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言葉が、人を殺すとき

1.

言葉は、人を生かす。

アリストテレス以降の西洋哲学において、動物と人間を距つものは「言葉を話すこと」、そして「自分が死すべき存在だと意識していること」だった。イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは言語活動と死の関係について考察した著作『言葉と死』の中で、動物の声から人間の言葉が生まれた経緯について思考しながらこのように述べる。

 

動物は死に直面すると声を持ち、魂を声となって発散する。そして、こうすることによって、自らを表出しそれを死んだものとして保存する。動物の声は死の声にほかならないのである

 

死に際に声を発することによって、動物は死を記憶として保存する。動物の声(母音)を、舌やくちびるで(子音として)分節することで成り立つ人間の言葉が意味を持つのは、動物の死の記憶を含み持っているからだ。言葉とは、死に行くものの声を保存することに他ならない。声を保存する術を得た人間は情報や知恵を蓄積して、生存能力を高めていった。声を残す手段として、物語や書物は編み出された。言葉によって、人は生き延びる力を得たのだ。

 

2.

言葉が、人を殺す。

伊藤計劃が2007年に発表した『虐殺器官」は、戦争・テロが激化した結果、徹底的な個人情報管理社会が実現した世界を舞台に、米軍の特殊暗殺部隊に所属するクラヴィス・シェパード大尉の一人称で語られるSF長編小説である。クラヴィスは世界各地で起きる虐殺の場に常に現れるアメリカ人ジョン・ポールを追跡するなかで、ジョン・ポールが「虐殺を引き起こすための文法」を用いて紛争を起こさせたことを知るに至る。言葉が人を殺すことが、本作のメインテーマだ。

徹底的な管理社会が成熟を許さないが許さないが故に、クラヴィスは精神的に幼い人物として設定されている。暗殺を生業にする割には感情的に行動しすぎるし、「ぼくはいつもことばに敏感に反応しすぎる」などと自らの言葉に酔っているようなナルシシズムも時折顔を見せる。更にはあろうことか、ジョン・ポール追跡のために接触したジョンの元・愛人のルツィアに恋心を抱いてしまう。初対面の相手に対して「その顔にふたたび微笑みが戻ったので、ぼくはどういうわけかほっとした。疑われなかっただろうかと心配していたからではなく、ルツィアが眉をひそめたりするのを見たくなかったからだ。笑っているときに美しい女性だった」などという考えを言葉にしているのを目の当たりにして、気持ち悪いと思うのは筆者だけではないだろう。小説後半のミッションではチームの目的そっちのけで「ぼくはルツィアにもう一度逢いたい」などとのたまう始末の悪さだ。

クラヴィスは、交通事故にあった母親の治療中止に同意したことによって、自分が母を殺したのではないかと罪悪感を抱く。クラヴィスはルツィアに、母の代わりに自らを裁いて欲しいと望むが、本来関係ないはずの女性に対して代理母を安易に見出してしまう精神も実に幼稚だ。

敵であるジョン・ポールはクラヴィスの鏡像のような存在だ。彼は愛人ルツィアとベッドをともにしているちょうどその時に、爆撃で妻子を失った。そのことで抱いた罪悪感がやがて歪んだ愛国心へと変異し、アメリカ以外の地域に虐殺を引き起して危険因子を滅ぼすことで、アメリカを守ろうと決意する。ジョンは個人的な記憶としての死を贖うがために、際限のない死を生み出すことになる。その論理はあまりに身勝手で、クラヴィスの精神と同様に幼い。

こうした幼さの生み出す結果がエピローグで明らかになる。今まで小説上で語られてきた言葉は、クラヴィスがジョン・ポールから受け継いだ「虐殺の文法」を用いてメディアや法廷で語っていた物語の原稿だった。クラヴィスは代理母として恋い焦がれたルツィアが味方であるはずの同じ部隊の友人に殺されたことで、アメリカを滅ぼしてその他の世界を救うことを選択する。物語が語られた結果、アメリカ全体が虐殺の大混乱に陥った様子が描かれて小説は終わる。

 

3.

言葉は、人を生かすためのものだった。しかし、『虐殺器官』においては、クラヴィス・シェパードは自らを罪を裁いてくれるはずの母と代理母(ルツィア)を失った代償として、膨大な人間を言葉によって殺していく。

では伊藤は「虐殺の文法」を具体的に、どのように表現しているだろうか。

まず、前述した通り、一人称の主体クラヴィスが未成熟で感情的な存在として語られている。加えて、会話や状況設定にリアリティが乏しい。たとえば、暗殺部隊のチームがミッションの最中に地獄の存在についての宗教的議論をはじめる場面がある。その中で敬虔なキリスト教徒である若者アレックスがクラヴィス達に向かって「地獄はここにあります。頭の中、脳みその中に」と自分の頭を指して語ったりする。暗殺を実行する前にそのようなくさいセリフを口にする戦闘員が一体何処にいるだろうか。また、クラヴィスがルツィアに母親を「殺した」ことの罪悪感を告白する場面では、その話を聞いたルツィアはゲーム理論や遺伝子の知識などを持ち出しながら自由意志と良心の関係について語り、クラヴィスが罪悪感を抱く必要がないことをひたすら論理的に説明する。男女の会話において論理的な説明は野暮の極みだが、そんな理屈を語るルツィアを見て「ものすごく救われたという思い」にとらわれる。論理で救われるような罪悪感なら、どうしてトラウマとしていつまでも引きずっているのか。クラヴィスの語りには感情や会話のリアリティがひたすらに欠けているのである。

だが、その代わりに、徹底的にリアルに描かれているものがある。人間の死体だ。冒頭、クラヴィスが見る悪夢の中に以下のような記述がある

 

村の広場には穴が掘られていて、多くの人々が皮膚をぶすぶすと燻らせて煙を放ちながら、折りかさなって倒れている。肉の焼ける臭いと、髪の毛の焦げる臭い。中途半端に焼けた筋肉が収縮して、みながお腹の赤ちゃんのようにうずくまっている。筋肉の収縮に負けた骨が折れたりして、あきらかに関節ではない場所で曲がっている四肢も見られ、それら収縮し、曲がった腕や脚がたがいに絡みあって、蜘蛛の巣のようになっていた。

 

夢の中で見た情景にも関わらず、死体の様子が執拗に詳細に描写されている。もちろん現実に見たものとして語られる死体の描写にも同様の傾向が見られる。

 

ぼくは焼け焦げた死体を見たことがある。こんがり焼けて、皮がぱりぱりになったチキンのようだった。焼けると筋肉が収縮して、それに負けた骨が折れたりしているのを見ると、人間というのがどこまでも物理的な存在で、つまりは素材にすぎないのだということがわかる。死体はとことんモノでしかない。

 

処刑のあと、石灰をかぶせられて白くなった村人たちの骸が、一列に並んでいる様子。その石灰は小麦粉のようで、まるでパン粉をつける前のフライドチキンを連想してしまう

 

伊藤はクラヴィスに死体を物質的なものとして、即物的に語らせている。この異物感のある死体描写のリアリティと、感情や会話のリアリティのなさとの落差が、クラヴィスが語る「虐殺の言語」の特徴である。

また、死体の描写に「蜘蛛の巣」「チキン」など、虫や動物を表す言葉が頻繁に使われていることにも注目したい。動物の死から言葉が生まれたというアガンベンの論とは裏腹に、言葉が人間の死を動物へと変えていく。「虐殺の言葉」は、言葉の誕生の物語を逆向きに進むのだ。

 

今、インターネットとSNSが普及した時代において、対話することの困難さが明らかになっている。Twitterをのぞけば、異なる意見の持ち主たちが自らの正当性を主張し続けており、お互いの言葉には耳を傾けない状況が毎日どこかで発生している。明確な共通認識を持たないもの同士がいがみあい、局地的な衝突がいくつも生まれる。そこに対話はなく、分断と慰めが陰湿にからみあう。言葉は意思疎通の道具として機能せず、悪意や憎悪といった感情を吐き出すためのツールに成り下がっている。まるで言葉が人間の知性を離れて、動物の鳴き声へと退化しているかのようだ。「虐殺の言葉」は、そのような言葉の状況に対応しているが故に、アクチュアルな問題として我々の前に顔を現す。

言葉の悲惨な状況を前にして、もはや言葉はコミュニケーションのツールとして信を置かれてない。事実、Twitter以降普及したSNSでは言葉ではなく画像イメージがコミュニケーションの道具として重宝している。LINEではスタンプで人と人が意思疎通を行い、インスタグラムはそもそも撮影した写真をそれぞれが披露しあうことがコンセプトのSNSだ。言葉を介さないコミュニケーションは、すでに始まっている。

 

伊藤はエッセイ「人という物語」において、意識や感情までも含めた人間の体が持つ機能は全て「生存に必要だったから」人類の脳内に「その場しのぎ」で備わったものに過ぎないと述べている。様々に変化する地球の環境に応じて人間の機能するが、環境が変われば不必要な、さらには有害となる機能も出てくる。例えば糖尿病。寒冷期においては、血液中に細胞分の水分に糖が含まれていることは寒さに耐えるための力となる。しかし、それ以外の環境では血管や腎臓をボロボロにする「病気」と認められてしまう。

だとするなら、言葉も人を生かす道具として発生したが、環境が変われば人を殺す道具として用いられると考えることも可能だ。言葉が動物の声に退化していく現状をみれば、人間が言葉を捨てる日もあながち遠くないのかもしれない。

 

4.

ただ、伊藤は言葉の限界を知りつつも、同時に言葉への愛も表明している。

 

先程も挙げた「人という物語」において、伊藤はベンジャミン・リベットの実験というものを紹介している。指を動かそうとするとき、人は「動かそう」と意識してから指が動くと思いがちだが、リベットが反応時間を測定したところ、実は意識が反応するまえに体と脳は反応していた。自由意志によって体を動かしているという認識は、後から脳が編集したもので、実は「自分がそれを行おうとしている」と思わされているという錯覚にすぎない。私たちが感じる「いま、ここ」という「現実」も、すべては脳がつくりだす「フィクション」にすぎないということが、実験により明らかになったのだ。

だとしたら、何故受動的な反応にすぎない意識は人間にとって必要なのだろうか。

伊藤はシンプルに回答する。「それは物語を紡ぐためだ」と。

意識は現実を現実としてそのまま認識することはできない。代わりに、意識は「出来事」を「記憶」という「物語」としてとりまとめることができる。人間は現実を物語として処理する機能を脳から与えられたのだ。人は死ぬが、死は終わりではない。意識が物語を作り上げ、その物語が親から子へ、ある世代から次の世代へと引き継がれ、生き残っていく。そして物語を伝える道具が言葉である。

 

前述した通り、今や言葉は人を生かすものではなく、人を殺すものとしての機能を強めている。その事実を受け止めながら、尚も言葉で物語を紡いでいこうとした小説が『虐殺器官』だった。仮に、動物的な虐殺器官に成り下がった言葉が忌諱され続け、やがて言葉が消えたとしたら、そのとき人はどうなっているだろうか。伊藤が『虐殺器官』の後に発表した実質的な遺作『ハーモニー』では、人が意識を持たない自動機械のような存在になっていく未来が想像されていた。人は物語を失い、意識を捨て去るのだろうか。それとも、言葉とは別の手段で、物語を紡ぎ続けるだろうか。遠い未来のことは知る由もない。すぐに言葉が消え去ることも現実的には考えられないだろう。だが、言葉が今、ある種の臨界点に位置していることは確かだ。

哲学者の國分功一郎は今年刊行した『中動態の世界』で、古代ギリシア語に存在した能動態でも受動態でもない(だがその中間というわけでもない)「中動態」に注目し、言葉の在り方と意志の概念の再定義を図った。小説家の木下古栗はネットに溢れている文章と自らの作品の質を分かつために、余計な語りを一切排除して、登場人物の身体と周辺環境を具体性をもってリアルタイム的に描写することだけを目指すストイックな姿勢を選びとり、今の時代における小説の言葉の在り方と格闘している。言語芸術の優れた担い手は、言葉の扱い方に関して、今とても意識的だ。その言葉達は、伊藤計劃が2010年代に入る直前に、彼が世を去る直前に提示した問題提起の上に成り立っている。『虐殺器官』が示した言葉の危機こそ、2010年代に書かれるべき言葉のスタートラインとなったのだ。

 

 

 

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