなく感動させることが第一の目的であったが、ロボットの動きに「心」を感じたという観客がとても多く、目的はすぐに達成されたと平田は語っている[ⅳ]。そもそも、平田の演出は俳優の発話・動作に対してコンマ数秒のタイミング、数センチ単位の動きの指示を与えるもので、ロボット・アンドロイドのプログラミングを調整する作業に酷似していた。人の心を動かすのに俳優の感情は必要なく、感動は動作や発話そのものに宿るという唯物論的とも言っていい平田の発想が直接反映された演出方法であるが、逆に言えば平田によってプログラミングされた動きを繰り返し正確にアウトプットできる俳優の身体は極めて機械的に変容していることになる。

 

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平田が率いる青年団出身の演出家の作品には、身体の機械性自体を劇的に強調する演劇が多く見られる。多田淳之介率いる東京デスロックの『再生』は、集団自殺のために集まったらしい7人の男女が、クスリを呑んでから約30分間J−POPに合わせて超ハイテンションに踊りつづけるものだが、全員が倒れた後に、冒頭にも流れた「リンダリンダ」が再び鳴り出し、立ち上がった俳優達は先程と同じようにダンスをはじめる。この舞台は、まったく同じ、運動量の以上に多い演技を三度繰り返す構成なのだ。アドリブやその場のノリでおこなっていると思われるような動きも、3度観れば綿密に訓練された演技であることに気付く。すべての俳優が機械的に身体を行使していることを露わに示す上演だ。

上演中、一定のテンポで鳴らされるビートの上でセリフが発せられるのが、2010年の岸田戯曲賞を受賞した柴幸男率いるままごと『わが星』である。最初から最後まで、口ロロの「AM00:00:00」という曲を基にしたリズムトラックが鳴らされ、セリフはリズムに完璧に乗る形でラップのように続いていく。一度でも誰かがタイミングを逃せば全てが崩れる緊張感の上で、演者は機械的な正確さで演技を乗りこなす。

こうした機械的身体の行使は東京デスロックやままごとだけでなく、地点やマームとジプシーといった人気劇団にも見られる特徴であり、その演出家は皆青年団に所属していたか大学で平田の授業を受けていた人物である。ロボット・アンドロイド演劇とそれに先んじる平田オリザの演出方法は、身体を機械的な正確さへ向かわせるベクトルを与えている。

 

4.

本稿では、機械と営みを共にする中で人間が機械の能力に追いつくように身体を発達させる例を大きく分けて三つ列挙したが、人間と明確に区別された純然たる機械と言っていいモーターカーやリズムマシンに比べ、ロボット・アンドロイドは人間に似せられて作られているという点に大きな相違がある。人間が機械に近づいていくだけでなく、機械が人間に近づいているという双方向からの近接がここに見られる。ロボットおよびアンドロイドの技術は現在進行形で発達を続けており、プロライセンス級のロボットドライバーや超絶技巧のアンドロイドドラマーが誕生する日も遠くないだろう。

双方向から近づいているとなると、そのうち人間と機械は同じものになるのではないかという可能性も頭に浮かぶ。当然、多くの反論が考えられる。人間と違って機械には心がないという反論に関しては、ロボット・アンドロイド演劇が「心」と人間が呼ぶものの不確かさを炙り出している以上、ロボットであろうと人間であろうと「心」が曖昧であることに変わりはないと答えよう。また、人間が機械へと近づこうとするプロセスこそが大事であり、そのプロセスは不完全な人間故に成り立つものではないか、つまり人間が努力・成長する存在であることが機械とは決定的に異なる点であり、マーク・ジュリアナのドラムや東京デスロックの演劇はそこに込められた努力故に感動するのではないかと考える向きもいるかもしれない。だが、高度な自動生成プログラムを有するアンドロイドが、自らにあらかじめ設定された限界を超える目標に向かって動いたとするならば、それは人間の努力・成長と何か違いがあるだろうか?彼らの動きに感動しないと言えるだろうか?むしろ人間こそが、発達した自動生成プログラムを持つ機械なのではないだろうか。18世紀初頭のフランスを生きた医師ラ・メトリはデカルトの心身二元論を否定し、心も体の一機能にであり、人間は精密な機械に過ぎないと断言し、宗教界に激しい憎悪を巻き起こした。21世紀初頭の今、ラ・メトリの言葉は、機械と人間の近接を通じて、よりアクチュアルな意味を持ち始めている。

2017年の時点では、とはいえ機械と人間の差は未だ歴然としている。たとえば、機械は生殖システムを有していない。だが、未来において機械が性的能力を獲得しないとは誰も言い切れない。[ⅴ]もしくは、機械が機械を創造することができたとしたら、それは生殖と同じ機能を持っているともいえるし、あるいは人間が機械を模倣して、母体に負担のかかるヒトの生殖システムを変容させるかもしれない。機械自らの力によって新たな機械が生まれる頃には、機械と人間との差は、限りなく狭まっているだろう。機械的身体と人間的機械が同時に現われた21世紀初頭は、人間=機械時代の黎明期にあたるのではないだろうか。

 

 

[ⅰ]モータースポーツの死亡事故の動画を見ていると、ジョルジュ・バタイユの言う「供犠」という言葉に思い当たる。動物や人間の死を捧げることで神との連続性を作り出す儀式を表した言葉であり、死亡事故には聖性に通じるような供犠の様相が浮かぶ。バタイユはエロティシズム分析から人間の生の根源を禁忌と侵犯の終わりなき相剋に見たが、安全性と死との関係性は、禁忌と侵犯そのものである。故に、安全性の確保も死への誘惑も、共に終わりがない。モータースポーツにおける死の危険性は、人間そのものに内在すると考えることもできる。

 

[ⅱ]【マクラーレン・ホンダ】さらに太くなったアロンソの首 新F1への対応準備は万全 (http://www.topnews.jp/2017/02/09/news/f1/152805.html)

 

[ⅲ]例えば、90年代に注目を浴びた「ローファイ」と呼ばれるジャンルのバンド達は、あえて音質の悪い録音やミスをそのまま音源に残すことによって、「生な」サウンドを目指していたと考えられる。

 

[ⅳ] ロボットの演技で人は泣く!工学者×演劇家のタッグが生んだ「アンドロイド演劇」とは(http://logmi.jp/34537)

 

[ⅴ]留意したいのは生殖とエロティシズムは異なるということだ。機械が機械を生産するようになることと、そこに機械自身がエロティシズムを感じることの間には大きな隔たりが在る。ここでも、死と性行為を「不連続な存在が連続性を得るもの」としてその同質性を指摘するバタイユのエロティシズムに関する議論は示唆に富む。機械と死とエロティシズムの関係性は非常に興味深いテーマではあるが、本稿の主題とは沿わないため、考察は別の機会に譲りたい。

 

※ホームページアクセスは全て2017年10月23日(月)現在

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