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きゃんと、すたんどみー、なう。

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、この国がどこでどうやって誕生しただとか、どんなみっともない時代を送っただとか、どうやったら外国からの影響を抜け出せるだとか、その手のゴーマニズム宣言的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。そんなこと話したところであくびが出るばっかりだし、それにだいたい僕は自分がこの国の人間だって実感がどうしても持てないんだ。まるで僕が白人で、本当は英語で話しているのに、勝手に翻訳されているような感じだってこと。だから、僕にも勝手なことを話す権利があると思う。と言ったって僕としちゃ何も、頭からそっくり自伝を話して聞かせようとか、そんなつもりはないんだ。今から君に話そうとしているのはただ、僕が生きてきた間に起こったいくつかのとんでもないドタバタについてだよ。この国と関係ある話かどうかだって?そんなのは話してみないと僕にもわからないよ。でも、ひょっとしたら、君には関係あるかもね。

1.

少し前のことから話を始めよう。昔、The Libertines(リバティーンズ)っていうロンドン出身のバンドがいてさ、君も名前くらいなら聞いたことがあるかもしれない。くだらない雑誌にも載ったりしたからね。こいつら自身もくだらないバンドなんだよ。演奏もロクにできやしないくせに「僕たちはアルカディアを目指すアルビオン号なんだ」とか恥ずかしいことを平気で口にするんだから。ドラッグ漬けでツアー中にはファンの私物を盗むし、メンバーが喧嘩した後、仲直りの印にバンド名のタトゥーを入れたのにまた喧嘩して、あっけなく解散しちゃうし。ほんと、そういうのって参っちゃうよね。曲だって大したことないのに自分たちでは世界一の名曲を書いているつもりになってるんだからさ、どうしようもないインチキ野郎どもだよ。でも、日本人はやつらが足の長いイギリス人ってだけでカッコいいって思っちゃうんだよね。日本人のそういうところってすごく神経に障るんだな。

 

それでも、二つくらいはいい曲もあったと思うな。「Can’t Stand Me Now」って曲は覚えているよ。たしか2004年くらいのことかな?このバンドにはカール・バラーとピート・ドハーティっていう二人のシンガーがいてさ、どっちも鼻持ちならないナルシストなんだけど、とにかく声が似ているんだよね。どっちがどっちの声か、聞いててわからないんだ。「Can’t Stand Me Now」では二人がお互いへの愛憎入り交じる想いを交互に歌うんだけど(ちょっとキモチ悪いよね)、まるで自問自答しているみたいなんだよね。「お前が俺たちの希望を台無しにしたんだ」「ちがう、お前がおれを黙らせて、クスリのせいだとおれを責めたんだ」「お前はおれに我慢できない」「いや、お前こそおれに我慢できない」って具合にね。なんだか分裂症のひとりごとみたいなんだ。不思議なのは、二人ともてんでバラバラに適当にギターを弾いている感じなのに、聴いてみると「これしかない」って組み合わせなんだな。歌っていることにはすごく憎しみがこめられているのに、曲は四つくらいの単純なコードで出来たかわいいやつで、そういうとこも分裂症っぽくて、なんだか嫌いになれなかったな。

実を言えばさ、イギリスのロック自体が分裂症なんだよね。アメリカで生まれたロックンロールが時代遅れになった後でビートルズが出てきてさ、その結果アメリカだけじゃなく世界のあちらこちらでロックバンドが生まれて。この国も例に漏れずって感じでさ。だけどね、もともとアメリカはイギリスの植民地なんだよ。つまりさ、イギリスはアメリカの父親なんだけど、イギリスのロックはアメリカの息子なんだな。「父」と「子」で引き裂かれてるんだよね。

2.

なんでこんな話をしたかというとね、『きゃんと、すたんどみー、なう。』っていう、さっき話した曲そのままのタイトルの劇をこの前、春風舎って劇場で観たからなんだ。話の中にリバティーンズのことは一切でてこない。でもね、一つのものが二つに引き裂かれている感じはとても似ていると思ったな。すごくおおまかに言うと、知的障害者がいる家族の話なんだ。正直な話さ、僕は知的障害の人が好きなんだよね。時々さ、彼らと一緒にクリスマスカードを作るような時間が世界で一番幸せな時間じゃないかって思うんだよ。その他のことは全部くだらないやって。

そんな僕からしたら、この劇を観るのはとてもつらかったな。両親を失った三人の姉妹が主役でね、一番上の姉が知的障害なんだ。普通の姉妹とは逆で、妹たちが姉の面倒を見なきゃいけない。「姉」と「妹」の関係がねじれてるんだよな。妹たちは姉の世話に疲れきっているんだけど、姉を見捨てることもできない。ジレンマだよね。劇中では次女が結婚するからって引っ越し作業をしているんだけど、途中で家族のあらゆる問題が連鎖的に発覚して、舞台が緊張感でいっぱいになる。次女が怒りでコップを投げつける。気まずい沈黙が流れるんだけど、引っ越し業者の綿引というひ弱そうな男が自らの体験を突然告白するんだ。3.11に端を発する、かなり痛ましい話なんだけどさ、その時に長女の恋人だっていう同じ施設の男の子(といっても見た目からして30歳くらいなんだろうな)、正志くんが話を無視して声を上げるんだよね。たしか「驚きの白さです!」だったか、洗剤のCMを真似るような言葉だった。そこで、二つのバラバラの声が重なった時にね、僕は何故か『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』という台湾映画のラストシーンを思い出したんだ。ある事件のせいで引っ越しを余儀なくされた家族が洗濯物を畳んでいるときに、ラジオから大学受験の合格者の名前を順々に公表していくアナウンスの声が流れるシーン。絶望的な引っ越しの風景と合格の希望を伝えるラジオの声が激しくバラバラで印象に残ったんだけど、同じような感覚が、『きゃんと、すだんどみー、なう。』の二つの声の中にもあったんだよね。その直後には居間を照らしていたライトが突然壊れて、明滅を繰り返した後で光が途絶えるんだ。これには僕もびっくりしたな。『牯嶺街少年殺人事件』では、光の明滅が何度も何度も繰り返し現れるんだから。光が消えるってことは希望が潰えるってことだよね、きっと。メタファー、っていえばいいのかな?

3.

『牯嶺街少年殺人事件』は監督のエドワード・ヤンの少年時代に実際に起きた殺人事件を基にしてるらしくてさ、中国本土から国民党と共に台湾にやってきた「外省人」って言われる人々の話なんだよね。60年代初頭の話でさ、当時の台湾はかつての日本の占領の影、中国本土との緊張関係、冷戦構造と反共産主義への暴力なんかが蠢いていて、混乱で煮詰まっていた時代だったってことが映画を観ているとよくわかるんだ。出口のない苦しみってやつがひしひしと伝わってきてね。フィクションだけど、その時代のドキュメンタリーでもあるって感じなんだ。当時の少年達はエルヴィスや西部劇、バスケットボールに熱中していて、文化がアメリカの影響下にあったことも見えてくる。まぁ日本と一緒だよね。

『きゃんと、すたんどみー、なう。』もフィクションであると同時に今の時代のドキュメントって感じがしたな。障害者の人が殺された事件(ニュースで知った時は10トントラックに飛び込みたいほどショックだったよ)だったり、震災のあらゆる問題を解決しないまま先に進んでいる世界の様相だったりが反映されててさ。解決の見えない問題をずっと抱えたまま生きる重苦しさがとことん描かれるんだ。そういうところも『牯嶺街~』を思い出させたのかも知れないな。

アメリカの影響で言ったら、劇の中で印象に残ったエピソードがあってね。長女と正志君が結婚するって言い出してさ、当然妹たちは猛反発するんだけど、お金はどうするのって聞かれた時に正志君は土地の権利書を差し出すんだ。これがなんと、月の土地の証明書なんだな。アメリカ人が踏みしめた土地をアメリカ人が権利を買って、その権利を楽しいおもちゃのように3,000円くらいで売ってるんだけど、二人はそのおもちゃに本気でしがみついてるんだから参っちゃうよね。アメリカのおもちゃを本気で受け止める日本人の姿を、日本人が演じるなんてさ。そもそも『きゃんと、すたんどみー、なう。』ってタイトルが英語をひらがなで表してものなんだから、アイロニーは推して知るべしってところだよ。

タイトルについて僕はもう少し考えてみたんだ。『牯嶺街~』の主人公は自分よりひどい境遇の女の子を好きになってさ、「僕が君を照らしてみせる」だとかかっこつけて言うんだけど、結果的には自分の未来も彼女の未来もダメにしちゃうんだな。誰かを救うことで自己愛を満たそうとする最低の奴のことをメサイア・コンプレックスって言うらしいんだけどさ、『きゃんと、すたんどみー、なう。』にもこういう男が登場するんだよね。大越という次女の夫で、一見飄々とした優男でさ、彼は生物学者で、巨大化させたアメーバを飼っている変人なんだ。僕も変わってるってたまに言われるけど、こいつほどではないよな、正直な話。彼の目下の問題は、大学の生徒との間でセクハラ騒ぎになり、大学をクビになったこと。勿論妻との間には強い軋轢が生じている。大越は精神の不安定な危うい生徒を助けようとして、それがセクハラ騒ぎにつながったらしんだ。実際にセクハラだったかどうかは明らかにされないんだけど、こいつは自らのコンプレックスで窮地に追い込まれながら、今までの行動を変えることができないんだ。引っ越しに関しても、おれがなんとかするといいながら、碌な準備もできていない。奥さんとの結婚にも、障害者の姉を持つことのしんどさを救おうとする気持ちが関係していて、結果的に二人はギリギリの状態に置かれている。まるで崖から落ちそうな子供たちをつかまえようとして、全てつかまえ損ねるような情けない男なんだ。こいつのヒロイックな欲望は全てをダメにしていくんだ。それでも自分と生きなきゃいけない。欲望のせいで何度も過ちを繰り返す。つらい、さみしい。「きゃんと、すたんどみー、なう。」というのは「自分が自分に耐えられない」ということなんだな。だからさ、君を救おうとか、君を解放しようなんて奴がいたらさ、絶対に信じちゃいけないよ。そいつらは君を救うことで自分を救いたいだけ。大越も『牯嶺街~』の少年もリバティーンズの二人も、自分自身に耐えられないだけなんだから。

 

4.

リバティーンズに関して、もう一つ思い出すことがあってさ。Andymori(アンディモリ)っていう日本のバンドなんだけど、こいつらはとにかくリバティーンズが大好きで、まぁ例のごとく西洋人がバンドやってるだけでカッコいいと思っちゃう、典型的な鼻につく日本人だよ。憧れてるからさ、曲が本家とすごく似ているんだ。ギターやドラムの音がガチャガチャ騒がしかったりとか、マイナーコードになるはずの三度や六度のコードが時々メジャーに変わったりだとか、曲のつなぎでギターのフレットを一つずつズラすフレーズを多用したりとか、細かいことを言い出したらキリがないんだけどね。アンディモリもさ、演奏はヘタクソだし、ボーカルの小山田宗平は脱法ハーブ吸って大暴れしたり、川に飛び込んで重傷を負ったりとトラブルおこしていて、そんなところまで似なくていいのにってところもリバティーンズと似ててさ、でも肝心の言葉が日本語だから全然キマってなくてダサくてね、なんだか可哀想な気持ちになるよ。やりきれないのはさ、彼ら自身が日本人であることのダサさを自覚してることなんだよね。なにせ最初のアルバムの中に「僕が白人だったら」っていう曲が入ってるくらいなんだから。長い足と白い肌でかっこよく踊るあいつらみたいになりたい。でも、自分が足の短いモンゴロイドであることは絶対に変えられない。家族に知的障害者がいることは絶対に変えられないのと同じようにね。みんな生まれながらの境遇を受け止めきれないんだな。

同じアルバムに「モンゴロイド・ブルース」って曲もあってさ、歌が始まる前に小山田の早口の語りが入るんだけど、「おんなじ顔した味方と敵」が「また純血混血と潰しあう」ってことを言ってるんだよね。それから、語りが急に途切れてさ、ドラムが4カウントに合わせて「名・誉・白・人」と怠そうに言い放つんだ。歌の中で「アンチドリアン」「アンチシャイニーズ」という韓国人・中国人をもじったフレーズが出てくるところからもわかるけど、この曲は白人に憧れているのに、おんなじような顔をしたモンゴロイド同士が憎しみあっている様を滑稽に描いているんだな。『牯嶺街~』もエルヴィスに憧れてる台湾人の少年同士が争う話だったね。そして、同時にこの曲は人が人を差別する人種主義そのものを皮肉ってもいる。「人間として劣っているから障害者を殺す」って発想も、ある種の人種主義だよね。そういう理屈で人を殺せるって思ってるやつが僕は一番ムカつくんだけどさ。

逆にね、白人の視点に立った曲も存在してさ、むしろそれがアルバムの最初に置かれてるんだよね。こんな風にはじまるんだ。

 

憧れのインディアは遠かったけれど

カータースタイルフラットピッキングとケララ産できめて

午前五時までならStep by step歌ってあげるよ

そしてぼくの部屋においでよ

 

どうやら「カータースタイルフラットピッキング」ってのはカントリーの伝統的なギター奏法のことで、「ケララ」とはマリファナの産地で知られるインドの地名らしいんだ。「憧れのインディア」はコロンブスがインドを目指して船をすすめた結果アメリカ大陸に到達した、そしてコロンブスが死ぬまでその地をインドだと思っていたという話を思い出させるよね。僕は歴史の授業は味気なくて嫌いだったけど、こういう勘違いは好きなんだな。この後にも「歌ってあげるよWe Are The World」「有色人種にはマシンガンを」なんて歌詞が出てくるから、この曲が「アメリカ」という国家を歌ってることがわかるんだ。なんといっても、曲名が全て大文字で書かれた「FOLLOW ME」だからね、含意は明らかだよね。それを「FOLLOW」する日本人が歌ってるんだから皮肉だよな。

 

5.

だけどね、アンディモリの連中はさ、国同士の事柄ばかりを歌ってるんじゃないんだ。日常の風景についても歌ってて、それがナショナリズムとか社会の話とかと自然につながっているんだよね。「FOLLOW ME」で言ったら「そしてぼくの部屋においでよ」って言葉がそっと含まれているところだよ。僕が最初のアルバム『Andymori』で一番いいと思うのは「ハッピーエンド」って曲なんだ。例のごとく、ギターやドラムはガチャガチャしてるけどテンポはあまり早くなくて、メロディーも馬鹿らしいほどのんきでさ。この曲には国とかのややこしい話はでてこない。歌われてるのはの毎日のどうしようもなさなんだ。そんなの歌にされなくたって十分知っているよ、って気持ちもわかるけどさ、君も一度だけでも聞いてみるといいよ。この歌ははじまりはこんな具合。

 

僕らのこの日々をだれかに 分かってもらおうなんて思わないけど

ほんとうににまっすぐに歩くなら あのカーブでみんなともはなればなれ

 

理解しあうなんてとっくに諦めているし、仲の良かった友達ともどこかで離れていく。どうしようもないことが多すぎるんだよね。クソみたいな連中はいつでもたくさんいるのに。八方塞がりから抜け出せないとき、実際問題どうすればいいんだろう。小山田宗平はコーラスパートでこんな風に、声を上擦らせながら歌うんだよね。

 

それでハッピーエンドなんだ ハッピーエンドなのさ

どうせどこにもいけないのなら ずっとここにいてもいいんだよ

 

いや、ほんとさ、こんな皮肉な言い方ってあるのかな。だってさ、いいかい、「ずっとここにいてもいんだよ」って言葉をそのまま受け止めれば、それは「無理しなくても大丈夫」って感じで人を許す言葉だよね。だけどさ、本当はものすごく人を馬鹿にしたような、軽蔑しきった言葉なのかもしれない。「お前などどこにもいけやしない」って感じでさ。僕もこういう皮肉はよく言っちゃうし、それで喧嘩になったりはしょっちゅうだけどさ、とにかく、この言葉が侮蔑からくる言葉なのかそれとも慈悲からくる言葉なのか、いくら考えてもわからないんだよね。曲調はのんきなのに、小山田の声には切迫感がつまっているから、やっぱり引き裂かれてる感じでさ。この答えのなさが、ナショナリズムとか差別とかの問題に対する答えのなさと重なるから、こいつらの音楽を聴いてるとたまらない気持ちになるんだろうな。そして、答えがないっていうのは『きゃんと、すたんどみー、なう。』の障害者家族の日々とか、3.11のトラウマとか、人も自分も救えないこととか、劇で表現されていたすべてのさみしさにも言えることなんだな。もちろん『牯嶺街~』の出口のなさも同様。小山田宗平はそうした終わりも答えもないさみしさに対して、「ハッピーエンドなんだ」と断言するんだよね。

7.

それにしてもさ、日本人はどうして日本の政治とか文化とかを語ろうとするといつも同じことばかり繰り返し語るんだろう。僕だって一応日本の文化についての本をいくつか読んだんだよ。だけど、みんな同じような話だから、うんざりしちゃったんだよね。開国によって日本という国家は精神分裂症になったとか、第二次大戦で分裂を回復しようとして軍国主義に走ったとか、戦争に負けてそれまで信じていたものを否定する以外に生き延びるみちがなかったせいで「ねじれ」が生じたとか、ねじれているために抜け出せない円環に閉じ込められているとかそういう話が、どの本にも書かれてるんだよ。それを精神分析とか、文学とか、美術とかの言葉に置き換えてるだけだよね。 繰り返すなとは言わないけどさ、そう何度もくどくど言われると僕だってさすがに嫌になるよ。君もそうだろ?

ただ、繰り返しになるのもわかるんだ。みんな、言われたところですぐ忘れてしまうから、思い出すためにまた言わないといけないんだ。だからさ、結果同じような正論ばかりが残るんだよね、まったく。でも、そうやって反論できないような正しい言葉で触れられそうになるとさ、僕は怖くなって逃げ出しちゃうんだよ。

まぁ僕だって人のことはいえなくてさ、今までも分裂と反復について話してことは自分でもわかってるんだ。『きゃんと、すたんどみー、なう。』の、知的障害の姉を養う日々の繰り返しに疲れきった妹たちはさ、姉に困らせられているときは側にいてあげなきゃと思い、姉に急に抱きつかれて「ありがとう」と優しい言葉をかけられるときになって、姉を土に還そうと決意する。感情と行為が分裂しているんだな。

小山田壮平は「宇宙の果てはこの目の前に」って曲でこう歌ってる。

 

宇宙の果てはこの目の前に

君ひとりさえぼくはわからない

時間の果ては一寸先に

君ひとりさえ僕は守れない

「君」ってのは近しい他人、愛する誰かのことを指しているように思うかもしれない。でも、そのすぐあとで「鏡の前で立ち止まるとき 「君は誰だ?」と問いかけてみる」と歌ってて、「君」が自身の鏡像であることが明らかになる。宇宙の果てが目の前に見えたとしても、自分自身のことすら僕にはわからない。そして、同じコード進行がひたすら続くこの曲の中で同じ言葉を幾度も繰り返す。反復と分裂は、ここでもワンセットなんだよね。この曲の入ったアルバムを出した直後にアンディモリは解散して、小山田宗平は河原にダイブして重傷を負うことになる。

今まで話した作品に出てくる人たちはさ、みんな自分が二つに引き裂かれてて、どんなに考えても自分が誰かわからないんだよな。だからさ、「自分のことがわからない」ってことを繰り返し伝える以外に、自分を表現する方法がないんだよね。それでさ、彼らの「わからなさ」はこの国の「わからなさ」なんだ。日本で生まれ育った誰もが、自分のことをわかっていないんだ。『きゃんと、すたんどみー、なう。』という舞台とアンディモリの音楽はそのことを僕らに教えてくれる。しかも彼らはさ、双子みたいに似た声の二人が作った、リバティーンズっていうちっぽけバンドから分裂して生まれた双子なんだ。分裂症のイギリスのロックから生まれた、日本人の双子なんだよ。

そろそろ話も終わりにしなくちゃね。ここまで聞いててわかったと思うんだけど、僕は日本の文化がどうだとかさ、文化論が可能かなんてさ、ほんとどうでもいんだ。だって日本の文化とか言い出すのはいつだって、自分自身がわからないことに耐えられない連中なんだから。けどね、あえて何か君に言えっていうんだったらさ、僕はこう繰り返すしかないんだよね。どうせどこにも、行けないのなら、ずっとここにいてもいいんだよ。

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