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國分功一郎の生成原理−あるいは「少女終末旅行」の退屈について

1.

さて、國分功一郎がやってきた。僕たちは彼と出逢った。そんな風に考えてみる。すると、彼をめぐる変な景色が見えてくる。その景色をまずは展望してみることにしよう。
國分功一郎はパリに留学して哲学を学んだ列記とした哲学者であるが、2011年に『スピノザの方法』を執筆して以来、哲学的思考を駆使しながら、実に様々な領域を横断している。『暇と退屈の倫理学』(2011)では「退屈と向き合う生き方」を問うたと思うと、『ドゥルーズの哲学原理』(2013)では哲学書の王道を行き、『中動態の世界』(2017)になると「中動態」という文法の考古学へとジャンプする。一方で『来るべき民主主義』(2013)・『民主主義を直感するために』(2016)と具体的な政治にコミットしながら「政治哲学」を構想。國分は領域を超えるだけでない。人と出会い対話する。古市憲寿、中沢新一、山崎亮、二村ヒトシといった面々との対談本が立て続けに出版されている。
つまり、國分は動く。しかし動くがゆえに、例えば政治哲学と退屈論と文法の考古学的探求がいったいどういう関係にあるのかは一見したところ見えにくい。文体も著書ごとに異なるほどだから、僕の目に映る國分は、果たして同一人物であるかも疑わしく思えるくらいだ。この目まぐるしさは一体何か、という素朴な疑問も湧いていくる。なぜ彼はこれほどまでに動くのだろう?
ところで、國分は『ドゥルーズの哲学原理』で、ドゥルーズにおける哲学研究とは何か? と問うて次のように答えている。

哲学研究とは、いわば問いの中に織り込まれた襞(pli)を開く=説明する(ex-pliquer)ことである。そのためには、哲学理論の生成を促した問いにまで遡らねばならない。……哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと……(28)

哲学者に思考を強いて、理論の生成を促す問いが存在する。また別の箇所では、思考と問いの関係は次のように解釈される。人は能動的に思考するのではない。「シーニュ(しるし)」において思考させられる(89)。そして、「ドゥルーズにとっては、思考することこそが、『生』の新たな可能性の発明・発見であった。思考によってこそ『生』は変化する」(88)。
シーニュが問いとなり、思考を促す。新たな生の可能性が発見される。つまり、人にショックを与えるシーニュ≒問いとの出会いが、生の欲望を変化させ、新たな生の可能性へと人を導く。これはまさに國分のめまぐるしい動きに対する適切な注釈だ。彼はシーニュ≒問いとの出会いから思考を始める、ということだから。例えば、『中動態の世界』のあとがきはその意味で象徴的だ。『暇と退屈の倫理学』の講演会のあとに小児科医で研究者の熊谷晋一郎、薬物・アルコール依存をもつ女性をサポートする「ダルク女性ハウス」代表の上岡陽江らと会話の場を持って。

その場で、熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。(『中動態の世界 意志と責任の考古学』,329)

確かに誰でも人との出会いから新しい行動をはじめることがあるし、國分もそうだったのだろう。だが「中動態が失踪した事件が心にせり出してくる」という言い方が、國分の思考原理を強く示している。確かに常識的な範疇で、僕たちはものごとを考えるということを、考えようとして考えているとイメージしている。つまり、能動的に研究テーマを設定して、その対象をロジカルに思考する、というのが「考える」ことのように思える。しかし、國分においては「せり出してくる」のだ。しかもある意味では封印していた過去の事件が。この回路こそ、まさにシーニュ(熊谷・上岡らとの会話)との出会いによって、私の欲望が思考と渾然一体となって動き出す瞬間だ。ここでは、私が思考しているのか、それとも私が欲望の生成において思考させられているのかは区別できない。そして、こういう生成のプロセスのうちにとどまりそれを駆動させていくことこそ、國分においては「考える=生きる」ということなのだ。
具体的な出会いが彼に思考をもたらす。のみならず、彼自身の生をぐにゃりと変化させていく。だから、実は國分が動いているわけではないのかもしれない。それは國分ではないのかもしれない。國分を超えた欲望が彼を動かしている。國分は欲望がまさに動き出す「シーニュの場所」に飛び込み、欲望によって自分自身が変化していくさまを楽しんでいる。ならばこんな風にも言えるだろう。
國分功一郎とは、生成変化を運動させる欲望機械の別名である。
この欲望の生成変化へと身を委ねようとする欲望こそ、一見したところバラバラに見える彼の動きを貫通する「方法」となっている。

 

2.
僕たちは、國分から見える景色をまずは一望してみた。どちらかというと「遠景」から眺めるようなパースペクティブをとったわけだが、さらに國分という欲望機械の内奥へと歩を進めてみよう。というのも、國分が欲望機械そのものなのだと言っても、さらになお謎は残っているからだ。
欲望機械のスイッチとなるシーニュとの出会いは思考を強制する。しかし、思考の強制はときに大きな重荷になることがある。例えば、ぼくたちは誰もが小学校・中学校と義務教育期間を持ち、そこで考えることを強制させられる。だが、強制させられる勉強を苦痛に感じた経験を持つ人も多いのではないだろうか。あるいは、ツイッター炎上にみられるように、あらゆるメディアで問題発言らしき言葉が放たれた途端、人は頼まれたわけでもないのに「言葉」を生産し始める。いまに始まったことでもないが、例えば、僕にはどうでもいいとしか思えない「◯◯が不倫していた」というワイドショーネタがSNS上で過剰なまでに盛り立てられる様は、「思考と渾然一体となった剥き出しの欲望が溢れ出す」光景を思わせる。
つまり、生の新たな可能性はポジティブな幸福をもたらすとはかぎらない。國分的な意味で「考える」とはロジカルに問いを立てることではなく、泥まみれになって遊ぶ子どものような生命の躍動と切り離すことはできないからだ。それは当然、快楽や幸福のみならず苦痛や不幸をももたらす危険なゲームだろう。
だとすれば、苦痛をもたらす「思考=生=欲望」へとわざわざ飛び込む必要などないのではないか? というより、ときにそれは有害なのではないか? それなのに、なぜ國分は生まれ変わり続けるような生成変化を欲望するのか? 僕たちはそういう生きるか死ぬかの危険なゲームから身を守るために、家族や会社、あるいは人権や国家といった剥き出しの生にさらされないための「保護」を求める。それをかなぐり捨てろ、というのは甘美であるが、それがゆえに危険な誘惑である。
にもかかわらず、なぜ國分は生成変化を欲望するのだろうか?
この問いへの直接的な応答が『暇と退屈の倫理学』である。

しかし、同書の主題はタイトルに示されているとおり「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」(24)であり、特に「なぜ生成変化を欲望するのか?」と明示的に問われているわけではない。だが、この問いから照明を当てることで、「退屈」が問題に成ることの意味がくっきりと浮かび上がってくるように思う。早速、議論の内容を見ていこう。
『暇と退屈の倫理学』の問いを端的に定式化するとこうなる。
僕たちは人類がやっとのことで積み上げてきた豊かな消費社会に生きている。労働時間に縛られることも減った。暇も増え、映画にゲーセンに旅行にネットにテレビに……多様化した娯楽を楽しむことが出来る。にもかかわらず退屈だ。なぜか。
「余裕を得た社会、暇を得た社会でいったい私たちは日々の労働以外のどこに向かっていくのだろう?」(25)と國分は問いかける。戦争や貧困や不平等といった大きな課題があれば、それを解決しようとする崇高な目的が「生きる意味」を与えてくれる。しかし、ある程度に豊かな社会には、そういった意味での課題はない。かわりに逃れようにも逃れられない「なんとなくの不幸」があり、その不幸の源が「退屈」である。人はただ「毎日同じことが繰り返されることに耐えられない」のだ(56)。
確かに、豊かな社会では、とにかく気晴らしできる消費の対象はたくさんある。だが、それでも「退屈」な日々の無意味さは解消されない。むしろ消費すればするほど「生きている現実感」が遠のいて虚しさがつのる……。その原因はいったい何なのか?
消費が「もの」を具体的に受け取る行為ではなく、観念や記号の消費だからだと國分は言う(153)。例えば話題の飲食店でご飯を食べても、それは食事を受け取っている=楽しんでいるわけではなく、「話題店でご飯を食べた」という観念を消費している。昨今であれば、ナイトプールに行くけど、泳ぐことなしに「インスタ映え」のために「プールに行った」という観念を消費して自己承認を求める、みたいな感じだ。しかしいくら観念を消費して「個性」の値段をつりあげ自己承認を求めても、それには終わりがない。話題店を渡り歩いて、フォロワー数と「いいね」数をいくら稼いでも、そこには「これで承認完了!」といえるような終着地点がないからだ。「個性的なことは良いことだ」というイデオロギーのもとで、消費社会はますます次なる消費を求める。しかし「現実を生きている」という実感に着地することはかなわない。その焦りがますます退屈さをつのらせていく……。

消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。(168)

これが「消費社会」からみた「退屈」の分析である。消費社会とは、みずからを存続させるために、退屈と気晴らしの消費サイクルから人々の欲望を作り出す、そういうシステムなのだ。

そこで本書は、退屈と気晴らしの消費サイクルにはまり込んだ人間に、そのメカニズムを認識させ、そこからの脱出の方途を示す導きの書となる。とはいっても、よくある人生論的な啓発書のように「こうすれば苦しみから抜け出せます」と答えを教えるものではない。それだと結局、「苦しみの解放」という観念を消費するだけになってしまう。ではどうするか。

いかにしてこの状態を脱したらよいだろうか? 消費行動においては人は物を受け取らない。だから消費が延々と続く。ならば、物を受け取れるようになるしかない。物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。……〈物を受け取ること〉とは、その物を楽しむことである。たとえば、衣食住を楽しむこと、芸術や芸能や娯楽を楽しむことである。(356)

消費する人は、ものごとを受け取り、「楽しむ」方法を知らない。だから、「楽しめるようになるための訓練」こそが「退屈」と付き合う方法になる。そこで「楽しむ」ためのものごとの受け取り方は、消費と区別されて「浪費」と言われる。だから、贅沢にものごとを享受する浪費において、僕たちは大きな物語が与えてくれる「生きる意味」とは別の回路で、世界と関わる方法を手にすることが出来るのである。そして、このものごとを楽しむ在り方こそ、國分における「生成変化の欲望」を意味している。どういうことか。
「この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである」とまえがきで記すように、本書はまさに國分が「退屈と向き合う」ために書かれた。大きな物語が生きる意味を与えてくれない。かといって消費社会は終わりなき消費に駆り立てて、瞬間的な欲望を喚起することしかしない。だから、國分は本当の欲望がどこにあるかわからない、「生きる力」をどこから備給して良いのかわからない、そういう病にとらわれたのではなかったか。そこでは、そもそもの実在が疑われることもない「生きた私」が、はじめから存在していない。したがって欲望が動き出し「私」が生成されてくる時間こそが回復されねばならない。
それを実践すると、欲望がまさに動き出す「シーニュの場所」に飛び込み、人も領域も横断する國分の活動となるだろう。國分は確かに「生成変化」を欲望するし、それを楽しんでいる。しかし、その「楽しさ」は、その変化のさなかでしか「生きた私」を実感できない「退屈の病」から生じている。いわば「私」の存亡をかけたギリギリの選択なのである。
僕は先に、生きるか死ぬかの危険なゲームから身を守るために、家族や会社、人権や国家を人間は必要とする、と言った。だが「退屈の病」の側から見れば、そもそも「私」はなかば死んでいる。つまり事態は逆なのだ。家族や会社、人権や国家からリアリティを喪失させるのが「退屈の病」なのだから、むしろ欲望が生成されるプロセス=楽しむ方法を吟味することなしに、それらに関わることすら出来ないのが問題の根本なのだから。

 

3.
國分は「退屈の病」と付き合う方法を模索した。そこで「欲望の生成変化」から「私」にリアリティを回復させる方途として「楽しむ」というシンプルな回路を引き出した。だが、それで本当に人は「退屈の病」と付き合うことは出来るのだろうか? というのも、國分はハイデガーに言及するなかで、退屈の三つの形式から、「第三形式の退屈」を退けたことが、どうにも気にかかるのである。そこで、ハイデガーの三つの退屈の形式について確認したあとで、國分の解法に疑問を投げかける一つの作品を紹介したい。その作品とは、2017年に放映されたアニメ作品『少女終末旅行」である。

さて、國分は『暇と退屈の倫理学』第5章から先、ハイデガーの退屈論と格闘することになる。國分によれば、ハイデガーは次の三つの形式に「退屈」を分類した。

  • 第一形式 田舎でバスを待っていてもバスが来なくて退屈。だから他のことをして気晴らしをする。
  • 第二形式 パーティに参加しても、あとから退屈だったことに気づく。パーティそのものが気晴らし。
  • 第三形式 なんとなく退屈。

ハイデガーは第三形式の退屈が最も根源的であり、それがゆえに第一形式・第二形式の退屈も生じてくると考えた。第二形式においてパーティに参加してあとから退屈だったことに気づくのは、そもそも第三形式の「なんとなく退屈」をごまかすためにパーティへ行った、つまりパーティそのものが気晴らしだったからである。そして「なんとなく退屈」という根源的な気分に気付いた人間は、決断することで自らが実は自由であることに気づく。なぜなら「退屈」であるとは、動物がそうであるような一つの環境にとらわれていないことを意味するからだ。
ここではユクスキュルの環世界論が参照されている。例えば木の枝からダイブして哺乳類の血を吸うダニは、哺乳類がそこを通るのを待っているわけではなく、酪酸の匂いを受け取る・摂氏37度の温度を探す・体毛の少ない皮膚組織を探す、という三つのシグナルが連関する環境を生きている。ゆえにダニにとっては森のなかで起こるその他の現象は端的に存在しない。その意味で、個々の動物はそれぞれのシグナルから構成された全く別の環境を生きている。ところが、人間は動物のように一つの環境にとらわれることなく、世界そのものと関わることができる。いわばシグナルの意味連関に没入することができないために人は退屈する。だが逆に言えば、それは自由を意味している、というわけだ。
しかし、國分は第三形式の退屈を退ける。それは人間が動物とは違うという人間の特権性をハイデガーが擁護したいだけだ、というのである。そして、逆に環世界が破られ〈とりさらわれ〉るショックにおいて、複数の環世界へと誘われて動物になることこそが、真に退屈と向き合いともに生きていく道である、と言う。これはもちろん、いまとは異なる欲望が働き始める場所に飛び込み、その欲望の力において自分自身が生成していく「楽しみ」の回路こそが、終わりなき消費=気晴らしのサイクルに落ち込むことなく、私のリアリティを回復させる、ということだ。
そして、こうハイデガーをこう批判する。

パーティーでは食事が出されていた。音楽が流れていた。そして葉巻があった。ハイデッガーはなぜそれらについてもっと語らなかったのだろうか? いや、そもそも、なぜハイデッガーはそれらを楽しめなかったのか? ……答えは簡単であって、大変残念なことに、ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかったからである。(359)

僕が疑問に思うのは、まさにこの点である。確かにハイデガーはパーティを具体的に楽しもうとしなかった。しかしそれは、「楽しむ」こと、つまりは欲望の生成を働かせようにも、やはり「退屈」の声が聞こえてしまうからではないのか。その境地から見れば、実は「消費」も「浪費」も変わらなくなってしまう、ということではないか。では、「退屈だ」という声が聞こえてくる境地とは何なのか? 「死=終わり」の境地である。そして、『少女終末旅行』は、この「死=終わり」の側から「退屈」に光を当てる。

『少女終末旅行』は、文明が崩壊したあとの「終末世界」を生きるチトとユーリが、半装軌車のケッテンクラートで廃墟都市をさまよい、食料を求めて旅をするロードムービーである。例外はあるが、人類は絶滅したらしく、二人の少女が人類最後の生き残り。生き別れたおじいさんの「頂上を目指しなさい」という言葉をたよりに、超巨大都市のてっぺんを目指す。
少女たちの終わりなき日常が、文明が廃墟となった終末の日と一致する。これは、いわゆるセカイ系と呼称された物語類型の末裔ともいえる作品だ。しかし、その系譜の重要な起源と言われる『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-96)の終末の光景と比べてみると、その違いは一目瞭然なように思う。
『エヴァ』は主人公・碇シンジの父親であるゲンドウの命により、人類を襲う「使徒」から人類を救うため、巨大ロボット・エヴァに乗らされる物語だった。シンジは父に代表される「社会」に認められようと、エヴァに乗るが、父は一向に自分を認めてくれない。社会で生きることが存在承認につながらない。ゆえにシンジは引きこもる。彼は、父=社会という他者に承認されないにも関わらず存続していく「終わりなき日常」に耐えられないのだ。その拡大発展版=人類の引きこもりが、人類を原始の海に還す人類補完計画である。
社会は私を承認しない。かといって、引きこもっても生きる意味が実感できるわけではない。終わりなき日常は無意味に続く。だから『エヴァ』は「終わり」という物語を消費することで「生の意味」を回復しようとする。
この意味で、『エヴァ』もまた「退屈の病」を患った時代の産物だと言える。終わりなき日常とは、意味も目的も存在しないボンヤリとした不幸、つまりは退屈な日々のことなのだから。だとすれば、そうした「退屈」のなかから生まれたのが「セカイ系」だ、とも言えるだろう。「楽しさ」から世界との関わりを回復させようとする國分の側からすれば、『エヴァ』に代表されるセカイ系はどう見えるだろうか? もちろん、「終わり」の消費も、終わりなき記号消費の一環なのだから、「セカイ系」のような「終わり」への欲望は、私自身が生成される欲望を回復しない。ゆえに、「退屈の病」から抜け出す方法にはならない。

しかし、それでは『少女終末旅行』はどうか? 『エヴァ』はまがりなりにも社会が維持されていることが前提としてあった。だから、「終わり」の物語を消費=欲望することもできた。しかし、チトとユーリにとっては、人類が補完された「終わり」が「はじまり」である。つまり、彼女らは「終わり」の物語を消費=欲望することがすでに出来ない。そういうふうにして、「私」を意味づけることが出来ない。なにしろ、彼女らは何をしたってもう手遅れ、意味が無い「終わりしかない日常」を生きているのだ。終わりに晒されるとものごとからは、あらゆる意味が剥奪される。そして、あらゆる行為がすべて無意味さに落ち込んでしまう。例えば、それは「どうせ死んでしまう」という声を聞くときに感じられる、あの特有の無意味さとしてイメージすることができるだろう。宗教的な話はさておき、人は死ねば無になり感じたり考えたりすることは一切できなくなる。「死」の先取りは、「どうせ死ぬ。だから生きることに意味はない」という虚しさを招き寄せる。
もちろん、ここでの「死」はメタファーである。そして、「終わりなき日常」が人に生きる意味を与えなかったように、「終わりしかない日常」も、生に意味を与えない。ここで「終わり」と「終わりのなさ」はピタリと重なり一致する。だとすれば、「終わりしかない日常」において、もっとも苛烈に「日常」の無意味さが露呈してくるのではないか。そこでは退屈の第二形式に留まり、消費と区別された「浪費」から欲望の生成を働かせ、「私」にリアリティを与えることはできない。なぜなら、どちらにしても「終わり」に直面した生は「どうせ死んでしまう=どうせ終わる」という、どうしようもない「退屈」の声を聞かないわけにはいかないからだ。あらゆる欲望の生成が無意味になる。
だが、それはアニメの中だけの話で、現実とは無関係なのではないか? それも当然の疑問だろう。しかし、「終わり」がすでにきてしまった「終わりなき日常」の無意味さが、2010年代のリアリティではなかったか。僕たちは終わりなき日常から「終わり」を夢想するような引きこもりの「セカイ系」にはもうリアリティを感じない。その一方で、「日本」が終わっていくことの予感のさなかで、剥き出しの「セカイ」と直面してしまうリアリティにおびえている。

きっと絶望と仲良くなったんだよ。だから悲しげなんだ。終わりの歌だから。

ユーリは、そう言う。もしかしたら、ここから、「絶望」と仲良くなるという回路からしか、「退屈」と向き合うことはもう出来ないのではないだろうか?

文字数:9048

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