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《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ

 

【事務局より】当記事の盗用疑惑について(2018.03.27)

以下に掲載している渋革まろん氏の投稿について、映画批評ブログ「映画を書くと頭が疲れる」管理人の「はどの」氏より、ブログからの盗用が疑われるという指摘を受けました。
はどの氏が自身のブログからの盗用という疑いを持たれた箇所については、昨日投稿のエントリ「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾における、渋革まろん氏の評論文盗用疑惑について」に、当該箇所の比較とともに記載されており、当事務局とのやりとりも転載されています(メールの転載については、事前に許諾の連絡をいただいています)。はどの氏が疑念を持たれた箇所については、そちらの記載をご覧ください。
以下に指摘の経緯と、弊社の認識について記述します。

 

・3/14 はどの氏より弊社宛てに盗用を指摘するメール。弊社で内容を確認し、「盗用にはあたらない」と判断。事実関係について、渋革まろん氏に問い合わせを行う。

・3/16 渋革まろん氏より弊社にメール。事実関係の説明がなされる。弊社よりはどの氏に経緯を説明するメールを送信。

・同日 はどの氏から弊社宛てにメール。先ほどの経緯の説明におかしな点があること(友人の紹介でブログを知ったという1/8より前、1/4にはどの氏のブログに読者登録をしているところ)が指摘される。これを受け弊社では再度、渋革まろん氏に事実関係を尋ねる。

・3/17 渋革まろん氏より弊社にメール。前回の経緯説明でのごまかし(1/8より前に1/4に自分でブログを見つけていたが、時系列を捏造し虚偽の説明をしたこと)を認める。

・3/19 弊社よりはどの氏にメール。渋革まろん氏のごまかしと弁明について説明。

・同日 はどの氏から弊社宛てにメール。ゲンロン側の判断を再度要請するとともに、メールのブログへの転載についての許諾を求める。

・3/22 弊社よりはどの氏にメール。ゲンロン側の見解(渋革まろん氏の証言には時系列の捏造があり、はどの氏の記事から間接的に影響を受けた可能性は高い。しかし、直接参照した、盗用した断ずることはできない)を伝え、メールの転載を了承。また、渋革まろん氏の論考の当該ページ(本ページ)でも経緯の説明を行い、はどの氏のエントリにリンクを貼りたい旨を伝える。

・3/26 はどの氏のエントリが投稿される。

・3/27 本記事の更新。

 

渋革まろん氏の「ごまかし」は大きな問題で、信頼を大きく損なったことは間違いありません。その点、一切擁護のしようがありません。
また、当「批評再生塾」では、いちど投稿した論考の修正を原則認めていませんが、今回のケースでは投稿後であっても、「このブログを間接的に参照していることが判明した」という時点で、参照元を明らかにすること(追記について事務局に相談すること)が必要でした。この点も大きな問題です。今後このような「投稿後の修正が必要なケース」が発生した場合はすみやかに事務局に連絡するよう、受講生に対し、指導を行って参ります。

なお、上記のエントリ内に、「弊社にとっての盗用の確証とは何か」という、弊社宛ての質問が記載されています。
結論から申し上げると、盗用元と疑われる文献と該当する記事を精査し判断するしかない、すなわちケースバイケースということになります。コピーアンドペーストのような場合は当然、盗用と断ずることになりますが、比較検討の結果、盗用とは認められないと判断する場合もあります。
今回のケースについてはまず、内容を比較検討した時点で、盗用とは認められないと判断しました。そののち、渋革まろん氏からの経緯の説明に嘘が含まれていることが判明しました。嘘の説明は言語道断ですが、経緯の説明に嘘が含まれていたことが直接、盗用の根拠になるわけではありません。そのため、内容と証言を総合的に勘案し、「盗用と認められるだけの確証がない」と判断したものです。

株式会社ゲンロン 徳久倫康(批評再生塾担当)

 

【事務局より】追記(2018.04.03)

本日渋革まろん氏より、はどの氏のブログを参照元としてサイト上に明記したいという申し出を受け、本記事の末尾に参照元としてURLを掲載しました。
またあわせて、渋革氏の個人ブログ「飛び地(渋々演劇論)」にて、本件についての謝罪と、はどの氏の疑問に対する返答のエントリが掲載されています。


1、おそろしい

黒沢映画はおそろしい。黒沢はJホラーの立役者なのだから当たり前だろうというのは当たらない。そのおそろしさは映画に描かれる物語がおそろしいのでも、融通無碍に姿を現す幽霊がおそろしいのでも、世界が崩壊するからおそろしいのでも、不快な音響やグロテスクなイメージがおそろしいのでもない。私の意識を世界の無意識そのものへと知らぬ内に変異させてしまう特異点だからおそろしいのである。
黒沢映画の最もおそろしいシーンをひとつあげろと言われれば、私は精神科医の佐久間が自ら描いたであろう壁の✕印を消しながら「いやぁ、なんだろう、俺にもよくわからない……おかしいよな、思い出せないんだよ」と汗を流して振り返る『CURE』(1997)のワンシーンをあげてみせる。ここでは特に「幽霊」も「呪い」も出てこない。しかしおそろしい。それはなぜか。そのことの意味を尋ねることがさしあたっての目的であるが、一旦とりあえずの仮説を提出してみることにする。
『CURE』の詳細は後述するが、このシーンで佐久間はなぜ「✕」を壁に描いたのかよくわからないし思い出せない。つまり佐久間の無意識下で事はすでに起こってしまっている。そして『カリスマ』(1999)で一本の特別な木に惹かれて周囲の森がその毒素を取り込み枯れていくように、『回路』(2000)で現世にあふれてきた幽霊の目に魅入られたものが次々と自殺して黒い染みに変わっていくように、佐久間もまた不可思議としか言いようがないかたちで、自殺する。なぜか。世界の秘密に触れてしまったからだ。つまり、気づかぬ内に世界の秘密が作動してしまっていたことへの事後的な気付き、その取り返しのつかなさへの不安が、黒沢映画のおそろしさの根幹にある。
国際的な評価を受ける端緒となった『CURE』が黒沢のフィルモグラフィを画する一つの到達点であることに異論の余地はないだろう。しかし僕が本作に注目するのは、本作で何らかの達成点が示されたからというよりは、一つの巨大な―答えようのない―問いが起動し始めたと思われるからだ。では、『CURE』によって起動した問いとは一体何だったのか。

2、揺れと点滅

『CURE』をはじめて見た人が戸惑うのは、本作の暗示的な不可解さだろう。とはいっても、ドラマの中盤までは、刑事の高部(役所広司)が佐久間(うじきつよし)の協力を得て、首筋を✕印で切り裂く連続殺人事件の犯人を追うサスペンスホラーのジャンル映画として受け止めることが出来る。また、次々と催眠術で暗示をかけ殺人の願望を叶えさせていく元医学生の田宮(萩原聖人)も「謎」ではあるが、そういう愉快犯あるいはサイコパス的なキャラクターなんだと思って見れば、ちょうど95年に世間を騒がせた酒鬼薔薇聖斗のような「何を考えているかわからない怖い若者なんだな」と理解できる。もちろん、本作の「不可解さ」はそんなところにはない。
本作で最も不可解なのは、最後のファミレスのシーンだ。高部にコーヒーを届けに来たウェイトレスがいきなりナイフを持って殺人を犯す「謎」。あたかも田宮から高部へと「伝道師」が引き継がれ「感染」したかのように。どうして、こんな感染が起こりうるのだろう?
それを考えていく取っ掛かりとして、最初に境界のモチーフを取り上げてみよう。黒沢映画の「境界」をめぐるドラマについては多くの論者が指摘するところだ。そして、しばしば境界は川や海といった「水」のトロープで表現される。例えば、35ミリ商業映画デビューを飾った『神田川淫乱戦争』(83)は母親に囚われた一人の青年が「神田川」の境界を超えて外へと出ていく話だった。『回路』(00)では此岸と彼岸の境界である海を渡ることになり、『CURE』のリクリエーションと言って過言ではない『叫』(07)では、地震で染み出した海水が、まさに忘却と記憶の境界を超える痕跡=「記憶の染み」として現れてくる。
確かに本作でも「水」のトロープは欠かせない。実際、田宮が唐突に出現するのは海辺の砂浜である。一方で「水」と対にって私たちを彼岸へと誘惑するのが「ゆれ」の現象である。「ゆれ」は、ゆれるカーテンやゆれる木々やゆれる光の形象をともない、黒沢映画に無数に散在している。特にカーテンのゆれは、例えば幽霊のように不明なものの気配を示す指標となるわけであるが、本作でもっとも重要な「ゆれ」は「炎のゆれ」である。なぜなら「ライターの炎のゆれ」は田宮が暗示をかける催眠術のトリガーとして機能するからだ。炎の「ゆれ」に魅入ったものたちは、次々と欲望の境界を超え、無意識の殺人を遂行していく。逆に言えば、「ゆれ」は欲望の無意識を日常の意識へと感染させるのであり、ここに欲望の感染経路を見出すことができるだろう。
しかし、高部は取り調べの過程でその事実をすでに知っている。田宮にライターで炎の「ゆれ」を示されたとき、すぐさま彼からライターを叩き落としているのだから「炎のゆれ」は高部に対して効果を持ったことはない。さらに言うなら、「ゆれ」が意識と無意識を越境させる魔術的な力を持ち合わせていたとしても、なぜ誰もが決まって「殺人」に至るのだろうか? ただ抑圧された無意識の欲望を解放するだけならば、変態的な趣味に走ってもいいし、それこそ飛び降り自殺をしたっていい。なぜ殺人なのか?
後者の問いに答える前に、まずは「ゆれ」を見ていないはずの高部への感染経路がどこにあるのかを示そう。最初に指摘しておかなければならいのは、私たちが物語の時間を構造化する説話論的な機能として、映画の細部を捉える癖がある、ということだ。つまりスクリーンという支持体に、フィルムに記録された「現実」の二次的イリュージョンが映し出され、劇映画ともなれば、映画の形式に最適化された「演劇」のドラマを私たちは体験するのだ、と。しかし、『CURE』の細部はただ単に物語に奉仕するものではない。それだけならば、本作からこんなにも不安を駆り立てられることがあろうはずがない。
だから、こう考えねばならない。高部は、田宮の行為とは別のところで、それとは全く無関係に見ているのだ。「ゆれ」に類する何かを。例えば、はじめて田宮の住居へ足を踏み入れた時、高部はゆれるライターの光で暗い室内を照らしている。また、「ゆれ」の変化形とも言える「点滅」も高部の眼には映り込んでいる。パトカーのパトランプはもとより、物語の進行上は明らかに不要であり、見る必要がない電車の赤信号は高部が振り返るショットを挟んでわざわざクローズアップで捉えられる。さらに、高部はなぜか屋上にのぼり、遠くに見える煙突の点滅に見入るのである。
それらのゆれと点滅が、田宮の言葉とあいまって高部の精神を少しずつ侵食していったのだとすることは出来る。だがそれではなぜ、高部の眼には入らないクリーニング店に横付けしてある柱時計の振り子は揺れているのか? なぜ、男がトンネルを抜けるシーンで白色の低圧ナトリウムランプがチカチカと点滅するのか? このゆれと点滅は一体誰に向けられたものなのか? その答えは、「なぜ殺人が感染するのか」への応答とひっくるめて、映画開始1分15秒に隠されている。

3、震えと殺意

つまり、『CURE』には「ゆれ」と「点滅」といった彼岸へと誘惑する感染性の現象とともに、全く目立たぬかたちで、もうひとつの「ゆれ」、つまりは「震え」が隠されている。シーンは精神科に通う高部の妻が『青髭 愛する女性を殺すとは?』の一節を朗読するショットからはじまり、その本を机に置いたあと、医師に「どうしました?」と聞かれた直後に、妻の眼の前のテーブルがガタガタと震えだすのである。この震えは一体どういうことだろうか。
90年代に『大いなる幻影』や『降霊』で、00年代には『叫』や『岸辺の旅』、10年代には『クリーピー』で黒沢は繰り返し「夫婦」のモチーフを反復しているのは周知のとおりだ。反復される夫婦は、いつも決まって無意識下で言葉にならない絶望を抱えている。『CURE』の夫婦も同様だ。
事実、田宮との接触を繰り返すなかで、高部は精神障害を患う妻(中川安奈)が実は重荷であったことを露呈し始める。「そうだよ。女房は俺の重荷だ。……あんな女房の面倒を一生見なければいけないんだよ俺は!」とぶちまけるのだ。それから高部が帰宅すると、映画の前半ではおそらくトンカツであろうまともな食事が用意されていた食卓には、生肉が置かれている。高部はそれを壁に叩きつけたあと、妻の寝室の前に立ち、映像は妻と約束した沖縄旅行のパンフにパンしたあと、包丁を手に取るワンカットが挿入され、高部と妻は「空飛ぶバス」でどこかへ向かう。
次のショットで映し出されるのは「仕事が落ち着いたら迎えに来ますから」と白衣の医師に妻を引き渡す精神病院なのだが、誰もが、ここで高部が妻を「殺害」したのだと思うに違いない。
つまり、高部は妻を重荷に思うどころかではなく、もう妻を殺害する寸前のところで耐えていたのだ。それが一気に噴出した。では、妻はそれを知っていただろうか? もちろん、知っていた。なぜなら彼女が朗読していたのはまさに「愛する女性を殺すとは?」である。表面上は穏やかに見える夫が実は殺意を持っていることを彼女は知っていた。しかし、それは「社会生活」のうえで隠されていた。その落差を敏感に察知するからこそ、彼女のテーブルは殺意に怯えてガタガタと震え出す。だから『CURE』とは、夫の殺意に全編を貫かれた「殺意の映画」なのである。
ここで大胆な仮説を立てる。高部の「殺意」は単に高部ひとりのものではない。いや、たしかに高部の殺意なのだが、と同時に全人類の殺意である。つまり「高部=人類」。そのように仮説をたてるならば、私たちは、なぜ、欲望の解放が「殺人」にしか結びつかないのか? に答えることが出来る。なぜなら、この世界は高部の世界だからである。殺人を犯した彼らは全員、高部であり、高部の欲望が彼らの欲望だったのである。
トンデモに思われるだろうか? しかし、この世界が高部の世界であることは、まさに問題のラストシーンで示されているのだから仕方がない。終盤、高部はまたしても「空を飛ぶバス」に乗って、今度は一人きりで廃墟の病院へと向かう。そこで彼はまず田宮が使う催眠術の始祖である伯楽陶二郎の写真を見る。それから、エジソン蓄音機で音を聞く。つまり、彼はサイレントからトーキーへの映画史を高速で反復している。そうして彼は「秘密」を掴む。
このあたりのテンポは速い。妻が入院する病院の中景、廊下を歩いてくる看護師、彼女が振り返るカットののち、首元を✕印に切り裂かれ、車椅子に乗った妻が一人出に画面の手前側へと向かってくる。しかし、看護師の悲鳴が挿入されることはなく、ごく当たり前のように彼女は出現する。妻の顔は青黒く変色しているところから鑑みるに、やはり「空飛ぶバス」の手前で彼女は夫の手にかかり死んでいるのだ。その「死」が時間差で現れる。「空飛ぶバス」でしか行けない病院というのが、すでに空想めいているが、ここでは現実世界の因果律は働いていないのだ。
問題のファミレスのシーンに移ろう。映画中盤のファミレスのカットでは一口も手を付けられなかったステーキを高部はきれいに平らげる。そして、タバコを吸う高部の横顔からカメラは高部の視線をそっくりなぞるようにウェイトレスにズームインする。注意深く見ると、映像にはタバコの煙が映り込んでおり、このカメラの視点が高部の視点であることがわかる。客観的世界に同一化したPOV(主観ショット)だ。つまり、ここで高部はカメラそのものになった。高部の内宇宙はカメラの外宇宙と同化した。彼が映画史を反復して掴んだ「秘密」とは、映画的システムによって駆動するこの世界を受肉した人間こそ「私=高部」であった、ということなのだ。

4、《私映画》

次のように反論する人がいるかもしれない。あなたの言い分が仮に正しいとしても、映画の冒頭で高部は「世界」を受肉していたわけではないのだから、高部の殺意が他の人の殺意と等号で結ばれているとは言えないんじゃないか? 確かに常識的に考えたらそうだろう。しかし、それは高部を「人称的な存在」として捉えているから言えることだ。カメラが捉える世界は人間が知覚する世界とは異なり、人間の知覚スケールとは別の原理に従う「非人称的」なものだ。「人間」を成立させる物語や内面には属さない、世界を成立させているシステムの側に属する現象をカメラは映し出す。言うなれば、ここで「カメラ」とは「私がそれを見る」と表現しうる人称空間の側からは謎めいた「暗号」としか知覚されない世界を映す、世界を暗号の集積へと飛躍させる「非人称化装置」の別名なのだ。
彼はラストシーンで、カメラが捉える非人称的な世界に気づく。言い換えれば、世界システムそのものが《私》であったことに気づく。裏返せば、《私》という人称的存在など存在せず、そこで彼は、《私》の殺意が人称的なコミュニケーションの媒介抜きに、ただただ「感染していた」ことを発見するだけであり、その意味では高部が気付こうが気付くまいが、世界は運命的に「私=高部」が孕む「殺意の世界」であったことに、変わりはない。それに気付いて可能になることと言えば、「殺意の感染」をより意識的に遂行できる、ということくらいだ。ただ、どっちにしても、「殺意」が感染した世界は早かれ遅かれ滅亡するのだから、大した違いはない。
だから、『CURE』とは「殺意の映画」であると同時に、この映画それ自体が、再生されたが最後、震えによって起動したあと、各所で暗号的に埋め込まれた「ゆれ/点滅」の催眠暗示が発動し、ただ高部の「殺意」が感染していく自動システム、いわば「殺意」の増幅装置だ。その「殺意」の自動システムには誰もが無関係ではいられない。究極的には、観客の《私》も、実は映画=世界そのものであった高部の《私》と無意識レベルで接続される同一の《私》だからである。
そうして、世界で起こるすべての現象が《私》になる。こうした映画を僕は《私映画》と呼んでみたい。また、人称空間を喪失して世界そのものへと裏返った《私》を、人称的な《私》と区別して《無/私》と仮に名付けておこう。
『CURE』が洞察した映画のおそろしさとは、映画がもしかしたら《私映画》かもしれない、という一事に尽きる。《私=世界》の等式が結ばれることであらゆる《無/私》に《私=世界=映画》の殺意が無際限に感染してしまう取り返しのつかない出来事性がおそろしいのだ。「俺にもよくわからない……思い出せないんだよ」という佐久間の不安はひとごとではない。そっくりそのまま観客の不安でもあるのだから。

5、《私映画》の倫理

したがって、『CURE』以後、黒沢映画は《無/私》がいかにあるべきか、という倫理的問題と向き合わざるをえなくなる。なぜなら、映画=世界を受肉した《私》の欲望が世界の命運を握っているからだ。
こうした問題系は例えば『カリスマ』でクローズアップされたかたちで見出される。主人公の薮池五郎(役所広司)は「世界の法則を回復せよ」というメッセージを受けて森へと旅立つが、「カリスマ」と呼ばれる特別な「木」が分泌する毒素によって周囲の森が枯らされていくことを知る。《私映画》の観点から見ると、「カリスマ」は『CURE』の高部が「殺意」の欲望を感染させていくのと同様に、自己の欲望=毒素を森へと感染させていく。だから「世界の法則」を回復せよ、とは両義的だ。映画=世界を受肉した《私》を起点にすれば、すべてを枯らし尽くすことが「世界の法則」になる。しかし一方で、藪池が言うように、「森もカリスマもなく、一本一本の平凡な木があるだけ」という気づきが、世界の法則を回復させるのだとしたら、それは《私映画》の否定そのものである。ところが、『カリスマ』本編では最終的に都市に「炎」を感染させて焼き尽くす光景で終わるので、《私映画》を肯定するエンドをとったことがわかる。
もちろん、《私映画》とは単なる真実に過ぎないので、なにもそれは「悪」ではない。だがしかし……と続くのであれば、今度は『CURE』の主題を反復しつつ変奏する『叫』の問いかけへと行き着く。
『叫』では、複数犯による連続殺人事件というプロットが『CURE』から踏襲されている。違いは、『CURE』に幽霊は出てこなかったが、『叫』には、赤い服の幽霊が登場することだ。なぜ「幽霊」が出てくるのか。ここでも《私映画》という観点をとって見れば、《私映画》を肯定する限り、幽霊の登場は不可避であることがわかる。
第一に、《私映画》においては、私たちが通常理解している、生者と死者の区別が限りなく曖昧になるからだ。この世とあの世、「こちら」と「あちら」がありうるのは、「世界」という境界線が毅然として存在するからにほかならない。しかし、《私映画》における《無/私》は、世界へと裏返っているわけだから、「境界線」という概念それ自体が言語の体系から消滅する。だからこそ、《私》は人称空間からみれば《無》であるし、非人称空間からみれば《私》しかない、《無/私》なのだから。黒沢映画が、『降霊』・『回路』・『アカルイミライ』、そして『岸辺の旅』と、この世とあの世の境界線が消滅していき、レイヤー上に重なり合っていく運動性を持つのも同じ理由だ。
第二に、《私映画》における「だがしかし……」の倫理が、《私》の欲望に感染して殺されていったものたちの記憶を「記憶の染み」として必ず浮上させてくるからだ。だから、幽霊は言うだろう。「忘れるな」と。それは善悪の彼岸を超えて外部なき《私映画》が現れてもなお聞こえてくる倫理的な「声」なのだ。実際、『CURE』における殺意に怯える机の震えは、『叫』にいたって逆襲をはじめるかのように、もはや地震レベルの「震え」を起こす。「震え」は「水」=記憶の染みを呼び、「忘れる」ことで維持し得ていた《私》の欲望の世界=春江との蜜月を終わらせてしまうだろう。だから逆に春江はこう言うのだ。「忘れろ」と。
『叫』とは『CURE』が起動させた黒沢的な《私映画》の空間を「保護/内破」しようとする二つの力のぶつかり合いである。それは《私映画》と無意識レベルで接続される観客の《私》における内部分裂でもあるだろう。
だが、この激しい《私映画》の問いは、例えば『岸辺の旅』では、かなり穏便な解答を得ているように思われる。なぜなら、『岸辺の旅』は、「忘れるな/忘れろ」の《私映画》的葛藤を、生者でも死者でもない人びとが混じり合う混沌の肯定として、受け入れ始めているように見えるからだ。さて、それでは《私映画》の問いはこれで解消されたのだろうか? いま、明確な解答を出すことはできない。しかし、『CURE』が生み出してしまった《私映画》の問いを、私たちは避けて通ることができないというのは、確かであり、これこそ「起こってしまった取り返しのつかない過去」の「おそろしさ」、黒沢映画自身が生み出した「おそろしさ」なのである。

■参照URL
「『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか」
(映画を書くと頭が疲れる,http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240)

文字数:9707

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