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分岐するチェルフィッチュズ―天使と幽霊の公共圏

1、チェルフィッチュは「どこ」にいるのか?―カタストロフィと「みんな」の演劇


パウル・クレー「新しい天使」,1920(http://noos-academeia.com/archive/lecture2013text/lecture03.html#title1)

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視しているなにものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。……歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば歴史の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。
ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」(『ボードレール他五篇 ヴァルター・ベンヤミンの仕事2』野村修訳,1994,岩波書店,p335)

 

2011年3月11日、日本の観測史上最大規模―マグニチュード9.0―の超大型地震は、死者・行方不明者が2万人を超える壊滅的な被害をもたらし、さらに福島県浜通りにあった東京電力福島第一原子力発電所から大量の放射能が漏洩する深刻な原子力事故を引き起こした。
社会学者の大澤真幸が論じるには、3.11と呼称される一連の出来事はこれまで自然に思われてきた歴史の連続を切断する破局的な出来事―カタストロフィ―だった。それはカタストロフィが起こる前には見えていなかった、あるいはとるにたらない無意味のものだとされていた現象が、実は原発事故の可能性の予兆であったことを事後的に明らかにする。例えば「安価でクリーン」な原子力エネルギーの理想を体現した100万馬力の鉄腕アトムのような神話は、歴史の連続に揺るがない一貫した意味を与える。ところが、「想定外」からやってくる偶有的な出来事(千年に一度の地震)によって、過去の意味は書き換えられる。あまりにも起きそうにないために「無意味」であった事実―日本が地理学的に四つのプレートの境界線上にある地震の多発地帯であったこと―が、カタストロフィのあとで初めて意味を持って現前してくる。
だとするならば、カタストロフィの経験は、一枚岩に見えていた共同体の価値観に亀裂を入れ、その価値観を支えていた枠組みそれ自体を書き換える、いわば政治的な場を用意するだろうというのは自然な推論であるように思える。つまり、閉じた無意識の共同体に実は孕まれていた異質な〈他者〉の声を聞くための公共圏が開かれるだろうと。
だが、現実には「がんばろう、日本」を合言葉に、イメージの上では日本の全体性が共感的なコミットメントを介してすぐさま回復されると同時に、「放射能被害」の根拠なき噂話はTwitterのアーキテクチャの支援を受けて国民井戸端会議の様相を呈した。一通りの感情的な反応が収束したのちまぁ起こらないだろうという自然な感情の側が勝利を収め、あたかもカタストロフィが「みんな」の内部に書き込んだ「異物/他者」に対する不安などなかったかのようである。ここでは、カタストロフィが噴出させた他者と対峙することで自分自身、自分の属している共同体を書き換えていく「公共圏」は必要とされなかったように見える。しかしそれはなぜなのか? という問いは「なぜ演劇を観客に見せる必要があるの?」という演劇の問題と同型である。どういうことか。

演劇批評家の内野儀は共同体/公共圏をめぐる問題系を「J演劇」の概念で的確に射抜いてみせた。内野的な「J」は「Japan/Junk/Jouissance(享楽)」の頭文字をあわせたものだ。内野曰く「Japan」の「わたし」は日本的情緒共同体を根拠にしてアイデンティファイする。例えば「わたしが仕事を頑張る」理由が「みんなが頑張っているからだ」に還元される。合理的な理由は一切ないが、先輩が残業していたら先に帰っちゃいけないような同調圧力が、しかし「わたしが頑張る」理由と曖昧に一体化していくのが「みんな」を主語とする未分化な日本的主体である。
こうした文化的規定性の内部では、観客の「なぜそれをわたしに見せるの?」に対する「わたしは……」と応答する言説がない。しかしそれでも演劇は日夜上演されている。ではなぜ観客に演劇を見せているのか? 共同体のなかに蓄積された批判的な〈他者〉の記憶を呼び出すため、あるいはそこに新たな〈他者〉を書き込むため、といった理由が想定されるが、観客もまた「わたし」のアイデンティティが「みんな」から備給されるのであれば、「みんな」の和を乱す批判的な「他者」をアクチュアルに現前させられても困ってしまう。したがって、〈他者〉との批判的な関係性の構築=公共圏が「わたし」をアイデンティファイしない「Jという場所」においては、上演主体もそれを見る観客も、自―他のダイナミズムから共同体が再編成されていく美学的・政治的な演劇を必要としていない。つまり深刻な気分になることは好むが、深刻さを受け止めることを拒否するといった二重の身振りが「演劇の公共性」もカタストロフィが開く「歴史へのまなざし」も同様に閉ざす。いま、みんなで楽しくやっている限り、それが必要である理由が存在しないからだ。
こうした「他者」不在の磁場で演じられる「J演劇」は、「自己/他者」の非在―演劇が上演される理由の不在―を隠蔽しながら必然的に「みんな」で情緒的な気分に浸り一体感を得るためのツールであり、美学的・政治的な言説の空間に位置を持たないJunkな演劇である。ゆえに上演の先に「新たな足場」を想定することがそもそも期待されることがありえない。
ではやはり「みんな」の内部では見えない異質な他者が顕在化すること、破局的な出来事から自分自身、自分が属する共同体を書き換えるオルタナティブな立脚点を構想することは全く不可能なのだろうか?
ところが、そうではなかったのである。その可能性は岡田利規+チェルフィッチュの活動に示されている。

2、岡田利規+チェルフィッチュ

チェルフィッチュとはなにか?

 岡田利規が全作品の脚本と演出を務める演劇カンパニーとして1997年に設立。チェルフィッチュ(chelfitsch)とは、自分本位という意味の英単語セルフィッシュ(selfish)が、明瞭に発語されずに幼児語化した造語。
http://zougame.chelfitsch.net/about/

まさにJ演劇である。「出る杭は打たれる」がごとく「わたしは……」と応答する言葉が自己/他者を書き換える可能性を持たず、常にいつも「みんな」のなかに未分化に溶け込み明瞭に発語しえない「J的主体=チェルフィッチュ」。「Jという場所」への批評性がそのまま劇団名=コンセプトとなる特異な集団、それがチェルフィッチュである。それでは岡田と力+チェルフィッチュは「なぜ観客に演劇を見せる必要があるのか?」―観客に〈他者〉との関係を生じさせるためにはどうしたらいいか―という問いに、どのように応答したか。
その後の小劇場演劇に少なからぬ影響を与えたチェルフィッチュの代表作『三月の5日間』(2004)は、「静かな劇」の内部では劇作家の特権性において切り捨てられていた俳優のノイジーな身体を顕在化させた。軸となるストーリーラインは単純で、ライブハウスで知り合った男女がラブホテルで4泊5日、ひたすらセックスをして名前も聞かずに分かれる、というもの。それは、先行していた「静かな劇」の現代口語を超えて、あたかも現代の若者言葉をそっくりそのまま写し取ったかのようなであり「超現代口語演劇」とも呼称された。しかし、本作はもちろん単に「若者言葉」を用いた「超リアルな演劇」ではない。
まずそこでは、「一人の俳優が一人の登場人物を再現する」という伝統的な演劇の模倣性が脱臼される。「複数の俳優が一人の登場人物を外から語り・内から演じる」あるいは「一人の俳優が複数の登場人物を外から語り・内から演じる」一人称的没入と三人称的語りが往復され、「だれ・いつ・どこ」はその時々に焦点化された俳優の主観的なナラティブによってその都度決まっていく。
「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようと思うんですけど」とミノベについて観客に語りかけていた男優1は「隣りにいる女が誰だよこいつ知らねえ」とホテルで起きたミノベを模倣したと思ったら、時間はライブハウスに行った時に巻き戻り、いつの間にか観客へのナラティブは男優2との会話へすり替わる。この瞬間、「男優1が観客にミノベの話をしている」という構造が「男優1が体験したミノベの話をしている」へとそれとなく転調し、ミノベ=男優1のような錯覚が生まれるが、そのあとに男優2が「あ、そうなんだ、すごくない? 英語分かるんだ」と語りかけることで男優1はライブハウスで出会った女の役に成り代わる、あまつさえ、男優2は「っていうこの話は、アズマっていう、ミノベくんといっしょにライブに行った方の男なんですけど」と実は今までの話がミノベの話でも、ミノベの体験でもなく、アズマが「5日目の朝に」ミノベから聞いた話であったことが告げられる。

男優1((((ミノベについて語る人)ミノベ)ライブハウスの女)アズマ)……

男優1は、上記のように「( )」がどんどん外へ開いていくように、次々に別の誰かにすりかわっていく。「だれ・いつ・どこ」の客観的な全体性は、多焦点的な主体の集積=ノイズへと変換される、つまり、男優1が「( )」に綴じられた人物になるのではなく、発話や指差しのエフェクトが「( )」をどんどん生じさせ、男優1はその「( )」が縮減する媒体として機能していく。
通常であれば独立して存在しているはずの「主体」は、「単」焦点的に世界を意味づける主体としてではなく、「多」焦点的に発話するたびに「誰か」になっていく主体として現れる。「誰」を確定できない「多」を内包した「集団=主体」としか言いようがない奇妙な主体が出現するのである。
だが、こうした「集団=主体」の生成は、チェルフィッチュが「Jという場所」を体現する劇団名=コンセプトであったように、共同体=みんなにアイデンティファイされて未分化な主体が生成していくドキュメントである。しかもそれは未知なる主体の生成というよりは、あらかじめ「三月の5日間の物語」に内包されていた登場人物が、俳優の「( )」に挿入されていくといったものであり、つまるところ「みんな」のアイデンティティが分有された「みんな=わたし」といえるようなものだ。
この多焦点的な主体化を「多人称」と名付ければ、「J的主体」は「みんな=多人称」が目まぐるしく身体に書き込まれていくことでその都度ごとに仮想的な「わたし」を生成するジャンクな集積身体なのである。これは、自律した主体の解体作業、ではない。事情はむしろ逆なのだ。この「誰」だかわからない多焦点的なノイズの集積こそが「J的主体=チェルフィッチュ」のあるがまま、なのである。
『三月の5日間』は、「わたし」が「みんな」へと組織されているプロセスそのものを過剰に顕在化させることで、「J―ジャパン―の身体」が隠蔽する「J―ジャンク―」の異物的な他者性を観客と対峙させたのである。

3、幽霊と天使

A.

ところが、2011年3月11日に起こったカタストロフィの翌年に発表された『現在地』(2012)以後、(それ以前からの方法の発展という側面はあるにせよ)チェルフィッチュの方法は、『三月の5日間』的な多人称の「ジャンクな身体」から、現実を脅かす「幽霊の身体」の出力へと移行していく。

〈演出力〉というのは、舞台上で生じる行為・出来事・状態が観客に対して引き起こす効果・現象に焦点を合わせて、それらの働きの強さを判断して、その働きをより明確で強いものにするための操作を施す技術のことで、そんなふうに俳優が行ったパフォーマンスそのものにではなくそれが引き起こす効果・現象のほうにより重心を置いて見る、というのは俳優を幽霊のように見る、ということに近いと思っている。……私たち人間は自らの想像力を、幽霊というコンセプトに基づいて用いることによって、現在のこの時間を構成する要素の中に〈過去〉が必ず含まれている、という事実を感覚のレベルで確かめることができる。
岡田利規「幽霊の生は大事な問題だ」(『viewpoint no.77』,2016,セゾン文化財団,p6)

幽霊とは、閉じた無意識の共同体に実は孕まれていた異質な〈他者〉の声であり、生者が帰属する共同体を再編成するための場―公共圏―を要求するものの謂れである。
日常のなかの「みんなという他者」を顕在化させるのが『三月の5日間』だとしたら、歴史的な時間の中で(わたしも含めた)「わたしたちの他者」を顕在化させるのが「幽霊」の方法である。カタストロフィが、自然な歴史の連続を切断し、過去に潜在する未知なる他者を噴出させていくのであれば、ジャンクな身体は〈現在〉に潜在する異物でしかなく、〈過去〉に潜在する他者を開く継起にならない。岡田利規の転回は、しごくまっとうな「カタストロフィ」への向き合い方のように思える。
ところで、岡田は「幽霊の生は大事な問題だ」で、続けて「幽霊が過去を生々しく形象化したものだとしたら、未来を継承化したものとは一体なんだろうか?」と自問し、過去の「幽霊」に対して未来の「天使」を対置させている。同文でそれ以上の追求はないのだが、筆者が思うところでは、実は「幽霊」と「天使」は対になる対立物ではない。「天使」はまなざすものであり、「幽霊」はまなざされるものだからだ。だから未来の「天使」に対置されるのは現在の「人間」である。つまり、ここで「幽霊」の可能性は「天使のまなざし」と「人間のまなざし」に二重化される分岐点を持つことになり、したがって共同体の価値観を書き換える公共圏の二つの可能性を示すものである。
そして、カタストロフィ以後において、カタストロフィをめぐる状況を直接的に描いた『現在地』とは「人間のまなざし」に規定されており、実は〈現在〉のジャンクな身体を露出させるだけの『三月の5日間』は「天使のまなざし」を引き受ける。どういうことか。

B.

地球から遠ざかっていく「宇宙船」を舞台に、青く光る雲が発見されて以来まことしやかにささやかれる「村が滅びるかもしれない」という予言をめぐって7人の女声が信じるか・信じないか、逃げるか・留まるかの選択が迫られる、というのが『現在地』の基本的な物語である。「あからさまな」(『現在地』あとがき)3.11以後のカタストロフィをめぐる寓話となっている。その「あからさま」さは例えば次のようなセリフに端的に現れている。

ナナ そうよ。そうして私たちは、今、ここにいるの。これまで通り、この村に。あの村は滅びてしまったと言っている人がいても、それは誤った噂よ。(だってほら、そうでしょ?)
岡田利規『現在地』,2014,河出書房新社,p104

「だってほら、そうでしょ?」は日本国内の上演のみに付け加えられると指定がある。つまり、この劇を見ているということは、まだ村=日本は滅びていない、したがって「村が滅びた」というのは噂でしかなく真剣に受け止めるものじゃないんでしょ? と「あからさまな」悪意が観客に投げかけられる。いまのところ「みんな」である程度楽しくやれているのだから、私たちはカタストロフィと向き合う必要性を感じることができない。「みんな」の影で悲惨さを被っている〈他者〉、あるいは日本が滅び難民化しているかもしれない未来の〈他者〉の可能性には目をつむって。
そうした「村」=「Jという場所」においては、カタストロフィがそれとして認識される可能性がないようにみえる。しかし本作で、台詞の語尾に「〜だわ」「〜かしら?」「〜なのよ」といったいわゆる女性のステレオタイプを示す役割語が全編を通して使用されていることに着目しよう。こうした役割語を金水敏は「ヴァーチャル日本語」と呼んだ。彼によれば役割語とはある社会階層や集団独特の言葉ではなく、「私たち一人一人が現実に対して持っている観念であり、いわば『仮想現実』(ヴァーチャル・リアリティ)なのである」(『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』,p37)。この考察自体は「まぁそうだろう」と思えるものだが、それは一方で『三月の5日間』と『現在地』に通底する側面を教えてくれる。
つまり、『三月の5日間』における主体の単独性を持たない多人称の「わたし=みんな性」と『現在地』はまったく断絶しているのではなく、役割語=ヴァーチャル日本語を介することで『三月の5日間』と同様な「わたし=みんな性」を立ち上げている、ということである。だが、そこにはもちろん差異がある。
多人称はそのつどごとに「わたし」を「みんな」の誰かに割り当てる流動性を特徴とするが、役割語は「わたし」が「みんな」の仮想現実の内部にあらかじめ書き込まれる固着性を特徴とする。しかし両者は別物ではなく、多人称においても人称の書き込みを不可能にするような隔絶した「他者」―例えば兵士や外国人―が現れえないように、あらかじめ「みんな」の範囲が画定しているからこそ、「わたし」の焦点は流動できる。役割語は、多人称の「みんな」性をヴァーチャルな「日本」の全体性において可視化する装置なのである。
だとすれば、『現在地』とは2011年における現実の反映ではなく、どこまでもヴァーチャルな「日本」である。カタストロフィの後に宇宙船に乗って地球を脱出するSF的設定だから「ヴァーチャル」なわけではない。あらゆる未来の時点にあり得たかもしれないもう一つの「過去」―ヴァーチャル・リアリティ―としてつきまとう「2011年の幽霊」だからこそ「ヴァーチャル」なのだ。逆に言えば、役割語のヴァーチャル・リアリティにおいて、『現在地』は未来の〈いま・ここ〉と緊張関係を孕み続ける。『三月の5日間』が「多人称」的であったとすれば、『現在地』は「多時制」的、といえるかもしれない。それは、未来のどの時点においても常に批判的な〈他者〉であり続ける―「潜在地」なのである。

C.

それでは『現在地』という潜在地こそ、未来に生き続ける「過去」、つまりは「天使」のまなざしを引き受ける公共圏なのではないか? ここで冒頭で引用したベンヤミンの「歴史の天使」について思い返してみよう。かれはただカタストロフィによって廃墟と化した歴史の廃棄物をまなざす天使である。

人間の営みはすべて廃墟の姿を示す。……日常生活の連続と見えるものは、実際にはカタストローフ(破局)の廃墟の山でしかない。……この廃墟の中で歴史の天使または歴史学者は、破壊された断片を「寄せ集める」……あるいは「断片を組み立てる」……などのふるまいをする。そうすることで、過去の「ありえたかもしれない可能な生」、「可能態にある生」を現実的なものに変えるのである。
今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』,2000,岩波現代文庫,p.123

歴史の天使は進歩の強風にあおられて未来へと運ばれていくが、常に未来から〈過去〉をまなざしている。すなわち、人間が幽霊を〈現在〉においてまなざすようには、天使は〈過去〉をまなざさない。
確かに『現在地』はカタストロフィ以後のあらゆる時点の観客に「2011年の幽霊」との緊張関係から自己自身に対する批判的なまなざしを向けさせるかもしれない。しかしその時点―2011年、2111年、2211年……―での〈いま・ここ〉と拮抗し続ける潜在的な「現在地」の幽霊は、それが観客の知覚へ向けて現象する限り、いつでも〈いま・ここ〉に縮減されるほかない。しかし、天使は、その〈いま・ここ〉には決して到来することのない潜在する無数の廃墟の山=ジャンクな断片に目を向ける。観客が〈いま・ここ〉で上演を見るという劇場の制度においては、「天使」の存在はあらかじめ禁じられてしまう。「現在地」は「潜在地」を顕在化する。ゆえに、そこは「潜在地」そのものではない。
だが、それは不可能な要求ではないか? 〈いま・ここ〉で演劇が上演されるのは、あまりにも自明なことであり、なおかつ人間の知覚に現象しないのであれば、それは「ない」のと同じだ。そもそも、そんな「ない」のと同じもので、〈いま・ここ〉を書き換える公共圏を構想すること自体に意味がない。
その通り、と言っていい。しかし、あるいはゆえに、天使のまなざしは幽霊を幽霊の潜在態のままに可視化する不可能な視線の別名なのだ。人間に見られることで存在し、現在を脅かす「幽霊の公共圏」に対して、天使の不可能な視線を受けて存在する「幽霊」を「つくも神」と仮に呼び、そこから構想される公共圏を「つくも神の公共圏」と名付けよう。人間も草木も動物も道具も、古くなるにつれて霊性を獲得し「つくも神」になる。古来からのアニミズム信仰の名残といえるが、どこにでも存在し、しかしどこに存在しているかは現在の人間の目からはハッキリ見えない存在であり、それは「天使のまなざし」を引き受ける幽霊にふわさしい呼称のように思える。
だが、つくも神の公共圏と呼んでみたところで、それに実質がなければ意味がない。〈いま・ここ〉では幽霊は見えるがつくも神は見えないというアポリアは、演劇作品が〈いま・ここ〉で上演されることそれ自体に孕まれた解決不能な問題である。したがって、私たちは2500年かけて培われてきた「上演を見る」というあまりにも自明な伝統の外へと出ていかなければならない。
どうやって? もう一つのチェルフィッチュ、山縣太一の天使に目を向けることによって。

4、山縣太一+チェルフィッチュ

A.

本稿が「岡田利規論」であるにも関わらず、山縣太一に目を向けるのは、本論の趣旨から逸脱するように見えるかもしれない。しかし山縣太一がチェルフィッチュの初期(2001年)から、岡田とともにクリエイションに携わり、さらには、岡田利規のチェルフィッチュとは独立して、『三月の5日間』の延長線上にある「日常の無自覚で豊かな身体」を追求するソロユニット「オフィスマウンテン」を2015年から開始したその動きは、まるでチェルフィッチュの内包していた可能性が岡田利規と山縣太一に分岐して「チェルフィッチュズ」になったかのようである。岡田利規のあり得たかもしれないもう一つの可能性が山縣太一のオフィスマウンテンだと、ここで仮定してみせることはそれほど不自然なことではないだろう(もちろん両氏は別人なので、岡田利規の可能性の代補が山縣太一だとか、山縣太一が岡田利規のコピーだとかそういう卑小な話ではない)。
2015年に音楽家・批評家の大谷能生を俳優(!)として迎えて上演された『海底で履く靴には紐がない』は部下を飲み会に誘うもうまくコミュニケーションできない中年上司の悲哀を描き出すドラマであった。そのドメスティックな設定に辟易する向きもあるかもしれない。岡田利規+チェルフィッチュが「Jという場所」を「幽霊」という普遍的=美学的回路へと接続してみせた作品―『現在地』・『地面と床』・『部屋に流れる時間の旅』など―が示すようなインターカルチャラルな実践があるわけではなく、それどころか大谷能生という俳優としては素人の身体を積極的に用いる姿勢は、本論で追求してきた「自/他」の関係性を創り出す公共的な演劇の視野からすれば、退行しているようにも見える。
本作からひとつセリフを引用しよう。

ちょっと、ちょっと、手を止めて、話を聞いてくれる? ちょっと、ちょっと、手を止めて、話を聞いてくれる? ちょっと、ちょっと、手を止めて、話を聞いてくれる雰囲気を三人で作れたらそれは話し手と聞き手の関係というよりは三者三様でだれがイニシアチブをとるでもなく、かつ、かつ、消極的なお参加だというような見え方には着地しない。ホバリングをやめない。軽さの中にもしっかり重さが区別なく存在していることを……
「https://www.youtube.com/watch?v=F-MxK8Engpk」(『海底で履く靴には紐がない』,2015)より書き起こし

注目したいのは、「だれがイニシアチブをとるでもなく」と「ホバリングをやめない」である。上演はほぼ大谷の一人芝居に近いものだが、そこで遂行される身振りは確かに日常の延長線上にあるが、同時に複数のリズムが一つの身体に同居している、つまり「だれがイニシアチブをとるでもなく」とはもちろん「劇作家/演出家」が主導権を握らず俳優のための舞台をつくることの宣言ではあるが、大谷の身体平面に流れる「誰=リズム」がイニシアチブをとるでもない、という風にも二重に理解できるのだ。だから、「ホバリングをやめない」とは身体のうちの「誰」にも主導権をわたさず浮き続ける=宙吊りであり続けることの謂れであり、これが正しければ「軽さの中にもしっかり重さが区別なく存在している」とは、宙吊りの状態を維持しながらも身体に流れる多元的なリズム=誰を区別なく存在させることを意味している。
本公演の山縣太一・岡田利規・大谷能生のアフタートークで、山縣は次のように言う。

(本番に向けて)センスが良いものが残ってっちゃうじゃないですか。で、余計なものとかダセェものは残らないっていうのが結構もったいなくて、っていう意味ではイカのところはわりとはじめからあったんだけど、結構最後まで残ったダサい部分というか、なんかまぁわかりやすい部分もあるんだけど、そういうところって結構意識的に残したいなって。
「https://www.youtube.com/watch?v=I7yRqQ_-Q2E」より書き起こし

だから、ジャンク=ゴミを切り捨てない、ということだ。この山縣太一の思想は、職業俳優からすれば素人、つまりはジャンクである大谷に焦点を当てた上演を行ったこと、2017年に入って誰でも参加できる、そして誰でも出演できるワークショップを開催し始めたことに直接的に反映されている。しかし、彼の動きは一体なにを意味しているだろう?

B.

ここで一本の補助線を引いてみよう。考現学の潮流である。
考現学は柳田国男の弟子であった今和次郎が「民俗学」でも「考古学」でもない「現代風俗」の採集・研究の方法として提唱した。例えば、そこで採集調査の対象となるのは「都会における各種の人びとの各種の場合における歩速度や歩き方、腰のかけ方やすわり方、身体の細部における癖、街路上における通行人の構成」といった「人の行動にかんするもの」から、通行人の化粧・結髪の状態、靴の色、足袋を履いている人の割合などなど、恐ろしく細かい、そしてほとんど「どうでもいい」と思える―ジャンク=ゴミと紙一重の―風俗を採集した(今和次郎『考現学入門』)。今和次郎は1923年に発生した関東大震災のときに「そこにみつめねばならない事がらの多いのを感じた」(前掲p361)ことから、考現学を立ち上げる。彼は「そういう美の殿堂は、いつまでも崩壊せずに立っているだろうか」(「ブリキ屋の仕事」)とそこにあるものに「滅び」の予感を感知する独特の視線の持ち主だった。

何百年かの後の考古学者に余分な手数をかけさせないようにと現代の物の記録を作っておく仕事のことを、私はふざけて考現学と称して笑わせようとしていますが、現代考古学とは考古学的現代学即ちそれの事です。
今和次郎『考現学入門』,1987,ちくま文庫,p266-267

関東大震災というカタストロフィから生まれた考現学の視線こそ、すなわち天使のまなざしである。なぜなら、考現学は、〈いま・ここ〉に考古学的なまなざしを向けるものであり、「それ」がいつもあらかじめ「滅びるもの」であることを看過しないための方法的態度であるから、という美学的理由に加えて、それを採取して何の価値があるのか全くわからない―趣味的・学問的な準拠点を持ちえない―ものたち、つまりは〈いま・ここ〉との緊張関係を孕むかどうか判然としない本当のゴミと紙一重なものたちへの視線だからだ。前節の言葉を用いれば、前者は「幽霊」であり、後者は「つくも神」である。
このまなざしのミームは高度経済成長にカタストロフィを察知した現代美術家・赤瀬川原平に感染し、ビルの高層にある使えないドア「高所ドア」や登って降りるしかできない「無用階段」といった「無用であるにも関わらず何故か保存されている物件」を採取する「超芸術トマソン観測センター」の活動へと繋がっている。そして、〈いま・ここ〉に縮減し得ない「ジャンク=ゴミ」を切り捨てない山縣太一のまなざしは、考現学が内包した無数のジャンクなものへまなざし―天使のまなざし―のミームを引き継ぐものである。
ひるがえって考えると、『三月の5日間』は「都会における人びとの歩き方・座り方・身体の細部における癖」をイマジナルに身体へと転移させる考現学的実践だったのではなかっただろうか。そして岡田利規+チェルフィッチュは、考現学的な「取るに足らないジャンクなもの」の身体転移の実践を出発点に、観客の〈いま・ここ〉へエフェクトする・観客がエフェクトを読解する解釈学的な実践へと歩を進めていった。そして、山縣太一+チェルフィッチュは考現学的実践をさらにラディカルに展開していった、といえるのではないか。

5.分岐するチェルフィッチュズ

最後に、山縣太一のラディカルな実践から想定される「つくも神の公共圏」とは一体何なのか? を考えてみたい。
そもそも、万物に霊が宿ると考えて無意識に埋没しがちなアニミズムの発想は、意識的に構築される公共圏の発想とは相性が悪い。それは「J的主体」が「みんな」を準拠にアイデンティファイするために「自/他」の緊張関係を意識的に構築することの意味がわからない、というのとパラレルな関係にある。だがここで問題は、「J的主体」による「公共性」を考えうる―だからカタストロフィを起点に共同体の現実認識を書き換えうる―のか? という点だ。
岡田利規+チェルフィッチュは、未来の共同体的現実を脅かし続ける「現在地の幽霊」を公共圏の足場となる〈他者〉として出現させた。平たく言えば『現在地』を書いた、ということである。『現在地』の幽霊性は「観客」という他者を常に必要とし続け、言説の空間を未来において開き続けるだろう。
では山縣太一+チェルフィッチュは、どうか。もし仮にそれが〈いま・ここ〉に縮減するのであれば、ある意味では趣味的な「変な動きを楽しむ会」と見分けがつかない。だからここで発想を逆転させる必要がある。〈いま・ここ〉で「それ」を見るのではなく、見ることが追いつかないほどに、「それ」をばらまき続けることである。山縣太一の実践とは、俳優の身体に対して意識が追いつかないほど複数の身振りをばらまき、さらに〈いま・ここ〉が追いつかないほどに「チェルフィッチュ=ジャンクな身体」をばらまき続ける「活動」のレベルにおいて、ありうるかもしれない創発的なネットワークの苗床を準備する実践なのだ。
その一つの一つの身振り、あるいは作品はもしかしたら意味がわからないかもしれない。〈いま・ここ〉で「自/他」の緊張関係を胚胎させないかもしれない。ジャンクである、とは本来的にそういうことだからだ。しかし、〈いま・ここ〉に縮減しないジャンクとは、また本来的に〈他〉であるはずだ。それは「他者」として明示化されないかもしれないが、「他/者」として偶発的に共同体を書き換えるかもしれない。この「かもしれない」創発的な公共圏が「つくも神の公共圏」である。ばらまかれたチェルフィッチュズの活動は「劇場で作品を見る」という制度の内部では明かされない、しかし未来の考古学者の手を煩わせないほどにはジャンク=ゴミをばらまき続ける。
人間は個体である限り、分岐する可能性を同時に実現することはできない。しかし、分岐するチェルフィッチュズは、個体の限界を超えてチェルフィッチュに内在していた可能性の展開を可能にする。幽霊とつくも神。人間と天使のまなざし。そこから構想される二つの公共圏。そのどちらが良いという議論にはあまり意味が無いだろう。どちらもあったほうが良いに決まっているからだ。筆者としては、この二つの公共圏の可能性が「Jという場所」に〈他者〉を息づかせるインタラクティブな関係を築けるか? というのを今後の課題にしつつ、本論を締めくくりたい。

文字数:13268

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