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未成の時間に聞き取られる声を模倣する―「ZERO CONCERTO」MVより

[1] 泣くことの演技

蓮沼執太フィル ZERO CONCERTO(https://www.youtube.com/watch?v=ODRhk2662MU)よりキャプチャー

誰かが見てる エトセトラ飛ぶ
小さく燃える 星が現れ
歩きはじめる 葉が舞い落ちる
光のなかで また覗き込む
(蓮沼執太フィル「ZERO CONCERTO」歌詞より抜粋)

人はどうして泣くのだろう?
そのことの意味を、20世紀の演劇は二つの方向で考えた。内面に隠された真実の現れ。あるいは他者に働きかける外的な身振り。スタニスラフスキーによれば、日常では隠された無意識にこそ人間の真実がある。外側に表出されたものは、この無意識が働く「内面」から自然に沸き起こってくる仮象にすぎない。「泣く」ことによって、最も自然なその人の内面的真実が明かされる。一方でブレヒトによれば、人間は社会的コンテクストにすでにいつも織り込まれている。誰もいないところで泣く子どもは無意味な行為をしていると、彼は注意を促す。「泣く」行為は「なぜ泣いているのか」を他者に訴える社会的な身振りにならなければ意味を持たないからだ。「泣く」身振りは、その人が埋め込まれている社会的なコンテクストを示す。
蓮沼執太フィル『時が奏でる』(2014)におさめられた「ZERO CONCERTO」のMVに映された人びとも、また泣いている。涙を流して、泣いている。彼らはなぜ泣いているのだろう? 日常で抑圧された内面的な真実が明かされているようにも思えるし、彼らが陥った社会的悲惨さを示していると読むことも不可能ではない。だが、それだけだろうか。

[2] 未成の時間に入ること

[A] 聴く

蓮沼執太は2010年に15人のメンバーからなるアンサンブル「蓮沼執太フィル」を結成した。ライブ活動を主にしてきた彼らは、2014年にファースト・アルバム『時が奏でる』をリリースする。「ZERO CONCERTO」は12分ほど続くポリリズムで構成されたナンバー。マリンバの音に、サックスが加わり、さらにドラム、コーラスが重なっていく。それぞれの音がずれつつも共存していく時間は、トップダウン式にあらかじめ決められた意味(感動)を目指したものには聞こえない。それは意味の全体を一義的に閉じない。むしろ意味を開くための音。異質なものたちが繋がり、離れ、絡み合い、刻一刻と現れ消える共鳴する関係のプロセスである。だから、この時間は息を詰めて早足で目的地へ向かったりはしない。時間を呼吸させることで、他の異質な者たちがそれぞれ自由に関係することのできる「未成の時間」を開いていく。
だが、その音が聴取者に届くころに、「未成の時間」は完成している。自由に関係するといっても、その音を聴き取る聴取者は未成の時間を奏でる音を能動的に発するわけではない。ならば、聴き取る者は、未成の時間の内部にはいないのだろうか。
この思考の図式は、能動と受動の対立を前提している。「演奏」という制度を前提している、と言い換えてもいい。だが、MVで、演奏された音のレイヤーに重なり、映し出されるホームにたたずむ人びとは、演奏者それ自身である。彼らは涙を流す。涙を流すことで、視聴者は彼ら=演奏者が奏でられた音を聞いているのだと錯覚する。自分たちと同じように、演奏者もまた演奏を聴いているのだと、気づく。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。
(國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』,2017,医学書院,88p)

國分功一郎は、能動―受動の図式を支える意志の世界によって「わたしのもとでそれが実現されている」と表現される生成の世界―中動態―が隠蔽されたという。
中動態の文法は、その出来事が誰の意図でなぜはじめられたかに力点を置かない。私がはじめたことでも、誰かがはじめたことであっても、それがはじまり、私がその出来事が生成していくプロセスの渦中にいるかどうか、に力点を置く。言い換えれば、主体が「なりつつある/なった」から世界との関係性を捉える世界観である。
つまり、未成の時間とは中動態的な時間である。能動―受動の図式では異質なものたちが共鳴する「未成の時間」は演奏者のあいだで起こり、聴取者はその外で完結した音=意味を受け取るかのように見える。しかし、「なりつつある/なった」の図式では、演奏者も聴取者も、音が生じさせる出来事のプロセスの渦中で何者かに「なりつつある」ことに変わりはないのだ。MVで涙を流す演奏者たちは、そのMVを視聴するものたちにもまた「未成の時間」が開かれていることを示している。
フィルはいまだハーモニーを奏でてはいない。音が意味と接続される調和はいまだ訪れず、複数の独演楽器のポリリズムはいわば前-調和的な「未成の音」が現れつつある過程にあり、私たちは耳を開くことでそのプロセスの渦中に投げ入れられるのだ。

[B] 待つ

「泣く」行為は、演奏者と視聴者が同様に「未成の時間」に耳を開くものであることを示している。しかし彼らは一体、何に対して泣いているのだろうか? 奏でられる音に対して、と答えることは出来る。だが単に奏でられる音を「受容」しているのであれば、それは「能動」の位置に不可視の行為者―例えば神―を置いてみせただけであり、神の奏でる音に意味を見出し感動することと変わりないではないか。そこでは調和することがあらかじめ定められており、異質なものたちが共鳴する未成の時間は、閉ざされている。
だから、「泣く」ことを、「能動―受動」の図式とは別の位相へと置換するフィクショナルな態度がここでは要請されている。いわば中動態を可能にする態度である。しかし、その態度とはなにか? それは、始発を待つ人びとを映し出す映像のレイヤーに重なり流れていく文字―私小説的でありポエティックな―の一節で演劇的なワンシーンとして描かれている。

タクシーを飛ばして帰っても良かったのだけれど、時間がそこにあったので、新宿の駅で電車を待つ事にした。駅には始発待ちの人びとが交々(こもごも)と言葉の彼方にゆれてまどろむ。
(北川陽子「ZERO CONCERTO – INSPIRE」)

待つこと。新宿駅のホームで始発電車を待つ人びとは、「待つ」態度において未成の時間の中にいる。 始発の電車を待つ時間は一日の終わりでも、次の一日の始まりでもない。朝でも夜でもない。電車はすぐにやってくるが、まだこない。次の一日は、朝は、電車はまだこない。それは、複数の領域のいずれでもあっていずれでもないリミナルな中間領域である。個人が何者であるか―肩書―を定める社会の機制がそこでは働かない。「私」は何者でもないがゆえに何者へとも変化していける未成の状態に「ゆれてまどろむ」。
「待つ」という態度が、音とともに生じる出来事の渦中で何者かに「なりつつある」未成の時間を可能にする。彼らはある音楽に感動して泣いているのでも(受動)、視聴者に自分の境遇を訴えかけたくて泣いているのでも(能動)、ない。

私に贈られたこの時間の事を大事にしたくなって、というか持て余して、私は泣いてみる事にした。泣くなんて事は暫くしていなかった。どうやって泣いていたのか、泣いた事があったのかすら疑わしい遠さ。嬉しくても悲しくても何故だか人は泣くのだけれど、どこへ続くのかもっと知りたいんだと思えて、目を凝らしてみたけれど無理なんだと気付いた。
(北川陽子「ZERO CONCERTO – INSPIRE」)

泣いて-みる。泣いて-みることで、なってみる。それは「泣かされる」でも、「泣かせる」でも、ない。彼らに涙を流させる、彼らが涙を流させる対象は存在しない。ただ、なりつつある出来事の渦中へと自らを投げ入れるために「泣いて-みる」。なぜそんなことを? 泣くことで成ることでしか聞こえない音を聴くために。

[3] 喪われた記憶を模倣する

だが、「泣くことで成ることでしか聞こえない音」とはなにか。ここで、ジォットの磔刑図に描かれた「奇妙な静けさを感じさせる」天使たちの叫びから、私たちには聞こえない「声」の意味を問う田崎英明の議論を補助線としてみよう。

天使とは、死にゆく存在に対する全き無力さの形象化なのだ。天使にできることは、ただ、声を、名前を、記憶にとどめておくことだけである。
(田崎英明「Essentia-名と叫び」,1996(『無能な者たちの共同体』,2007),39p)

田崎によれば、死にゆく動物は鳴き声をあげる。それは純粋な声、「誰へ」という宛先を持たない声である。その残響はこの世界に、誰も聞き取れないほどであっても微かに残されている。しかし、この声を人間は聴き取ることが出来ない。なぜなら、人間は声と言葉を切り離して用いることが出来ないからだ。嘆きを誰かに伝える声には言葉がともなう。手元の本に書かれた言葉を読むと頭のなかに声が生じる。声を発する、は、言葉を発する、であり、言葉を読む、は、声を聴く、である。言葉が伝達(コミュニケーション)の媒体であるように、声の内に閉じ込められた言葉は宛先を持ち、それを人間は意味として理解し、想い出す。逆に言えば、宛先を持たない純粋な声を、人間は〈いま・ここ〉で自分たちの理解しうる声=言葉=意味へと解釈し、「わたしたち」に役立つものとして領土化する。
一方で、天使は完全な知性であり、あらゆる思考が瞬時に共有される。ゆえに媒介となる言葉を必要とせず、死にゆくものの声をただ声として、意味へと解釈することなく記憶にとどめておくことができる。だが、言葉を持たないがゆえに、その叫びをメッセージとして伝えることは出来ない無力さの形象である。
田崎の「天使―人間―動物」をめぐる議論は、「ただカタストローフのみを見る」ベンヤミンの歴史の天使を下敷きにしている。歴史の天使は、無限遠の未来から共同体が解釈しうる意味へと宛先を持たないすべての廃棄物をまなざす視点である。だから、共同体に位置を持たないジャンクな廃棄物を聴覚的現象にパラフレーズしてみせたものが「声」だと言えるのだが、なぜ「天使」というありえない形象を、ここで召喚する必要があるのか。
その疑問は、なぜ「ZERO CONCERTO」のMVで「泣いて-みる」ことが必要だったのか? と同じ疑問である。「泣いて-みる」ことも、〈いま・ここ〉で「泣く」ことと関係を結び、意味を持って解釈しうる対象を欠いた行為だからである。つまり、「泣いて-みる」ことは、いまはない喪われた記憶へ向けられた喪の行為なのである。
天使が、宛先=意味を持たないがゆえに人間には聴き取ることの出来ない喪われた「声」を聴取するように、泣いて-みる人たちも、いまだ音楽=意味にならない「未成の音」を聴取することを試みる。しかし、人間は天使ではない。人間には解釈しうる音=声=言葉しか聞こえないのではなかったか。
だから、「泣いて-みる」のである。それは天使のまなざしをトレースする営為である。現前しない喪われた音/声に耳を開くためには、そこにあるかもしれない嘆きをみずから模倣してみるほかはないのだ。「喪われたそれ」を繰り返してみせる。そうすることで、初めて天使が見てるエトセトラを覗き込むことができるかもしれない。
実際に演奏された音もまた、同様である。それもまた「泣いて-みる」と同じく「奏でて-みる」行為である。泣くことで成る、奏でることで鳴る、喪われた記憶を模倣する感情と感性が、異質なものたち―そこには誰かの死者も、いずれ死者になるかもしれないあなたも、共同体のなかで言葉を持たない他者も―が共鳴し呼吸する「ZERO CONCERTO」へと私たちを投げ入れる。

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