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蓮實重彦の功罪とは「演劇」を論じなかったことである。

1.蓮實重彦の功罪

蓮實重彦を知らない批評家はモグリだ。と言われているのかどうか知らないが、その言説の影響力は絶大なものであったことが、例えば木下千花の「読者であれ学生であれ、少なくとも映画を見る経験そのものに関して、このように強い内面化を伴う影響力を行使した映画批評家が世界映画史上、他に存在しただろうか」(木下千花「女こどもの闘争」,『ユリイカ10月臨時増刊号』,167)との感嘆を隠そうとしない賛辞から十分にうかがい知ることができる。その一方で、蓮實重彦が「演劇を見る経験そのものに関して影響力を行使した」という話は全く聞かない。それはもちろん、映画と小説と野球以外のジャンル全般に当てはまることかもしれないが、一般に演劇と映画は、舞台空間かスクリーンかほどの違いしかないと思われ、どちらにせよ俳優が出てきてドラマが演じられる表象芸術と理解されているのではないだろうか。なにしろ「劇映画」という語彙すら私たちは持ち合わせているのであるから、両者はほとんど混同されていると言ってもいい。
結合双生児のように切っても切れない関係にある演劇と映画だが、蓮實がときに「演劇」の語を書きつけるときは、蓮實の志向する「映画」の水準に比して疑問符を付けざるをえないような、ある意味では無防備に19世紀的な自然主義リアリズムが前提されている。カイ・ムンクの4幕ものの舞台劇を原作にしたカール・Th・ドライヤーの名高い『奇跡』について。

それなら『奇跡』の奇跡は、劇的=心理的な必然に支えられた対立の構造におさまっているではないかと人はいうかもしれない。『奇跡』は、映画そのものを動揺させる映画自身の濃密な影であるどころか、そのはるか以前にたたずむ演劇のおぼつかない影でしかないではないか……(蓮實重彦「触覚的体験としての批評」,『映画 誘惑のエクリチュール』,1983,冬樹社,231)

だから次のように言うことが出来る。蓮實重彦は演劇を知らなかった。あるいは蓮實重彦は演劇をあまりにもよく知っていたがゆえに、演劇的知覚からは決して遭遇することのかなわない映画的体験の意味を論じてみせた稀有な人だった、と。ならば裏返して、次のような仮説を立てうるのではないか。
蓮實の批評的視座とは「演劇的」と言いうる体験の位相を抑圧することで成立した。蓮實重彦の功罪とは「演劇」を論じなかったことである。
実際、1936年生まれの蓮實重彦は世代的にもアングラ・小劇場演劇を体験していておかしくない人である。アングラ・小劇場パラダイムに並走した批評家たち―管孝行・佐伯隆幸・大笹芳雄・扇田昭彦など―は40年代初頭生まれであるから、蓮實もほぼ同世代と言っていいくらいだ。そこにはもちろん、60年安保の政治的敗北を代補するアングラ演劇のロマン主義的な「日本人」への回帰を蓮實が嫌ったのではないか、あるいはもっと単純にただ興味がなかっただけか、と目立った文献がないだけに無勝手な推論も成り立つわけだが、そうした勘ぐりに意味があるとも思えない。
だから、ここではあえて理論的な問題として「演劇的なるもの」と「映画的なるもの」の関係を扱ってみたい。そうすることはほとんど蓮實的エートスに反して徒な抽象化に遊ぶだけではないかという疑念を呼ぶかもしれない。しかし「フィルム体験」を可能ならしめる固有の視覚的条件から「映画的なるもの」の臨界点を洞察してみせた蓮實重彦の批評の純粋な強度は、その純粋さゆえに「映画批評」を抽象的な理論のレベルに引き上げたともいえるわけで、それどころか、そこではむしろ「映画批評」が実は孕んでいる「演劇的なるもの」の位相を純粋に結晶化したとすら言えるのである。したがって、蓮實の「映画的なるもの」を問うことは、そのまま「演劇的なるもの」を問うことに直結する。その逆もまたしかり、だ。
しかし、いまこの段階では「演劇を論じなかった」ということの意味はまるで明らかではないのであるから、私たちは「演劇」から「映画」の移行において何が起こったのかをまずは思い出してみることが必要だろう。ここで、複製技術時代の芸術作品において「アウラ」が消滅することを予告したことで著名な彼に口火を切ってもらうことにしよう。

2.空間から時間へ

A.
つとに知られるように、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で問題にするのは、複製技術メディアがドラスティックに変化させる知覚のパラダイムである。メディアはその時代固有の社会的条件に応じて、人間の知覚を組織していく。機械的な複製技術の登場は、芸術というメディアが生じさせる知覚のあり方を根本的に変えてしまう。その変化を端的に示すのが「アウラの消滅」である。
21世紀を迎えた昨今では3Dプリンターなどと言うものも出てきて複製技術をめぐる状況は本書が執筆された1930年代から飛躍的に進歩しているわけだが、機械的な複製技術がもたらすメディア論的な問題系はベンヤミンの本書を鏑矢とするものであり、いぜんとしてアクチュアリティを失ってはいない。そしてもちろん、機械的複製技術に依拠する営為である映画芸術が演劇に与えた計り知れない影響の爪痕はそこにくっきりと刻まれている。例えば、舞台俳優と映画俳優の違いについて。

舞台上で行動する俳優は、役に没入している。しかし映画俳優はじつにしばしば、そうすることができない。かれの演技は一貫して続けられることがまったくなくて、多くの短い演技の切れはしから構成される。(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』多木浩二,野村修訳,2000,岩波書店,164)

公衆の前で演じられた演技の〈いま・ここ〉におけるアクチュアルな一回性は、カメラの前では時間的な一貫性も場所との親密な関係性も奪われて、ひとつのまとまりをもたない断片の集まりに破砕する。いわばドラマの始まりから終わりまでを主体的な意志/意図を持って役を生きる「俳優の身体」は疎外され、むしろブレッソンがラディカルに定式化したように主体的な意志/意図を抹殺し、撮影された事物と同じ資格でモンタージュ可能な「モデル」が映画の新たな記号論的現実を形成する。カメラを前にして「人間は初めて……人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った……なぜならアウラは、人間が、いま、ここにあることと切り離せない」からだ。そして、「これこそ映画の働きである」(『複製』163)。
映画芸術において撮影された俳優は物象化されたマチエールである。演劇の産出する〈現実〉は俳優の身体的な技術から生み出されるのに対して、映画の〈現実〉をつくりだすのは俳優ではなく、フィルムを編集する監督である。そこで俳優はバラバラとなった身振りや顔の断片的な記号に過ぎず、あくまでもモンタージュされた手続きの結果として映画はある。つまり、演劇から映画へと移行するメディア環境は、〈いま・ここ〉に存在するアウラ的身体から、〈いま・ここ〉がバラバラに分解されるモンタージュ的身体へと「人間」の見方を変容させたのである。

B.
映画は「人間」から唯一オリジナルであることを証明する〈いま・ここ〉の一回性=アウラを奪う。しかし、それでは映画というメディアによっては決して複製することが出来ない〈アウラ〉とは一体何なのだろうか?
ベンヤミンの「アウラ」概念は極めて多義的であり、論者によってその解釈はかなり広範に及ぶので、ここでは少し素直に読んでみることにしよう。ベンヤミンによれば芸術作品のアウラ的ありかたは「儀式」のうちにその基礎を置く。「石器時代の人間が洞窟の壁に模写した大鹿の像」が誰かに見せることを目的にしない魔術的な道具であり、また聖像は人目につかない奥へと隠されるように、アウラ的な事物は存在していることそれ自体で礼拝的な価値を持つ。そうして歴史の証人となり過去から現在に伝えられてきた芸術作品は「根源から伝えられるものの総体」から「重み」を与えられ、アウラを纏う。
だとするならば、アウラと結びついた「礼拝価値」は単に現在形のアクチュアルな「いま・ここ」の一回性を指し示す用語ではない。それよりは、その像がまさに創作された過去の一点、唯一無二のはじまりである根源的な〈いま・ここ〉を魔術的に召喚する役割を果たしていると言うべきだろう。アウラを纏った事物は、歴史の根源へと共同体の成員を媒介するのである。
これを伝統的な権威を再生産する保守的な「神話」として否定的に捉えることも十分に可能であるどころか、ベンヤミン本人が複製を手段にアウラを崩壊させて「一回限りのものから平等なものを奪い取る」ことが大衆のリアリティに知覚を適合させるプロセスだと言うわけだが、こと「演劇」との関係で重要に思われるのは、そうした歴史の根源への媒介が「儀式」に基礎を置くということだろう。なぜなら「儀式」は「見る―見られる」制度のうちでは分節されない〈いま・ここ〉への「参加」を必然的に要請する機制だからだ。アウラが人間/俳優の〈いま・ここ〉にあることと切り離せないのは、それが魔術的な参加の形式=儀式を含意しているからであり、その意味で、演劇とは記憶を蓄積させた「空間」に根を持つ芸術形式なのである。
したがって、映画が複製不能なアウラとは―歴史が堆積する―「空間」である。それでは映画には何が残るのだろうか? 複製され記録された「時間」である。アウラが滅びることで、人間は記憶が蓄積された伝統的空間の束縛(演劇)から自由になり、逆に時間を編集しモンタージュする自由(映画)を獲得したのである。

3.映画の両義性

A.
映画という複製技術に依拠した芸術形式の誕生は、限定された空間(共同体)の記憶から自由になる、つまりは説話論的な物語に依拠することなく、純粋な時間そのものを経験することが可能になったことを意味している。純粋な時間とは何か。1秒間に24コマの知覚体験が断続的に現れては破棄されていく「瞬間の運動」である。ゆえに映画は〈いま〉を更新し続けるモダニティの時間を知覚するメディアなのだと言うことも出来るだろう。すなわち、映画とともに空間の記憶―アウラ―から解放された時代において、時間が無限に更新/蓄積されていく終わりなき「瞬間の運動」がはじまるということなのだ。
だが、一体、筆者は何を言っているのだろう。正直なところ、筆者は今までそのように映画を見たことはない。いや、それよりも、そんな瞬間の運動を捉えきることが出来る眼球などあるのだろうか。ベンヤミンならば、この「瞬間の運動」は肉眼では捉えることの出来ない、カメラに語りかける「無意識に浸透された空間」を出現させると言うだろう。「ぼくらの駅や工場はこれまで、僕らを絶望的に閉じ込めるもののように見えていた。そこへ映画が出現して、この牢獄のような世界を、高速度撮影というダイナマイトで爆破してしまった」(『複製』175-176)。しかしその「瓦礫のあいだで、平静に冒険旅行を企てる」(176)ことなど出来るのだろうか。90分で129,600コマの瞬間を享受する視覚体験は人間の限界をすでに超えている。ましてやその累積を記憶に留めておくことなど、何をか言わんや。
そして私たちが驚くべきなのは、まさに蓮實重彦という批評家が人間的な視覚のスケールを軽く超えていくはずの「瞬間の運動」そのものと遭遇しようとしたこと、さらには「瞬間の運動」を模倣するエクリチュールでそれと官能的に戯れ記憶してみせたことである。

瞳はあらゆる瞬間に目覚めているわけではない。視界に浮上するすべての対象を満遍なく知覚しうる視線というものも存在しない。……一遍の映画の、そのほんの数秒の画面であろうと、そこに推移する光と影の運動をそっくり認識しうる人間は絶対に存在しない。ましてやそれを記憶にとどめうる映画的な感性など、ほとんど一遍の虚構に近い抽象にすぎないだろう。(蓮實重彦「触覚的体験としての批評」,『誘惑』,252)

「正常な瞳は、とても映画など見ていられない」(254)と語る蓮實のアンヴィヴァレントは、肉眼では捉えることの出来ない「瞬間の運動」を字義通りに「見る」ことこそが映画を見ることであるにもかかわらず、それを知覚する瞳を持つことは決して出来ないアポリアによる。「瞳の廃棄。それは、映画にとっての記号論的な真実ともいうべきものだ」(254)という苦しげな叙述は演劇的な記憶が蓄積された空間の束縛を廃棄し、人間のスケールとは無関係な機械的複製の自動運動を条件に「新しい自由な時間」を享受している「複製技術時代以後」を生きる私たちの生の形式そのものの両義性を照らし出している。
私たちは自らのスケールを超えた「巨大な遊戯空間」(『複製』175)に生きている。そのあまりに剥き出しの自由に耐えかねるのであれば狂わんばかりの苦難が与えられるだろうし、逆にその苦難に耐えるならば、そこに開かれていく遊戯的断片との遭遇は官能的な悦びを与えるだろう。空間の記憶に束縛される演劇には不可能な「映画的なるもの」の所在を蓮實重彦は正確に示したのである。

B.
だが、「瞳の廃棄」の両義性は、蓮實の用語で言うなら「フィルム体験」の所在を示すものでしかない。映画批評の現場において、もう一つの困難が待ち受けている。なぜなら、批評を書くことは、すぐさま見えてないこと、物語の要約であるような説話論的な語りかけに記号の群れを秩序化=神話化してしまうからである。
そもそも、複製技術によって事物を空間の記憶から切り離し自由な記号の操作を可能にする映画は記号論的な分析と大変相性がいい。なにしろ、そこでは人間であっても小道具と同様に映画の「語りかけ」を構成する記号の一部に還元されていくのだから。ゆえに、映画は容易に神話化してしまうのだ。
ロラン・バルトは「第三の意味」において、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のショットを分析している。そこで取り上げられる「握り拳」のシニフィアンは戦いの決意を意味しており、また、労働者階級の力と意志を「象徴」し、プロレタリア階級の「革命性」を神話化する。映画は観客に一つのメッセージを語りかけ、神話作用はそれが語りかけの形式であることを隠蔽することで、まるでその概念―革命性―が永遠の自然であるかのように装うのである。
この語りかけの形式を隠蔽する「神話作用」の構造は、映画であれ書き言葉のディスクールであれ全く同様である。例えば、書籍であれば、それが書かれたもの―エクリチュール―であることが「語り手」の中性化によって隠蔽され、映画であれば、それがスクリーンに映写されたもの―フィルム断片―であることが「カメラ」の中性化によって隠蔽される。どちらにせよ、観客・読者は、メディアの不透明な物質性を忘却することで、そのメッセージを自然なものとして受け取ることが可能になる。そして、蓮實重彦が「制度」と呼ぶのは、まさにこうしたメッセージが無媒介に存在しているかのごとく自然化する神話の意味作用のことなのだ。

C.
それでは、映画を語ることは不可能なのだろうか? 語りかけを自然なものとする神話作用に抗うことは。そこで「瞬間の運動」を書きつけるために蓮實のとった戦略は、その神話作用として働く制度そのものを「模倣」することだった。

問題は、「制度」の破壊でも否定でも超克でもない。「制度」が制度として機能するさまを身をもって生き、そこで存在がこうむる崩壊現象を継起として、一瞬であれその磁力を顕在化させてみることなのだ。(蓮實重彦『映像の詩学』1979,ちくま学芸文庫(2002),509)

例えば、「フォードは美しい」からはじまるジョン・フォード論では、その特権的な瞬間として「別れでも旅立ちでもなく、立ちもどること」(28)と行為項の説話論的分析をほどこしながら、いささか唐突に「大きな白い布」の視覚的効果を提示する。それは揺れ動く「エプロン」であるわけだが、「語りかけ」を構成する「帰還」から、「瞬間的な変容を視覚的に実現する翻る白さ」なる「語」へと、「感動」を喚起するレベルが瞬時に変換されるのである。蓮實はここで語りかけることそのものの神話作用を「模倣」することでそれを宙吊りにし、同時に人間の「語りかけ」の秩序とは異質な機械装置の「瞬間の運動」を句点を排したパフォーマティブな文体で模倣する。
その二重の模倣はまさに映画体験の時間そのものである。視覚からつねに逃れていく「瞬間の運動」の崩壊現象が映画の不可能な時間を駆動させていくように、いままさに進行していくエクリチュールに映画は不在であることを隠蔽しながら露出させていくという「映画の不可能性」を模倣しながら、蓮實はまさに「見えない」と「見る」の境界線上で、次々に崩壊していく映画の記憶そのものと戯れるのである。

4.時間から空間へ

蓮實の隠蔽と露出の相互作用を模倣する官能性は、純粋に「映画的なるもの」の臨界点を指し示す。比喩的に言えば、蓮實は映画=「瞬間の運動」そのものになったのである。だとするならば、蓮實は決して「空間」に依拠する演劇的な体験の位相を掴み取ることが出来ない、つまりは「演劇を論じることができない」のは自明の理ではないか。
渡辺守章は、スクリーンに投影された映像のごとく「空間の記憶」を忘却していった新劇の劇団をラディカルに批判したアングラ・小劇場演劇の立役者たる唐十郎の赤テント(1967〜)について次のような言う。

絶対に映画の空間と演劇の空間というのはぼくは違うと思うんです。……ひっくり返して言えば、ここ数年来、日本で前衛劇が活発であったことの背景には、そういうある特定の空間に入ることを諾った上で、ある特殊な共通の体験をする……映画館の暗闇のような孤立した個人ではなく、肌と肌がふれあうようなかたちで……ある特定の〈場所〉というのが重要な役を演じていた。その典型的な成功例が、疑いもなく唐十郎の《赤テント》の仕事でしょう。つまり新宿花園神社にテントを張るというのは新宿という場所の、その土地の精霊を呼び覚ますことであった。(渡辺守章『空間の神話学』,1978,朝日出版社,159p)

もちろん、それが「映画」のように複製技術時代以後の知覚の条件を引き受けていないと批判することは、常に可能だ。そもそも映画と演劇が完全な二項対立を作ることそれ自体も疑わねばならないことだとした上で、演劇の基底にある「空間の記憶」を奪還しようとしたアングラ・小劇場のパラダイムは蓮實が映画館の〈場所性〉を映画固有の条件としないことと綺麗に対称的だ。
一方、これが記憶を媒介に「肌と肌がふれあう」ような場所で神話的に―例えば私達は土着の日本人だ―集団を組織してしまう演劇の制度的な危うさを露呈させていることも疑い得ない。しかし、だからといって、その集団的感染性に身体を閉じることは、蓮實がまさに批判するように「自分が何に犯され、何に捕われてゆくかを忘れながら「方法」を志向する楽天」(『詩学』505)を意味するのではないか。
なにより映画的な知覚の組織化によって忘却された演劇的な「空間」は、いまやインターネットを介してイメージが集積していく「テレ-空間」として回帰してきている。例えば渡邉大輔が『イメージの進行形』で論じている観客のミメーシス的体感を触媒に断片化された映像が増殖していく―例えばニコニコ動画の「踊ってみた」シリーズのように―「映像圏」の議論は、映画の外部にある日常的なコミュニケーションのネットワーク=「テレ-空間」に依拠するものだろう。回帰してきた演劇的な「テレ-空間」に土地の精霊はやってこないが、少なくとも「瞬間の運動」が絶えず更新されていくリニアな〈いま〉の位相が、コミュニケーションを介してイメージがシャッフルされ無根拠に書き換えられていく異種混交的な〈いま〉の位相へと変容したことを告げている。
蓮實重彦の功罪とは、まさに空間の記憶に束縛された演劇では不可能な「映画的時間」の両義性を通じて20世紀的な「生」の所在を体現してみせたことと、そしてだからこそ映画館も「空間」という演劇的な制度を持っていたことを忘却してしまったことにある。21世紀にますます進行していく演劇が映画に侵食され、映画が演劇に侵食されていくダイナミックな運動の所在を「映画批評」から抹消してしまった点に、蓮實重彦の功罪は集約されると、筆者には思われる。

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