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薄膜を纏う雪のように降る言葉は架空か

九鬼周造がハイデッガーの許を訪れ、日本の「いき」の概念を伝えようとして失敗に終わった話がある。それについてはハイデッガーが「ある日本人との対話」という形の虚構的文書で書き残していて、東洋の言葉と西洋の言葉は背景とする思想が異なるので、それらを駆使しても「いき」については理解できなかったとしている。その流れで「言葉は存在の家である」という考え方が生まれたのだ。それぞれの家に住んでいる者同士が理解し合うというのは困難であると嘆いた。
九鬼が「いき」をハイデッガーに伝えようとして失敗したそのとき、もしも歌舞伎の菊五郎さんが弁天小僧の化粧をし、衣装を着けた状態で奥の部屋で控えておいて、九鬼の合図があるや否やさっと現れて「知らざあ言って聞かせやしょう」と演じることができたならば、少しは「いき」のニュアンスも伝わったのかもしれない。ここで化粧や衣装を整えておくことは重要で、あの化粧や衣装の配色や質感など、すべてを総動員することでやっと日本の「いき」が伝授される可能性が生まれるからである。言葉で説明しても伝わらない時に、わざわざ「知らざあ言って聞かせやしょう」という台詞を演じるというのは、ユーモアと失礼のぎりぎりのラインではあるが、「いき」というのはそういう、やや無礼講的ニヒルな美を含むものであり、わずかに境界を破ってひょいと出てくるエネルギーのようなものなのだ。
「いき」に関する他の例を挙げてみよう。噺家が噺の途中のあるお決まりのタイミングで着物の羽織を脱ぐ時、その羽織の表側はシンプルで上質な黒だったのに裏側には鮮やかな牡丹の刺繍が施されているのがさっと見えて一瞬だけ露わになるようなのもこれに相当する。決してチラリズムのことを言っているのではない。裏にこそハレの気を施していることそのものが「いき」なのであり、見えなくてもそもそも「いき」なのであるが、他者がそれ(いきである何か)を捕まえる時にはチラリズムの構造を取るしかないということである。いずれにしても脱いだ後はもう見えない。それを見逃さずに捕まえることの出来た人の脳裏にだけ焼き付いてしまう記憶である。色の対比や裏にそんな柄が施されていたのかという意外性、一瞬性によって永遠に脳に残る美だとも言えるが、これを言葉で説明してもなかなかわからない。「いき」を捕まえる時にはどうしても感覚的に「はっ」とする必要があり、ドキッとしなければならない。一度自転車をこぎ出すことができた人が一生自転車の乗り方を忘れないように、「いき」も一度知ってしまえば二度と忘れることない。体験はその後の発見によって自ずと積み重なっていくので「いき、と言えば、あれのことですね」と、暗黙の了解で伝え合うことが徐々にできるよういなるだが、一度も体験したことがなければ概念だけでそれを理解することは難しいだろう。エロチシズムとの差異や水面下での相補性などを感得するためには、ドキッとすることを一度は体験しなければいけない。また、ハイデッガーにも実体験をして貰えたならば、「ああ、それなら、実はドイツにもございます」という展開になった可能性は高い。なぜと言って、ドイツ車を見れば、ドイツという国に「いき」に相当する美意識のないことは想像しがたい。例えばベンツを見て、「あ、ベンツだ」とドキッとする。一瞬で通り過ぎてしまった後、記憶に走り姿が焼き付いて、さすが、などと思う。派手すぎず、シンプルでありながら実用性に傾きすぎず、高貴でありながらラグジュアリーではないデザインである。そして、裏話ではあるけれど、ハンドルなどはわざと重くしてドライバーに運転している感覚を強く持たせるように創り込んであるらしいから、これは「いき」の中の「いき」であろう。裏側の美意識である。
このように「いき」には色などの視覚的な要素と、一瞬起きることをとらまえて永遠に定着させるという時間的な要素と、哲学的構えの要素があり、それらがほとんど裏側の出来事であるのだから、概念だけで説明するのは困難だろう。もともと緻密な言語を積み重ねて説明しようとする鉄壁たる哲学者ハイデッガーにとっては、「いき」とはたったひとつ残された盲点のようなものだったのかもしれない。そんなところへ、それを持ち込んで説明しようとした九鬼周造は恐るべき直観の人と言えると思うが、あと一歩、言葉に寄らない演出を思いつくほどには時代のノリは軽くはなかったのだろう。しかし、この対話の結果、「言葉は存在の家である」として、言葉の全能ではないことを鉄壁ハイデッガーに考えて貰えたのなら、「いき」を概念のみによって即座に理解して貰うことよりも遥かに有意義であったと言える。「このように、世の中、言葉だけでは伝わらないこともありますでしょう? それこそが『いき』なのです。」と、非常に遠回しな形ではあるけれども、裏返し的概念として劇的に伝わっているとも言える。もちろん九鬼周造の表層意識にそのような意図があったとは考えにくいとは思うけれども、まさにこの伝え方こそ「いき」そのものなのである。
ところで、ハイデッガーの言葉の緻密さはどこからくるものなのだろうか。
ハイデッガーの最初の著書である「存在と時間」の前半で、「世界との親しみ」や「語りかけを聞く」ということを何度も言っていて、それは脱自的な存在状態であるとしているのだが、このことから察すると、ハイデッガーは頻繁に「あらゆる方法でこちら側に語り掛けてくる世界」に接近する位置に立っていたことがわかる。どちらかと言えば、能動的に言葉を組み立てて考えたり書いたりしたというよりは、聞こえてくるものを筆記するようにしてそれをしていたとすると、昨年(2017年)に哲学者國分功一郎が著書「中動態の世界」で改めて概念を世に知らしめた「中動態」に近い状態にあったことが推測できる。私はおそらく中動態とは左脳と右脳の超バランスした深い瞑想状態のことだろうと考えているのだが、体験から言うと、そこでは、ユングの言ったシンクロニシティが多発するし(言葉やイベントの表層的組み合わせによる意味の顕現認取)、集合無意識に接近するため、通常「自分」であると認識している範囲を超えた価値観が自分の肉体に流入し、たとえばハイデッガーならハイデッガーという名前に囲まれた自分自身というものの境界が曖昧になりぐらつくことは大いにあっただろうと思う。開け放たれた世界と、そこで概念分けされた自分自身や個別の存在を見比べてみた時に、世界に融解しないよう膜を与えるものが言葉であり、ハイデッガーにしてみるとそれはそもそも「家」のようなものだったのではないだろうか。堅固たるべき安全な薄膜なのである。
恐らく、内容物としての存在と、それを覆いながら名付ける容器のような言葉という二元に分類し、容器だけを見ても直ちには内容物がわからないこともあっただろう。まさに「聞こゆ」という中動状態で言語が押し寄せる時には、まだ存在との紐つけが十分ではない物理的な記号としての言葉が、まるでビルや住居の立ち並ぶ街を眺めるときのように見えている。イデアのような理想的な場所があるとして、この世に形を変えながら実在するその化身のような顕れは私たちに開かれたものとして触れることができるのだが、存在のままのものもまた、概念という家を借りながら膜を持つ雪のように手元に降りてくる時にはある種の用具として実在利用することもができ、その中身である存在は内側に無名の溶けていく雪のようなものとして容器を満たしているのである。
ハイデッガーの体験していた状態が上記のようなものであったとすると(ハイデッガーは学び直しや気付き直しの多い哲学者なので、ハイデッガーそのものを批判することは難しく、このような状態にあったまさにその時の状態のハイデッガーという捉え方をする他ない)、言葉という家と存在がぴったりと紐ついているかのように見え、たとえば、「愛」という家には、間違いなくそれに値する内容物としての存在が入っていなければならないことになっていたのだろう。しかし実際にはどうだろうか。「愛」という家の中に憐みも憎しみも詰め込まれているのではないか。考え始めると愛ではないものなんて存在しないとさえ言える。「愛」という家は内容物の説明というより、ただ、愛という言葉の実在と、愛という意味の存在が融け合った、端的に、「あい」という「愛」であり、愛していますと言う時には、愛していますと言う状態が起きるだけなのだ。厳密には、「愛」という言葉に含まれない愛が世界中には溢れているのである。愛していますと言わなくても、存在としての愛はそこにあるが、それは愛していますと言わない場合の愛なのである。
上記のような「紐つけ」ではない言語の在り様について、この時のハイデッガーは受容的ではなかった。しかし文字によって表される類の「言葉」以外に、世界はあらゆる言語を持っている。「いき」という理解し難い概念を持って訪れた九鬼との対面の「出来事」は、世界がハイデッガーに対して語り掛けた文字的な言葉以外のパケット型の「ことば」であり、それは九鬼との対話の中にあるように、「できごとの葉」であり、転回をもたらすための個別言語であり、これといった輪郭をもたない、非輪郭性のある「ことば」である。私の造語する非輪郭性とは、輪郭の無いこと(無輪郭)ではなく、「重要なのは輪郭に非ず」として、曖昧に周辺に開かれながらもターゲットに向けて激流の如く流れ込む状態のことであり、それをしかと捉えて咀嚼するか否かは「中動態的注意深さ(ハイデッガーの言うところによる認取すること)の才能」の高低によるものではあるが、この時のハイデッガーは、まだ言葉の輪郭性にとらわれていて、出来事を否定すらすることなく、どこか受容不可となっている。しかし、気になって虚構の形で書き残したのは、その後の転回を予感たからであろう。
ハイデッガーが頻繁に居場所としていたと思われる「中動態的な脳の状態」においては、右脳と左脳の超バランスが起きて天才的な成果を生むとも言われ(マインドフルネス瞑想)、そこでは時間が止まったかのように感じられるとも言われている。一時間も瞑想していたのに一瞬に感じたとか、逆に、一瞬であったのに一時間のように感じたとか言うのだ。つまり、刻々と進行する形の時間を主観的には体験していないのであって、何か塊のような、あるいは一粒の雫を味わうような仕方で体験しているのである。これを「無我の境地」と言うこともあり、ハイデッガーの言った「脱自」と近い表現となっていると思うが、これは個別の肉体や自己にとっては、実はある種の危機的状態である。瞑想というと、のほほんとした平和な境地を思い浮かべやすいのだが、実際には自己というものを持たない動物のように、非常に外界に対して過敏な「中動態的注意深さ」の極限状態であり(猫が小さな音にでも聞き耳を立てるような状態)、だからこそ火事場の馬鹿力的な創造力を発揮することも可能となるのではあるが、やはり、無になってしまうこと、すなわち実存としての死(なんら輪郭を持たず世界に開け放たれている存在状態)は通常は受け入れ難いものであるから、命綱としての煩悩や嗜好性、偏執狂的な行為が残る。そして、それがハイデッガーにとっては、「言葉は存在の家である」という考え方なのだろう。的確に分類し、整理し、説明し、是非を正していく行為によって、実存する生命体である「ハイデッガー」は他の滔々と広がる存在の海との輪郭線を持つのであり、命綱として握り締めていたとも考えられる。これをあからさまに非難して、例えばエリート意識を手放しなさいというのは非常に愚かな行為で、存在意識というものの危うさ―容易に破壊される性質を熟知しない者の浅はかな野次でしかない。
批判するよりはむしろ、ハイデッガーは中動態の極致にまで接近し、その素晴らしさと共に怖さも実感することで最後の命綱を手繰り寄せたと考えた方がよさそうだ。それにより、技術や科学至上主義の批判など、凡人にはなかなかできない解析を概念展開によって成功させ、言葉でしか伝えられない領域に関しての仕事をいくつも成し遂げて、人間らしく在るための訴えを私たちに書き残したのである。もしもこんな人が全くいなければ、我々凡人があれほどすばらしい科学を疑ってみることなど不可能だっただろう。もちろん科学が悪いと言っているのではない。一辺倒となることが悪影響を及ぼすことは想像に難くないと今では誰でも考えるのだ。一辺倒は科学そのものの発展をも阻むだろう。
ハイデッガーは究極の位置(中動態的世界)に立ち続けていたからこそ得た超人的技によって、超人ではなく温かい人間存在の貴重さを切に書き残した。それを天命という人もいるかもしれない。多くの人から批判されるほどのある種偏執狂的な鋭利さを善なる方向へと転回させたとき、その命綱は後世の他の存在の命綱を作るほどの力を発揮したのである。(了)
参考文献
存在と時間 マルティン・ハイデッガー著 細谷貞雄訳
ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール メダルト・ボス編
木村敏 村本詔司訳
現代思想2017年1月臨時増刊号 九鬼周造 偶然・いき・時間
中動態の世界 意志と責任の考古学 國分功一郎著

※ 前回と同じ理由で、選ばないでください。

文字数:5454

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