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J→21?

1、フレンズ身体と『再生』

高らかに笑い笑えばフレンズ
喧嘩して すっちゃかめっちゃかしても仲良し
けものは居ても のけものは居ない
本当の愛はここにある
ほら 君も手をつないで大冒険
『ようこそジャパリパークへ』,作詞・作曲・編曲 大石昌良

2017年初頭に放映されたアニメ『けものフレンズ』は、BDがAmazon1位で即予約品切れ、ニコニコ動画にアップされた1話の再生回数はダブルミリオンを突破するなど大ヒットを飛ばした。ヒト化したけもの=「フレンズ」が生息するジャパリパークを舞台に、記憶喪失の「かばんちゃん」(のちに髪の毛から生成されたひとのフレンズだとわかる)が自分の種族を知るため「じゃぱりとしょかん」を目指して旅をする。図書館までのガイドとなるサーバルちゃん(サーバルのフレンズ)はーすると「すっごーい」と素直に驚く、つまりは否定語が存在しない肯定形に貫かれたロードムービー。

プロデューサーの福原が「深夜帯に疲れた大人が癒やされる作品」を目指して作ったという本作は、「IQを下げる」と言われる一方で、エンディングの意味深な廃墟化した遊園地の映像や、パーク内に残された遺跡化したアトラクションから「人類滅亡後の世界では?」的な考察班がネットで活躍するなど広範な展開を見せる。本作は、どんな個体も「フレンズ」であることで平等であり、食料は自動供給されるため肉食獣と草食獣の「食べる―食べられる」バトルロワイヤル的な生命の切迫なく自由に生き、友愛で結ばれる。人類が目指すべき「自由・平等・友愛」のユートピアの極北である。20世紀を通じて人類が目指したユートピアとは、全ての生物に「フレンズ」が書き込まれた「フレンズ身体」の楽園だったのか、と思わせる。

ところで先日、STスポットにて再演された東京デスロック『再生』(2006年初演)を観劇したとき、筆者は衝撃を受けた。その作品が達成した境地に、という意味もさることながら、『けもフレ』と『再生』がほとんど同一の事態に対する二つのリアクションであり、さらにはそこで示された身体表象のあり方が驚くほど似ていると思われたからだ。およそ「大きなオトモダチ」向けに製作されたとは思えない『再生』は、『けもフレ』が表象する「フレンズ身体」を別の回路でリアライズするものだった。

まさか、と思われるかもしれない。詳細は後述するが、例えば『けもフレ』ではすべての個体の身体が「フレンズ」というただ一つの条件において生成するのと同様に、『再生』ではすべての個体の身体が「J-POP」というただ一つの条件において生成する。そして、前者は「フレンズ」を謳歌する楽園を描き、後者は日本的「フレンズ」の隘路を描く。

ジャパリパークとJ-POPージャンルを違える二つの「Jという場所」ーここでは、アニメ的な虚構の身体と演劇的な実在する身体が、虚実を超えた「フレンズ身体」を結果的に表象している。

この問いの立て方に既視感を覚える読者は(若干)いるかもしれない。筆者は第六回目の課題論考「現実のもっと近くに―演劇化するセカイの想像力」で次のような仮説を立てた。文学に代表される普遍性・客観性を基準とする「現実」理解は、00年代以降、2.5次元演劇の台頭やSEALDsの体感ベースの没入型デモに象徴されるように、リアル(客観的現実)とバーチャル(主観的現実)の境目が液状化したことで、リアリティ(主観的=客観的現実)へと一元化されている。現実を措定する理想や虚構といった「共通認識=コモンセンス」は機能不全に陥り、いまや現実はセカイ演劇が無根拠に生成するだけの舞台へと変貌したのだ。

この仮説は、「けもの」はいるが「のけもの」はおらず、人もサーバルもライオンもトキも、ジャパリパークにおける「人もどき」「サーバルもどき」として生成される「フレンズ身体」の水準では現実とか虚構の区別を喪失させてしまうことを説明してくれるかもしれない。その一方、虚実の解体が具体的にどのような形で私たちの身体に影響を及ぼしているのかは、明らかにされていない。本稿では、『再生』の分析を通じて虚実の区別を無効化する「セカイ演劇」に組織されていく身体表象に光を当ててみよう。

2、現実と虚構

多田淳之介が結成した劇団「東京デスロック」は2001年から活動を開始。2006年に初演された『再生』は小劇場演劇シーンではすでにかなり知られた作品だ。「宴会」でバカ騒ぎする7人の男女が爆音で流れるJポップで踊り狂う、というのを三回全く同じように反復する形式が話題になった。舞台の中心には鍋。そして酒やジュース、菓子類が散らばり、一人ひとりが舞台後方に置かれたipadで選曲したものがダンスミュージックとなる。

東京デスロックの代表作(のひとつ)である本作は他劇団・別ヴァージョンのリクリエーションがされるなど、すでに上演史が形成されているのではあるが、本稿は東京デスロック論ではない。ゆえに、2017年10月12日(木)19:30~21:20に体験したあの『再生』についてのみ言及することにしよう。

ところでいま、筆者は2017年10月12日(木)19:30~21:20と書いた。常識的に考えれば、2017年10月12日19:30~21:20に観劇した東京デスロック『再生』は二度と繰り返されることがない上演である。しかし一方で、「上演史」を想定できるということは、常識的に考えて東京デスロックの『再生』が再演作品であり、これまで何度も繰り返し上演されてきたことを意味する。つまり、とても常識的に考えればあの『再生』は二度と繰り返されることのない上演であり、なおかつ何度も繰り返される上演なのである……?
ここにはすでに混乱があるが、この混乱、この両義性こそが「演劇」に固有の本質だと言える。〈いま・ここ〉は常にすでに二重化されている。例えば、客席の現実と、舞台の二次現実は明確に切り分けられるが、演劇を体験している時間を素朴に顧みれば、客席の時間と舞台の時間は二重に経験されている。
しかし頭も混乱するので、この二重性を厳密ではないにしても、用語の整理のために独断的に定義付けておこう。

① 繰り返し「再現」可能な〈いま・ここ〉は、いつもその場で「確かに世界はこのようにある」と思わせるリアリティである。
② 一回性的にしか起こらない現前する〈いま・ここ〉は、現にありありと感覚/記憶が喚起されるアクチュアリティである。

①はいわゆる自然主義リアリズム=表象の演劇が得意とする〈いま・ここ〉で、②はいわゆる身体の演劇が得意とする〈いま・ここ〉だ。一般的に戯曲を再現するために役に「なりきる」演技は①で、何も代理=表象はしないで身体の制約をバネにして出力する演技は②に妥当する。言い換えれば、①は舞台の二次現実を強調するが、②は個々の観客に喚起される体験を強調する。

さて、そこで、本作のタイトルに注目してほしい。いきなり①でも②でもない。『再生』だ。つまり、反復可能で現実を表象するリアリティと、一回的で現前するアクチュアリティの両義性を「再生」という全く別の角度から浮かび上がらせるのが『再生』の特異性である。

この特異性を、佐々木敦は簡明に言い当てている。完璧に同じことを繰り返すことが出来るロボット演劇に比して、精確に作動しない人間の限界から新たなクリエイティビティを発揮する試みとして位置づけた上で、佐々木は次のように言っている。

激しく踊った後、その場に伏している役者たちの荒い息づかいは、演技ではない。彼ら彼女らはほんとうに息が切れているだけなのだ。そしてこのことが、極めてプリミティヴな方法によってだが、結果として舞台上に「リアル」を現出させているのである。/多田淳之介にとって「身体的な負荷によって表出する身体の現前性」とは、いささかも抽象的・観念的な意味を含んではいない。それはあくまでもフィジカルな次元での、いわば身も蓋もないただの「無理=負荷」でしかない。だが、そうすることによってこそ、予め用意された虚構のフレームの内で、誰にとっても「これは演劇である」という前提の上で行われるしかない芝居の中に、「するつもりでなくてもそうして(そうなって)しまう」という枠外の事態としての息切れが現出するのである。
(佐々木敦『即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア』2011,青土社,p332)

ここでいう「リアル」は本稿の用語では「アクチュアリティ」に相当すると思われるので、そう読むことにすると、『再生』の俳優たちは、完璧な反復可能性=再演=再生を予定している「虚構」から、それゆえに「荒い息づかい」というアクチュアルな「現実」を出現させる。〈いま・ここ〉に現実的な身体(俳優)と虚構的な身体(役)の二重性が同時に立ち現れる。
この分析それ自体には何ら異論はない。だが、佐々木の議論からは観客の存在が抜け落ちているように思われる。確かに自身で言うように「機会に基づく変異」を上演の変数に組み込むと観客の状況次第でいくらでもヴァリアントが生まれてくるのであるから、観客との相互的関係を除外しないとロボットと対比される「人間」の可能性に話が進まない。しかし一方で観客の存在が抜け落ちてしまえば、本作のとある側面が不可視化されてしまうのではないか? というのが筆者の疑念だ。素朴に言って、なぜJ-POPが爆音で流されなければならなかったのか? という謎が解けないのである。もちろんこの問いは些細なものではない。むしろ本作の問題性はこの問いに集約されており、たとえ息が荒くなっても、私たちが実はロボットであらざるを得ない、「再生」の外には出られないことを爆音J-POPが組織する身体に示されているのではないか? なぜなら、爆音J-POPは、俳優の身体を虚構化する再生であると同時に、観客の身体をも虚構化する再生だからだ。

3、観客の「再生」
なぜJ-POPを爆音で流す必要があったのか? 一度、もう少し具体的に『再生』の流れを追ってみよう。
劇がはじまると、大音量の『リンダリンダ』が流れてくる。彼らはそれで踊り、曲の合間にはそれぞれの身の上話がそれとなく挿入されつつ、一回目の「再生」の終わりで、彼らがどうも集団自殺のために集まった面々であることが理解されてくる。しかし、「死」の表象は錠剤を手に取り乾杯して飲み込むという形でかなり曖昧であり、その後はシームレスに冒頭の『リンダリンダ』に接続されるために果たして彼らが「死んだ」のかどうかは判然としない。それどころか、三回反復されるのは確かだとしても、ただ偶然三回似たような同じことをしていたとも解釈しうる幅を残している(あるいは、集団自殺する演劇の練習をしているのだとも)。ここで重要に思えるのは二点ある。
一つは「死」がある意味では禁じられている点。もう一つは鼓膜に響き耳が痛くなるほどである爆音J-POPが、俳優と観客に全く等価に作用し「観客」を「観客」では居られなくしてしまう点だ。
まずは二点目からいこう。ピーター・ブルックが『何もない空間』で記した有名な演劇の定義がある。

どこでもいい、なにもない空間ーそれを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれをみつめるー演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。
ピーター・ブルック『なにもない空間』,高橋康也・喜志哲雄訳, 晶文選書

見る/見られる。この関係が成立すれば、演劇は成立する。シンプルだ。言い換えれば、観客は「見る」ことにおいて「観客」であり、俳優は「見られる」ことにおいて「役」である。だが、この定義には言葉足らずな点がある。(ある意味で「劇」の起点を定めるためのキャッチコピーなので仕方のない面もあるというのはさておき)それは「見る/見られる」関係以前に、その場がクリエイター(演出家・劇団)によってすでにいつも組織された場であるという点である。
複製技術以後のメディアであれば、〈いま・ここ〉のイニシアティブは常に鑑賞者のほうにある。いつどこでそれを見るのかを決定するのは、鑑賞する側だ。こうした記号の民主化は映画・テレビ・DVD・インターネットと複製技術の高度化によって促進されている。一方で、演劇の上演においては〈いま・ここ〉がどの〈いま・ここ〉であるかを決定するのは常にクリエイターの側だ。いわば、映像的体験は鑑賞者の知覚において組織されるのに対して、上演的体験はクリエイターの設える場において組織される。だからこそ観客は(わざわざ)劇場へ出かけなければならない。観客は劇場に設えられた〈いま・ここ〉に、不可避的に巻き込まれ組織されに、行くのだ。
こうした「組織する力学」を最大限に活用したのがアンダーグラウンド演劇シーンだった。彼らが額縁舞台の外へ飛び出し、唐十郎の赤テント、佐藤信のブラックボックス、鈴木忠志の利賀村、寺山修司の市街劇、太田省吾の能舞台といったかたちで、観客・身体・舞台が出会う関係そのものを組み替えていったのは、演劇が本質的に〈いま・ここ〉のトポロジカルな場にあらゆる関係性を組織する現象だからだ。彼らが身体性を重視したのも、新たな出来事の組織化は単に新しい上演形式の発明ではなく、身体の再-組織化が「同時に」、観客・舞台・言葉……といった諸要素の文法を全て〈他なるもの〉へと必然的に移行させるからだった。
そして、多田淳之介は、アングラ演劇が〈いま・ここ〉の空間的特質の変容から新しい身体=現実を見出そうとしたように、大音量のJ-POPから新しい身体=現実を見出そうとしたのは確かなように思う。しかし、決定的に異なる点が存在する。観客の組織される位相である。
ともに、身体=現実から新たな観客(アングラであれば大衆/民衆)を発見するベクトルは同じだ。ところが、アングラ演劇があくまでも場と集団性を苗床にした自発的な俳優の身体性を媒介=メディアにしていたのとは異なり、『再生』はタイトルの通り、再生される非-人称的なJ-POPが場を組織するメディアとして機能している。ここで主役はあくまでもJ-POPであり俳優ではないし観客でもない。思わず観客も一緒に踊ってしまいたくなるような爆音J-POPに俳優の身体も観客の身体も「Jに踊らされる身体」としてともに組織されていくのである。
つまり、この空間からは「見る/見られる」関係そのものが解体されており、結果、観客席=現実と舞台=虚構の区別は抹消される。あるのは、「J」に実際に踊らされるものー踊ってみたーと、今は踊っていないがいつ自分が踊ってもおかしくない潜在的踊り手だけであり、したがって観客と俳優の「見る/見られる」の階層関係は、「いま踊っているか/いま踊っていないか」の水平的な関係に変換されてしまうのだ。
だから私たちは次のように言うことが出来る。荒い息づかいや疲れていく身体は、実はアクチュアルに現前してはいない。なにしろ、観客もまた組織された虚構のパーツなのだから、〈いま・ここ〉がアクチュアルであることを判断する主体が存在しない。〈いま・ここ〉は「J」を無作為に書き込んでいく「J」のシミュレーションに乗っ取られており、人々は「J-POP」のデータベースから不断に生成され続ける情報の一部に過ぎず、「疲れる」こともー何しろこれは再現でも再演でもないのだからー再生されたシミュレーションのバリエーションに過ぎないのである。

4、シミュラクル身体
そもそも再現=表象的な実在の根を失った「再生」は現実のn次シミュレーション行為である。ポストモダン論の先駆的な旗手の一人だったボードリヤールはかつて、こう言った。

われわれはシミュレーションの論理の中で生きているのであり、事件の論理や理性の秩序とは何の関係もないのだ。シミュレーションの特徴とは、モデルが先行することであり、どんなささいな事件であろうとあらゆるモデルが先行するーまずモデルがそこにある。……事実にはそれがたどるべき道筋はなく、事実はモデルとモデルの交点で生まれ、一度にすべてのモデルからたったひとつの事実を生むことさえ可能だ。このような先取り、先行、短絡、モデルと事実の混乱……たとえどれほど矛盾に満ちていようと、いつでもあらゆる解釈を可能にさせてしまうー一般的なサイクルの中で、解釈から生まれたモデルのイメージに似せて事件の真実が交換されるのであれば、すべてが本当だ。
ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(1981),竹原あき子訳,1984,法政大学出版局,p23-24)

いつも先行する「モデル」をシミュレーションすることで相互に矛盾する解釈も含めてただ生成されていく身体。これをボードリヤールにならってシミュラークル身体と読んでみよう。『再生』が顕在化させた「J」に組織される身体とは、身体のアクチュアリティが、常に再生されるシミュラークル身体に置き換え続けられることを運命づけられた身体だったのである。
これは、00年代の批評シーンに大なり小なり影響を与え続けたオタク系文化批評の動向と、(当然といえば当然だが)パラレルな関係にある。東浩紀が無意味な情報の集まりであるキャラクターのデータベースからオリジナルともコピーとも言えないシミュラークルを組み合わせて好みに合わせたキャラを生成していくオタク系文化の読解を試みた『動物化するポストモダン』、さらには「ぼくときみ」の小さな関係と世界の終わりと短絡させる「セカイ系」や、データベースの確率的環境のもとで「ほかでもあり得たかもしれない」メタ物語的想像力が生む「ループもの」と言われるジャンルと『再生』がさしあたりの類似性を見せているとは言えるだろう。東浩紀の通奏低音には、現実を唯一的なものとして意味づける「大きな物語」(ボードリヤール的に言えば「神」)が失墜したあとのポストモダン的な生のあり方を追求する(肯定する)志向性が一貫してある。
しかし、筆者にとって重要に思われるのは、なぜJ-POPなのか、の一言に尽きる。つまりポストモダン的な現実のシミュレーション化は、単に大きな物語の失墜に還元し得ない、もう一つの軸、つまりは日本的な主体との相関的な関係性を問わなければ、『再生』が示してくれたような私たちの現前するアクチュアルな「身体」の徹底的な喪失の意味を明かしてはくれない。それは同時に『けもフレ』が『再生』と同じように指し示す「ヒトもどき」ーつまりはシミュラークル化した身体ーがなぜ「ジャパリパーク」を舞台にするのか? に対する答えも、だ。
この問いへの答えが、シミュラークル身体が『けもフレ』的なフレンズ身体へとメタモルフォーゼせざるを得ないのか? という問への鍵を、さらには「J」の組織化に抵抗する術を教えてくれるはずである。

5、現代口語演劇と日本人とフレンズ
なぜ「J-POP」か、という問には比較的容易に応えられる。『再生』が現代口語演劇の形式化だからである。
「現代口語演劇」を提唱した平田オリザは1982年に劇団「青年団」を立ち上げた。1989年には宮沢章夫に絶賛された『ソウル市民』を上演、1995年に『東京ノート』で岸田國士戯曲賞を受賞する。1998年には現代口語演劇の(そして演劇への)わかりやすい入門書である『演劇入門』を出版し「現代口語演劇」理論は、00年代から現在まで、日本の小劇場演劇に大きな影響を与えた。
多田淳之介も現代口語演劇に影響を受けた演劇作家の一人であるが、「現代口語演劇」が何だったのかを総体的に検討する時間はなさそうなので、少々乱暴ではあるが、内野儀の次の言葉を引用してみよう。

「静かな劇」は凝視による距離の固着化を強要するのである。それは。情緒共同体という自己イメージ、つまりは非ー在の「私」のイメージを徹底して安全な距離で視ることにほかならない。「静かな劇」の観客は情緒共同体に同一化するのではなく、ただ凝視する。それが「静かな劇」の上演の「現実」なのである。すなわち、日本的情緒共同体を距離化/対象化する身振りにおいて永続化させてみること。
内野儀「野田秀樹、あるいはメロドラマの逆襲」(『メロドラマの逆襲 「私演劇」の80年代』,勁草書房,1996),266-267p

非ー在の私とは聞きなれないかもしれない。それを要約すれば、すなわち「みんな」のことである。日本的情緒共同体(山本七平が『空気の研究』のなかで「「空気」とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」と喝破したそれ)を根拠にする非ー在の私は、いつでも常に「みんなのアイデンティティが私のアイデンティティ」にすり替わるような主体である。内野いわく、新劇以降、日本の近代・現代演劇は常におのずから「みんな」を表象してしまう私演劇的なメロドラマを反復し続けている。これがそのまま現代口語演劇の本質を言い当てていると言うことは出来ないし実際違うのだが、少なくとも、平田オリザが『現代口語演劇のために』で、これまでの日本の演劇は日本語として成立しないセリフを用いていたがゆえに、「現代口語日本語」の戯曲を書けなかったのだと言った時に、語順やアクセントの「リアルさ」と引き換えに、日本的主体の「みんな」性も引き受けざるを得なかったとは言えるだろう。

日本語で演劇を創っていくうえで大きな問題となるのは、この関係性の表現ということなのだ。もしもこの問題を無視して戯曲を書いてしまったら、日本語で書かれた戯曲はみな、「あなた」「私」といったふだん使わない人称代名詞を散りばめたり、相手の名前を頻繁に呼び合ういびつなものになってしまう。
平田オリザ『現代口語演劇のために』,1995,晩聲社,p44

現代口語演劇は主義主張の演劇ではなく、混沌を混沌のままに「世界をダイレクトに描写する」関係性の演劇である、と言われる。穿った見方をすれば、それが関係性の演劇であらざるをえないのは、リアルな日本語がそれを要請するからだ。その意味で、平田は戯曲の内容においてだけではなく劇形式において一貫して「日本人とはなにか?」を問い続けてきた。それはロボット演劇に至っても、むしろロボット演劇だからこそ、一貫している不変的な主題である。
したがって、現代口語演劇の次世代を担う演劇人は、「日本人とは何か」を言語レベルで抱え込まざるを得なくなる。『再生』もまた「集団自殺」と「宴会」という内野がいう情緒的共同体をそのままトレースしているような主題系に目を向けたとしても、明確に「日本人論」として創作されている。J-POPが遺書ならぬ「遺曲」がわりに使われつつも、決してそれが「私の死」とは二重の意味で結びつかない、つまりは「遺曲」が盆踊り的に集団化される点において、そしておよそ「死」が禁じられたシミュレーション空間において。
ジャパリパークとJ-POP、二つの「J」という場所は、あらゆる個体を「フレンズ」化していく重力を内包した場なのであり、それはシミュラークル身体と結びつくことで、完璧に閉ざされた(閉鎖空間)「フレンズ身体」と化すのだ。いわばフレンズ身体とは、ニッポンの球体とシミュラクル身体の結合体である。

6、地点はニッポンを解体する
最後に、フレンズ身体に綴じられる「ニッポンの球体」から脱出する方策を、劇団「地点」の演劇から簡単に探ってみたい。本当は準備を重ねてからじっくり書くつもりだった。しかし筆者は、ここ最近、批評再生塾の論考で全く同一のテーマを巡って同じことばかり書いていて(それしか書けない)、いつも問題を指摘するところで時間切れになって提出してしまうというのに疲れてきたので、思い切って書こう。あと10分だ。
劇団「地点」は京都を拠点に活動する劇団であり、現在はアンダースローという自前のアトリエを持ち、演劇文化をガチで京都の北白川に花開かせようと、とんでもないことをしている。詳細に触れている余地はやはりない。「http://chiten.org」が彼らのHPなので、気になる読者はチェックしてほしい。
2007年、地点はチェーホフという劇作家が残した四代戯曲をすべて上演するプロジェクトを開始した。2010年には演出家・三浦基の初演劇論集『おもしろければOKか?』が出版されている。地点の特異性は、小劇場演劇シーンではよく知られているように、その「発語」の独自性にある。例えば、『ワーニャ伯父さん』に出て来るソーニャのセリフは次のようにずたずたに切断される。

1. ソーニャ 草刈りはすっかり済んだというのに、まいにち雨ばっかり。せっかくの草がみんな腐りかけているわ。
2. ソーニャ 草刈り/は/すっかり/済んだ/というのに/まいにち/雨ばっかり/せっかく/の/草/が/みんな/腐り/かけて/いる/わ。
3. ソーニャ クサカリはスッカリスンダというのに、マイニチアメバッカリセッカクのクサがミンナクサリかけて(イル)(ワ。)

1が元のセリフ、2が単語単位で切断したもの、3がひらがなで表記される助詞・接続詞を「感情」として、カタカナで表記される部分を「外国語」として表したものだ。三浦基は「舞台における言葉とは、すべて外国語のようなものとして扱うべきなのである」と言う。現代口語演劇が「日本語」から「日本人の身体」へと接近しようとしたのに対し、地点は、そもそも言葉とは外国語=無意味なデータにすぎないとしたところから、改めて「感情」を、言い換えれば日本的な情緒を扱おうとするのである。なぜなら、『ワーニャ伯父さん』の翻訳語は、近代化の過程で輸入されてきた人工語だからである。
では感情をどうするか。細分化して、切断するのである。地点の発語が特異なのは、この感情=単語をいったんは情報の海の中に沈めたうえで、「私」というまとまりを持たない無数の感情=単語=情報を翻訳し続ける「情報処理機械」として身体を扱うのだ。つまり、それはニッポン的「情緒」の細分化・切断であり、その情報化した情緒と俳優の軋みの中に、ニッポンの球体の破れ目をみる。

文字数:10615

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