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第三者の存在と「僕」というメディア

 

『ダンスダンスダンス』(村上春樹 1988)の以下の一節を見てみよう。

 そしてそのときふと部屋の中に第三者の存在を感じた。僕と五反田君の他に誰かがこの部屋の中に存在しているような。僕はその体温や息遣いやかすかな臭いをはっきりと感じることができた。でもそれは人間の気配ではなかった。それはある種の動物が引き起こす空気の乱れのようなものだった。…そしてベッドにもぐりこんでこう思った。あの動物はいったいなんだったんだろう、と。

物語の外と物語の内側がある。物語の内側で、登場人物はセリフを吐き、行動し、いわゆる物語が生じている。物語の外側にいる読者は、そんな登場人物たちの姿を心の中で追いかける。登場人物のいるはずの空間は、直接言語化されるわけではない。語り手の観察を通して間接的に伝えられるに過ぎず、読み手は語り手の言葉を通して再生するほかないのである。

読み手によって再生される空間に属しているのは誰なのだろうか。物語内の登場人物は世界の中にいるだろう。三人称の場合、物語の世界には登場しないが、その空間を語っていると言う点で語り手も属していると言えるだろう。一方、読者はテクストの外部の存在として、この物語の世界を外側から読んでいる、あるいは、見つめている。読者の属している空間はあくまでテクストの外部の空間である。

では、上記の引用の中に登場する「第三者」はいったいどこに属しているのだろうか。そこで、この問いを考える前にまず文学作品を読解する際に関わる空間は、登場人物の登場する空間と読者の属している空間の2つだけなのか、という点について考えたい。そのため、「第三者」のトポスと三番目の空間を考察するために『ノルウェイの森』を中心にした村上春樹の作品を取り上げることにする。

『ノルウェイの森』とは、村上春樹が1987年に発表した小説である。あらすじをざっと述べると、高校時代、自殺した級友キズキと交際していた直子と再会した主人公ワタナベトオルは、再会をきっかけに直子に対して恋愛感情を抱くようになる。しかし、精神的なバランスを崩した直子は京都にある療養施設に入所してしまう。一方、ワタナベは大学で知り合った緑との間に新しい関係が始まって、直子と緑の間で戸惑う自分を見出し困惑してしまう。やがて直子は自殺し、直子に対する深い喪失感を抱えたワタナベは、日本国内を放浪するが、やがて、緑との関係の再構築を求めて東京へと戻る。

さて、『ノルウェイの森』の冒頭を見てみよう。

 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる。……記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。…おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持ちを向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。…しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。…そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。

この文章で表現されている空間は、物語の中に存在すると言えるかどうかわからない空間である。一読すると、主人公であるワタナベが過去の記憶をなぞりながら紡ぎだした空間だとも考えられるが、この空間が、ワタナベの属する世界(ワタナベの記憶の中にある空間ではなく、緑や直子もいる空間)に本当に存在しているかどうかはわからない。ワタナベの頭の中にしか存在しない空間である可能性がある。このようにして紡ぎ出された空間は、物語の世界にも属しておらず、読者の側にも存在しない。つまり、三番目の世界に属していると言えるのではないだろうか。

それだけではない。ワタナベ自身も言うように、この三番目の世界から登場人物は消えてしまったのである。「僕」が消えてしまうのは、この第三の世界からだけではない。「僕」が属していたはずの世界からも「僕」はいなくなってしまう。

『ノルウェイの森』の終盤の一節を見てみる。

 それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。

僕はどこにいるのだ?

これは、『ノルウェイの森』の最後の場面における、主人公ワタナベトオルのセリフである。自分がどこにいるのかわからないワタナベは、かつて「僕」が属していた世界から姿を消してしまったのだ。

世界の中心にいたはずの『風の歌を聴け』(村上 1979)における「僕」は、架空の小説家デレク・ハートフィールドの言葉を引用し、「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」と述べている。『風の歌を聴け』における「僕」は、世界と距離を取りながらも、常に世界の中心にいたと考えられる。そして、『風の歌を聴け』における「僕」は、かつて「僕」のいた世界から遠ざかり新しい世界へと向かう。けれども、かつていた世界からも新しい世界からも「僕」が消え去ったわけではない。『風の歌を聴け』に登場する鼠は、「僕」の分身であり、「僕」がかつて属していた世界に今もなお属している人物として描かれている。

ところが、『ノルウェイの森』の「僕」は、世界を構成することができなくなってしまったのだ。物語の終盤において、ワタナベは世界を構成する主体で無くなる。正確に言えば、世界を構成していたはずの「僕」は物語の中で消滅し、物語の中心にいるはずのワタナベは消え去ってしまう。

ところで、村上春樹の作品において、このように物語の途中に“挿入”される第3の世界は、部屋というモチーフあるいはメタファーを用いてしばしば登場する。『ダンス・ダンス・ダンス』の次の一節を見てみよう。

 僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。

ここにいう部屋は、物語内には“実際に”存在することのない「僕」が紡ぎだした部屋である。さらに、

 それが羊男の部屋だった。…「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ。ここは結び目なんだ−…」

羊男[1]と遭遇した部屋も登場する。「僕」は、物語内の世界に属しているドルフィンホテルのフロアから、羊男のいる部屋に移動するための空間へと移動する。羊男によれば、羊男のいる部屋は「僕」のための部屋である。

『ダンスダンスダンス』における登場する二つの部屋は、いずれも「僕」が紡ぎだした部屋だと言えるのだが、最初に登場した部屋はあくまで物語内の世界には属していない。一方、羊男のいる部屋は、「僕」が紡ぎだした部屋であるが、物語内の世界(この場合ドルフィンホテル)から接続されている以上、この部屋は、第三の空間と物語内の世界の中間に位置しているといえよう。

多くの生と死が交錯する「僕」の紡ぎだした部屋と羊男のいる部屋との関係は必ずしも明瞭ではない。けれども、羊男がこの世界の「配電盤」を調整している以上、この2つの部屋は、“どこかで”繋がっている可能性がある。どこで繋がっているのか?それは、「僕」である。「僕」というメディアを通して接続されているのである。

『ノルウェイの森』の「僕」は、「僕」が消えてしまうことによって、『ダンスダンスダンス』の「僕」と同様に、2つの空間、あるいは、世界を繋げているのではないだろうか。「僕」自身が紡ぎだした空間から消えた「僕」は、「僕」が属していた世界からも消えてしまう。それぞれの空間に生じた“言語化されているわけではない”穴は「僕」によって作られたということができよう。この穴、つまり「僕」、は、物語の世界も第三の世界をも結びつける。それだけではない。物語の世界の外、つまり、読者のいる空間をも結びつけているのではないだろうか。つまり、「僕」は物語の世界の外を結びつけるメディアになるのだ。

こうして、『ノルウェイの森』の冒頭でドイツへと向かう飛行機に乗ったワタナベの、常にトポスを求めて彷徨う不安定な姿が現れてくるのである。メディアであるがゆえに、「僕」は、常に安定したトポスにいることができない。ドイツへと向かうワタナベが属している世界は、かつて「僕」がいた世界ではなく、新しく上書きされた世界なのである。上書きされた世界に、もう緑はいない。

物語の間に“挿入”された第三の世界は、村上作品の底流を流れるメタファーである。この第三の世界の存在は、「僕」がメディアとなるために不可欠な“装置”だということができよう。メディアとしての「僕」の語りと第三の世界を通じて、物語という閉じられた世界は、読者に対して解放され開かれる。この時、物語の世界に異質なものが入ってくる。「僕」の意識は、「僕」の属していた世界と第3の空間との間を絶えず揺れ動き、物語の世界の外にはみ出ようとする。この振動の効果は、読者を引き込むとともに、異質なものをも引き込むのである。

本稿の冒頭の引用で示したような動物のような何かが登場する場面をはじめとして、しばしばマジックリアリズムになぞって、超自然的な現象が起こるといわれる村上作品であるが、メディアとしての「僕」が読者に語りかけるとき自然に起こる現象なのである。この自然さを引き起こしているのが第3の空間なのであり、異質なものと読者とは実数と虚数のように一つの平面を構成する複素数平面的な世界に属していると言えるのである。

 

[1] 羊男とは、『ダンスダンスダンス』の前編である『羊をめぐる冒険』に出てくるこの世のものではない何かである。

文字数:4110

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