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哲学者國分功一郎を「方法」から考える

哲学者國分功一郎を「方法」から考える。

1. 哲学とは方法のことである

哲学者國分功一郎の書籍『中動態の世界~意志と責任の考古学』と『スピノザの方法』を読んだとき、思考や分析の軌跡があまりにも丁寧に書き著してあることに驚かずにはいられなかった。それも解答と言うべき真実を証明するために解析してみせる形ではなく、暗闇の中でどこかにあるはずの正解を探るようなスタイルであった。
たとえば『中動態の世界』においては「私が何ごとかをなすとはいったいどういうことだろうか?」と問われ、いくつかの答えのようなものを提示した後、「事はそう単純ではない」と突き返し、また緻密な思考に深く入っていく。『スピノザの方法』では「方法とは何なのか。われわれはスピノザの哲学のなかからどうそれを読みとればよいのか」と問い、「スピノザがこの問いに答える著作を著しているというのに、どうしてそれを読むだけでは事足りないのだろうか。なぜわざわざ探し当てねばならないのだろうか」と問いを重ねる。
これらは哲学者國分が自身へと問う姿を開示し、哲学者としても迷いながら進んでいることを告白していると同時に、哲学とはこのように緻密に疑いながら答えを探し求めなければいけないのだと暗に語っているようでもある。簡単に言い切ってはいけない、簡単に信じてはいけない、簡単に否定してはいけない、かといって科学的な統計実験ではない、矛盾を発見しなければならない、すぐに認めてはいけない……と畳みかけ、決して妥協を許さず、手探りで求めていくのだ。
こういった姿勢の中に、私は論じられているテーマそのものよりも、「哲学者國分功一郎の方法」そのものを見た。次に哲学とはこういった「方法」そのものだろうかと思った。もちろん他にもひらめきに頼る哲学者もいるだろうし、過去の哲学者の書き残したことを丁寧に読み直すことに頼る哲学者もいるだろうけれど、それらは全てそれぞれの「方法」であり、そこから導き出された解答そのものは数学の1+1=2というほどの絶対性はないとしても、各「方法」に関しては哲学者ごとに個性的でありつつ汎用性もあるものとなっているのである。私たちは内容よりも先に、その哲学者の姿勢や思考の「方法」の鮮やかさに魅了され、日々の物事を対処するときに真似てみようと思うのだ。哲学とは「方法」なのかもしれない。
哲学的な試みにおいては、最終地点において「なるほどそうだった」とか「なるほどそのようにも言える」といった悟りに近い掴み取りが起きることが求められていると思うが、哲学者國分の几帳面な方法に接しているうちに、私は仏教における他力と自力の差異について思いを拡げないわけにはいかなかった。これも悟りと方法の関係性の問題だからである。
修業をしなくても念じれば修業をしたことと同じようになるとする他力と、日々の決められた修業をしなければいけないとする自力。一般に行き渡っているのは、どちらを選択しようとも仏教的な境地に至るのであり、単に方法の違いがあるだけだという考え方であろうと思う。ここでは境地(悟り)の方を重要視し、方法は二の次なのである。しかし、実際には、そもそも修業を重要視する自力においては、仏道とはその道を歩き始めれば即仏であり、いつか立派な仏に成ることを目指すものではないとして、「その至るべき境地」というものを設定してはおらず、明確な悟りなどというものはないと言う。言い換えれば、方法こそは肝であるとしているのだ。自力を提唱した道元禅師の言葉を収録し、今言葉に訳した『正法眼蔵』には以下のように書いてある。

人が悟りを得るのは、ちょうど水に月が宿るようなものである。月は濡れず、水は傷つかない。月も月として、水も水としてそのままである。広く大きな光ではあるが、尺寸の水にも宿る。月も空も全体が草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。悟りが人を傷つけないのは、月が水をつらぬかないようなものである。人が悟りを妨げないのは、一滴の露が天の月を妨げないようなものである。一滴の水の深さは、天の月の高さを宿している。月影が宿るときの長短にかかわらず、それが大水にも小水にも宿ることを学び、天の月の大きさを知るべきである。

悟りの本質をこれ以上分解して解説することは難しそうだ。上記が過不足なく的確に言い表していると私は思うし、この記述からは明確な悟りの境地などないことがわかる。
ならば他力本願の宗派において、念じるだけでも到達できるという「境地」とは一体どんなものなのだろうか。おそらく凡人の思い浮かべる仙人のような悟りのことではないだろう。ここではむしろ、仏道でなければならないという厳しさからの救済や、自他ともに赦すこと(慈悲)を説いているのだと私自身は考えている。従って、自力と他力のそれぞれの方法にはそれぞれの良さがあり、結果も違えば道も違うことになる。
上記の観想から哲学の方を再び思い返してみると、やはりここでも結論よりも「方法」にそれぞれの大きな意味があるのではないかと考えられた。

2. 人間とは方法のことである

さて、哲学とは世界の成り立ちや倫理などについて、言葉で明晰にしていくものであると同時に、究極的には仏教などの宗教にも類似して「いかに生きるか」という問いそのものだ。超越論、存在論、実在論、唯物論etc.とあるけれども、どの世界観を是としようとも、最終的にはそこで生きていくにはどうすればよいのかと考えなければいけない。いかに生きるか。いかに生きてしまっているか。まさに「方法」である。もちろん『スピノザの方法』で問題になっているのは、単におおざっぱな「生き方」というようなものではないが、哲学者國分功一郎の著述形式を追ううちに、その研究手法は哲学者の生き方にもつながっていることに気付かされていった。たとえば「中動態」という概念を改めて世に紹介するためにはギリシア語を学び直すという丁寧さを厭わない。そのことからだけでも、いつも妥協することなく、違和感や不善について見逃すことなく考察し、自己にも最大限の誠実さを課そうとされている哲学者國分の人柄を想像することができるのである。
実際、一人の人間が他の人とは違って固有の存在であると考えるとき、肩書や経歴、持ち物や外観などの結論的覆いによって説明しようとしても、そういったものはどのように細分化したところで、必ず類似したものに行き当ってしまう。たとえ指紋が唯一だと言っても、そのことがその人間の他者との区別感を呼び起こすとは難しく、人が誇りを持って「私は私である」と感じる時というのはそういった結論的な付属品ではなく、「これまでどういう方法で生きてきて、この後どういう方法で生きていくつもりか」ということにあるだろう。
とすると、人間とは何かと考えると、飛躍的ではあるが、端的に「人間とは方法のことである」と言えるのではないだろうか。
どのような方法で、ということが、その人間そのものなのである。そこに間違った方法はない。個別の方法しかない。緻密に間違いを潰しながら正答へと接近しようと試みる者もいれば、経験的な直観を重視しながら解答を大胆に開示しようと試みる者もいるだろう。生きるという場面においては解答が唯一だった試しはなかったように、人の取る方法も人間の数だけある。

3. 人間性とは禁止している方法は何かにも依る

上記までの考察を終えた後、実に直観的にではあるが以下のようなことを考えた。
私たち人間は個別の方法を持ち、うまく解答に行きつかない場合に他の方法を選び直しながら「私は私だ」という思いを形成していくのではあることはわかったが、その裏側に、なぜか唯一「その方法だけは選択してはいけない」という方法を心の奥底に持っているのではないかということである。取り得る方法が人間性を表現すると同時に、絶対に取らないぞと禁止している方法も、その人間の人間性を特定することの一つなのではないかと思うに至った。
私自身を振り返って考えてみれば、それは私個人の盲点か、あるいは弱点であろうから、無意識的に否定しつつも、気を緩めればついその方法で解答を掴み取ろうとする類のものであり、本人としてはどうしてもその一歩手前で踏みとどまらなければいけない形式の方法なのである。それが人によってどういった方法なのかはわからないが、おそらく日頃、誇りを持って行っている方法の真逆の位置に、個人的に「その方法だけは選択してはいけない」という方法が想定されていると推測できるのである。それも、その人物の人間性を規定している。

4. 強くなるために受け入れるべきこと~妬みの目印

ここまで書いて、さらに直観的にあることを思いついてしまった。書こうとしていたことから何か私の中で大きな転回が起きてしまったのだが、書き続けてみよう。
それは個人的に「その方法は選択してはいけない」という方法(盲点や弱点、拒絶点)を受容した時に、私たちは強くなれるのかもしれないということである。それは一種の赦しである。どうしても赦せないものを赦した時に最強になれる。言い換えると、これまでは最強になることを恐れて「その方法を選択してはいけない」と念じてしまっているのではなかろうかということである。それが妬みの要因のうちの一つかもしれないのだ。
『中動態の世界』の中で触れられている『ビリー・バッド』の解説部分で、妬みということについて哲学者國分は書いている。妬みは嫉妬とは違うのだと述べている。

嫉妬とはある人の愛情が自分ではない別の人間に向けられることに対する憎しみであり、常に第三者がかかわっている。そして第三者がかかわっているがゆえに、この第三者さえ取り除かれれば(少なくとも暫定的には)嫉妬は消える。
それに対し、ねたみは自分自身にかかわっている。その意味でねたみはより根源的である。

前述のように「人間は方法のことだ」とすると、なるほど妬みとは、個人的に「その方法を選択してはいけない」と思っている方法を平然と使って勝利を得ている人への嫌悪感とも言え、おそらく、その「方法」を自分でも取りさえすれば、自分自身も勝つことができるとわかっているのだが、個人的な方法的拒絶によって敗北しているからその方法そのものである人物を妬む。とすると、妬むくらいなら、その方法で勝利し、その上で赦せばいいのだがどうしてもできない。たとえばクラッガードもビリーのように朗らかに、ある種八方美人的なほどに善人として生きる方法を部分的にでも選択できたなら、ビリーを憎んだり妬んだりしないで済んだのかもしれない。しかしクラッガードは己に対してその方法を心の奥底で禁止していたのだろう。だから、その方法を取るビリーを拒絶した。また、方法を拒絶され、必然的にそのアイデンティティを破壊されそうになったビリーは、その点に関してのみは潔癖であるクラッガードそのものを拒絶し、結果は過失致死という罪を犯した。これは自己の方法を見抜いている者を無意識にも疎ましく思った結果なのかもしれない。この物語が語っているのは、その人間が選択している「方法」は個別のものであり、またその人物像そのものであるから、他者への赦しとはそれほど簡単なことではないということでもあるだろう。自分としては、絶対に誇りを持って取りたくはないと思っている盲点のようなその汚らわしい方法を、堂々と善人の構えで選択して成功している人間が目の前にいるとき、その方法を憎むと共に、その人間をも憎まずにはいられないのだ。一般的に確実に間違っている方法でさえなければ、汚らわしい方法であったとしても世間では許されるのだから、感情としては報われず妬みへと向かうしかない。
そこで、各人の能動的に取っている方法や受動的に取らされている方法から少し距離を取って、自身の中で「その方法は選択してはいけない」と禁断化している方法について黙想し、そこへの拒絶をゆるやかに解除し受け入れてみることができれば、脱出しがたい妬みの感情から解放されるだろうことは考えられる。それは中動態の自己を意識することでもあるだろう。ひょっとすると、中動態を無意識の可能性として綿密に自省してみれば、実は自身もその禁止している汚らわしい方法をうっすらとでも取ってしまっている人間なのかもしれない。
たとえば、自力の道を行く修業者が心の奥底で(修業さえしていれば仏道から外れない)とその方法を誇らしく思う時には、実は仏道に頼る他力の心であり、逆に他力の道を行く者であっても、よく考えてみれば他力を無理に維持しているのであれば自力の修業と言え、単にやりやすく、思いやすい方法を取っているにすぎないのかもしれないのだ。そのように緩めて考えてみることのできる中動態の時に赦しは起きて、もともとのそうなってしまっている自分や他者を受け入れる。それは志向性のないどこか依存的な状態ではあるが、ゆるやかにでも赦しは起きる。本来の宗教的な心はその時に起きるとも言えるのかもしれない。

5. 意志とは調和への意志

さ きほど、中動の状態の中で妬みからの解放という宗教的な心(回心)が起きると述べたが、この意志の欠如した宙づり状態こそは、全てを解決せしめる神なる境地の居場所なのだろうか。私はそうは思わない。
日常的には、能動や受動の中にある志向性と中動の中にある赦しを行き来しながら私たちは生きる。その三つの混ざり合うカオスの中で、おそらく積極的には意志を持たないようにして生きる。やりやすい形で生きている。生かされている。それが人なのだろうと思う。
もしも神なる境地があるとしたならば、これら能動態、受動態、中動態という三つの形態が入り混じるカオス(サーンキャ哲学で言うプラクリティ―自性)の外側にあり、積極的な意志でもってカオスに関わって応答するもの(サーンキャ哲学で言うプルシア―真我)の方だろうと思う。赦すべきときには赦しを、能動的であるべきときには能動を、受動的であるべきときには受動をと、神なる境地は意志をもってあることを作用する。あること、それは調和への意志である。カオスの中で想定されるようなエゴのための意志などというものはそもそも存在しておらず、意志とはすべて調和への意志である。意志とは一言で調和への意志の意味である。
エゴのための意志はありうるのかと考え始めた時にだけ、私たちは無力感を味わう。能動ですら意志ではなく、カオスの外側にある神なる境地からの作用の結果だったと知ることになるからだ。
哲学者國分の著作『スピノザの方法』の「スピノザの方法からスピノザの教育へ」という章の中には以下のように書いてある。

スピノザの方法を実現するためにはまず神の観念という原理に到達しなければならない。スピノザの方法は、精神がみずからに従い、みずからの本性と法則を発見するために、神の観念という原理に到達することを求める。(中略)
スピノザの方法は最終的に、そのような意味での教育(educatio)になる。スピノザの方法は教育の理念である。

こ うして考えてみると、私たちの「方法」とは、意志を持ち得ない状況にある人間(自他共)のカオスに対して、神なる境地から積極的に介入して調和意志を発動する作用であり、決してエゴのために用いる手段のようなものではないことがわかる。何か汚らわしく思えた誰かの方法ですら、おそらくはその方の人間性としての調和意志による作用なのだろう。意志の消極的忘却の中にあるカオスに対して、意志を持って積極的応答とも言うべき介入を行うのが「方法」なのだから、絶対的な悪なのではないはずなのである。動物的要素や機械的要素や人形的要素等を併せ持つカオス的存在部分に対して、神なる境地にある人間性としての方法は自己の別次元から意志を発動している。
個別の「方法」は全て、常に調和を呼び掛けている。

6. 方法の融ける時

また、それら三つの様態であるカオス(プラクリティ)と、そこへ作用する方法である意志(プルシア)を特に分別して意識することもなく、ただすべてあるがままのものとして達観的に生きれば、おそらくもうそこには方法すら痕跡をとどめない。方法すら自己内部の働きでしかない。なるようにしかならないのだからと無執着的に精一杯生きることになる。そうなるとサーンキャ哲学の生き方からも脱する。
事実、サーンキャ哲学ではこの状態のことを最終サマディ、無種子三昧というのである。つまり、最終状態をサーンキャ哲学(プラクリティとプルシアの二元世界)からの脱却として結論付けている。二元論的哲学にて存在論を語り、実践方法を開示してその存在を練り上げ、最後にはそこから出ていけ、出て行ってこそ完成だ、と言うのだ。最後にはプラクリティとプルシアは融け合い、その上にも安らう境地を得るとする。そこでは方法もまた融けて見えなくなってしまうと言えるだろう。
サーンキャ哲学の立場から眺めてみると、哲学者國分の緻密な接近方法も、いつかはそのように融けていき、もっと違う何か―例えば詩や小説などの形をとりながら、自由でおおらかな表現形態をもつスタイルへと新しく生まれ変わることになる。今の端正なスタイルのままでいてほしいと思うと同時に、新生國分功一郎の姿も待ち遠しいような気がするのである。(了)
参考文献
「中動態の世界~意志と責任の考古学」國分功一郎著
「スピノザの方法」國分功一郎著
「正法眼蔵」中村壮一訳
「ヨーガ根本経典」佐保田鶴治著

 

※前回同様、選択しないでください。

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