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ポスト動物の時代@オフィスマウンテン

[1]「情動」の時代―現実の身体と仮想の身体

ポストモダンの時代に人々は動物化する。そして実際に、この一〇年間のオタクたちは急速に動物化している。その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。
(東浩紀『動物化するポストモダン』,2001,講談社,135p)

オウム真理教のサリン事件が起こり、『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象となり、物語の二次創作が加速していった1995年以後の時代を東浩紀は「動物の時代」と名づけた。動物化を最もよく反映していると言われる「オタク」は、大きな物語という超越的な審級(世界や人生の普遍的な意味)への欲望を減退させ、代わりに最も直接的に没入できる身体感覚に準拠して、萌え要素の登録されたデータベースから「キャラクター」のシミュラークルを二次創作する。しかし、データベースの組み合わせ(解釈)は無限に消費可能であるために、データベースへの欲望は終わることなく喚起され続けていく……。

キャラクターへの動物的な感応とデータベースへの満たされない欲望。ざっくり大雑把に言えば、東浩紀はポストモダンの文化をそうした二重性において捉えた。それは00年代に「ニコニコ動画」が開設されアイマス動画や『らき☆すた』や初音ミクが流行し、同時期にリリースされた新しいSNSであるツイッターがコミュニケーションのインフラとなったことを鑑みるに、かなり正鵠を得ていたと考えられる。

ところで、「動物」的な主体は、データベースを欲望しながらも満たされず、身体的な感応を横滑りしながら連鎖させていく(ツイッターのタイムラインを読み続けてしまうように)。一方でインターネットは時間的・空間的に隔たれた人と人のつながりを強化する。だとすれば、身体的な感応を瞬間的に継起させ続けていく「動物」の主体性は、インターネットの「つながり」において、時空間の制限抜きに「感応的」につながってしまうのではないか。例えば、「つながり」と「感応」の結託は、「つぶやき」のRT―リフレイン―が一切のコミュニケーション抜きに無数の感応をつなげていくさまに反映されている。つまり動物と動物は「身体的感応」のレベルで接続される。では、そのとき、接続された動物が没入する身体感覚の感応は、一体誰の感応だろうか?

動物は身体的な感応に準拠するがゆえにコミュニケーション抜きに接続される。そして、誰の感応かわからなくなった非人称的な感応はそこに没入する人々を触発する「情動」となる。つまり「動物」という比喩のうちには非人称的な「情動」が胚胎している。動物的主体は「見えるもの」=「記号」に没入する主体であるが、あくまでも視覚における距離が担保されている。それがゆえに、動物と動物が接続されデータベースに同一化していく「情動の時代」のリアリティが抜け落ちている。つまり「動物の時代」の想像力は、その徹底において「情動の時代」に移行する。「見る」ではなく「触れる」ことが優位となった接続過剰の時代では「情動化された身体」の感応するリアリティが時代の想像力を規定する。

これが私の仮説である。しかし、その仮説について論じる前にまずは「身体」のリアリティが問題となる場面、つまりは一つの上演体験からはじめていこう。

✳︎

2017年末、横浜の急な坂スタジオで『ワークショップ』と題されたオフィスマウンテンのワークショップ公演を観ることが出来た。講師はオフィスマウンテン主宰であり、劇団「チェルフィッチュ」の俳優として活動してきた山縣太一。フライヤーには「役者が何も無いゼロの状態から作品を立ち上げる」ことを目指した、とある。ただし、「ゼロから立ち上げる」と言われる本作は、リアリティのある演技の習得を目指したものではなかった。言い換えれば、俳優を取り巻く環境によって心理的・社会的・歴史的な主体にリアリティを与えるリアリズムの方法を採用してはいなかった。事情はちょうど反転して、俳優の身体によって環境そのものを作り出すことが目指される。山縣いわく「音や明かりや舞台美術でさえも役者の身体によって立ち上げるのが観たい」。

出演者は18名。「俳優の方はもちろんのことダンサーだったり照明やってたり音楽やってたり台本書いてたり、これから書きたいとかの人も参加オッケーです」という山縣の呼びかけで集まったメンバーである。「舞台芸術」に関わりたいというたったひとつの欲望さえあれば、職業・俳優/ダンサーである必要はない。そうしたフラットな関係性から組織される「ワークショップ」の理念は、全員が作・演出・振付・出演を兼ねるところに実装されている。また、会場は急な坂スタジオ(元結婚式会場を転用したスタジオ)のホールであり、椅子は置かれるが客席と舞台はフラットで明確な境界はなく、照明は地明かりのみで一切の変化なし、舞台美術が建て込まれることもない。日常(客席)と非日常(分梅)の二項対立はそれとなく回避されている。

はじめ、ホールの片隅でストレッチをしていた俳優たちは、一人また一人と自分は何者であり、なぜワークショップに参加したのかという動機を語っていく。と同時に、奇妙な身振りを遂行し始める。大雑把な言葉で言い換えるなら、俳優たちは踊りと語りを別々のレイヤーで同時に遂行する。ウネウネ、あるいはザリザリ、あるいはピクピク、といった擬音でイメージされるような変な動きだ。その身振りは単にダラダラした奇妙な動きに見えるのだが、一人また一人と身振りする俳優が増えていくに従って、微細な身振りの反復から独特のグルーヴが生まれていることに観客は気づくことになる。

日常的な身振り―腕をブラブラさせる、顔をなでる、貧乏ゆすりをする―が、非日常的なグルーヴに変換されていく。例えば、音楽が鳴れば場の空気が一変するように、俳優の微細な身振りの反復と反復から逸脱するズレは身振りを徐々に変化させるとともに、空間の感触をも徐々に変化させる音楽的な―リズミカルな―力を現前させる。それにつられて観劇している観客の身体もついムズムズと動き出してしまいそうになる。そこで身体はまるで楽器だ。一人一人が別のニュアンスを帯びたグルーヴを生み、それがひとつまたひとつと折り重なり、ついには18の身振りが空間を共有しながらも、それぞれがズレをともなう別々のリズムで空間を震わせはじめ、気づけば観客の知覚限界の壁をとうに超えてしまう。「何である」と言いようがない不協和なノイズで満たさた触覚的な場の現前。それは観客の身体に直接的に作用して彼/彼女の身体感覚に変化を及ぼす。

だが、それはテレビに映写されるホワイトノイズのようなものとは違う。ホワイトノイズの騒音は一定の音域で聞き取られる一義的な全体性しか持たないが、この場の騒音は情報過剰の騒音であり、注意すれば個々のノイズに意識を向けることも可能な具体個別化されたノイズの集積だ。そうした18の―あるいは無数の―リズムが観客の身体そのものを騒音化する。つまり、身体の部分部分―肩甲骨や右脇腹や首筋―が別々のダンスを踊ろうとする。山縣太一が言うように、ここで空間はDJのいない―18人の小さなDJ/俳優による―「ダンスフロア」に変貌するのである(『ドッグマン・ノーライフ』インタビューを参照)。

ここまでに出た『ワークショップ』の特徴を整理すると、次のようになる。

  1. フラットで水平的な集団性
  2. 日常(観客席)/非日常(舞台)の二項対立の無化
  3. 微細な身振りの反復(とそのズレ)によるグルーヴの発生
  4. 観客への直接的な身体作用(と騒音の身体化)
  5. ノイズの集積=情報過剰のダンスフロア

最後に、もう一つだけ、そして最も注目すべき特徴を挙げておこう。しかし、この特徴は言葉にすることが難しい。なので、まずは、そのイメージを喚起する詩を引用してみよう。

それは一匹の動物、十万本の手足を持ち胴体は苦痛を叫ぶたくさんの口でできた一匹の動物だった
動物の体の一部は港を別の一部は銀行を目指してのたうちまわっていた
まるで己を引き裂くことを望んでいるかのように
(エドワード・ボンド『戦争戯曲集 三部作』「第二部 缶詰族」,訳 近藤弘幸,2018,あっぷる出版社,p70-71)

イギリスの劇作家エドワード・ボンドが核戦争後の世界を描いた『戦争戯曲集』で、コロスによって語られる「核兵器が落とされたまちの情景」である。ボンドはここで、広島に原爆が落とされたあとのイメージ(写真)を参照したという。川に漂う無数の死体が「十万本の手足を持ち胴体は苦痛を叫ぶたくさんの口でできた一匹の動物」となったというグロテスクなイメージは、しかし『ワークショップ』で顕在化する身体イメージと強く共鳴している。それというのも、俳優たちの身振りのグルーヴが相互に感染していくことで、逆にそのグルーヴのほうが自律し、個々の身体を構成している主体の輪郭を解体し、これと名指すことのできない有象無象の集合体がアウラを帯びて身体化しているように見えてくるからだ。別の言い方をするなら、身体が身振りを生じさせて空間を「ダンスフロア」に変貌させたと思われていたところ、ある域を超えると逆に「ダンスフロア」と同化した「仮想的な身体」が、個々の身振りの方を群生させていくのである。

だが、即座に次の疑問が湧く。それは主観的に現象したイメージであって、誰も二度と確かめることはできない。客観的な事実として測定不能ならばフェイク(ニュース)と言わざるを得ないのでは? また、もし仮にそうした現象が現前しているのであったとしても、そんな集合体が生成されるのはなぜなのか? そしてそれは何を意味するのか?
これらの疑問にすぐさま答えることはできない。そのためには、いくつかの迂回路を取る必要があるだろう。だが、山縣太一が「太一メソッド」について語ったインタビューから暫定的な足場は得られるように思う。

自分が俳優をやっているとき、戯曲の文章があるとしたら、それから離れた別の文章を考えていました。例えば『缶』という単語があったら『ペットボトル』という風にハッキングして、違う言葉で別のストーリーをつくっていくんです。このようにつくったストーリーを、身体でやってみる。そうすると戯曲とは違うストーリーができます。例えばすこしズレたCDを同時に再生させると、もしかするとすごい1曲になっている、ということがあるように、演劇としてそういった可能性を探っています。
https://yokohama-sozokaiwai.jp/person/16849.html

単語の身体によるハッキング。そこから派生する別のコンテクスト。少なくとも、山縣の身体技法は、ありえたかもしれない複数のコンテクストの多重化を意識している。また、CDの同時再生は、言葉と身体のズレとして顕在化する。しかし、そのズレは一人の俳優の言葉と身体のあいだにだけではなく、個々の俳優のあいだのズレとしても顕在化するだろう。太一メソッドには「情報過剰のダンスフロア」の可能性がそもそも潜在している。

さて、私はこの上演体験から何事かを語りたいと思っているわけであり、それどころか、ここで示される身体の在り方に、つながることが常に主体を脅かし続けてしまう接続過剰の時代における新たな主体像と、演劇が起こりうる新しい場の萌芽を読み取ろうとしている。それは、先に述べた「動物の時代」とはまた別種の現実にリアリティを与える想像力を、私たちに教えてくれるだろう。

しかし、小劇場演劇というニッチな分野の実験的な上演を前にして、素朴な疑問を持つ人もいるかもしれない。果たして、これを演劇と言えるのか? グルーヴがノリを生み出し「ダンスフロア」を作り出すって、それは演劇じゃなくてクラブかパーティじゃないか?

そうした疑問に対しては、エリカ・フィシャー=リヒテの『パフォーマンスの美学』が一定の理論的な視座を与えてくれるので、本論全体に背骨を入れるためにも、ここで参照しておきたい。中島裕昭による同書の解説によれば、リヒテが依拠する「パフォーマンス研究(Performance Studies)」は文化人類学者のへネップによる『通過儀礼』を出発点に、文化人類学の体系を演劇と接合したリチャード・シェクナーが「パフォーマンス」の語を積極的に用いた1960年代に確立されていった。「演劇」というジャンルの枠を超えて、宗教儀礼・政治式典・スポーツコンサートやロックコンサートなど、「実施」を通じて実際的に現実を構成していく「見せる・見られる」というまなざしを内包した文化的・社会的行為の全般を研究対象とする。それを再度、「上演芸術」の分野に差し戻し、パフォーマンスから上演芸術を基礎づける仕事を行ったのがリヒテである。

「パフォーマンス」の一語からうかがいしれるように、オースティンのパフォーマティブ(行為遂行的)/コンスタティブ(事実確認的)の区別にもとづいて、自己言及的に現実を構成する行為がパフォーマンスである。彼女は芸術家マリーナ・アブラモヴィッチの『トーマスの唇』(1975)を終始一貫して例に挙げている。全裸になったアブラモヴィッチは一キロの蜂蜜を平らげ、観客の方を向いて腹にカミソリでペンタグラムを刻みつけ、十字架のかたちに置かれた氷の塊の上で横になった。やがて、身体に苦痛を与え続ける彼女の観劇に耐えきれなくなった観客は、観客の立場を超えて彼女を助けようと氷の上から彼女を引き剥がす。

アブラモヴィッチがペンタグラムを肌に刻んだとき、観客たちが息をのみ、あるいは気分を悪くしたのは、おそらく、彼らがこれを身体への国家の暴力の書き込みとして解釈したからではなく、血が流れるのを見、そして自身の身体への痛みを想像したからである。つまり感じ取られたものが、そのように直接観客たちの身体に作用したからである。
(エリカ・フィシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』,訳 中島裕昭・平田栄一朗・‎寺尾格・三輪玲子・ 四ツ谷亮子・萩原健,2009,論創社,p21)

アブラモヴィッチの上演がパフォーマンスであるゆえんは、記号的な現実を表象するのではなく、身体の直接的な作用が現実に観客の身体反応を引き出したところにある。そのために、観客は「虚構」だと知りながら思わず彼女を助け出そうとして、その場の出来事に巻き込まれるパフォーマーの一人に変容する。そしてそれがまたあらたな上演の現実を構成していくのである。こうした出来事の位相では、俳優と観客の二項対立は失効し、記号的な意味の位相よりも、現実に感情的・生理的な反応を引き起こす「強度の感覚的経験」(28)が優位に立つ。リヒテは、パフォーマンスの見地から「表象の身体」に「現実の身体」を対置させ、上演をシアトリカリティのイデオロギーから解放してみせる。

さて、私たちはここで、リヒテが理論化する「現実の身体」が、「動物の身体」に似ていることに気づくかもしれない。あるいは、リヒテの「パフォーマンスの美学」に立脚すれば、『ワークショップ』も、また「現実の身体」による強度の感覚的経験(グルーヴ)を現前させるパフォーマンスだったのだと結論付けることができるかもしれない。

だが、『ワークショップ』で顕在化していた身体は、「現実の身体」にはおさまりきらない剰余を持っている。なぜなら、18人の身振りが多重化することで現前するのは、個々の「現実の身体」であると同時に、その彼らの身振りを群生させる集合的な「仮想の身体/ヴァーチャル・ボディ」だからである。

仮に「現実の身体」≒「動物の身体」がパフォーマンスとポストモダンの類似性を指示しているとするならば、「仮想の身体」とは「動物」的な主体にはおさまりきらない剰余を示している、と考えられないだろうか? その検証のために、私たちは00年代を象徴するヴァーチャルアイドル、あの「初音ミク」の身体について考えを進めていく必要がある。

[2]ヴァーチャル・ボディの二重性

 

[3]歴史の方へ―私演劇の潜在性

文字数:6651

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